ふるさと さくら
2024-05-12 00:45:39
11168文字
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②帆×黒鴉(フレオル)テーマ『男装/女装』

性癖パネルトラップ②
オーケアノス補完タイプの話
🪼が女装しています
D.Mさんを性根の腐った奴(設定より抜粋)として書いています
終始黒鴉が余裕綽々で気圧される場面があまりありません
なんでも楽しめる人向け

 


 誰も、彼のことを覚えていない。誰も、あの25年前の出来事を覚えてなどいない。それが、当時幼かった私の心に今も錨のように沈んでいる。
 時が過ぎても、その思いは変わらず。憑かれるように父と同じ道を歩み、科学に傾倒してもなお靄のような憂いは晴れなかった。航路を阻む重苦しい過去は、未練を断ち切り未来を歩むことを許しはしなかったのだ。もはや、何のために父の研究の残骸を継いでいるのかも分からなくなった、そんな頃。とある蛇が、私を唆す言葉を囁いてきたのだ。
『こんにちは、親愛なるシェリン教授の子息よ。あなたが行っている試みは、こんな陰気な実験室でするにはあまりにも惜しい研究だ。ぜひとも、私がその経費を負担しようではありませんか』
 ぼんやりとクラゲの揺蕩う水槽を見つめていた私に対し、彼は甘い罠を張り巡らせていく。
『あなたには足りないものが多すぎる。お父様の研究結果を実証するにも、お父様を陥れたブラウンリー教授や憎々しくも生き残った船員たちに復讐を遂げるにしても、そのツテや機会が与えられていない。ならば、私が道を示しましょう。船を築き、輝かしいオーケアノスの大海に出ていくための航路を開いて差し上げます。そうすればあなたは、何もかもを手に入れることができる……
 蛇の手招きはこれ以上ないほどに上質だった。だがしかし、そこまで手を貸してくれる意図が分からない。なぜ、と問えば蛇は妖しく微笑むばかりだった。
『簡単なこと。私は、あなたが調査している海洋生物が発生させる毒素に興味がある……少し成果を分けてくれれば、それで構いません』
 殊勝なようでいて、強かな打算。その裏に何か恐ろしい計画が潜んでいることには気づいていたが、私は結局────その手を取るに至った。
 かくして、我がイセムバード号の着工は始まった。かつて深海に沈んだ客船を科学調査船に作り変えつつ、私は来る日も来る日もその建設作業に指示を飛ばした。あの頃父が乗り込んだのとそっくりな船は、太陽が沈み月が昇るたびに姿かたちを帯びていく。時折『協力者』が視察に訪れることもあったが、私はその存在にかまけることもなく悲願の成就ばかりを見つめていた。
『あなたの執念は素晴らしい。私はその願いが遂げられることを祈っているよ……《主催者》殿』
 彼が私にそのような謝辞を贈った翌日。ついに、我がイセムバード号は完成の日を迎えたのだった。


 あのメロディー家が多大なるスポンサーとなり、支援を続けてきたという科学船。その完成を祝う記念式典は、本来調査船として運用されるはずだったイセムバード号そのものを豪華客船に見立てる形で開催されることになった。ただし、その決定を主催者であるフレデリックはあまり快く思っていなかった。
「何がそんなに気に入らないのです、主催者殿」
 貴賓室として用意された小部屋で、貴族の品格を損なわぬ青年がこちらに振り向く。窓辺に立った彼は世間ではD.Mという通称で知られているが、フレデリックは協力者という立場ゆえに彼の本名を呼ぶことを許された数少ない人間である。だからこそ敢えて無遠慮に、椅子に腰かけたままのフレデリックはうんざりとした態度を表明することができていた。
……何もかも、ですよ。つくづく思うがデザイア、あなたは本当に悪趣味だ。センスというものがまるでない……私の身分を隠すにしたって、もう少しやりようがあったでしょうに」
