暁子
2017-06-04 15:39:02
10697文字
Public クリエリュ現パロ
 

ゴールデンウィークのクリエリュⅡ

翌日。

 浅い夢の縁を漂っていたエリュゼは、自分でも気づかぬうちに目を覚ましていた。
 蛍光灯の無機質な光が寝起きの目に刺さる。
 思わず瞼を閉じ直して被っていた毛布に顔を埋めれば、慣れ親しんだ他人の匂いがした。
 はっと我に返り首をもたげる。
 目に入ったのは大きなパソコンのモニター、書類棚で整理された机の上。いつもいい匂いがする部屋だなと思ったら、アロマディフューザーが置いてあることに初めて気がついた。
 モノクロのシックなデザインのカーテンはすでに壁際にまとめられ、ベランダに繋がるガラス戸からは鈍色の空が見える。予報通り、雨が降っていた。
 クリスティアンの部屋だ。
 現状確認を終えると、再び瞼がとろりと重くなった。
 何も考えず、恋人の香りがする寝具にくるまれてエリュゼは再び目を閉じる。
 まだ、眠たい。
 彼女が再びうとうとしだしたその時、そっとドアが開いた。
 エリュゼが寝ていることを気遣っているらしい。自分の部屋だというのに遠慮がちに歩くクリスティアンはまっすぐベランダへ向かい、静かにガラス戸を開けた。
 首を動かしてその様子を見てみると、彼は何やら難しい顔で空を見、考えている。
 そして不意に振り返り、エリュゼが目から上だけを覗かせて彼を観察していたのを見つけた。
「おはようございます」
……おはようございます」
「予報通りですね。洗濯物をどうしようかと思って。梅雨が来る前に除湿機も買ったほうがいいかな」
……そうですね」
 エリュゼは毛布の中でもそもそと動くばかりで、いつもの爽やかな笑みで話しかけてくるクリスティアンには生返事しか返さなかった。それどころではなかったのだ。
「起きられますか?」
 すると何か勘違いしたらしい彼がおもむろにベッドの傍にしゃがみ込み、枕と毛布に顔を埋めたエリュゼの顔を覗き込んでくる。
「お、起きます」
 心配される心当たりはあったものの、今エリュゼが直面した問題はそれではなかった。なので、起き上がるのをそこで待っていられては困る。
 しかしクリスティアンは察してくれない、ので、恥を忍んで訊いてみることにした。
「あの、わたしの着ていたものは」
 こちらは顔から火が出るほど恥ずかしいというのに、尋ねられたクリスティアンは「ああ」と涼しい顔をしてエリュゼの向こう側を指さした。
 毛布の中でまたもぞもぞと動き、身体の向きを変えて枕の反対側を確かめてみる。そこには、昨晩エリュゼが着ていた部屋着がきちんとたたんで置かれていた。下着は間に挟んで隠してあるというお気遣い付きだ。
 何だろう、これは、これは猛烈に恥ずかしい……
 エリュゼはさっと衣服を毛布の中に引きずり込んだ。
「朝食の用意はだいたい出来ていますけど、シャワーは浴びますか」
「浴びます」
「じゃあ、出てきた頃に仕上がるようにしておきます。あ、ラディッシュを貰いましたからね」
 背を向けられたままでも機嫌よくそう言って、クリスティアンはようやく立ち去ってくれる。
 ぱたりとドアが閉まる音がしても、エリュゼは毛布の中から出られなかった。
 寝転がったままでは非常に不自由だが、とても外に出て自分の姿を確認することは出来ない。毛布の中でもぞもぞと身体をよじりながら服を身に着ける。
 今更クリスティアンに隠すところなどないのは分かっていても、〝昨夜〟のまま無防備に眠ってしまって、しかも相手はさっさと身繕い(どころか朝食の準備まで)済ませていて、エリュゼだけがそのままの格好で……なんて、恥ずかしいとしか言いようがない!!
