ファンの回る不満げなうなり声を聞きながら、クリスティアンはオフィスの壁に埋め込まれたデジタル時計を確かめた。
十五時五分。
夏日になるという予報の通り窓の外の陽射しは眩しいくらいで、この陽気に誘い出された人々はまだ家路につくことも考えていないだろう。
とはいえ機器を保護するために一年中完璧に湿度と温度が管理されたこの部屋の中では、その陽気すらまるでスクリーン越しに見ているかのように現実味がない。ブラインダー超しに見える風景も向かいのビルの窓だけなので、ここで過ごしている時はいつも季節を忘れてしまう。
大型連休なのだなぁと実感させてくれるのは、自分が叩くキーボードと周囲の電子機器のファンの音しか聞こえないという静けさだけ。普段はもっと賑やかだ。同僚達の叩くキーボードの音もするので。
作業は進んだけれど少々集中しすぎた。目と喉がすっかり渇いたことを思い出して、クリスティアンは席を立った。
家に持ち帰っても差し支えない仕事なら今日わざわざ出勤しなくて済んだのだけど、と思いつつ、端末からはきちんとログアウトする。
設計中のプログラムの内容は、部署の中でも開発チーム以外の同僚にすら秘密だ。万が一にも漏洩することが〝絶対に〟ないよう、自分の目が届かなくなる時は必ずロックをかけねばならないし、社外へ持ち出すなど論外だった。
入る時はもちろん、出る時にもID認証が必要となるオフィスを出てフロアの休憩スペースへ向かう。
ほかの部署には出勤している社員が何人もいるらしく、途中で二人連れの先輩社員とすれ違ったりした。
この企業が扱うのは金融という目に見えない取引だ。だから、基本的に土日や祝日にはほぼ機能を停止する。
が、社内外の情報を扱う部署が集まったこのフロアは、そういう金融の仕組みからは少々ずれた仕事をしているので、多分今日の社内では一番賑やかだろう。
ということで今日社内で一番働いているであろうコーヒーサーバーにもう一杯分仕事をして貰い、ビルの渓谷に面したスタンディングテーブルに持って行ってひと息つくことにした。
通りに面した側が一面ガラス張りの休憩スペースはとっても明るい。街路樹の葉も繁って春というより初夏だなと思わせる。しかしここいらはオフィス街なので人通りはいつもより格段に少なく、そんなあたりも連休であることを実感させてくれた。
昨日、一昨日も出勤していたクリスティアンは、明日からやっと休みだ。当初、連休にまで出勤するつもりはなかったが、途中から設計のやり直しを迫られたのが痛かった。
昨日まではほかの開発担当の仲間も出勤していたのだが、最後までみんなで共同作業が出来るわけでもない。仕上げの段階が迫るほど専門箇所の役割分担がされるし、この作業が終わらなければ次の担当者が作業を始められないという事態にもなる。
それがたまたま連休に引っかかってしまっただけだが、さすがに疲れた。
特にこの連休は、先頃一緒に暮らし始めたエリュゼと迎える最初の大型連休だった。
五連休あるなら一日目は部屋の大掃除をして、二日目は映画でも見に出かけて、三日目と四日目はエリュゼの実家に遊びに行き、五日目は何もしないでのんびりだらだらすごそう、となんとなく予定が決まっていた。
掃除はいつでも出来るし映画もいつでも見に行ける。エリュゼの実家も同じ市内にあるから休みが一日あれば十分で、ただ一緒に何もしないでいる時間だって、つくるのはそう難しい話ではなかった。
一方仕事には締め切りがあるし、ミスがあれば会社や顧客にも大損害を与えかねない。
どちらを優先するべきかは明らかで、エリュゼも連休の予定と恋人の仕事を秤にかけてわがままを言うような女性ではなかった。
むしろ「それは仕方ないですね」と言いながら、「では連休中の家事はすべてわたしがやります」と妙にやる気を見せてくれたので
