コース料理でお腹を満たされた二人の前に、食後のデザートとコーヒーが運ばれてきた。
向かいの席に座る彼のケーキの上ではパチパチと火花を散らす蝋燭が一本燃えていて、束の間、周囲の視線がその火花に集まるのを感じた。
「ちょっと照れますね、こういうのは」
苦笑するクリスティアンの顔に火花の作る陰影がひらひらと踊る。
エリュゼも同じくらいに気恥ずかしかった。この店に予約を入れる時、「デザートを誕生日のお祝い向けにしてもらえますか」とお願いした覚えはあったけれど、まさかこういう可愛らしい演出をされるとは思っていなかったのだ。
ケーキも通常のデザートより少し豪華なようで、クリスティアンの前に置かれたケーキには「Happy Birthday」と書かれたプレートも載っている。
これまではいつものデートと変わらない、ちょっとだけそわそわした気分で食事を楽しんでいたエリュゼだったが、お祝いムードを作ってくれたケーキが少し恥ずかしいにしろ、ありがたくその雰囲気に便乗することにした。
「改めて
……おめでとうございます」
ケーキの上の蝋燭が燃え尽きて周囲の視線も感じなくなったのを確かめ、エリュゼはおもむろに小さな紙袋をテーブルの上に置いた。
「気に入ってもらえるか分かりませんけど
……」
自分でも恥ずかしくなるくらい初々しい顔をしてしまう。そんな顔を見られたくなくてうつむくと、プレゼントを入れた紙袋がそっと引き取られていくのが視界の端に見えた。
「開けてもいいですか?」
おずおずと顔を上げれば、クリスティアンは心なしか期待に目を輝かせているように見えた。プレゼント自体は喜んでもらえたらしい。
エリュゼは嬉しいような照れくさいような、そしてクリスティアンの期待に添えるプレゼントを用意できたかという不安でますます動揺しながら首肯した。
彼はケーキの皿を脇へと少し追いやって、エリュゼからのプレゼントを開封し始める。
紙袋の中から出てきた紙箱、それを開けるとまたジュエリーケースが出てくる。クリスティアンの指が丁寧にその蓋を開くのを見つめつつ、エリュゼの心臓は痛いほどに高鳴った。
黒いケースの中に収まっていたものを見て、クリスティアンは軽く目を瞠った。
「ブランドものじゃないですか
……いいんですか?」
「そんなに立派なものでもありませんから
……!でも、いいものだとお店の人も言うしクリスに似合うと思ったので
……」
エリュゼは慌てて取り繕ったあと、まだ驚いたままのクリスティアンから視線を逸らした。
エリュゼが選んだプレゼントはネクタピンだった。若い男性に人気のアクセサリーブランドのもので、ダークグレーとシルバーのアーガイル柄、それに小さくブランドの刻印があしらわれているだけのシンプルなデザイン。
社会人の男性に何をあげてよいが分からず、相談したユニカと二人でインターネットを調べたり、男性向けのファッション雑誌をこっそり読んでみたり、お店を何件か回ったりしてようやく決めたプレゼントだ。
ブランドもののプレゼントは重いだろうか、お金のことを気にされるだろうか、そもそもネクタピンをクリスティアンが使うのか
……など、色々な心配がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
「
……ありがとうございます」
しかし、おろおろしているエリュゼの耳には溜め息にも似た響きのお礼の言葉が届いた。
その声に誘われクリスティアンの様子を確かめてみると、彼は愛おしそうにケースの中に収まったネクタピンを見つめていた。