 ちょっとの怒りを抱きつつキッチン兼居間へ出ると、冷蔵庫からバターを出していたクリスティアンが振り返ってにっこりと笑いかけてきた。
 その笑顔をまともに受け止めるのがやはり恥ずかしくて、エリュゼはぷいと顔を背けそそくさとバスルームに向かった。
 クリスティアンも起き抜けにシャワーを浴びたのだろう。お湯を使ったぬくもりと湿度が残っていて何故だかそわそわする。
 それを打ち消すように熱めのシャワーを出し、お湯に身体をさらすとようやく気持ちが落ち着いてきた。
 なんというか、昨日はここ最近で一番……がんばった気がする。
 やたらたくさんキスされた。唇がまだじんじんしている。鏡の曇りをぬぐって確かめてみると、はっぱり赤くて腫れぼったいような……
 それから、鏡越しにお湯が滑り落ちていく自分の身体もちらりと見てみれば、上から下まであちこちに赤い痣が出来ていた。場所は恥ずかしくてとうてい口に出来ない。
 が、少なくともいつもはこんなものをつけられない。そして、どれも服を着てしまえば見えないところばかり。
 そういう理性と計算の上でつけられた痕なのだと思うと、やっぱり恥ずかしくて死にそうだった。こっちは痕をつけられていることなど知りもしないほど……
 あああだめだ! 思い出してはいけない。見てもいけない。
 エリュゼは鏡に背を向けてもうひとしきりお湯を浴び顔を洗うと、平静を取り戻すよう自分に言い聞かせて、バスルームを出る。
 すると、途端にバターのよい匂いが漂ってきた。何を作ってくれているのだろう。
 そういえば、連休中の家事はエリュゼがやると宣言していたのに、気づけばクリスティアンがキッチンに立っている。
 二人で暮らしているとはいえ、この部屋の家賃の大部分を払っているのはクリスティアンだった。彼は専門技術を持った職業人で、かたや自分は学生だから金銭的に対等になれないのは当たり前だ。
 それは仕方なく受け入れたが、その代わり、できるだけ家事は負担したかった。
 しかしすきあらばこうなのだから恨めしい……
 居間へ戻ると、彼はちょうどベランダのプランター菜園からミントをちぎって持ってきたところだった。
 プランター菜園はここに引っ越してきた時に始めたもので、ミントのほかにはシソとバジル、ラディッシュが植えてある。
 エリュゼの発案で作った菜園で、小さな葉っぱ達を可愛がっているのもエリュゼだったが、料理に使うのはもっぱらクリスティアンだ。エリュゼはラディッシュを輪切りにしてサラダに載せたことくらいしかない。
 一方クリスティアンはごく普通にプランターのハーブをいかした料理を作れるし、戸棚にはほかのスパイス類や色のついた岩塩なんかも常備していて、やたらとおしゃれなものを作ってくれたりする。
 その辺に売っているレシピ本の通りにしか料理できないエリュゼとは大違いだ。ああ、レシピ本の通りにすら出来ないことがあるのだった。
 昨日のグラタンのことが思い出されてちょっと悲しくなった。が、あれは温度設定がすべての原因だ。今度は数字を読み間違えなければいいのだ。
 ひとまずクリスティアンも美味しいと言ってくれたことだし、無駄に落ち込むのはよしておこう。
 エリュゼの決意をつゆ知らず、じゅーじゅーと美味しそうな音を立てていたフライパンから朝食になるものを皿に盛り付けたクリスティアンが振り返る。
「お茶を淹れてもらえますか」
「あ、はい」
 エリュゼはいそいそと戸棚からポットと茶葉を取り出しながら、横目にクリスティアンの手許を見た。
 白いお皿に並んでいたのは実に綺麗なきつね色のフレンチトーストだった。卵液の焦げ目がほどよい。昨日の夕食に出したバタールの残りを使ってあった。
「これも入れてください」
 クリスティアンは今しがた摘んできたミントの房を手渡してきた。それも結構たくさん。
「紅茶に入れたらどうかなと思って」
「いいですね。じゃあ、茶葉はディンブラの方がいいかも……
 茶葉を取り替え、ティースプーンで缶の中からすくい出していると、隣でそっと静かに笑う気配がした。
 何かおかしかったかしら、と怪訝に思いながらクリスティアンを見上げると、彼はますます目を細めて笑った。
「綺麗な手つきだなと思って」
「な、……普通ですよ」
 ふふ、とまた笑う声が聞こえてきただけで、クリスティアンは次の作業に取りかかった。
