仕事を終えた会社員で混雑する駅には独特の雰囲気がある。怠さと開放感。同時に、どこかへ
――自宅や飲食店へ向かう足取りは気ぜわしい。
この場所が目的地であるエリュゼは、そんな空気につられてそわそわしながら柱に背をもたせかけて佇んでいた。
余裕があると分かっていながら腕時計で時刻を確かめる。そろそろ十八時三十分。待ち合わせの時間だ。
数十秒で用事を済ませたら、アルバイト先の学習塾へ行って今月の講義予定票を貰えば、今週の予定はすべて終了となる。
それにしても、どうしてこの駅を指定されたのだろう。エリュゼにとってはアルバイト先の最寄り駅でありがたいが、大学の一つ上の先輩が利用する駅ではないのである。彼がエリュゼの予定に配慮してここまで電車に乗ってきてくれるとも考えにくいし
……。
まあ、きっとこの近くに用があったのだろうな。上下関係を大事にして、「それじゃあ金曜日の夕方に、この駅のこの広告の前で」と指定してきた先輩の言葉に従順に頷いたエリュゼは、その後も深く考えていなかった。
あと二分で約束の時間だった。駅前広場にある光る針を持った大時計をぼんやり見上げながら秒針の動きを数えていると、数歩離れたところに誰かがやって来たのが視界の端に映った。
「あ」
エリュゼと同じように駅前広場の時計を見上げるその人は、ある意味今日の目的の人だった。
エリュゼがもらした微かな声を雑踏の中に聞き取り、彼はふとこちらを向く。そして今ほどのエリュゼとまったく同じ反応をした。
「こんばんは」
「こんばんは
……その節はお世話になりました
……。お仕事帰りですか?」
「いえいえ。今日はディルクと待ち合わせているんですが
……」
「え?」
「もしかして、あなたも?」
エリュゼは手に提げていた紙袋を持つ指に力を込めながら、現れたクリスティアンにこくりと頷き返した。本人を呼んでいるとは聞いてないぞ、と思いながら。
「あの、どういう要件で先輩と待ち合わせを?」
なんとなく嫌な予感を覚えながらクリスティアンに問えば、彼は答えようとする前にはっとして胸を押さえる。どうやら電話か何からしい。
すみません、と断ってジャケットの内ポケットから取り出したスマートフォンの画面を叩くと、彼は怪訝な顔をしながら回線の向こうにいる相手と話し始めた。
「ええ、着いてますよ。いらっしゃいますけど
……。はい? 来ない? それはどういう
……いや、オケの練習があるならどうして今日この時間に呼び出すんです
……」
多分、嫌な予感が当たったんだろうなぁと脱力しながら、エリュゼはクリスティアンの声を聞いていた。横目に見た大時計は十八時三十一分を指している。ディルクにとっては予定通り。
「それで、八時半まで私にどこにいろと?」
不機嫌というよりかは呆れた口調でもう二言三言口にしてから、クリスティアンは電話を切った。
「
…………先輩ですね」
「あなたが私に用事があるようだから呼んだ、と言っていました」
「す、すみません
……」
「いえ、時間と場所だけ指定して詳細を伝えないディルクが悪いので、あなたが謝ることはありませんよ」
正直なところエリュゼもそう思ったが、ディルクに時間と場所だけ言われて、疑念も抱かずのこのことやって来たのはエリュゼとクリスティアンだ。
それに、これは彼女の用事だった。ディルクに任せるのではなく自分から動くべきだったし、どうやらディルクも迷惑だったようだ。だから自分は来なかったのだろう。もう一つ付け加えれば、目の前にいる青年だってこの件の原因の一部である。
詰まるところ誰にも文句は言えないか
――諸々の事情は呑み込んで、エリュゼは持っていた紙袋をずいと差し出した。
「先日のお返しです」
「先日の?」
聞き返されると頬が熱くなる。どうあってもあの失態に結びつく話だからだ。酔っ払って、正体をなくして、クリスティアンに一晩世話になったという、あの。
「何かありましたっけ
……」
早くこの用件を終わらせたいというのに、見目のよい青年は困ったようにまなじりを下げるだけで、紙袋を受け取ろうとはしてくれなかった。