そしてエリュゼが盗み見ていることに気づくや否や、はにかみながら笑った。珍しいことにちょっと頬を赤くしているようだったが、レストランの照明が暗いオレンジ色だったし、二人一緒にはっとなって視線を逸らしてしまったので、エリュゼは今見たものが現実かどうかを確かめることができなかった。
「け、ケーキを食べましょう」
とにかく、喜んではもらえたようだ。エリュゼはふわふわした心地でフォークを手に取り、ナパージュでキラキラにコーティングされたいちごとなめらかなクリームをすくい上げた。
* * *
食事を終えて駅へ向かう道は、人の流れもまばらだった。時刻は二十二時になろうという頃。普段通りにそこそこの夜遊びで返った人々と、まだまだ街で遊んで行く人々が行き交う狭間の時間なのかも知れない。
ゆったりした流れの一部と化しながら、二人はなんとなく手を繋いで歩いていた。店を出てすぐにクリスティアンの手がそろりと絡まってきて、エリュゼもその指先を軽く握り返した、そんな繋ぎ方で。
普段はただ隣を歩いているだけでも、今日は手を繋いだまま、人通りのある道を避けて二人で夜の公園を横切ってみたり、その時に一度だけ立ち止まって、薄暗い舗道の真ん中で唇の重ねるだけのキスをしたりした。
ここまで歩いてくる間にたった一回だけ交わした口づけのことを思い出すと、触れ合っている指先がひどく熱い気がする。十一月も下旬に入った夜の空気は厳しい冷たさだったが、それも気にならないくらい。
やがて言葉少なな散歩は終わり、眩しい駅のコンコースに入ると、彼らはどちらからともなく手を解いた。
「今日はありがとうございました。会えて嬉しかったです、プレゼントも」
「
……喜んでもらえてよかったです」
もう少し気の利いた可愛い言葉を返すことが出来ればいいのにと思うが、しみじみと言いながら見つめてくるクリスティアンの手前、エリュゼはただただ照れくさい。
「あの、それじゃあ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
早々に別れの言葉が出てきてしまったのはまずかったかしら、と気にしたのはエリュゼだけだったようで、クリスティアンはにっこりと笑いながらそう返してきた。
食事もプレゼントも気に入ってくれたようだし(ご馳走させてはくれなかったが)、恋人らしい散歩もしたし、今日はこれでお開きでもよいのだろう。
エリュゼはまだ浮わついた心地でぺこりと頭を下げ、クリスティアンに背を向けた。そして自分のアパートがある方面へ向けた電車のホームを目指した。
月曜日から、プレゼントを使ってくれるといいな。ユニカにも喜んでもらえたことを報告しよう。
そんなことを考えながらホームに降りると、そこはコンコースよりも混んでいた。寒かったから、駅の中で週末を楽しむ人が多かったのかしら。
エリュゼも人の列に加わり、電車が来るのを待ち始めた時だった。
寒さを堪えて待つ人々に不満を抱かせるアナウンスが響き渡った。
『〇〇線をご利用のお客様にお知らせいたします。××駅停車中の電車におきまして、車両トラブルのため点検を行っております。安全が確認され次第運転を再開いたします』
不満と驚きの声が周囲で湧き上がるのと一緒に、クリスティアンもコンコースの何処かにあるスピーカーを見上げた。
よく響く特徴的な鼻声のアナウンスは、繰り返し運転見合せのお知らせを呟いている。
他人事にできなかったのは、その路線がクリスティアンの自宅へ向かう路線だったからである。
すぐに動くだろうかと心配しつつ、彼はエリュゼにもらったプレゼントを人混みからかばうようにそっと胸に抱え直した。