 そう言って忌々しげに相手を睨むフレデリックの姿は、日頃は青年貴族らしく振る舞う彼には似つかわしくない布地で構成されている。深いオーシャンブルーのドレスから、白波のようなロングスカートが溢れ出るシルエットは豪奢と言っても過言ではないだろう。ひらひらとたなびく襟や袖の端々は、まるでフレデリックが好むクラゲのように優雅だったが……それがどう見ても女性に贈られるべき衣装であることが、これ以上なくフレデリックの不快を掻き立てているのだった。
「私をこのように仕立て上げて、何をなさるつもりですか」
「いやいや、大した意味はありませんよ。私はただ、あなたがかの教授の子息であることを避けたいのであれば……素性が分からないようにすればいいのだと助言をしたまで。全てを任せたのはあなたの方ではありませんか」
「だからと言って、女装の紛いごとをするなんて」
「しかし主催者殿、本当によくお似合いですよ。そのドレスは夜の潮と言って、本来であれば私が手に入れたかった女性に贈るはずの品物だったのですが……
 すると、ただでさえ不機嫌だったフレデリックの眉間にはさらに皺が寄った。
「まさか、あのレディ・ベラへの贈り物だったと? 冗談じゃない。どこまでも趣味が悪いんだな、あなたという人は。どうせ私をあの女優に見立てて、エスコートごっこでもするつもりなのでしょう」
 しかしD.Mは何も悪びれることはなく、むしろ開き直ったようにフレデリックに近づくばかりだった。
「憶測で語るのは感心しませんよ、主催者殿。確かにそう言った意図がないわけではないが……私もあくまで貴族ゆえ、そこまで爛れた振る舞いをするつもりはありません。あなたはただ、今宵の式典では私を飾る淑女として身を潜ませていればよい。大人しくしていれば、集った貴族どもにあなたの正体が露見することもないでしょう」
 D.Mの物言いはいつだって穏やかだが、有無を言わせぬ圧力も同時に含んでいる。彼がこうして他人をいいように扱うのが得意だと知ったのはいつ頃だっただろうか。もう覚えていないほどに、フレデリック自身も彼に利用されてきた自覚があった。
「さぁ、行きましょう。そろそろ式典が始まります」
 手を。そう告げるD.Mに対し、もはや不機嫌極まりなくなったフレデリックはエスコートを拒んだ。慣れないドレス、慣れないヒールで誰の手も借りずに足を進めるのは至難の業だが、このいけ好かない貴族に手を引かれるよりかはマシだ。フレデリックは今度こそ口を噤んで、ややよろめきながら扉へと向かうのだった。
「強情な人ですね。今は構いませんが、会場ではあまり一人で行動しないでいただけると助かります」
………
 ゆっくりと退室していくフレデリックからの返事はない。飼いならせそうで飼いならせない『駒』の態度に、D.Mはやれやれと首を振るのだった。


 ひどい目に遭った。というのが至極正しい感想だろう。
 一通り式典が終わった後、会場内は自由気ままな立食パーティーに姿を変えた。式典中はずっとD.Mの『お気に入り』のフリをしていなければならなかったから、自由の許される空間になればこの忌々しい男と離れることもできるかもしれないと思っていたのに。不運なことに女性として会場に現れたフレデリックを待ち受けていたのは、鼻の下を伸ばしてフレデリックに言い寄ろうとする下賤な貴族の擦り寄りだった。
 やれ婚約者はいるのか、だの。やれ家柄はどうなのか、だの。聞かれるだけでも吐き気を催す質疑に、フレデリックはたまらずすぐにD.Mのすぐそばに戻る羽目になった。そうして青い顔をして戻って来たフレデリックに、彼は邪な笑みを向けるのだった。ご愁傷様だと言わんばかりに。
「ひどい顔ですよ、『マリー』。ご気分はいかがかな」
「うるさい」