 昨日グラタンのソースを作るのに使いさした生クリームを出してきて泡だて始める。フレンチトーストに添えるのだろう。
 あっという間にゆるいホイップクリームが出来たので、男の人の膂力はいいなあと思った。
 一方、ちぎったミントとお湯を入れてポットに蓋をする自分の手を見てみる。
 綺麗って言われても、やっぱり普通だ。
 それでも照れ臭いのをごまかすように手の甲をさすり、エリュゼは二人ぶんのマグカップにもお湯を注いだ。
 そして数分後には二人で食卓に落ち着いたのだが。
 クリスティアンが作ってくれたフレンチトーストは見た目の通りぬかりなく美味しかった。
 メープルシロップをかける分、卵液とホイップクリームの甘さは控えめ。バターの塩気も効いていて、先にボイルされていたウインナーとポーチドエッグを一緒に食べても合う。
 サラダは昨日のサニーレタスとスライスした玉ねぎの残りが中心だが、プランターのラディッシュ(あとから見たら二つ引っこ抜かれていた)を荒く刻んで入れ、もちろん湯がいて柔らかくした葉っぱもレタスに混ぜてある。
 それをオリーブオイルとレモンの絞り汁、クリスティアンこだわりの岩塩と粗挽き胡椒で和えただけの、爽やかでシンプルかつ見た目も非常に綺麗な一皿に仕立ててあった。
 その上朝食としてのエネルギー量も栄養バランスもバッチリそう……
 テーブルの上に全てが並んだ時はさすがに敗北感を感じた。
 が、とても美味しかったし優しく空腹を満たしてくれるメニューと量だったので、お皿が空になった時、エリュゼはすっかり和やかな気分になっていた。
 自分で淹れたミントの紅茶も美味しい。
 そして、クリスティアンが実に美味そうに紅茶を飲んでくれているせいもある。満足げに微笑みながらカップの中身を揺らしている様子は優雅で絵になっていた。
 しかし不思議でもあった。
「コーヒーの方が好きなのだと思っていました」
疑問を込めてエリュゼがそう口にすると、カップを置いたクリスティアンは首を傾げだ。
「外ではいつもコーヒーを注文しているし、自分でも時々淹れているじゃないですか、ワンドリップの」
「ああ、紅茶の美味しいお店がなかなかないからですよ。コーヒーはまだ飲めますけど、紅茶の美味しくないのはどうもね……自分でも淹れられないから、必然、コーヒーを飲んでいるだけです」
 ふーん、と相槌を打ちつつも、エリュゼはまた次の疑問を抱いた。
 あれ?それはつまり、
「やっぱり、あなたに淹れてもらったのでないと。あ、コーヒーもね、自分で淹れるよりあなたが淹れてくれた方が美味しいんです」
……
 残りの紅茶を惜しむようにカップを見下ろしながら、クリスティアンはそう言う。
 途端に頰が熱くなるのを感じた。こちらを見られていなくてよかったと思う。
 彼はいつもさらりとそういうことを言うのだ。そしてエリュゼに向けてくれる賞賛と好意がこもった言葉には嘘も誇張もない。
 そういう素直さを羨ましいとほんのり感じつつ、エリュゼは顔を隠すようにマグカップのふちに口をつけた。
「どちらの方が好きなんですか?」
「紅茶とコーヒーだったら?」
……ええ。クリスの好きな方をたくさん淹れてあげます」
 自分にはこれが精一杯だった。さらに頬が熱くなるのを隠すため、エリュゼももうたいして残っていない紅茶の残りをすする。少し渋くなっていたものの、ミントの香りが渋みを慰めるように鼻から抜けていくのが爽やかだった。
「じゃあ、紅茶で」
 ハーブの爽やかさにも負けないほど屈託のない笑みを浮かべ、クリスティアンが答える。そうも嬉しそうにされたら、一向に顔のほてりが収まらないではないか。
「分かりました」
 エリュゼはもはや顔を隠すのを諦め、空になったマグカップを置いた。しかしどうしてもクリスティアンを直視することは出来ず、わけもなく寂しくなった食卓の上に視線をさまよわせた。
 そんな様子すら笑みを浮かべながら観察されているのが分かる。
 そしてエリュゼがいたたまれなくて我慢できなくなる前に、クリスティアンは頬杖をつきながら言った。
「さっそく、もう一杯いただけますか。食後に口がさっぱりするようなのを」
 自分で淹れられないとは言っても、茶葉の違いは分かるようだ。ミントを摘んできたりテイストをリクエストしてくるのだから。ということは、美味しくない紅茶は飲めないっていうのも本当みたい。
 とりあえず、自分の淹れるお茶はそんなクリスティアンを満足させられるのだ。