惚けている感じではない。気を遣っているわけでもない。どうやら忘れてしまっているらしい。とてつもなくエリュゼを困らせたことを。
「先日の
……! わたしのお礼にお返しを持ってこられたじゃありませんか
……!あんなものをいただいたらお礼の意味がありません! だからもう一度お返し
……いえ、お礼です」
ちょっと声を荒げたくらいならこの賑やかな雑踏の中では目立たない。周囲を通り過ぎていく人々は何やら怒っているエリュゼに視線を向けることすらなく、驚いたのは紙袋を押しつけられたクリスティアンだけだった。ちなみに、袋の中身はいいチョコレートを使ったブラウニーである。
「そんな、よかったんですよ。あのお菓子も貰いものだったんです。女性の方が集まってああいうものを食べるんじゃないかと思ってディルクに預けただけで、お礼も十分すぎるほどでしたし。そもそもお礼をいただくほどのことでも」
「受け取っていただかないと、わたしの気が済まないんです」
なおも紙袋を受け取ってくれないクリスティアンに一歩詰め寄りつつ、エリュゼが思い出すのは先週のことだった。
月曜日。受けている大学の講義は午前の二つだけだ。正午過ぎには早くも帰宅しようとしていたエリュゼは、午後からの講義に出てきたディルクに呼び出され学内のカフェで彼と落ち合った。そして有名な洋菓子店のプリンを六つ、唐突に渡されたのだ。
ディルクは「クリスティアンからだ」「先日はごちそうさまでした」「以上」と言って、何故かエリュゼと一緒にランチを食べた。
その時の「先日はごちそうさまでした」の意味は、エリュゼが不本意にも一晩泊めてもらったことに対するお礼(と謝罪)の気持ちを込め、ディルク経由でクリスティアンに渡した羊羹(謝罪の品と言えば羊羹である)へのお礼だったらしい。
お礼にお返しをされては意味がない、と目の前でガパオライスの目玉焼きを破って食べているディルクに訴えてみたが、彼は「そう言われてもな」の一言だった。
確かにそうだ。ディルクはプリンを運んできただけなのだから。
せっかくなので、彼にもその場で一個食べてもらった。そして、大学を出た足で実家へ向かい祖母と母と妹の分を置いて、残りの二つを持って受験勉強を見てあげているユニカの家を訪ねた。いいおやつにはなったが、プリンに走らされた半日だった。
それはまだいい。問題は、お礼をお返しで清算されてしまったことである。
ゆえにお返しのお返しを用意したエリュゼは、もう一度ディルクにクリスティアンへの贈りものの運搬を頼んだのだった。運搬どころか、本人を呼ばれてしまったわけだけど。
とにもかくにも、クリスティアンへのお礼が済まないとエリュゼがあの忌まわしい夜を過去のことに出来ない。
「本当にたいしたことではなかったんですが
……あの朝も朝食をご馳走していただいたし」
「あっ、あれはあれです。こういうことは、ちゃんと形を整えさせて欲しいんです」
苦笑するクリスティアンを見ると引き下がりたい気持ちがむくりと首をもたげたが、エリュゼの真面目な部分は勢いよくその頭を押さえつけて胸の底に押し戻した。
ほとんど睨みつけるような目でじっと若者を見つめること十数秒。クリスティアンは苦笑したまま「仕方がありませんね」と言って肩をすくめる。
仕方なくなんかない、当然のことだ。少しむっとしながらも余計なことは言わないよう唇を引き結んだまま、エリュゼはクリスティアンに袋を引き取らせた。
「日持ちするお菓子ですから」
「そうですか、じゃあ、ゆっくり独り占めしても大丈夫ですね。仕事の合間にいただきます」
袋を受け取ってからのクリスティアンは潔かった。ちょっとしたブランドのある菓子店の袋だと気づいたろうが、もう一度お礼を言ったくらいで、ビジネスバッグと一緒に袋を持つ。
見栄を張った部分をわざわざ褒められたくもないエリュゼはほっとした。
よし、これで過去の過ちは清算できたし、金曜日だし、もう一つの用事を済ませたら気持ちよく帰ることが出来そうだ。