 眼鏡の奥でせせら笑うD.Mのことなどどうでもよかった。彼は関係を慎重に調整するべきビジネスパートナーだが、だからといってこうしていいように容姿を利用されるのは好きではない。給仕に手渡された赤ワインを乱暴に飲み干しながら、フレデリックは顔ばかり良く性格の悪い同伴者から目を逸らす。そうしてカウンター席から退屈そうに人の流れを眺めているうちに────とある男が目についた。
 誰とも絡まず、この会場の仕組みを静かに観察しようとしている冷静な瞳。漆黒の髪はいかにも生真面目そうな印象で、片目に嵌めたモノクルがそうしたいかにもな雰囲気に味付けを加えていた。あの男は一体……ぼんやりと目を奪われていると、ふと真横に腰かけるD.Mが珍しく笑顔を消し去っていることに気がつく。鋭い毒蛇の視線が貫く先は、無論あの黒いワタリガラスのような男だ。
「彼は?」
 問えば、普段は感情を表に出さないD.Mが面倒そうにグラスを傾けた。
「協力者のあなたには告げておくべきかもしれない。あの男は、我がブリテン皇室の代表者さ。名は黒鴉公爵、皇室の意思を届ける者であり……正体不明の貴族だ。目的は不明だが、かつては私の計画を阻止するために身内すら切り捨てた人物で……ようするに、ろくでもない相手だといっていいだろう」
 なるほど、と頷きながら観察を続ける。あの人畜無害そうな堅物が、この悪辣な大貴族に辛酸を舐めさせたのか。それは考えてみると、随分愉快な結果のように感じた。D.Mが嫌悪を露わにする人物の正体がどんなものであるのか……興味が湧いてくる。
 微かに好奇心を抱いた気配に気がついたのか、隣の蛇はフレデリックに牽制を仕掛けようとした。しかし彼が何かを言うよりも早く、離れた位置にいたはずの黒鴉は歩むべき進路を変えた。
 今宵、大貴族であるD.Mに添えられる花としてこの会場に訪れたフレデリックだけを見つめて、彼は静かに近づいてくる。まるで意図を隠した無機物のような気配に、視線が合わさったままのフレデリックは硬直せざるを得ない。
 やがて黒鴉は二人の前で立ち止まった。華やかさの欠片もない黒い前髪が揺れているのを見ると、海上の風速がやや強くなっていることを思い知る。D.Mが何か言うよりも先に、黒鴉が口を開いた。貴族は貴族でも真の皇室関係者の振る舞いは、発言の自由すら許さないほどに重厚だった。
「ごきげんよう、メロディー公爵。やはりあなたはここにいるとは思っていたが、相変わらず女性を持て余しているようだ」
「黒鴉公爵……今回の船上パーティーに皇室の方々を招いた覚えはないのですが。いつどこで、招待状を手に入れたのです?」
「それはもちろん、親切な辞退者に譲っていただいたのですよ。何か問題でも?」
………
 二人の公爵は同格ゆえか、遠慮のない物言いで静かな火花を散らしている。どうやら黒鴉は、既にD.Mの本性を知る人物であるようだ。口を挟む身分を持たないフレデリックは、せめて巻き込まれないように酒の味に逃げようとしたが、不幸なことに黒鴉の目的は最初から決まっているらしかった。
「ところで、こちらの麗しい女性は?」
 ちらり、と黒鴉の真っ黒な瞳がこちらに向く。マティーニを嗜もうとしていたフレデリックは、口に近づけようとしたグラスを止めて、ゆっくりとモノクルの覗く方向へと視線を定めた。
「あぁ。彼女はマリーと言います。とても素敵な女性でね、私のお気に入りなのです」
「お気に入り? はは……何を仰るのやら。彼女はあくまでレディ・ベラの代用品でしょう? そんなもので満足されるようになったとは、あのメロディー家の当主殿も随分妥協するようになりましたね」
 すると、D.Mの胡散臭い微笑みは瞬く間に冷たい形相に変わり果てた。しかし黒鴉はむしろ口端を吊り上げるばかりで、怖気づく気配など微塵にも見せない。ピリつき始めた空気から逃げたい面持ちのまま、フレデリックは公爵らに挟まれて辟易とするしかなかった。
 そうしているうちにも、黒鴉の遠慮のない物言いは静かに、それでいて苛烈に続いていく。