……嬉しいような、さらに申し訳ないような。
でも、家庭教師のアルバイトをしているため帰りが遅くなる日もあるエリュゼが、この二日は夕飯を作り終えるところまでしっかりと済ませてクリスティアンの帰りを待ってくれているのはなかなか気持ちがよかったし、その完璧さに自分で満足して誇らしげにしている顔が可愛かった。
あんまり自覚はないようだが、彼女はかなり完璧主義者だし負けん気が強いし、気分が顔に出る。
向こうはクリスティアンが人の心を読むのに長けていると思っているらしいが、エリュゼの顔を見ればいつでも嬉しいのか落ち込んでいるのか楽しいのか悩んでいるのか分かるのだ。
今日の夕飯は何かなぁ、上手く出来ているだろうか。美味しく出来ていれば嬉しいのはもちろん、エリュゼの満足した顔を見るのも楽しみである。
そんなことを考えると腹が減ってきたような気がした。
休憩スペースにはパンやチョコレート、スナック菓子などを販売する自販機が置かれているが、ここは手を出さずにもうひと頑張りした方がいい。そしてあと一時間ほどでめどをつけよう。
早めに帰って夕飯を済ませたああとは、昨日見に行けなかった映画の代わりにDVDを借りていって、二人でゆっくり見るのもいいなと思った。
何せ明日は休みだ。夜更かししても大丈夫。
だいぶ頭をスッキリさせてくれたコーヒーを最後の一滴まで干し、器を片付けたところで、上着のポケットに入れていたスマートフォンが震えだした。
明るい画面に表示された名前は「ディルク」だ。点滅しながら呼びかけてくる画面を叩くと、機嫌のよい幼馴染みの声が聞こえてきた。
『今日はうちにいるのか?』
「いえ、仕事で出てますが
……何か?」
『祝日なら早く終われるんだろう。今夜空いてるならどうかと思って、いつもの店で。ルウェルも捕まえたし』
色々と省略されているが、お酒のお誘いである。
パッと軽い音を立てて、頭の片隅で何かのスイッチがオンになった。
人が休みなのに三日も頑張ったところへ、ディルクと(おまけ一人と)飲むお酒とは最高のご褒美。
思わず「いいですね」と口走りかけたが、その気持ちが声になる前に我に返る。
「
――ええと、夕飯を用意して貰うことになっていますので、また今度」
『ああ、なるほど。なんならエリュゼを連れてきてもいいぞ』
学年は違えど、エリュゼとディルクは同じ大学の同じ学部に通っている。エリュゼとはディルクを通して知り合ったし、今現在、クリスティアンとエリュゼが同じ部屋で暮らしていることもディルクは知っていた。
でも
……と、クリスティアンは思案する。
エリュゼはそんなに酒に強くない。定番で使っている店は料理も美味しいから酒が飲めなくても楽しめるとは思うが、ディルクという先輩にすすめられると真面目なエリュゼは飲もうとするのだ。
ディルクもエリュゼが弱いことを知っているから無理は言わないが、彼女が従順なのをよいことに、多少の付き合いは悪気なく強いる。
別に、酔ったエリュゼはクリスティアンが連れ帰れるから構わない。だが、今日は、何か違う。
エリュゼがディルクに付き合いすぎないように隣でコントロールしてやる
……そういう気分ではない。
「よく出来たわ」という満足げな顔をして、食卓を見渡しているエリュゼの方がいい、と思った。
「ありがとうございます。でも、やっぱりまた今度。ちゃんと都合をつけてきますから」
その思いを上手く説明できる気がしなかったので、うやむやに断る言葉しか出てこなかった。が、ディルクと飲みに行きたくないわけではないのである。
その残念さは声に滲んだのか、スピーカーの向こうにいるディルクは何か納得してくれたようだった。
『そうか。せっかくの連休だしな、二人でゆっくりしたいか』
「
……ええ、まあ」
返事があいまいだったおかげで、どうやら違うふうに納得されたようである。
