誰かからひたすら体調を案じられていたことは、辛うじて記憶に残っている。
その前はなんだかとても気持ちが悪くて、とりあえず吐きたかった。
……だんだん思い出してきたぞ。
周りにいるのは半分以上が名前を知らない人間ばかりだったので、粗相をするわけにはいかないと自力で這いずるようにお手洗いへ行った。
そして、すっきりできたので気が弛み、そのまま宴席へ戻れず廊下でへたり込んでしまった。ところまでは思い出せた。
が、しかし。
ここはどこでしょう。
エリュゼは被せられていた布団を抱きしめ、絶望的な気分で見知らぬ部屋の中を見渡した。
どこでしょう
……。(二回目)
見て分かる限り、アパートの一室だった。こぎれいな八畳の洋室、机と椅子とパソコンと小さいながら本棚がある。
隣はキッチンだろうか。さらさらと水道水の流れる音がした。
最悪だ。誰かいるらしい。
もう一度部屋の様子を見回した感じ、多分、男の部屋だ。ということはこのベッドに布団はこの部屋の主である男のものだ。
そう考えついた途端一気に嫌悪感がこみ上げてきて、エリュゼは半ば落ちるようにベッドから降りた。
どたどたとやかましい物音がキッチンに立つ人間に聞こえないはずがない。水の流れる音が止まり、ややすると部屋のドアが開いた。
顔を覗かせたのはやはり男だった。それも若い、きれいな男だ。
「大丈夫ですか?」
彼は目を瞠り、ベッドから落ちたていのエリュゼに手を差し伸べてくる。しかしエリュゼが彼に返せたのは情けない悲鳴だった。
こ、これはもしや、〝お持ち帰り〟されたというやつだろうか!? エリュゼは涙を浮かべて自分の身体を抱きしめる。
着衣の乱れは
……一応ない。髪はボサボサで頑張った慣れない化粧もすっかり崩れている感じではあるが、身体のどこかが痛いとかオカシイとか、そういうことはなかった。
しかし現在進行形で見知らぬ男と二人きりだ。そう、見知らぬ
……こともない。よく見たら。
「あ、あの、ここは
……」
「私の部屋です。すみません
……送って差し上げればよかったのに、とても家の場所を聞き出せる状態ではなかったので仕方なく
……」
苦笑する青年は、確か昨日の宴席にいたオケ部のOB
……な気がする。名前は思い出せないがディルクに紹介された記憶がよみがえってきた。
「
――っいえ、こちらこそすみません! ご厄介になりまして
……!」
首から上に火が噴き出すような羞恥がこみ上げてきて、かあっと熱くなる頬を隠すためエリュゼは勢いよく頭を下げた。
相手が昨日一緒に酒を飲んだ一人だということは思い出せたが、どうして彼に身柄を引き取られていたのかはまったく思い出せない。それに、ディルクから紹介されたものの、それからこの青年とは口をきいていない気がする。
なのに何故、彼の部屋に? やはりこれはお持ち帰りの下心があるからなのでは
……そう思うと羞恥がじわじわと不安に変わってくるというもの。自意識過剰かも知れないが。
「元気になられたようでよかったです。駅まで送りますので。その前に何か飲みますか? コーヒーくらいなら淹れられますが。あ、ミネラルウォーターもあります」
飲んだらやばそうなやつ
……! いや、そんなドラマ展開はなかなかないだろうか。
しかしエリュゼはとても頷く気になれず、(もし彼に善意しかなかったのなら失礼極まりないことを承知の上で)すぐさま退散することに決めた。
視界の端にあったバッグを引き寄せ撤退準備にかかる。が、しかし、勢い余ってバッグの中身をぶちまけ、それに慌てて傍にあったローテーブルにもぶつかった。
テーブルの上からリモコンやスマートフォンやこの部屋のものと思しき鍵が落ちてきて大混乱だ。
その時、鍵につけられたキーホルダーのモチーフがヴァイオリンであることが唐突に目に入ってきた。やっぱり、オケ部のOBで間違いなさそう。
今はそんなことはどうでもいい! と自分を叱りながら、エリュゼは急いで散らばった中身をバッグに詰め直した。
「大丈夫ですか
……? ぶつけたところ
……」
「え、ええ! すみません、バタバタとやかましくて。泊めていただいてありがとうございました! それでは
……!」
「え? あの
……」
裏返った声でまくし立てると、エリュゼは警戒心もあらわに青年の横をすり抜け、履き慣れないヒールに足を突っ込んで玄関を飛び出した。
恩人なら本当に失礼だ。けれども彼が純粋な恩人であるかは分からない。昨今、いろんな不審者や犯罪者がいるのだから、自分の身を守るのが最優先だ。
とはいえ泊めてもらったのは事実。多分、介抱してくれたのも事実。その分は、あとからディルクに相談して彼の名前を聞き、ついでにお礼を伝えてもらうことにしよう。
清潔で新しいオートロックのアパートを出ても、エリュゼはなお早足で逃げるように歩き続けた。
そしてふと、ここがどこだか分からないことに気づいた。
