先に目を覚ましたのはどっちだったのだろう。
分からない。けれど、ずいぶん長い間、お互いに寝たふりを続けていたような気はする。
それにも飽いてもそもそと身じろぎすると、二人で寝るには少々手狭なベッドの上で身を寄せ合ったまま、ごく自然に見つめ合うことになった。
まだ日の出前だが、カーテンの端からにじむような薄青い光が漏れ入ってきていた。暗闇でもないけれど相手の表情はよく見えない。だからこうして静かに相手の顔を見ていられたのかもしれない。
「クリスは、」
枕の上にちょろっとこぼれていた亜麻色の髪を指で弄び、エリュゼはぼぅっとしながら呟いた。
「どうして髪を伸ばしているんですか」
クリスティアンはエリュゼの指先に絡め取られる自分の髪をちらりと見てから、
「ひどい癖っ毛だからですよ。短いと際限なく広がるんです」
溜息まじりにそう答える。
「それは大変ですね」
エリュゼは思わず笑ってしまう。触っていて分かる通り柔らかい髪だし、確かに重さがなくなるとふわふわになりそうだ。そう考えていると、起きたら彼の髪を丁寧に梳いてあげたいと思えてきた。
「エリュゼの髪はまっすぐでいいですね」
「そんなことはありません。伸びていくとどうしてか先の方でうねってしまうんです。傷んでいるのかしら
……」
その癖は昔っからの不満であった。髪色はエリュゼが自慢できる数少ない自分の美点なのだけれど、先がくりんと巻き髪になってしまうのは気に入らない。短くすればまっすぐなままでいられるかとも思ったのだが、やっぱりくるんとなってしまった。
それなら、伸ばして髪を束ねたほうがわざわざ巻いてアレンジしたように見えるので、ずっと前から髪はある程度の長さを保っている。
「先は巻いているのかと思ってました」
「
……ただの癖っ毛です。残念でしたね」
ごく近いところでクリスティアンの目が細められる。その瞳の色が緑がかっていることをエリュゼは思い出した。いや、この数分であっという間に部屋が明るくなっていて、彼の瞳の色が見えるようになってきたのだ。
不意に恥ずかしさがこみ上げてきて、エリュゼはクリスティアンの髪を放し視線を逸らした。
二人で布団にもぐっているわけだが、昨日はふわふわする疲労感に支配されたまま、掴むことのできた下着だけを身につけて眠ってしまったので、つまるところ、明るくなる前に服を着てしまいたい。
「可愛いと思いますよ」
ところが、エリュゼの心中などまるで知らないクリスティアンは、今の今までエリュゼがやっていたように髪に指を絡めてくる。そのためにすり寄ってきた温かい肌と彼の台詞に、エリュゼは赤くなって黙ることしかできない。
すると、それまでただ愛おしそうにエリュゼを見つめていたクリスティアンの眼差しにもわずかな動揺が走った。
途端に二人の間を満たしていた甘やかな空気が消え去って、現実が戻ってくる。
「
……起きましょうか。もう電車も動いているだろうし」
「そ、そうですね。すぐ朝食を用意するので」
「いえ、私はこれで
……」
「昨日二人分の材料を買ってしまいましたから!」
現実へ戻るのと同時に別れてしまっては、きっと次に顔を合わせる時に気まずい。そんな予感に駆られ叫んだあと、エリュゼは毛布だけを引っ張り寄せて布団の中でそれに包まり、ミノムシのようになりながら這ってベッドを降りた。
クリスティアンがそれを見て、怪訝そうにしながら身体を起こす。ほの白い朝陽の気配は十分すぎる明るさになっていて、しなやかな彼の上半身をエリュゼの視界にはっきりと映しこむ。
「あ、あ、あっちを向いててください! 着替えますから!」
「あ、はい」
今更、と分かっていてもエリュゼは言わずにおれなかった。お互いに背を向けてようやく、彼女は毛布を剥いてベッドのそばに落ちていたパジャマを身につける。
なんだか、信じられない思いだ、色々と。
いつか誰かとああいうことをする関係になるのかなと、漠然と想像したこともあったし、クリスティアンと付き合い始めてからは彼が自分にとってのそういう相手になるのだろうか、とちらりと考えたこともあった。
けれどこういうのは、もっと劇的な出来事で非日常の世界にあると思っていたのだが
……なんということだろう、ぜんぜんそんなことはない。現実に存在する生身で触れ合った感触はしばらく忘れられそうになかった。
「もう、いいですか?」
「は、はいどうぞ。あっだめです! ご飯! 用意しますから! その間に服を着ててください!」
確かに半分は夢の中での出来事だったような気もする。ぼんやりしたベッドランプの明かりの中で見上げていたクリスティアンの顔はずっとほのかなオレンジ色で、はっきりしなくて。
「エリュゼ」
チーズとほうれん草を入れたオムレツを作るためにキッチンをうろうろしていると、エリュゼの要望通りにきちんと身なりを整えたクリスティアンが部屋から顔をのぞかせた。髪も自分でまとめてしまっている。当たり前だろうが