 小さなことだが、なんでも自分で出来てしまう彼に、してあげられることがあるのは嬉しいことだった。

     * * *

 クリスティアンは完璧な恋人だった。
 彼は四つも年上で、既に社会に出て働く身。それも専門的な知識と技術を駆使するある種の職人で、彼の仕事にかかる責任は属する企業にとっても顧客にとっても重い。
 かといってそれを苦にする様子もなく淡々と職務をこなし、日々進化するITの世界への向学心にも富んでいる。
 年下の幼馴染みと弟の世話をしてきたので面倒見もよい。しかし自分の気持ちを殺しているわけではなく、人の言葉に耳を傾けつつよいタイミングで己の意見も述べる。
 人をよく観察していて長所を見つけるのが上手いし、求めればかえってくるアドバイスはシビアなこともあったが的確だった。
 そして人当たりがよい上に美形だ。心地よく納得のいく会話をしたあとにあのやわらかい眼差しで微笑まれたら、たとえ何かを押しつけられていたとしてもたいていの者はクリスティアンを憎めない。
 そういう器用さは仕事や人間関係だけでなく普段の生活にも如実に表れていた。
 ざっくばらんに作ってくれる料理はいつも美味しいし、整理整頓に迷わないから彼の身の周りはいつもスッキリしている。その状態をキープすることを面倒くさがらないから清潔でもある。
 素でやっているのか計算の上でなのか分からないが、これだけ完璧にしても周囲にはいやみたらしく見えていないようなのがすごい……なので、彼の完璧さに嫉妬してしまう自分は心が狭いのかと思ったりもした。
 でも、嫉妬してイライラして、受け止められて、冷静に戻る度に、何か一つずつ分かることや出来ることが増えていっていると気がついてしまえば、なかなかどうして、離れられなくなってしまうものらしい。
 そして、どういうわけかこの完璧な美男子に気に入られ、お付き合いすることになって、いつの間にか一緒に暮らすことになった。
 付き合い始めたきっかけや一緒に暮らし始めた理由は!?と学友達から散々訊かれたが、出会いは覚えているものの(ディルクに無理矢理連れて行かれた飲み会にいた)、付き合い始めたのも同棲を始めたのも「成り行きで」としか答えようがない。
 どちらも言い出したのがクリスティアンだったことも覚えているが……それもどうでもいいくらい、今の暮らしはエリュゼにすっかり馴染んでいた。
 クリスティアンは相変わらず完璧で、隙などほとんど見当たらない。だからやっぱり嫉妬してしまうこともあるが、そんな彼から大事にされているのも分かるから、これからも当分、きっとうんと先まで、一緒にいるような気がする。
「あの、映画、見ないんですか」
「見ますよ」
「見ますよって……
 この体勢で?と続くエリュゼの声はかすかに上擦っている。というか、昨日もこんな会話をした。
「私のことは座椅子だと思ってください」
 なんだそれ、と思いながら、エリュゼは身体を強張らせたままパソコンを操作するリモコンのボタンをポチポチと押していた。
 昨日、途中まで見ていたシーンはどこだったかしらということより、肩と胴にしっかりと回された腕や背中に感じるクリスティアンの体温が気になって仕方なかった。
 朝食の後片付けを終えてひと息ついたのち、二人は昨晩途中で見るのをやめたDVDの続きを観賞することにした。
 ただでさえ見るのをやめたいきさつを思い出しなんとなく気恥ずかしいというのに、会場は同じな上、クリスティアンとの距離は昨日よりさらに近かった。
 DVDを再生する準備を終えて待っていたクリスティアンは、エリュゼが部屋へやってくるなりにこにこしながら彼女を捕まえた。
 映画を見るのでは!? と動揺したのも束の間、彼はエリュゼを自分の脚の間に座らせて、背後からしっかりと抱きかかえただけだった。
 「だけ」といえば「だけ」だが……これだけ密着されていると落ち着かない。
 耳の上をかすめていく温かい呼気にどぎまぎしながら、記憶に触れるシーンを見つけたエリュゼはそっとリモコンを置いた。
「お、重たくないんですか」
「いいえ。そもそもぜんぜん寄りかかっていないでしょう」
「寄りかかると重いかと思って……
「大丈夫です」
 ぐいーっと抱き寄せられてしまえば、上半身を完全にクリスティアンに預けるしかなくなった。なんと贅沢な座椅子……
 映画の台詞と音楽が流れ出すと、一応、彼もモニターを見ているようだった。視界の隅にクリスティアンの鼻先が見える。