が、言われてみればそうだなと思った。結局いつもの休日と同じ二日間だが、世の中の少し浮き足だった空気を横目に、自分たちなりの連休の残りをすごすのはとてもいい。
『今度はもう少し早めに連絡するよ。ああそれと、定演の夜間練習の日程をあとで送っておくから、出られる日があったら早めに返事してくれ』
「わかりました。それじゃあ、また」
切り際に離れたところから「付き合い悪ぃぞー」と不満を叫ぶルウェルの声が聞こえたが、語尾が不自然に途切れたので恐らくディルクに黙らされたのだろう。
通話の画面を閉じると、ディスプレイには「15:20」と時刻が表示された。
さて、早めに仕事を片付けて帰ろう。
* * *
計画より少し遅れた時間に退社してDVDのレンタルショップに立ち寄り、通りかかったケーキ屋で映画のお供を買おうかどうしようか迷ったために、クリスティアンが帰宅したのは十八時過ぎだった。
が、会社を出る時に余裕を見て立ち寄る場所も連絡してあったので問題はない。夕飯の時間としても心持ち早くていい感じだ。
けれど、クリスティアンを出迎えてくれたエリュゼは見るからにしょんぼりしていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。映画を見ながらと思ってケーキを
――どうしました?」
メルヘンな柄の箱を渡すとちょっとだけ嬉しそうにしたが、クリスティアンに問われるなりエリュゼは目を泳がせた。
「ちょ、ちょっと失敗を」
「失敗?」
「焦げました」
「焦げた」
おやおや今日は上手くいかなかったのか。とりあえず現状を確認した上で意見を述べようと思い、クリスティアンは上着を脱ぎながら居間へ入る。
こぢんまりしたテーブルにはユニカが引越祝いにくれたポーランドのカシュビの刺繍が入ったクロスを敷いてあって、サラダとスープが並べてあった。
しかし、メインの皿が収まると思しきスペースは空いたままだ。
居間はキッチンを兼ねているので、調理を終えてあらかた片付けられた水回りの様子も分かるし、確かに少々香ばしすぎる匂いがするなぁとも思う。
「設定温度を見間違えていて
……」
大人しく椅子に座って待つクリスティアンの前にエリュゼが最後の皿を運んできた。
ああ、なるほど。
ちょっと黒め(?)かも。
エリュゼの自己分析は間違っていまい。運ばれてきたのは結構高温で焼いたんだろうなーということが一目で分かるグラタンだった。
全体的にこんがりきつね色
……はだいぶ通り越した茶色で、特に鮮やかな緑できれいな彩りとなる予定だったブロッコリーは炭化していた。なおこれ以上の詳細なレポートは控えることにしておく。
「すみません
……その、中は大丈夫だと思いますが表面は削って食べてください
……焦げ臭いかも知れないけど
……」
そう言いながらサラダにドレッシングをかけてくれるエリュゼの顔は、この世の終わりを見たようだった。
「言うほどひどくはありませんよ。ブロッコリーは諦めた方がよさそうですが、ほかは真っ黒というわけでもないし。この子はちょっと飛び出ていたからですね」
ごめんねブロッコリー、と思いながら炭化したそれを除けると、中のホワイトソースやにんじんはきれいな色だし熱々で美味しそうだ。
「う、で、でも、見た目が損なわれてしまっていて
……」
「今日は濃いめということにしましょう」
「色がですか?」
「そうです」
「
……もっとちゃんと確認すべきでした」
たかだか温度設定の間違い、食べられなくなるほどの失敗でもないことはエリュゼ本人にも分かっているだろう。ただし、まだその失敗を許容出来ていないのだ。許容に至るまでにはもう一つ確認しなくてはいけないことがある。
が、その前に。
「ワインが合いそうなメニューですよね。冷やしてあるのがありませんでしたっけ」