「それではこれで。来ていただいてありがとうございました」
しみじみと達成感を味わいながら、エリュゼはお辞儀をした。そして踵を返す、が、
「あの、」
明日の予定に思いを馳せようと思っていたところ、不意に呼び止められる。
「今日は、何かご予定がありますか」
「
……アルバイト先に、予定表を取りに行きますが」
「すぐに済む?」
「ええ、多分
……取りに行くだけなので」
「そうですか」
心なしか嬉しそうに微笑まれて、エリュゼは眉を顰めた。
会うのは二度目のこの人に、私の予定の何が関係あるのかしら。
そうとしか思わなかったことをディルクに教えたら、多分警戒しすぎだと笑われたことだろう。でもそれは、警戒していたというより、エリュゼが自分の予定をかっちりと決めて行動し、予定外のことを好まない性格だったからだ。
だから羊羹がプリンになって返ってきたことも気になった。それは貰うはずのないお返しだったので。
「よかったら、一緒にお食事でもどうですか」
「はい
……?」
思いもかけない言葉に、純粋に「どうして?」と思った。だって、クリスティアンとは二人で食事をするような仲ではないではないか。なんと言っても〝会うのは二度目〟だし、〝先輩の友達〟という遠い存在でしかない。
思い出したくないあの朝、一緒にカフェに入ったのはその必要があったからで、今日はもう、はっきり言って用はなかった。
「ディルクがこのあと合流しようと言っていて
……だいぶ時間があるんです。一人で店に入るのも味気ないですから、お付き合いいただけたらなと」
なるほど、そういうことか。それにしても、それはエリュゼには関係のないことだった。
誘いに応じる意味があるとすれば、合流するというディルクに会えるかも知れないということだ。どうせならクリスティアンに渡りをつけてくれたお礼を言っておこうか。電話一本で済む話でもあるのだけれど。
ほんのわずか、誘いへ応じる方にエリュゼの天秤が傾いた時、折りよく胃袋がきゅっと鳴いた。
予定にはないことだったけれど、お腹も減ったし、まぁ、いいか。
「それじゃあ、用事を済ませてきていいですか。二十分ほどで戻れると思いますので」
「はい」
夕暮れの中、快く笑って頷いてくれた青年は、大時計の下のベンチに場所を移して待つ旨を告げて、踵を返した。
エリュゼもアルバイト先の学習塾を目指したのだが、道すがら急に思い当たった。
そうだ、自分が学生だからといってご馳走されるようなことがないようにしなくては。でないと、またお返しを持ってこなくてはいけなくなる。
* * *
一連の話を聞いたディルクは、おかしさを堪えきれないというように珍しく声を上げて笑った。その余韻も去らぬうちに中身が少なくなっていたワイングラスを呷り、クリスティアンがおかわりを注いでやっている間もまだ肩を揺すって笑う。
「何がそんなに面白いんです?」
二杯目を飲み終えただけだというのにご機嫌すぎではないか。まだ一杯目の途中である自分のグラスをゆらゆら回しながら訊ねると、幼馴染はくつくつと喉を鳴らしながらテーブルの上にある硬貨をつっついた。
「いや、さすがエリュゼだと思ってな」
ディルクがつついているのは、エリュゼが置いて行った彼女が食べたものの代金、千と八百円。細かいのはいいよ、と言ったら、何故か切り上げた金額を置いて行かれてしまった。せめて百円玉を一枚返そうと思ったのに、彼女はさっさと先輩に挨拶をして店を出て行ったのだった。
「受け取るクリスもクリスだと思うけど」
「受け取った方が穏便に収まる気がしたんです」
クリスティアンの答えを聞くや、ディルクはまた噴きだす。
「そうかも知れない」
そんなに酒が進む話題だろうかと思いつつ、クリスティアンもご機嫌なディルクに倣って気に入りのワインを飲む。
「面白いのは結構ですけどね、要件を告げずに呼び出して、自分は来ないっていうのはやめませんか」
「いいじゃないか、知らない相手だったわけでもないし」
「ほぼ知らない相手ですよ
……」
「一晩一緒に過ごしたのに?」
「あれはほとんどあなたが誘発した事故ですからね」