 一緒に暮らし始めて一番意外だったのは〝これ〟かも知れない。
 自分達は、同じ世代の恋人同士に比べれば〝イチャイチャ〟していない方だと思う。
 同居しているとはいっても、生活リズムがずれることも少なくないお互いのためにそれぞれの部屋を確保した間取りで生活しているから、普段は別々に就寝する。
 朝ご飯は一緒に食べるが、エリュゼのアルバイトは夕方から夜にかけて時間をとられることが多いので、夜は顔を合わせても一緒にご飯を食べられないことがある。おやすみを言うだけの日もある。
 休日の過ごし方も結構まちまちだ……エリュゼが家で勉強していて、クリスティアンは母校のオケ部にOB参加でヴァイオリンを弾きに行っていたり。
 二人で家にいたり出かけたりしたとしても、ぺったりくっついて手を繋ぎっぱなしで隙あらばキスしたりとか、そういうことはしない。
 しかし、時々その距離感のスイッチが切り替わることがあった――お互いに。
 無性にクリスティアンにくっつきたい日があることや、クリスティアンにもそういう日があると分かったのは、間違いなく一緒に暮らし始めたこの三月の間のことだ。
 クリスティアンは昨日からそういう気分らしい。
 ほどよい重みで身体を戒める彼の腕をそろそろとさすりながら、エリュゼは目一杯眼球を動かしてクリスティアンの表情を確かめようとした。しかし鼻の先以外は完璧に視界の外だ。
 諦めて映画に視線を戻すと、不意に彼が頬をすり寄せてきた。いや、エリュゼの肩に顎を乗っけて落ち着いただけか。
 そしてそれ以上どこを触ってくるでもなく、ちゃんと映画を見ている。
 ――触ってくるのは、昨日の夜で満足したのだろう。
 腕の力に、部屋の匂いに、色々と思い出してしまったのを咳払いで誤魔化すと、肩に乗っていたクリスティアンの整ったかんばせが気遣わしげにこちらを覗き込んでくる。
「もしかして寒いですか? 雨で気温も上がらないみたいだし」
「いえ、そういうわけじゃ……
「寒暖差は風邪のもとですからね」
 エリュゼが否定し終わらないうちにクリスティアンはたたんであった毛布を引き寄せ、エリュゼごとそれにくるまる。途端に二人分の体温が毛布の中に閉じ込められ、そうして初めて昨日に比べ今日は肌寒いのだと気づかされた。
……
 毛布の中に満ちた温かさはちょっと危険なくらい心地よかった。そして肩に戻ってくるほどよい重み、くつろいで満足げなクリスティアンの気配。
 さっきまでエリュゼの身体を抱き寄せていた腕は解かれて、今は彼女の指の間にクリスティアンの長い指が入り込んできている。
 すっかり弛緩したエリュゼの身体を捕まえておく必要は、もはやないと気づいたのだろう。
「やめませんか、この体勢……
「どうしてです?」
……
 今日はクリスティアンがくっついていたい気分なら仕方ないと諦めて身体を預けてしまえば、単純な気持ちよさだけが残ってしまった。
 昨日はそれなりに忙しかった。午前中はひたすら掃除をして午後からは大学の課題をやって、ほどほどの時間に買い物に出かけて、それからずっと食材と格闘していた。加えて、ちょっと寝不足である。
 なんとなく悔しくて言わなかったが、眠ってしまいそうだ。
 エリュゼからの返答がないことも気にせず、クリスティアンはふと笑って恋人の身体を抱え直した。そしてよりぴったりと引き寄せたエリュゼの頭をぽんぽんと撫でてから、また毛布の中で指を絡めてくる。
 どうやら見透かされているらしい……それが分かるとなんだか負けてはいけない気がしてくる。でも……
 きっと、恐らく、これはエリュゼの想像でしかないが、クリスティアンの心の奥深くには、こんなふうにエリュゼをただ抱えて甘やかしていたいという気持ちがある気がする。
 幼馴染みや弟をよく庇護していた兄としての気質がクリスティアンの根っこを作っているのだと思う。
 それでも彼は年下のエリュゼを対等な恋人として認めてくれていた。一部、どうしようもないところはあるけれど、エリュゼという個人が子ども扱いされたことは一度もないのだ。
 エリュゼが意地を張っても無理を言っても、クリスティアンは一度は協議のテーブルについてくれた。そしてエリュゼが意地を張って無茶を言っていることを解らせてくれた。