「あ
……出します!」
クリスティアンがゆっくり腰を浮かせると、それを遙かに上回る俊敏な動きでエリュゼは立ち上がり、グラスを出して冷蔵庫をのぞきに行った。
何かやらせてあげると、彼女は落ち着きを取り戻すのである。
よく冷えた白ワインをお互いのグラスに注いで乾杯してから、問題のグラタンを食べてみる。
クリスティアンは削るように言われた表面のチーズごと食べたが、やっぱりエリュゼがこの世の終わりのような顔をするほどではない。中の鶏肉に粗挽きの胡椒がついていたので、むしろちょっと炙りすぎたチーズに合って美味しい。
不安げにクリスティアンの表情を窺っていたエリュゼだったが、彼の反応を見てわずかに頬を弛ませた。
「美味しいですよ。鶏肉も柔らかいし、下味がしっかりついているから〝この〟チーズに合うし」
「焦げ気味の」とは言わなかったが伝わるものはあったようだ。エリュゼはもう一度苦い顔をしたが、自分でもグラタンを食べてみて、悪くはないと納得できたようだ。
「そう、ですね。大丈夫かも
……」
エリュゼが落ち込んでいる時は慰めるよりも納得させてやる方が効果的、というのはお付き合いを始めて割とすぐに気がついたことだった。
彼女は自分が出来なかったことや出来ていないことを責めがちだ。そして出来たこと、出来ていることを忘れがちなのである。
きっと、長子としてしっかり者に育てられたからだろう。弟やディルクをしっかり世話しなさいと言い聞かされ、そのためにはより早くよりたくさんのことを出来るようにならねばならなかったクリスティアンには、エリュゼの事情がなんとなく分かった。
自分達の違うところは、すべて出来るようになろうと最後まで一直線に努力したか、途中結果を振り返りながら努力の方向や方法を加減したか、ではないかと思う。
前者がエリュゼで、後者がクリスティアンだ。
どちらが正解と言うつもりはないし、自分のやり方は要領がいいけれど時に小ずるい。エリュゼのように愚直な努力を美しいなとも思う。
なにごとも完璧にこなしたいというのが彼女の理想ならそうしたらいい。自分で決めたことは頑張れる女性なのだから。
ただ、彼女に出来ること、出来ていることはもう少し知ってくれればいいなと思うのだ。
グラタンの見た目はこういう結果だったが、ちゃんと美味しいこととか、夕飯の匂いと一緒にエリュゼが「おかえり」を言ってくれると、クリスティアンが幸せになれることとか。
「一生懸命作ってくれて、ありがとうございます」
ちょっとしみじみ言いすぎたかなと思った通り、エリュゼは怪訝そうな顔をした。
「厭味じゃありませんよ」
「それは分かってます
……分かってますけど、どうしたんですか、改まって」
焦げ焦げ事変についてのミスは、温度管理の一点だけ。エリュゼの中ではそう整理がついたらしい。
一時的に感情が高ぶっても、いったん冷静に受け止めることが出来ればすぐに立ち直るのもこの人のよいところだと思う。
それも相まって、クリスティアンの頬はますます弛んだ。
「言葉の通りです」
「そ、そうですか」
次はもっと上手く作りますね、と言いながら、エリュゼは赤くなった顔をごまかすようにワインを飲んだ。
満足げな顔も可愛いが、さっきのように思い悩む顔も可愛ければ、こういう照れた顔も可愛いと思うので、自分は相当やられてるなあと思いながらクリスティアンもワインを飲んだ。
* * *
風呂からあがったエリュゼがなかなか部屋に来ないなと思ったら、ケーキと一緒に映画のお供になるアイスティーを淹れてくれていたらしい。
風呂上がりで暑いのか、エリュゼはまだしっとりと乾ききっていない髪をアップにしていた。手渡してきたアイスティーにも氷がたっぷり入っている。
「今日は暑かったんです。風がからっとしてて気持ちはよかったけど」