まだホームに入っていなくて正解だったな、タクシー乗り場に回ろうか。そんなことを考えているうちに素早く行動を始めた人々がいて、五分もするとバスターミナルとタクシー乗り場に向けてかすかに人の流れができていた。道にはまばらだったが、駅構内には結構人がいたようだ。
さて。とりあえずネットに判断材料となる情報が流れていないか確認してみよう。そう思い取り出したスマートフォンには、エリュゼからのメッセージが届いていた。
『〇〇線、止まったみたいですが大丈夫ですか?』
『少し待ってみます。すぐ動くかもしれないので』
クリスティアンは手短にメッセージを打ち返し交通機関の情報を集めたサイトや鉄道会社のホームページを開いてみた。が、どちらにもまだ詳しい情報は上がっておらず、運転見合せ中の文字があるだけだ。
まあいいか、金曜日だし。いずれ電車が動くか、代替輸送の知らせがあるだろう。
クリスティアンが半ば諦めてスマートフォンをしまおうとしたところ、再びエリュゼからメッセージが届く。
『もうホームですか?』
『まだ改札を通ったところにいました』
エリュゼの問いにそう返してから、
『ちゃんと帰れるので、大丈夫ですよ』
追加のメッセージを送り、更に「おやすみなさい」のスタンプを送っておく。
エリュゼが乗る電車はそろそろ到着するはずだ。彼女にはあまり遅くならないうちに気にせず帰ってもらいたい。クリスティアンはそう考えたのだが、その数十秒後、今度は着信があった。
『さっき通った改札ですか?』
「はい、そうですけど
……」
『そっちに行きます』
どうして? と思った瞬間に通話は切れてしまい、クリスティアンは仕方なくその場に佇むことになった。エリュゼが乗るはずだった電車が数本先の線路を走って行くのが見え、降りた人影は多くなかったので、あちらの路線はさみしくなる。
そしてしばらくすると、ちょっとむっつりした様子のエリュゼが人に混じってコンコースを歩いてきた。
「戻ってもらうようなことではなかったんですが
……」
「だって
……寒いですし、いつ動くか分からないじゃないですか」
寒さも電車が動くかも、エリュゼがどうにかできることではない。それに、寒くていつ移動できるか分からないなら、なおさらエリュゼには先に帰宅してほしいところである。あんまり遅くなると駅から彼女の部屋までの道のりの安全が心配だ。
二人の住まいはちょうどこの駅を真ん中に反対へ四駅ずつ離れているので、クリスティアンがエリュゼをうちまで送って行くことは少なかった。その代わり、人通りが絶えないほどほどの時間にいつも別れていた。
「次の電車で行ってください。私は大丈夫ですから」
「クリスがどうするか決めたら行きます」
エリュゼは変わらずむっつりしたままなので、どうやら自分の帰り道のことは何も案じていないようである。
「今日は遅くなったので、むしろあなたの帰りを心配してるんですが」
そう言うとようやくはっとするエリュゼだったが、あまり納得はしていないようだ。時々こうして無茶な気遣いを発揮するところは可愛いものの、その頑固さはわがままを言い始めた時のディルクといい勝負だった。
「むしろ送って行きましょうか。それから駅に戻った頃にはもう少し状況がはっきりしているかも知れませんし」
「それだとクリスの帰りが遅くなります」
「私が遅くなる分には何も構いませんけど」
「構います。それに、わたしも大丈夫です。防犯ブザーを持ってますから」
「音が鳴ったくらいじゃ動じない輩に出会ったらどうします?
