昨日訪れたばかりの駅に降り立ち、エリュゼは昨晩から数えて五十回目くらいの溜め息をついた。
また、スマートフォンを置き去りにしてきた。ないとそれなりに不便だというのに、どうしてこうも続けて半端な扱いをしてしまうのだろう。
ロックがかかっているとはいえ個人情報の塊でもあるのだから、もっと注意した方がいい。
パソコンから見たディルクのメールに書かれていたのと同じことをもう一度自分に言い聞かせつつ、二度にわたってエリュゼのスマートフォンを保護してくれたクリスティアンの姿を探す。
どことなく浮かれた雰囲気で歩く人間が多い土曜日の午前。すっと背筋を伸ばして立っていた彼はすぐに見つかった。向こうが駅から出てくる人の中にエリュゼを探してくれていたせいもあるかも知れない。
エリュゼと視線が絡んだ瞬間、クリスティアンは口許をゆるく微笑ませてひらりと手を振ってきた。
エリュゼも手を振り返しかけるが、そこではっとする。いやいや、別に手を振ることはない。
「すみません」
人波を避けつつ、今日も大時計の前で待っていたクリスティアンのところへ駆け寄るなりエリュゼは深く頭を垂れた。
ディルクのメールに書かれていた待ち合わせ時間の五分前だった。遅刻はしていないが、わざわざ来てもらった上に待たせたらしい。
それでもクリスティアンは気にしていないようで、「いいえ」と笑いながらボディバッグからスマートフォンを取り出した。
「帰られる時に確かめればよかったですね」
「本当に、
……」
ありがとうか、すみませんか。ほんの一瞬迷った隙に、彼はもう一つスマートフォンを取り出して見せる。
「私はさっきケースを買ってきたので、もう間違えないとは思いますが」
確かに、エリュゼが持っているのと同じダークグリーンの端末は品のいい無彩色のアーガイル柄で覆い隠されていた。あら、ちゃんと自分に似合うのを選んでいらっしゃる、と思いつつエリュゼは苦笑する。
「そうですね。私も買わないと。何か目印になるような柄か色のを
……」
とはいえ、今度こそクリスティアンと会うのも最後だろう。なぜなら今日はお礼を持参したから。今日の内にすべて清算するのだ。
これでようやくサッパリ出来る
――エリュゼはほっとしながら鞄のサイドポケットに入れてあった細身の封筒を取り出した。
「お礼
……いえ、お詫びといってはなんですが、あなたもヴァイオリンをやっていると聞いたので。よかったらどうぞ」
素直に受け取ってくれたものの、クリスティアンは首を傾げる。その表情も中身を訝しんでいたので、エリュゼは慌てて付け加えた。
「アルバイト先からの貰いもので、市美の企画展のチケットです。テーマは古い弦楽器だそうですよ。先輩と一緒にどうぞ」
言った途端、チケットを封筒から引き出していたクリスティアンは困ったように笑った。
やはり、弾くのと見るのは違うか。彼に興味がなかったのなら仕方ない。エリュゼはそう思ったが、
「美術館に、ディルクと二人でですか」
「
……幼馴染みで、今も一緒に音楽をやっておられるのですよね」
暗に「仲良しなのでしょう?」と問えば彼はますます笑みを苦くした。
「いえ、別にディルクと行ってもいいんですが
――エリュゼさんと行くのはおかしいでしょうか」
「え?」
「もし興味があれば、よければこれから」
「え、いえ、ええと
……」
何か質問形で言葉を投げかけられた気がしたが、その意味を考えるより早く次の難解なセリフが聞こえてきて、エリュゼの思考の糸は瞬時にもつれた。
答えを求めて見つめてくるクリスティアンに何か返事をと思うのに、糸を解こうとしても彼がさりげなく呼んだ自分の名前が頭の中に反響していてうまくいかない。
いや、お互いディルクを通して自己紹介をしたから名前を知られていても当然だし、会話をしていれば名前を呼ぶ必要もあるだろう。
しかし、なんだかとんでもない不意打ちを受けた気がして心臓がどくどくと跳ねている。
そのことにさらに動揺しつつ、ゆっくりと彼の言葉を吟味して、やはりエリュゼは返答に困った。
もしや、一緒に企画展を見に行こうと誘われている?
「
……急でしたね。それならまた今度でも」
クリスティアンは目をみはったまま黙っているエリュゼの様子をふた呼吸ほど観察したが、戸惑わせたのを詫びるようにそう言ってチケットを封筒にしまった。
「べ、別に構いませんが
……急ぎの予定はないし
……美術館も隣の駅ですしね
……」
封筒が彼の鞄の中に収められる寸前に、エリュゼはぽつりと呟いた。
買い物のほかに時間を決めてある予定はないし、美術館は近い。誘いを受けても、多分変ではない。呟きながらそう自分に確かめる。
「よかった。それじゃあ」
結局チケットはしまわれてしまったが、クリスティアンは目を細めて嬉しそうに笑った。嬉しそう、ということは分かるのだが、どうして嬉しそうなのかは分からない。
ただ、真正面から向けられたその笑みが実に魅力的だったことは確かだ。もともと、先輩に劣らず顔の造形はいい人だなぁとは思っていたけれど、感じたのはそれとは別の何かだ。
なぜか頬に熱がのぼってくるのを感知し、エリュゼはとっさに顔を背ける。背けた先が駅舎だったのでちょうどよかった。クリスティアンが動き出す気配を感じつつ、エリュゼは彼の半歩先を歩いて駅へと戻った。
ーー「また今度でも」ということは、今日がダメだったら、改めて誘うつもりだったのだろうか?
いや、そんなことをしてもクリスティアンには特にいいことがない、目的もない。それは考えすぎだろう。
今日こそはスマートフォンを手放さずに帰るぞ、と思いつつ、エリュゼはぎくしゃくしながら歩くのだった。
読んだよ👏
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