「やっぱりそうなんですね。会社の中にいるとぜんぜん分からないんですが」
「でも明日は雨ですって」
出かけられませんね、と言いながらベッドに上ったエリュゼは、さっそくこくこくと喉を上下させてアイスティーを飲んだ。
そうか、〝出かけなくていいのか〟と思いながら、クリスティアンはエリュゼのよい飲みっぷりを見ていた。
居間に置いてあるテレビは小さい上にプレイヤーもついていないので、映画はいつもクリスティアンの部屋にあるパソコンの大きな画面で見る。
机と向き合う形で置いたベッドをソファの代わりにして、その上にだれっと座って並んでいるのは結構好きだった。
DVDをセットし、クリスティアンもベッドに座る。肩がくっつくほど
――いつもより近いところに彼が座ったので、エリュゼはちらりとこちらを見てきた。
が、知らないふりでリモコンを操作し、DVDを再生させる。
「これ、続編が出るそうですよ。だから一作目を見ておきたいと思って」
「そうなんですか。話題になってましたからね。いつ頃から上映かしら
……」
「来月です」
「じゃあ、見に行きましょうか」
エリュゼと出かける予定が決まるのは嬉しい。肯き返しながら今度こそ仕事に邪魔されないよう気をつけなければと思いつつ、数分後に始まった本編の内容はぼんやりと眺める。
いちごがたっぷり乗ったケーキも一緒についばみつつ、気がつけばクリスティアンは思いのほか真剣に映画を鑑賞するエリュゼの方を見ていた。
そういう視線を感じたのか、彼女はシーンの切れ間にきょとんとしながらこちらを見上げてきた。
「面白くありませんか?」
「いや、なんとなく
……」
なんとなく、なんだろう。なんだかこの距離でじっくりとエリュゼを見ているのは久しぶりな気がした。が、そんなことはない。
もう一緒に暮らし始めて三ヶ月近く経つ。昨日も、一昨日も、その前の日も一緒に寝起きしている。
でも、この三日間は、本当はもっと一緒にいられる時間だったのになあと思うと、なんだか急に時間が惜しい気がしてきた。
連休は、あと二日だ。
思いつくまま手を伸ばし、簡単にまとめたエリュゼの髪の、こぼれた一筋に指を絡ませてみる。やっぱりまだしっとりしていた。その湿り気が妙に心地いい。
指に絡んだ髪を解いたあとは、そのまま首筋から鎖骨の端までの肌をそうっと撫でる。
「な、なんです?」
エリュゼの頬がふわっと赤くなった。
疑問符を口にしておきながら、クリスティアンの行動の奥にある感情には気づいている反応だ。
すぐ顔に出て、可愛い。
しかし、エリュゼがとぼけるならクリスティアンもとぼけることにした。
「お気になさらず」
にっこりと笑いながらそう言うと、彼はおもむろにエリュゼの肩を抱き寄せた。
自分と同じシャンプーの香りがする髪に鼻先を埋める。温かくて、エリュゼ自身の匂いと混じった柑橘系の香りが頭の芯を溶かすように心地よかった。
「映画、見ないんですか」
「
――見ますよ」
「見ますよって
……」
どうやって
……と続くエリュゼの声はかすかに上擦る。髪の間だから覗く耳朶の縁をクリスティアンの唇がなぞったからだ。
さらにその下へ
――今し方指でたどったのと同じように首筋、鎖骨へと唇を滑らせていけば、エリュゼの耳朶も頬も同じように赤くなっているのが見えた。
溜め息を堪えきれなかった唇が薄く開く。それにも口づけたいと思ったがやめておいた
――エリュゼの映画鑑賞の邪魔になってはいけないから。
代わりに、洗ったばかりの無垢な肌に軽く吸い付く。骨の形が分かるほど薄い身体なのに、腕に抱いている感触はどこもかしこもふにゃふにゃと柔らかい。
不思議なものだなと思いながら、後れ毛が落ちているうなじにも口づける。エリュゼが一番くすぐったがるところだ。
案の定、映画の台詞と音楽の中にか細く抑えた声が混じった。初々しい反応に胸が熱くなる。