「あなたらしくない俗物的な振舞いですね。メロディー公爵……どうして彼女にそっくりな方を侍らせているのです? 申し訳ないが、それはあなたの苦い敗北を想起させる悪手に過ぎない。その方を眺めるだけで、あなたは愛する女性と憎き女性を同時に思い出すことになるのですよ? そう、毒の花に倒れたベラと────復讐の刃を隠し持ったバロネス・ダイヤをね」
 そこまで黒鴉が告げた瞬間、D.Mはやや乱暴に立ち上がった。グラスを置き、じっと相手の貴族を凝視する出で立ちに分かりやすい窮地は見られないものの、議論を捨てた時点でもはやD.Mは彼らしく振る舞うことを放棄していた。愛用のステッキを手にした彼は、依然として悠々自適な態度を崩さない黒鴉につかつかと歩み寄る。
 睨み合った二人のうち、最初に口を開いたのは後攻を好むはずの蛇の青年だった。
……興が削がれました。そこまでしてマリーを口説き落としたいならどうぞ、好きになさってください。確かに私には、不要な装飾品だったのかもしれません」
「ちょ、ちょっと。デザイア……!」
 思わず貴族を本名で呼びかけたが、既にD.Mの心積もりは決まっているらしかった。なんて男だ、自分に劣勢の気配が立ち込めていると知るや否や、あっさりと危険人物に私を下げ渡すなんて。唖然として言葉が出ない。引き留めるのもどうなのかという思いが、フレデリックが何も言えない状況に拍車をかけていく。
 そうしてまごまごとしているうちに、D.Mはさっさとカウンターをあとにしてしまった。残されたのは呆然とするフレデリックと、満足そうに微笑む謎の貴族だけ。
(デザイアめ、私を身代わりにしたな)
 沸々とした怒りが湧き上がりそうになったが、その振る舞いは今の衣装では不相応だろうと思い留める。そうしてフレデリックが沈黙しているので、黒鴉は意気揚々と隣に座り、美しい『マリー』を堪能するべく言葉巧みな話術を披露しようとした。
 そう、披露しようとしたのだが。
「いやはや、先程は見苦しい発言をして申し訳ありませんでした。それにしても素敵な方だ……どうです? 私と一杯でも」
「退屈な話は控えるように。どうせ、私が淑女でないことも分かっているのでしょう」
 偽りのない地声で問えば……予想通り、黒鴉はその通りだと頷いてみせた。
「存じ上げていますとも。あなたのことはよく知っている、失礼ながら身の上を調査させていただいたもので。ねぇ、25年前の偉大なる先人────シェリン教授のご子息さん」
 黒鴉の言葉を耳にした瞬間、かっと燃え上がる感情が心臓の奥底に着火する。
 フレデリックは思わず立ち上がり、ドレスの裾が地面に容赦なく引きずられるのも構わず足を踏み出した。ただし一人ではなく、隣に座っていた公爵も共に。甲板のパーティー会場を逸れて、彼は階段下の人気のない宴会ホールへと黒鴉を引きずっていく……しかし妙なことに、そうした強制を孕んだ連行にもかからわず黒鴉が抵抗しようとする素振りは見られなかった。
 乱暴に階段を駆け下り、面倒極まりないヒールを脱ぎ捨てながらピアノの待ち受ける広い空間に辿り着く。招待客は海上のダンスホールに夢中なのか、こちらの屋内の空間にはことごとく興味がないらしい。自分たちしかここにはいないことを確信したフレデリックは、蓋の閉まったグランドピアノの上へ黒鴉の上半身を押し倒す。そうして素早くスカートの下に忍ばせていた試験管を引き抜いて、装填した針を黒鴉に差し向けた。
……誰が情報を漏らしたのか、今ここで答えてくれるのであれば。痛い目には遭わせないと約束します」
 筒の中に揺蕩う液体は、オーケアノスよりかは沿岸に近い海域で採取したクラゲの毒素だ。摂取しても死にはしないが、眩暈や痺れ、精神混濁などを誘発するという結果は実証済みだ。本気だと言わんばかりに針をチラつかせるフレデリックだったが、反して黒鴉の反応は依然として変わらないままだ。