……やっぱり送って行きます。人も増えてきたし、時間をおいた方が混乱も収まってるでしょう」
改札を通ったもののホームへ向かうことを躊躇した人々の密度が、二人の周りで徐々に上がり始めていた。スマートフォンを見ながら歩く若者がエリュゼにぶつかりかけたことに気づき、クリスティアンはさっと彼女の肩を抱き寄せる。
エリュゼもぶつからずに済んだ相手も、危なかったことにすら気づいていない。マナーを守りましょうと声高に言われる昨今でも、こういう危険はどうにも排除し得ないものらしい。
「向こうのホームの方が空いてますし、ね。話し合うならあちらで」
クリスティアンはそう言ったものの、結局エリュゼが降りる駅まで一緒に電車に乗って行った。
* * *
そして、新しい駅に到着した二人はそろって電光掲示板を眺め、しばらく沈黙していた。
住宅街に近い駅なので人混みこそ大したことはなかったが、乗ってきたのとは反対方向、つまり元の駅やクリスティアンの自宅がある方へ向かう路線は動く気配がない。この駅よりもっと手前で車両が立ち往生したままなのだ。
バスもいくつかあったが、結局は元の駅へ戻って乗り換えることになるので、今更戻ったほうが大変そうだった。
「これは失敗だったかな
……」
運転を見合わせている理由も、車両トラブルから事故へと表示が変わっていた。何があったか詳しいことは分からないが、どうやら点検では済まなさそうだ。
「だから送ってくれなくても大丈夫だと言ったのに」
「はは、すみません」
謝られるようなことではなかったが、送らなくてもいいと言ったのに同じ電車に乗ってきてしまったのはクリスティアンだ。ちょっとくらい責めてもいいだろう。しかしそれがエリュゼを心配しての選択でもあったことを思うと、ますますクリスティアンが帰りづらくなってしまったことがほんのりと申し訳ない。
「まあ、二駅ほど歩けばディルクのうちですし、一晩泊めてもらえないか聞いてみます」
「クリス相手ならだめとは言われないでしょうけど
……確か先輩のゼミは明日から一泊で卒論合宿です。飛行機に乗ると仰ってたので、朝早いんじゃありませんか」
「そういえば
……」
再び電光掲示板を見遣って、忘れてたなぁ、どうしよう、という顔をするクリスティアンを見上げ、エリュゼはやれやれと息をついた。
「先輩にお願いしなくても、うちに泊まっていけばいいでしょう」
「
……」
「クリス?」
返事がなかったので、エリュゼは恋人のコートの袖を軽く引っ張った。聞こえなかったわけではあるまい。掲示板を見上げる横顔には確かな表情の変化があったので。
「いえ
……急で迷惑でしょう。タクシーを呼びますよ」
「電車で三十分以上かかるところまで乗っていくつもりですか? そんなもったいない。うちなら、時々妹が泊まりに来るのでちゃんとクリスが寝る布団もあります」
「そうなんですか」
なぜか苦笑するだけで提案に乗ってこようとしないクリスティアンを、エリュゼはただ怪訝に思いながら見つめた。そうしているうちにどこからともなく冷たい風が吹いてくる。電車の到着で巻き起こった風か、外から構内に吹き込む風かは分からないが、エリュゼに状況の変化を促してくる風に違いはなかった。
「ほら、行きましょう。誕生日に風邪を引くなんてことになったら面白くありませんよ」
さっき強引に電車に乗り込んできたお返しだ。エリュゼはなおも渋っているクリスティアンの腕を掴んで改札に背を向ける。
まったく、クリスティアンには自分を心配する気持ちが足りない。
エリュゼの頭にはそんなことが思い浮かんでいたし、気分はまだ遊びたいと言って家に帰りたがらない妹を引っ張って行く時のそれと同じだった。
* * *
エリュゼが明日の朝ごはんを買って帰らねばと言うので、二人は駅前の複合スーパーマーケットに立ち寄ってからエリュゼの部屋へ戻った。ちなみに、明日の朝ごはんは主食がバケットで、それに惣菜コーナーで買ったポテトサラダと、ほうれん草とチーズの入ったオムレツがつくそうだ。