「俺は送って行ってくれと頼んだだけで持って帰れとは言ってない」
いけしゃあしゃあと
……しかも頼まれた覚えはない、クリスが送って行ってくれるぞ、という話にディルクがしてしまっただけだ。
ということは、エリュゼを連れて帰ったのはクリスティアンの自発的な行動ということになる。途端に反論しづらくなった。あの時は仕方のない状況だったとはいえ。
「そもそも、お礼くらい持ってきてくれればいいでしょう。わざわざ呼ばなくても」
「俺は宅配便じゃない」
「やっぱり、そのせいですか
……」
初め、ディルクはエリュゼからのお礼の羊羹を喜んで運んできたし、クリスティアンからのプリンもニヤニヤしながら受け取っていた。
ところがあの日曜日、ディルクがエリュゼに渡すためのプリンを持って帰るのを見て、ルウェルが「便利なディルク便」と言ったものだから、帰り際、ディルクの機嫌はほぼ直下に向かって落ちたのだった。
もう一人の幼馴染の顔を思い出しながら余計なことを言いやがってと心の中で罵りつつ、放っておくとつまみ類しか食べないディルクのためにちゃんとした料理を注文してやるクリスティアン。メニュー表をテーブルの脇に除けようとして、先ほどまでエリュゼが座っていた席と自分の席の間にスマートフォンが置いてあることに気がついた。
あれ、出しただろうか、と思いつつ画面を起動して自分と弟の誕生日を掛け合わせたパスコードを入力してみる。そうしたのはほとんど予感があったからだろう。
思った通りコードが弾かれるのを見て、クリスティアンは大きく溜め息をついた。
「どうかした?」
「
……彼女の忘れ物です」
「クリスのじゃなかったのか」
「同じ機種なんですよ」
確認のため、自分のジャケットの内ポケットを探ってみると、全く同じ姿のスマートフォンが出てきた。
どうやら、エリュゼはテーブルの上に自分で出したことを忘れて、クリスティアンのものだと思って持って行かなかったようだ。
この間とは違うパターンだが、一度取り違えるという出来事を経験しておきながら、二人ともまったくスマートフォンに細工をしていないあたり、学んでいない
……。
「ディルク
……」
「俺は宅配便じゃない」
ほんの二分ほど前に言ったのとまったく同じ台詞を吐き、ディルクはスモークチーズを口に放り込む。エリュゼに渡してくれる気はないようだった。
「いいじゃないか、明日は土曜日だし」
「定期演奏会の練習に出ようと思っていたんですが」
「遅刻でも早退でもいい。事情が事情だからな。クリスがスマホを預かってることはパソコンのメールにでも連絡しておくよ。エリュゼなら今夜のうちに気がつくさ。まめだからな」
そこまでしてくれるならディルクが預かってくれればいいのに。
そうは思うものの、自分の意見にディルクの決定事項を覆す力がないことを知っているクリスティアンは、諦めてチーズを摘んだ。
しっかりしていそうなのに、意外とおっちょこちょいな人だな
――
並んだ同じ姿のスマートフォンを見下ろしながら、今日お返しを突き出してきた時や、それをクリスティアンが受け取ったのエリュゼの顔を思い出す。怒っていると思ったら満足して、食事に誘ったらすごく怪訝そうな顔をして。
オフィスにいる女性たちは、皆表情を作るのが上手なので何を考えているか分からないところがあるから
――単に自分があまり興味を持っていないだけかもしれないけれど
――ああも分かりやすい表情の移り変わりを見るのは久しぶりで、いっそ気持ちが良かった。
多分、今度会った時もすごい顔をしていそう。
笑ったりしたら彼女は気分を悪くしそうだったが、それでも、クリスティアンは口の端を緩めずにはいられなかった。
「どうして笑うんだ?」
「いえ、別に」
理由を言ったら調子に乗ったディルクがまた何か罠を仕掛けてきそうだったので、クリスティアンはつんと顔を背けながら二つのスマートフォンをしまった。
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