 何をしても動じない。まるで、そんなものが何になると言わんばかりに……黒鴉の態度に不気味ささえ覚え始めた頃、不意に組み伏せられた公爵が静かに口を開いた。
「誰も口を滑らせてなどいませんよ。私が個人的に、あなたのことを調べ上げたのです」
「私の個人情報はD.Mによって完璧に秘匿されていたはずだ。そんな嘘がまかり通るとでも?」
「嘘ではありません、真実です────フレデリックさん」
「!」
 思わず注射器を取り落しそうになるほどの衝撃だった。自らの名前だけは、D.Mにも明かしていなかったというのに。この男は果たして、どこまで知っているのだろうか。
 首筋に冷や汗が伝う。もしや、弱みを握られているのは私の方なのか……? ぞっとしながら黒鴉を凝視すれば、彼はピアノの蓋に額を押し付けられたままの状態でふっと笑みを浮かべてみせるではないか。
 やはり、やはりだ。彼は明らかにフレデリックの秘密の中に踏み込んできている。ならば、むやみやたらと刺激をするのは得策ではない。D.Mの警戒心の最たる意味をようやく理解しながら、フレデリックはゆるゆると注射器を再び隠し持つに至った。
「おや。刺さないのですか?」
「あなたを害したら計画が破綻するかもしれないと思ったまで。命拾いをしましたね」
「ええ、まったく。今日の私は運がいい」
 ゆっくりと黒鴉を解放すれば、彼は悠々とした態度でそのままピアノ椅子に腰かけてみせた。彼ほどの上流階級の人間であれば、何か一曲演奏するのは造作もないことなのだろう。しかし今のフレデリックが聞きたいのは、心を癒す五線譜の調べではない。それを示すように、彼はひらひらとした海色のドレスを纏ったまま腕を組む。
……どこまで知ってる?」
 問えば、黒鴉は意地悪く微笑んだ。
「あのD.Mの求める毒薬の材料が、オーケアノスの最深部に隠されていることまでなら」
………
 呆れた。フレデリックは肩を竦め、もう諦めたというように首を振る。どうやらこの男は、想像以上の優れた嗅覚を持ち合わせているようだ。ならば何を隠しても意味がないではないかと、計画の崩壊を悟ったフレデリックはふらふらと壁によりかかった。
「そこまで調べ上げて、何をするつもりだったんです? 私の復讐を止めるつもりですか」
「いや? あなたがブラウンリー教授の娘を害しようが私には関係ありません。まぁ、場合によってはあなたの予想通り、報復を止めることになる可能性も否定はできませんが」
「はぁ……? なら、何が目的だと言うんです」
 窓の外には、出港前の穏やかな水面が揺れている。黒鴉は美しい波間に一瞬だけ目を向けてから、ゆっくりとモノクル越しの視線をフレデリックの方へと注ぐ。
「私の目的は、D.Mの計画を阻止することです」
「計画?」
「えぇ。彼は幾度も警察や私立探偵に尻尾を掴ませず、自らの目的を果たしてきた完全犯罪者なのですよ。この事実を知る人間はそう多くはありませんが……あなたも彼と関わって思い知ったでしょう? いかにデザイア・メロディーの根底が栄えた悪で満ちているかということを」
 返す言葉はない。確かにD.Mとの会話を通して、彼が周囲の人間すべてを自らの駒としてしか見ていないことには気づいていた。ただ、それも利害の一致ゆえ黙認すべき事象だと思っていたのだが……
「オーケアノスの果てに辿り着くことがあなたの目的であるならば、それは止めません。ですがそこで採取されたサンプルがメロディー家の手に渡り、研究材料とされると……厄介なのですよ。ブリテンの安寧を守る皇室としてはね」
 なるほど。彼は皇室関係者といっても尊き血筋の者ではないのか、という予想がフレデリックの中に浮かび上がる。黒鴉は公爵を名乗る以上は、あくまで皇族というわけではないのだろう。むしろ彼らに従う忠犬のようにあくせくと働く、治安維持の機構なのだ。転じて分かりやすくなった彼の正体に、フレデリックは疑念を少しだけ取り払うことができた。