寒かったから! と言うエリュゼにすすめられるままお風呂を借り、買ってきた新しい肌着に替えてスラックスとシャツに袖を通し直したクリスティアンは、少々落ち着かない気分で髪を乾かしていた。
あらかた水気の飛んだ髪をくくり直すが、どうもいつもより指通りがよい。それに甘くて爽やかないい匂いもする。尻尾のような後ろ髪を引っ張ってきて指に巻き付けながら、エリュゼの使うシャンプーは〝こう〟なんだなぁと、なるべくどうでもよいことを考えてみる。
ドライヤーの音がしなくなってしまうと、部屋はしんと静かになった。今はエリュゼが風呂に入っているので、かすかな水音がするくらいだ。
静かすぎるといたたまれなさが増してしまいそうだったので、テレビをつけて流れる深夜のニュースをぼんやりと眺めた。
すると、クリスティアンが乗りたかった路線がまだ運転を再開出来ていないというニュースが流れていた。これは、泊めてもらえて正解だったのかもなと思う。
とはいえ、まあそんなに気を抜くことも出来ていない。
狭すぎない1Kの間取りに、ベッドと机と本棚と、小さなローテーブル、姿見が置いてある部屋。そのどれもがいかにも女子大生の部屋という空気を醸し出していて、無駄なものが見えずすっきりしているのがエリュゼらしい。
そういうエリュゼの生活空間へ迎え入れられたことに、意外と緊張しているようだ。クリスティアンは苦々しく思いながら傍に転がっていたピンク色の枕を叩いた。風呂に入っている間にエリュゼが出してくれた寝具一式は、さすが彼女の妹が使うためのものとあって、とっても女の子仕様だ。
そして、クリスティアンが寝る場所をちゃんと用意できたという満足感を持って風呂に向かったエリュゼの姿を思い出すに、どうやら落ち着かない心地なのはクリスティアンだけのようだった。今のエリュゼは完全に困っている人を助けているつもりで、異性を部屋にあげたというふうには思っていないのだろう。
もう少し意識して欲しいような気もする。が、変に緊張されるとクリスティアンももっと落ち着かなくなってしまうかも知れない。
あんまりそういうことは考えないようにしよう、とクリスティアンは思い直した。今日はエリュゼの親切に甘えさせてもらっている日。部屋へあがったのも、デートの延長というにはぜんぜんムードがないいきさつだったわけだし。
ニュースが終わり、深夜の妙なバラエティー番組を見る気分でもなかったので、クリスティアンは鞄と一緒に置いてあった小さな紙袋を引き寄せた。丁寧に包み直したエリュゼからのプレゼントをもう一度開いてみる。
シンプルだが、ちょっといいものだと人の目にも分かりそうなデザイン。ネクタイをとる前に合わせて見ればよかったなと思うくらいには、クリスティアンは一目でそのネクタイピンを気に入っていた。
「また開けているんですか?」
手に取るのももったいない気がして、ただじっとそれを見つめているうちにエリュゼが戻ってきた。
彼女は濡れた髪をタオルで巻き、温かそうなパジャマを着ている。そして、クリスティアンがドライヤーをテーブルの上に置いたせいなのだが、それを使うためにクリスティアンの隣に
――同じ布団の上にちょこんと座った。
本当に無警戒だな
……。
タオルを解いたエリュゼの髪が、白い襟足や首筋にばらりと落ちてくるのを見てクリスティアンは苦笑した。
「ちゃんと乾かしましたか? でないと風邪を引きますよ」
「ええ、乾かしました」
それならよしといわんばかりに微笑み、エリュゼは髪を梳きながら乾かし始めた。
おかしな気分だ。身体を拭いてとか髪を乾かしてとか、でないと風邪を引くよとか、そういう台詞はだいたい子供の頃にクリスティアンがディルクに向かって言ってきた。
人から言われる新鮮さ。しかもそれを言ってきたのがディルクより年下の恋人だと思うと、ついつい笑いがこぼれてしまう。
「なんです?」
「いいえ、なんでも」