 その上で妥協案や次善策を提案してくる親切さは、悔しいが四年分の社会経験の差だ。そしてそうまでされるとエリュゼは折れることが出来るくらいには大人……ということもよく分かった上での対応だった。
 だけど本当は、何もかもを面倒見てあげたいと思っている。それがクリスティアンの愛情だ。
 気を置かず甘えてくれるディルクのことがクリスティアンは大好きだし、一方、弟に冷たくあしらわれてしゅんとしていることもあるのはその例だろう。
 しかし、他人であるエリュゼを個人と認め、二人の間のどこにどんな線を引けばいいか、一緒に考えてくれるのもクリスティアンの愛情だった。
 エリュゼはそれがとっても心地よかった。
 自分で出来ることは自分でしたいし、出来ないことは出来るようになりたい、して貰うことがあるならほかの形で返したい。
 クリスティアンはそんなエリュゼの気持ちを受け入れてくれる。
 年下だからとか、女の子だからという解釈を加えずに、エリュゼのことををまるごと考えてくれているのを愛情と言わずになんと言おう。
 ただ、それだけ対等に接してくれるクリスティアンにだからこそ、もう少し素直に甘える術は覚えた方がいい気がした。
 永遠に離れることがないのではと思えてしまうほど強く愛される夜があったり、エリュゼを寝かせておいて嬉しそうに朝食を作ってくれることがあるのは、クリスティアンが〝そうしたい〟からだ。
 そう思われるのは嬉しいことだし、自分もクリスティアンの気持ちを受け入れてあげたい――
「朝ご飯……美味しかったです。ありがとう」
 エリュゼはモニターを見つめながらも、右肩に乗っていたクリスティアンの横顔に頭をすり寄せて言った。
 わたしがやるって言ってたのにキッチンに立ちやがってこのやろう、と思ってしまっていたことは秘密にしておくが、ぬかりなく完璧に美味しかったフレンチトーストのお礼は伝えておくことにした。
 するとクリスティアンもエリュゼの方に首を傾げてくる。癖のある彼の髪と深い満足をたたえた瞳が間近に見えた。
「よかった」
 それだけ言うと、彼は再びモニターに視線を戻した。エリュゼも同じように映画へと意識を戻しつつ、クリスティアンの頭に自分の頭をくっつけたままにしておく。
 そして毛布の中では、指を絡めたクリスティアンの手をそっと握り返した。

     * * *

 離れたところから聞こえる音楽のボリュームが突然うるさくなった気がして、エリュゼはぱちりと目を開けた。
 大きなパソコンのモニターに、書類棚のある机。さりげなく置かれたアロマディフーザーとまとめられたモノクロのカーテン。
 今朝と同じ光景だ。
 違うのは、パソコンのモニターにゆっくりとエンドロールが流れていることだった。
 二度三度と瞬きながら、エリュゼは彼女の肩をくるんでいる毛布と腕の感触を確かめた。
 後ろからはすーすーと規則正しい寝息が聞こえる。どうやら、二人そろって小一時間ほど眠ってしまったらしい。
 結局映画の続きはちょっとしか見ていない。もう一回見直さないとな、と思いつつ、エリュゼはむくりと起き上がってリモコンを探し、DVDの再生を止めた。
 改めて振り返ると、クリスティアンは枕の端っこから落ちそうになりながらもすやすやと眠っていた。それだけでなんと絵になる……むしろ、眠っていてくれた方がじっと見つめることが出来てありがたいかも知れない。
 クリスティアンの頬や目許にかかっていた髪をよけてから同じところをそっと撫で、エリュゼはめくれていた毛布を引き寄せて再び身体を横たえた。
 お休みなのに仕事に行っていたのだもの。なんでもない顔をしながらも、クリスティアンだって疲れただろう。だからこんなにくっつきたがっているような気もする。
 二人で一枚の毛布にくるまれ、エリュゼはクリスティアンを起こさないようにそっとすり寄った。
 窓の向こうは相変わらず鈍色で、細かな雨滴が静かにガラスを濡らしている。今日は出かけられない日。二人で何もしないでいればいい。
 でも、お昼こそはわたしが作ってあげよう。それにはクリスティアンより先に起きなければ。何を作ったら喜ぶだろうか。ああ、お茶も淹れてあげなくては……
 そうして考えているうちにまどろみ、エリュゼはまたとろとろと眠ってしまった。
 優しく身体を引き寄せる腕の感触と額に唇が押しつけられるのを夢うつつに感じながら。



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