どうやって彼の部屋まで連れて行かれたのだろう。完全に記憶がないので背筋がぞっとする。
とりあえず駅へ向かわねば
……そう思いつつ、震える手でバッグの中を探りスマートフォンを取り出す。
地図アプリを開きたかったのだが
――おかしい、ロックが解除できない。
妹と自分の誕生日を掛け合わせた暗証番号を入力してみるが、弾かれる。三度挑戦して、エリュゼははっとなった。
「まさか
……」
テーブルから落ちてきたスマートフォン。気が動転していてよく見ていなかったが、そういえばエリュゼの端末と同じダークグリーンだったかも知れない。
慌てて端末を手の中で転がしてみると、画面やボディについた細かな傷がいつもと違う気がする。
鞄の中を探ってももう一つスマートフォンが出てくることはなくて、つまり、あの部屋に置いてきたのがエリュゼの端末だったということだ。
(どうしよう
……)
戻らなくてはいけないのか。
そう思うと、目が覚めた時と同じくらい絶望的な気持ちになった。
クリスティアンは、起床して五分もしないうちに部屋から消えた娘の幻影を玄関の扉に重ねて見ていた。
あまりの勢いにこっちがびっくりした
……。
元気になったようでよかったが、しかしああもあからさまに怯えられるとさすがに切ないものがある。
まあ、仕方あるまい。目が覚めたら知らない男の家にいるのだから、混乱されるのも怯えられるのも当たり前だ。
そもそもこういう事態を引き起こしたのはディルクだ。今回ばかりは、さすがのクリスティアンも腹が立った。
昨晩は母校の管弦楽部が集まる春の定期演奏会の打ち上げだった。今回の演奏会にクリスティアンは参加しなかったが、懐かしい面々に会いたくてディルクに招待されるまま打ち上げに顔を出した。
ところがどうだ、集まっていたのは管弦楽部のメンバーだけではなく、ディルクが所属する政治経済学部のOBや後輩達も多数。
あまり気にせず色々な人と話をしていた時、ディルクに引っ張られてやってきたのが彼女
――エリュゼだった。
こういうはちゃめちゃな席はいかにも苦手そうな堅い雰囲気の女性だった。が、いくらか酔ってほんのり赤くなっていた。〝いくらか〟ではなく、あの時点でけっこう飲んでいたのだと今にして思う。
お互いにディルクの先輩、後輩ということで、どんな勉強をされているんですかとか、楽器は何を? とか、当たり障りのない会話をしてすぐに別れ
――その後再会したエリュゼは、店の廊下でうずくまっていた。
奇しくも二次会会場にみんなで移動しようとしている時で、クリスティアンはこれで帰るつもりだったのだが、エリュゼが潰れているとディルクに相談したところ。
「そうか、じゃあ送っていってやってくれ」
信じられない投げやり発言にクリスティアンは目を瞠った。
「何言ってるんです、彼女のおうちなんて知りませんよ」
「俺も知らない。○○町のあたりだって言ってた気はする」
「だったら私と真反対じゃないですか」
「でも電車の路線は同じだな」
行きやすい行きやすい、と言い残して踵を返そうとしたディルクの腕を掴むと、何故か逆にクリスティアンが怒られた。
「酔い潰れた女を放っておくつもりなのか?」
「その台詞はそっくりお返しします。あなたの後輩でしょう、面倒を見てあげなくては」
「俺は二次会に行く」
そう言って傲然と胸を張りわがままを押し通すディルクの顔は、五歳の頃から一つも変わっていない。しかもこれはかなり酔ってる。
しかし呆れるクリスティアンを置いて彼は潰れたエリュゼに歩み寄った。おお、連れて行ってくれるつもりなのかと思ったら、ディルクは優しくエリュゼの肩を叩きながら何ごとかを囁いている。
それに対してエリュゼもうんうんと頷いているので安堵したのも束の間
――。
「クリスが送ってくれると言っておいた」
「どうしてそうなるんです!」
「住所を教えるそうだ。あとは頼む」
ディルクはしんみりとそう告げて、仲間達と一緒に旅立っていった。完。
住所を教えると言ったはずのエリュゼはもうぜんぜん呂律が回っていなくて何を言っているのか解らず、○○町という情報だけでは当然送ってやることは出来ない。
かなり、かなり悩んだが、ほかに行き場もなかったので、クリスティアンはタクシーを呼んでエリュゼを連れて帰った。(駅まで歩かせるのも厳しかったのだ。)
もちろん自分は酔い潰れた女性に手を出すなどという卑劣な真似はしないし、ディルクもそう思ってクリスティアンにエリュゼを押しつけたのだろうが、それにしたって、それにしたって! と思う。
しかも逃げるように飛び出して行かれたのでは
――エリュゼの気持ちは分かるとは言っても、やっぱり切なかった。
具合が悪そうだったので心配したし、水も飲ませてあげたしベッドも貸してあげた。彼女がいつ目覚めても状況を説明できるように、クリスティアンは結局徹夜だ。
すごく損をしたのは間違いない。