エリュゼも、面倒見がよいというよりは人の面倒を見るのが本能のようなものなのだろう。弟や弟のような幼馴染みの世話をしてきたクリスティアンにとっては、エリュゼへの親しみが増す発見だ。
「そういえば、先輩からは何かもらったんですか? 誕生日プレゼント」
「好きなワインをボトルで奢ってやると言われてます」
「先輩らしいですね
……お酒が強い人はうらやましいです」
髪を乾かし終えたエリュゼの言葉がどことなく尻すぼみになったのは、酔い潰れて演じた失態のことをまだ忘れられないでいるから、だろうか。
「私もディルクほどは飲めませんよ。でも好きなので
……今日お店で出されたワインもよかったですね。料理も美味しかったし、また行きましょうか。今度はエリュゼの誕生日に」
ブラシで髪を整える彼女の仕草を目で追いながら、クリスティアンは料理とキャンドルを挟んでエリュゼと向かい合っていた時間を思い出した。あの時はあんなにそわそわしていたのに、今やクリスティアンよりくつろいでいるのだから、なんだか、そういう違った姿を見せるのはずるくないか、と思った。
「そうですね。暖かくなってからだと、また違うお料理が楽しめるかも」
「そうか、エリュゼの誕生日は五月でしたね。ずいぶん先だな
……」
ということは、プレゼントのお返しが出来るのもまだまだ先だということか。それはちょっと残念な気もしたが、それまでにエリュゼが気に入るものをじっくり考えておくのも楽しみかも知れない。
そう思いながら、クリスティアンの視線は自然と箱を開けたままのネクタイピンに注がれていた。出来ればこんなふうに、普段も身に着けていられて、ちゃんと気に入ってもらえるものがいい。とすると、やっぱりアクセサリーだろうか。
「あの、そろそろしまいませんか」
数ヶ月後の贈りものに考えをめぐらせていると、どこか不機嫌そうな声と一緒にネクタイピンを収めていた紙袋が差し出された。不思議なことを言うエリュゼの顔を覗ってみると、彼女はむっと唇を引き結びながら頬を赤くしている。つい今し方までそんなことはなかったから、風呂で温まったせいではなさそうだ。
「ピンは逃げたりしません」
「そうですけど、
……嬉しくて」
月曜日からこれをつけて仕事に行くのも、エリュゼの誕生日には何を贈ろうかと考えるのも楽しい。エリュゼも色々考えながら選んでくれたのだろうか。そんなことを想像するのもまた、楽しかった。
ところが、エリュゼはクリスティアンにしみじみ感動されると気恥ずかしいらしかった。返す言葉なくむぅっと黙ったあと、ネクタイピンが収まっているケースの蓋をぱたっと閉じてしまう。
「あ、」
クリスティアンはまだ眺めているいつもりだったので蓋を開けると、エリュゼがまた蓋を閉じた。もう一度開けようとすると、エリュゼもめげずに、今度はケースにかかったクリスティアンの手をぎゅっと押さえた。
「エリュゼ
……」
「も、もう遅いんですから。しまってください。寝ますよ」
しっとりした掌の温度を左手の甲に感じつつ、クリスティアンはふと笑う。
エリュゼはころころと表情を変えるところが可愛いのだが、こういう、ちょっと必死な顔が特に可愛い。
……これくらいなら、いいだろうか。
手を重ねられるほど近くにいるエリュゼの方へ身を乗り出し、クリスティアンは彼女の唇に自分のそれを重ねた。
公園でキスした時よりずっとあたたかくしっとりした感触、そしてシャンプーや化粧品の香りが混ざってクリスティアンの思考を包む。
エリュゼの表情を窺えるくらいに顔を離すと、彼女はますます赤くなりながらそっと視線だけをクリスティアンから逸らした。
「これは、一生懸命選んでくれたんですよね」
エリュゼの手は、まだクリスティアンの手と贈りものに重なったままだった。伝わってくる温度は急に高くなった気がするが。
「何をあげたらいいのか分からなくて、いろいろ調べました。若いお父さんがいる知り合いの子にも相談したりして
……」
「嬉しいです、本当に」
どうしてそんなに恥ずかしがるのか分からないが、クリスティアンの呟きに返ってきたのはひどくぎこちない照れ笑いだ。