 しかし、果たして自分が彼の言うことに耳を貸す道理があるだろうか。正直、国家の安全などどうでもいいし、あの時父親の汚名を晴らしてくれなかったのもこの国なのだ。むしろ、肩入れするならD.Mの方が性に合っているような気がしなくもない。
「それで、私を説得しようと近づいてきたわけですか。あいにくですが、私は既にかのD.Mと契約を交わしてしまっています。この船を造る代わりにオーケアノスには何としてでも辿り着き、その研究成果を山分けしようという契約をね……残念ですが、あなたは少し登場するのが遅すぎたようだ」
「本当にそうでしょうか。何も私は、手ぶらであなたと交渉しようと思っていたわけではないのですよ」
 何だと、と言いかけたフレデリックの呼吸は次の瞬間止まりかけた。黒鴉がおもむろに胸ポケットから取り出した碧いきらめきが、血流を逆転させるほどの衝撃を与えてきたからだ。
 きらり、と輝く美しいペンダント。透けるようなオーシャンブルーのガラスの隙間を、見事なまでの金細工が埋め尽くしたクラゲのシルエット。その裏面に継ぎ足された溶接の痕跡は、紛れもなく……父の形見だ。
 わなわなと、唇が震え始める。この男は、本当に、どこまで────
「返して、ください。それは、わたしのものだ」
「えぇ、遺失物はご家族に返されるべきです。私にとってはただ海中から引き揚げられただけのペンダントですからね、無論お返ししましょうとも。ただし……できることならば、私のお願いも聞いて欲しい」
 お願い? 脅迫の間違いだろう。フレデリックは荒む呼吸を鎮めながら、何とか内容を聞き探った。すると、黒鴉はペンダントを携えたままフレデリックの方まで歩み寄って来た。
 ちり、と鎖が擦れ合う音がする。すぐそこまで迫った黒鴉の吐息が、ピアスで彩られた耳元で静かに吐き出されるのが分かった。
「個人的には、の話ですが」
 金具が外れる音がして、鎖の結合部が切り離された。着慣れないドレスによって露わになったフレデリックの首元に、黒鴉の手が伸びていく。
「あなたのように美しい方が、D.Mに唆されて復讐に身を投げるのは……少し、我慢ならないのでね。ひとつ、賭け事で遊びましょう」
 首の後ろに手が回り、黒鴉の指先同士が触れ合う。首元に巻き付いたペンダントの輪が、冷たく肌を貫いていく。
「あなたが用意した、25年前の出港メンバーの再演舞台。そこに、私の協力者をひとり紛れ込ませます。どの人物になるかは分かりませんが……もし、その人物があなたの目論見を言い当てたのならば────その時は、私の協力者になると認めてください」
 探偵ごっこも、悪くないでしょう。
 形見のペンダントをフレデリックの首に返した黒鴉が、そう言って離れていく。もはやそれは要望ではなく、一種の脅迫に等しかった。拒めば最後、形見を首ごと奪い返しても構わない……穏やかそうな公爵の裏面には、そうした苛烈な打算が見え隠れしている。ならばもう、従う他はないのだ。
 だが……やられっぱなしは、性に合わない。
「お、っと」
 強引に引き寄せられて身体のバランスを崩した黒鴉が、呆気にとられた声を出す。状況を飲み込めていない彼は、これから何をされるのか分かっていない様子だった。しかし視界に迫るモノクルの表面がぶつかるのも厭わないまま、フレデリックは────歯と歯がかち合う寸前の勢いで、その冷めた唇に口づけを押し付ける。
 視線を上げれば、黒鴉は呆然とキスを受け入れているようだった。こういう時、普通は目は閉じるものだろうに。それともあまりに驚き過ぎて、硬まってしまったのだろうか。少し角度を変えてもう一度触れてから、ゆっくりと離れてみればどうやら今回は後者の理由が正しいものだと察せられた。
……いきなり唇を奪うとは。大胆ですね、フレデリックさん。驚いて声も出ませんでした」
