小椋
2024-05-11 19:43:11
3992文字
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【kiis】いつかの夜から、いつもの夜に

※ 260話の内容を含みます
※ BM所属未来if
kiとisのある夜のお話です。



 乾いた破裂音が響く。なにかが割れた音だ。
 ミヒャエル・カイザーは目を開けた。そうして、自分の腕の中が空っぽであることに気づいて愕然とする。
 どれだけ壁にぶつけても強く蹴り飛ばしても返ってきたサッカーボールが、ない。
 その現実を受け入れられなくて、すぐさま起き上がった。
 まさか。そんな。どうして。
 硬い床に薄っぺらいマットを敷いただけの寝床で、大切に抱えていたはずなのに。
 駆けだした先はまっくらでなにも見えない。それでもカイザーは走った。
 誰かがなにかを叫んでいる。絶望に染まり、アルコールに焼け、怠惰に溺れた声は、醜くひしゃげてカイザーの鼓膜を突き刺す。
 その声の持ち主である忌まわしい父親の手によって、割れた酒瓶の尖りがサッカーボールに突き刺されようとしている。
 カイザーは地を蹴って跳びあがった。
 何度も何度も己を殴り、蹴り、首を絞めてきた相手だろうが関係ない。銃を所持しながら己を捕まえようとする警官に囲まれていようが知ったことか。
 なりふり構わないカイザーの脚がしなる。たったひとつの目的のために、それは圧倒的な速度で振り抜かれた。
 サッカーボール。
 カイザーが初めて自分の意志で手に入れたもの。
 それは。それだけは。なにがあっても奪われるわけにはいかない。
 それなのに。
 再び破裂音が響く。
 カイザーは目を覚ました。即座に腕の中を見下ろす。
 サッカーボールがない。
 どうして。
 あのとき自分は、確かに奪い返したはずなのに。これだけはなくすまいと、大事に抱えて横になったはずなのに。
 今度こそカイザーは目を覚ました。
 圧倒的な喪失感によって全身に悪寒が走る。心臓が引き絞られたかのように痛い。まともに呼吸ができていないのだ。空咳まじりに息を継ぎながら、悪夢を懸命に振り払おうとする。
 自身の腕の中を見下ろす。
 サッカーボールがない。大事に抱えていたはずなのに。
 なにもない。そんなはずがない。
 違う。そんなわけがない。
 最悪な夢との境がおぼろげになっているせいで、現実を正しく認識できていないのだ。深い呼吸を繰り返す。夢となって蘇った過去の記憶をたどって、思考を整理していく。
 あのサッカーボールはここにはない。結局、守りきれなかったのだ。
 警察に捕まって、手錠をはめられて、檻の中に閉じこめられて、それから。
 カイザーはフットボールを始め、研鑽を重ねた末にバスタード・ミュンヘンのトライアルに合格した。やがて下部組織で揉まれた末に青い監獄を訪れて、それから。
 忙しなかった鼓動がようやく落ち着いてきた。
 負担の軽減を図るほどよい固さのマットレスは、プロのフットボーラーとして鍛え上げた肉体を難なく受け止めている。ゆうに寝返りを打てる広さのベッドで、カイザーは厚手のブランケットを一枚かけて寝転がっていた。
 ここはカイザーが自身の才能と実力で勝ちとった年俸で確保した家の、ベッドルームだ。他者から無遠慮に侵されることのない、カイザーの城だった。
 無理やりに目を閉じても眠気が訪れる気配はない。部屋の暗さからして、まだ朝には遠い時間のはずだ。
 もう諦めて起きてしまおうかと思ったところで、きい、とかすかな音が背後から響いた。反射的に身構えたカイザーは、その音に続いた控えめな足音に肩の力を抜く。慣れ親しんだ気配は忍びながら近寄ってくると、ベッドの傍で足を止めた。やがて背中を覆っていたブランケットが持ち上げられて、ベッドに闖入者が潜りこんでくる。ひんやりとした空気をまといながら、そっと背中に寄り添われた。外気に体温を奪われたのだろう手がナイトローブに優しく触れる。
「明日はオフじゃないぞ」
「うわっ! び、びっくりしたぁ……
 無許可でカイザーのベッドルームに踏み入ってきたのは、本来ならばゲストルームで眠っているはずの潔世一だ。カイザーの声かけに大仰なほどに身体を震わせた潔が、溜息をひとつ落とす。
「もしかして、起こした?」
「いや?」
「なんだ、起きてたのかよ」
「おい」
 さきほどまでの遠慮がちなふるまいが嘘のように態度を切り替えた潔に、カイザーは眉間のしわを深めた。
「約束を忘れたわけじゃないだろうな」
「忘れてない! 忘れてないよ!」
 忘れてないけど、と言葉を濁す潔に、今度はカイザーが溜息をついた。
 翌日がオフでない限り一緒には寝ない。カイザーの家に潔を招き入れた最初の日に交わした約束だ。
 いまはシーズン中で、明日にはチーム練習が控えている。いくらベッドの広さは充分にあるとはいえ、一緒に眠ることで普段と異なる姿勢で眠りに就けば、身体のどこかに変調が現れる可能性もなくはない。首や腕を痛めたとなれば、間違いなくプレーにも悪影響が出るのだ。