しかしあくまで〝邪魔にならないように〟。その愛らしい声を漏らす唇に触れるのは我慢しながら、エリュゼの髪をまとめていたクリップをはずした。
ばらりとこぼれ落ちてきた金色の中に指を差し込み、彼女の頭をこちらに引き寄せる。
「続編は来月の十日からなんですが、見に行くならいつにしますか?」
「え? ああ、ええと
……」
そして髪に鼻先を埋めたままクリスティアンが言うと、それまできゅっと身体を縮こまらせていたエリュゼの力がほんの少しだけ弛んだ。
「平日? 土曜?」
「土曜の方が
……」
ほっとした様子で真面目に答えてくれるところが、またさらに可愛い。くす、と笑ったクリスティアンを赤みが引かない顔で見上げてくるのもだ。
「じゃあ、十七日にしておきましょうか。公開初日だと混むでしょうし」
「そう、そうですね
……」
しかし相槌を打った直後、再びエリュゼの身体がすくんだ。
「あの、見る気ありませんよね、映画
……」
上着の裾から背中の方へと入り込んだクリスティアンの手を押さえつつ、彼女は上目遣いに睨みつけてくる。
「いえ、エリュゼが見たいのなら見ながらで構いませんから」
「みっ
――変なことを言わないでください
……!」
「あはは。じゃあ、続きはまた明日でいいですか。雨が降るなら、どうせ出かけられませんし」
わっと喚いたエリュゼの額に、クリスティアンは自らの額を擦りつける。
〝何の〟続きとは言わなかった。明日に回すのはどちらにするか、エリュゼが選べばいいと思った。
ただ、希望は伝えてみてもいいだろう。クリスティアンは彼女に押さえられた手をもう少し先へと進め、下着の留め具を探り当てるとその縁をゆっくりなぞる。
真っ赤になったエリュゼは何度か唇をぱくぱくさせた。そうして瞬きを忘れたようにクリスティアンを凝視し、ついと目を逸らす。
その仕草に今夜はふられたかなと思った直後、ふいにおとがいを持ち上げ、エリュゼから唇を重ねてきた。
ほんの短いキスだったが、確かに彼女の方から押しつけられる感触があった。
「
……」
唇を離したあと、額をくっつけたまま二人で黙り込む。そしてどちらからともなくベッドの上に転がっているはずのリモコンを探した。
見つめ合ったままだったので、手でまさぐるだけではそれはなかなか見つけられなかった。
そうしながらもう一度キスをしているうちに、ようやく硬い感触を二人同時に掴む。
「続きは、明日でいいんですね」
「
……」
エリュゼはこっくりと肯き、そっとリモコンから手を引いた。代わりにその腕をクリスティアンの背に回してくる。
愛しさに任せ、クリスティアンもエリュゼの身体を抱きしめた。
唇を塞ぎ、ゆっくりと身体の重心を傾けながらパソコンの電源ボタンを押す。
横目に強制終了の注意を促すメッセージを見たが、無視しておけば数秒も経たないうちにディスプレイは真っ暗になった。
映画の台詞と音楽が消えた代わりに、キスの合間の互いの熱っぽい溜め息だけが聞こえる。
明日はどこにも出かけない、ただくっついて一緒に映画を見るだけだ。
だから今夜は、しばらくこの溜め息にひたっていてもいい。
恥じらいながらも視線を絡めてきたエリュゼに何度目かのキスをすると、彼女はくしゃりと目許をゆがめて泣きそうな笑みを浮かべる。その様が切なくなるほど愛おしくて、クリスティアンはわけもなく彼女の名を呼びたくなる。
愛とともにエリュゼの名を耳に吹き込めば、彼女は背中に回した腕にきゅっと力を込めていっそうクリスティアンを受け入れてくれる。
こんな時間を繰り返す日々が、ずっと続くといいなと思う。
この休日が終わっても、また次の、その次の休日も。
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