……ブラッシングしてあげたいと思っていたのでほんのり残念だ。
そのクリスティアンは、エリュゼの手元を見て不思議そうに首を傾げた。
「
……その卵、捨てるんですか?」
「え
……あっ」
言われて手に持っていたボウルを見下ろし、エリュゼは自分の行動にびっくりした。ボウルに割り入れた卵を流しに捨てようとしていたのである。謎としか言いようがない。いや、ぼーっとしすぎだ。
「私がやりましょうか。なんだかぼんやりしてるみたいだし、座って休んでいた方が
……」
「だ、大丈夫です」
「じゃあせめてお手伝いを」
「いいですから
……! クリスは部屋にいてください、心配しなくてもちゃんとできます」
扉からこちらへ一歩足を踏み出したクリスティアンをフライ返しで牽制し(卵を捨てようとしながらフライ返しを持っていたのだからやっぱりぼーっとしすぎだ)、自分も一歩後退ろうとして流し台に阻まれる。
クリスティアンは、そんなどうしようもなく取り乱したエリュゼの様をちょっとびっくりしながら見ていたが、彼から遠ざかることに失敗したエリュゼがくしゃりと顔を歪め
――それが泣きそうな顔だと気が付くや否や、今は役に立たない調理器具を持つ彼女の手を掴んできた。
ほんの狭い空間だ。捕らわれるのは簡単で、訳も分からず力を込めて握っていたフライ返しは取り上げられるし、捨てようとしていた卵も取り上げられた。そうして手ぶらになると、今度はそっとくるむように抱きしめられる。
クリスティアンの腕に閉じ込められると、自分の鼓動の音が激しく鼓膜を叩いていることに気づいた。その無用な興奮を鎮めるように大きな掌が髪を撫でていく。
クリスティアンの肩口からは、エリュゼと同じシャンプーの香りを漂わせる髪が柔らかい曲線を描きながらこぼれていて、頭を撫でられているうちにそのやわらかい髪に額を押しつけるように、エリュゼは彼に身を委ねていた。
「嫌だったわけじゃないんです
……」
「それなら、よかった」
「でも、その、いろいろびっくりして、うまく、消化できていないというか」
「それはまったく私が悪いので
……浮かれすぎでした。すみません」
謝らないで欲しい、本当に嫌だったわけではないのだから。そう言い返そうかとも思ったが、髪を撫でるクリスティアンの手が不意にその動きを変えたおかげで黙らざるを得なくなった。
うなじからエリュゼの髪をすくった指が頬を覆うように添えられる。整ったかんばせが視界いっぱいに近づいてきたので思わずきつく目をつむると、ぶつかったのは予想に反してお互いのおでこだった。
「だけどエリュゼもエリュゼじゃないですか。くっついてくるし、いい匂いだし、だいぶ無防備でしたよ」
「
……!」
至近距離で苦笑されると、昨晩の一連の流れが脳裡によみがえった。
今さらながら、確かにクリスティアンに近づきすぎた気がする。寒空の下、それもかなり遅い時間に彼を放り出すのが可哀想なだけだったし、いつまでもプレゼントを眺められているのが恥ずかしかっただけだが
……。
しかし、とにかく昨晩のような出来事にはもっとはっきりと分かる予兆のようなものがあると思っていたので、こういうことになるとは思っていなくて、つまり自分があんまりにも男女のことを知らなすぎたということで。
赤面するしかないエリュゼからクリスティアンの額が離れていく。
「改めて思い起こされると、私もそんなに平気な顔をしていられないのですが」
「す、すみません。もう
……しません」
いや、クリスティアン相手にならいいのか。とは思ったものの、相手も決まり悪そうに顔を赤くしているので余計なことは口にしない方が良さそうだ。
「朝食、やっぱり一緒に用意しましょう。お腹も空いたし」
気まずさから逃れるためのクリスティアンの提案に素直に頷き、エリュゼは調理台に向き直る。隣に並んだ彼がシャツの袖をまくっているのを横目に見て、こんな時間を共有していることに違和感のような照れくささのような、まだどうもしっくりこない居心地の悪さを感じながら卵を割り入れたボウルを手に取った。
多分、またこういう朝を二人で迎えることがあるだろう。そんなことを想像すると、こそばゆいが嫌ではなくて、視界の端にあるクリスティアンの手の動きを横目で追ってしまう。そうしていると、パンを切り終えたその手がふと止まった。
隣にいる人を見上げたのは、彼もこちらを見ている気がしたからだ。
それから互いに吸い寄せられるように交わしたキスは、きっと今日も、一日中一緒に過ごすのだろうなという予感をエリュゼの中に芽生えさせた。
読んだよ👏
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