 いくらカイザーと潔の合間で行き交う情動に恋愛感情が加わろうとも、それによってこれまでのチームメイトや好敵手といった関係性に恋人を含むことになろうとも、ふたりにとって最優先すべきものがフットボールであることに変わりはない。だからこそ、それに支障をきたすような真似は極力しないようにしようと、固く取り決めたはずだった。
「だってさ、寒ぃんだもん」
「は?」
「やっと春になって、これであったかくなる〜って思って布団しまっちゃったのに。またこんなに冷えるなんてひどくね?」
――世一くんは本当に迂闊ねぇ」
 なんだよ、と声ばかりは威勢のいい返事が届く。
「ドイツの寒さをなめるなと言ったはずだが?」
「う……
「日本では春になったら綺麗に温度が切り替わるのか?」
「いや……そんなこと、ないです」
 たとえ四季が移り変わろうとも、寒い日もあれば暑い日もあるものだ。真夏や真冬なら気温にたいした差はないだろうが、季節の変わり目ともなれば天気も不安定になる。
 背後から届く声がちいさくなるにつれて、カイザーのナイトローブを掴む手に力が籠る。さすがに後ろめたい気持ちはあるようだ。
「でも、布団出すの面倒だし」
「あ?」
 殊勝な潔は一瞬で消え失せる。
「掛けてもしばらくは寒いままだろ。だったら、最初からあったかいとこに行ったほうが早いし」
「俺で暖をとろうって?」
「だってお前、体温高いだろ」
 個人の体質にもよるだろうが、ドイツ人は日本人に比べると体温が高いのが通説であるらしい。実際、カイザーと潔では平熱に一度ほど差があるようだ。暑さ寒さの感じ方にも違いがあり、カイザーがTシャツで過ごせるような気候でも、潔は何枚か着こんでいるときがあった。
「今日くらい許せよ。俺が風邪でも引いて、練習出れなくなったら嫌だろ」
「勝手に入ってきて脅しまでするとは恐れ入るな」
「つーかお前もいつもより冷えてね?」
 潔がさらに距離を詰めた気配がした。お前も寒いんじゃね? 毛布一枚で足りてんの? と次から次へと疑問符が飛んでくる。
 カイザーの身体が冷えているのは外気によるものではない。いまぐらいの陽気ならばブランケットは一枚で充分だ。ろくに掛けるものなどなかった昔に比べたら、睡眠の質は格段に向上している。
 カイザーが体勢を変えて向き直ると、潔はあからさまに肩を震わせた。
「え、なに。ごめん、怒った?」
 やっぱ出てくわ、悪かったな、とひとりで勝手に結論づけて抜けだそうとするのを、後頭部に手を回すことで食い止める。髪に指を差し入れて顔を上向かせれば、う、と詰まった声が落ちた。
「ああ世一、実は俺も眠れなくて困ってたんだ。俺の体温を与えてやる見返りに、話し相手になってくれるだろ?」
 わざとらしいまでに演技がかった節回しを用いたカイザーに、潔は慌てた様子で首を横に振ってみせた。
「話なら明日聞くからさ。今日はもう寝ようぜ」
 な? と言い聞かせるように許しを請う姿に、ふ、と口角を持ち上げる。もとより嫌味や小言を浴びせる気はほとんど失せていた。
 カイザーの寝床に押し入ったことで目的を果たせつつあるらしい潔の声が、だんだんとやわらかさを帯びてきている。案の定、ふわあ、とのんきにあくびまでしてみせる始末だ。
 なあカイザー、と呼びかける声に、なんだ、とほとんど息に溶けた声で応える。
「約束破ってごめん」
――ああ」
 律儀な謝罪に頷けば、でも、と言葉を続けられた。
「普段と違うのがだめっていうならさ。こっちをいつもにしちゃえばいいじゃん」
 な? 名案だろ? と、とっておきの思いつきを打ち明けるようにささやかれる。
 深く息を零したカイザーは、さらに潔を引き寄せた。胸元に顔を押しつけさせれば、うぶ、と情けない声がくぐもって転がった。
「いいから、寝ろ」
 お前が話は起きてから、と言ったんだろうが。
 うん、そうだよな、と眠気にむしばまれつつある声音が、カイザーの苦言を難なく受け止める。
「あったかい……
 もぞもぞと位置を調整して落ち着く場所を見つけた潔が、思わずといったようにつぶやく。なんて返すべきかと逡巡するうちに、カイザーの胸へぐりぐりと額を押しつけた。
「おやすみ、カイザー」
――おやすみ、世一」
 カイザーの応えを合図にしたように、潔がすとんと眠りに落ちる。すー、すー、と健やかな寝息があたりに満ちた。
 最初は冷えていた身体が、カイザーに抱きしめられるうちに熱を取り戻してきたようだ。
 あたたかい。
 ほっと息をついたカイザーは、腕のうちに収めたまんまるな頭を撫でてやる。
 あのサッカーボールはここにはない。もう、ない。
 けれども、またべつの大切な存在が、いま確かにここにいる。
 穏やかな寝姿に誘われるようにして、カイザーは静かにまぶたを閉じた。


小椋@OgrYtk