もう一度唇を重ねるのは簡単だった。エリュゼが目を閉じたのか、まつげの揺れる感触が目許をかすめていく。
どちらからも離れようとはしなかった。テーブルの上で重なっていた手の指を絡めると、彼女は素直にそれに応じてくれる。
(あんまり素直にされても、困るな
――)
少しだけ後ろめたく思いながら、薄く唇を開いて相手のそれをそっとついばんだ。なめらかでやわらかい唇の奥に、ほのかなミントの味を見つけるのにも時間はかからなかった。
そんなクリスティアンの口づけにエリュゼが応じてくるものだから
――
「ふ
……、ん
……」
背中に回した腕で細い身体を引き寄せると、エリュゼははじめてわずかな戸惑いを見せる。しかし、少し強張った背筋を宥めるように撫でていれば、じきにエリュゼの身体から力が抜けていく。
もうしばらく深い口づけを続けて二人は離れたが、いつものように静かで満ち足りた沈黙はなかった。そんな余韻にひたるよりも、目の前にあるすべらかな肌にもっと触れたいと思ったのだ。
クリスティアンは洗いたてのエリュゼの髪を掻き上げ、頬や耳朶、その下へ順番に口づけていく。
「く、クリス
……?」
上擦った声を耳許で聞きつつ浮き出た鎖骨の形をなぞっていると、のけぞるようにしていたエリュゼの重心が傾き、畳んだ毛布の上に頼りなく倒れた。背中の方で思いっきりシャツを掴まれていたクリスティアンも、息を呑むエリュゼに引っ張られるようにして倒れ込む。
「あ、あの、あの
……」
エリュゼも、さすがに何が起ころうとしているか察してくれたらしい。
この無防備さにつけ込んでいるような気がして少しだけ気が引けたけれど、いよいよ真っ赤になって混乱している様子が可愛すぎて、如何とも。
空回る唇をそっと覆うようなキスで宥めてから、クリスティアンはエリュゼの耳朶に口づけながら言った。
「すみません、こんなつもりで上り込んだわけではないんですが、」
「
……っ、え、と
……」
「
……どうしても嫌なら、今日はやめておきます」
可愛いことに違いはなかったが、エリュゼがあんまりにも硬くなっているのが気の毒で、クリスティアンは身を退く覚悟もする。けれどシャツはがっちりと掴まれたままだったので、起き上がるに起き上がれない。
返事は急かすまいと思ったが、鼻先をくすぐる髪の匂いがどうしようもなく魅惑的でじっと待っていることも出来なかった。頬やこめかみにそっと口づけを繰り返していると、エリュゼはそのたびに首をすくめた。
やっぱり、いきなりすぎたかな。
クリスティアンはこれでやめておくつもりで、ぎゅっと目をつむった恋人のまぶたにキスをする。そして可能な限り身体を起こしたが、
「エリュゼ、手を
……」
放してください、と言い切る前に、彼女が何事かを囁いていることに気づいた。
「
……何?」
拒絶の言葉ではありませんように、と思いつつ問い返すと、エリュゼは羞恥で潤んだ目を一瞬だけクリスティアンに向けた。そしてすぐにきつく瞼を閉ざし、ほんのりと赤く染まった首筋を差し出すように顔を逸らした。
「あ、明かりを、消して
……ください
……」
それが承諾を意味する言葉だと判断できるくらいには、クリスティアンは冷静だった。しかしそれには数十秒の時間を要した。
間の抜けた沈黙が通り過ぎたあと、クリスティアンはつい笑ってしまう。エリュゼのありったけの勇気が可愛くて。
真っ赤なまま怪訝そうに見上げてくる彼女の額に自分の額をこつんとのっけて、さっきから頭の中に「可愛い」という言葉しか浮かんでこないことが伝わればいいなと考える。
「はい」
けれど頭をくっつけたくらいでは伝わるはずもない。これから存分に声に乗せて伝えよう。
二人が過ごす部屋の明かりが寒い夜の闇の中に消えたのは、日付が変わるほんの五分前のことだった。
読んだよ👏
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