……もういい、恨み言はディルクに言おう。
そう思い、クリスティアンはのそりと立ち上がってキッチンへ向かった。
コーヒーを飲んでから一眠りしよう。そうすればちょうどよい時間で目が覚めるだろう。
ケトルに水を入れ湯が沸くのを待っていると、突然聞いたことのない電子音のメロディが流れ出した。
驚いて音源を探すと、テーブルの上でスマートフォンがチカチカ光っているのを見つけた。画面にはアラームの表示。
こんな時間に設定した覚えはないぞと思いながらメロディを止めると、ほどなくして画面は真っ暗になった。
そして事態を確かめようとしたクリスティアンが暗証番号を打ち込んでも、弾かれる。
おかしい、弟と自分の誕生日を合わせた数字だから間違えるはずがない
……。なのにもう一度ゆっくり入力してみてもだめだった。
怪訝に思いながらスマートフォンを見つめていたクリスティアンは、自分の端末になかった画面の傷を見つけて、気がついた。
もしかして、さっきエリュゼが鞄をひっくり返した時にすり替わったのでは。
よく見ていなかったが、同じ機種だったのかも知れない。
これは困った。交換しなければ。
ついでに昨日起こったことを改めて説明できれば
……。
クリスティアンはケトルをかけていたヒーターのスイッチを切り、上着を羽織って部屋を出た。
エリュゼはたった今飛び出してきたアパートに戻り、情けない顔をしてその前を右往左往していた。
三階の部屋だったことは覚えているが、部屋番号にはちょっと自信がない。「308」だったような「305」だったような。部屋数からいうと「8」も「5」もだいたいフロアの真ん中くらいなので、思い出そうとしても「エレベーターまでちょっと走った」ことしか記憶にない。
これではインターホンも押せないし、押して相手が出てくれたところでいったいなんと言えばいいのだ。「スマホを取り違えました」だけではすむまい。相当恩知らずなことをしてきた自覚はあるので相手は怒っているだろうし。
怖いし情けない
……自分のスマートフォンではないから助けも呼べない。使いこなせている自信はなかったけれど、「便利なんだなぁ、これ」と認めざるを得ない。
はぁ
……とエリュゼが溜め息をついた時、オートロックのガラス戸の向こうでエレベーターの扉が開いた。現れたのは先ほどの部屋の主だ。
びっくりして隠れる暇もない。(いや隠れてはだめだが)
そしてばっちり相手に見つかり、エリュゼはそのまま硬直してしまった。
「ああ、よかった。もしかしてスマホを間違えて持って行かれたんじゃないかと思って」
出てくるなり、彼は右手に持ったスマートフォンを差し出してくる。エリュゼも同じものを持っていたので、お互い取り違えたことに気づいたのはすぐに分かった。
「は、は、はい、あの、重ね重ねすみません
……」
「いいえ。やっぱり同じ機種だ。アクセサリーをつけていないと間違えるものなんですね。カバーくらい探そうかな」
スマートフォンを交換すると、後半は厭味か独り言か分からないことを呟き、あの部屋の主はそれをズボンのポケットにしまった。しかしどうやら、エリュゼが思っていたほど怒ってはいないようである。というかまったく怒っていない。
いつもよりかかとの高い靴を履いているエリュゼでも結構見上げなくてはいけないほど、彼はすらりと背が高かった。なので多少の威圧感を感じるのは否めないが、カーテンを開けず、電灯も点けていない薄暗い部屋の中で見た時より、青年の印象はずっと優しげでやわらかかった。
「駅まで送ります。それと一応、何故うちに運ん
……連れてくることになったのか説明させていただけるとありがたいのですが
……」
ああ、運ばれたんだ、わたしは。
正体をなくして、このそそろかな青年に抱えられている自分を想像すると再び顔が熱くなってきた。
しかし不安でばくばく鳴っていた心臓が徐々に落ち着きを取り戻している。
どうやら本当にお世話になりっぱなしだったようなのに勝手に疑って怯えて、ろくな礼もせず飛び出してきたことへの申し訳なさが急成長し始めたが
……。
「すみません、よろしくお願いします
……」
今は謝って、さらに世話になるしかない。
カフェのある駅だったら、せめてお茶の一杯と軽食くらいはご馳走させてもらおう
……。
そう思いながら、エリュゼはとぼとぼと青年のあとについていくことにした。
ああそれと、名前も聞かなくてはいけない。
ディルクからこの青年を紹介された時「きれいな顔だなぁ」と見とれてしまっていて、あんまり話を聞いていなかったことも思い出したからだ。
でもそれも、お酒のせいにしておこうと思うエリュゼだった。
(ここからどうやってつき合うことになったんだろう
…笑)
読んだよ👏
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