「不用心に近寄るとこういう目に遭いますよ。ぜひ、覚えて帰りなさい」
「はは……それはご親切にどうも。それで、私の案には乗っていただけるということで、よろしいですか?」
 それは、もちろん。むしろ拒めばデメリットしかない。D.Mには協力するとは言ったが、彼自身に思い入れがないのもまた事実。ならば、少しでも弱きを助けようとする黒鴉に協力した方が後ろ盾も大きくなるし、何より良心が痛まない。
 ただしそれは黒鴉が招かれざる客を用いて、フレデリックの復讐心を鎮火することに成功した場合ではあるが。
「デザイアではありませんが。もう今日は疲れました……あなたの挑戦は受けて立ちますので、今日はこのあたりで」
「帰られてしまうのですか。ピアノの一曲くらい弾いてくださってもいいのに」
「あいにくですが、ピアノの嗜みはないのです。ヴァイオリンかヴィオラでもあれば、あなたの期待に応えられたかもしれませんが」
 それは残念、と黒鴉は眉を下げる。しかしその顔も、実のところは大して惜しくも思っていないのだろう。どこまでも薄っぺらい、合理主義の塊のような男。感情を支柱に生きてきた自分とは大違いだ。
 だからこそ、今こうして胸の内に膨れ上がる好奇心が興味深い。彼は、黒鴉公爵は……どんな裏の顔を持っているのだろう。実験に引き出されたクラゲのように隅々まで暴いた時、果たしてどんな表情を見せてくれるのだろうか。
 ただし、今はそれを確かめるべき時ではない。
 ゆえに、今は好奇心に蓋をして。二人は静かに、再会の時を願う別れを告げるのみ。
「それではさようなら、黒鴉公爵。あなたの刺客が私を止めてくれることを祈ります」
「えぇ。私の賭けが勝った時は、すぐに連絡をさせましょう。それではその時まで……あぁ、そうそう。ひとつ言い忘れていたのですが」
「?」
 ふと、声色を変えた黒鴉の声はひどく世間的に感じた。今までの皇室らしい威厳はどうしたのかと問いかけたくなるほどの落差だったが、次の台詞を聞いた瞬間のフレデリックは、今までに感じたこともない怒りを覚えたという。
「女装、とてもお似合いですよ」
「お先に失礼します」
「あぁそんな。褒め言葉なのに、逃げないでください」
「うるさい」



 そんなやり取りをしたのも、もう何か月も前のことなのか。甲板から海を眺めていた科学船出港イベントの主催者は、次第に近づいてくる新天地の陽炎を見つめて、近いようで遠い記憶に思いを馳せていた。
 あぁ、まさか本当に。彼の言う通りになるなんて────
「主催者さん」
 彼の刺客、収集コレクターとして身分を偽っていた招待客……今でこそMr.リーズニングとして知られる青年の声に、フレデリックはゆっくりと振り返った。
「そろそろ入港が近いらしい……降りる準備をしなければ」
「そうだな、名探偵さん。私との取引に応じてくれて、本当に感謝しているよ」
 すると、リーズニングは目に見えて訝しげな顔を見せた。探偵らしいと言えば探偵らしいが、そうやってありとあらゆる事象に対し疑いにかかるのはいかがなものか。それが推理に生きる彼の性分だと言われれば、そこまでの話だが。
「なぁ、主催者さん……どうしてこんな面倒な依頼を? 言っては何だが、君はD.Mの計画がどうなろうと関心を抱かない人間なのだと思うんだが」
 リーズニングの考察に、フレデリックはほうとため息をついた。勘の鋭い男だ……さすが、探偵事務所を取り仕切りながらゴールデンローズ劇場の騒動を解決した手腕を持つだけのことはある。
 しかし、残念なことに。フレデリックにもどうしてここまで『彼』の優勢に肩入れをしているのか、自分でもよく分かっていない節があった。強いて言うならば────そうだな。
「鴉の後ろ姿を、追いかけているのです」
主催者が微かに笑うと同時に、汽笛の音が新天地の港に鳴り響いた。