めけや

——内田百閒『ノラや』に寄せて

 野辺先生のお宅からめけが消えたのは、まだ残暑の厳しい重陽の頃であった。
 先生はめけを大層可愛がっていたため、それは悲しまれた。好物である筈の玉子も鶏も召し上がらず、朝な夕なに庭に出ては「めけや、めけや」と呼ばうていらっしゃる。
 野辺先生の門弟であるところの我々も、当然手は尽くした。尋ねめけのビラを電柱やら何やらに貼りたくり、役所と駐在所にこれこれこう言うめけが見つかれば知らせるように頼みにも行った。中村くんなんぞは、自分の飼い犬にめけの使っていた皿を嗅がせて、猟犬紛いのことまでしている。しかし努力の甲斐虚しく、めけの行方は杳として知れなかった。
「めけや、めけや」
野辺先生のお労しい声だけが、酷く耳に残った。

 めけの失踪からひと月がたった。めけを見たと言う人間は、未だ一人も現れない。ビラは町内会の親父に焚き火にくべられ、役所も駐在も剣もほろろに扱われ、中村くんの犬は仔犬を三匹も産んで忙しい。
「めけや、めけ」
 今日も野辺先生は、夕暮れに染まる庭でめけを呼び続けていらっしゃる。
 我ら門弟一同、更に身を入れてめけを捜索せねばならぬ。そう檄を飛ばそうとして、気が付いたら。めけが一体どんな姿であったのか。いっかな思い出せない。黒かったようにも、黄色かったようにも思う。毛がふわふわとしていた気もするし、つるりとしていた気もする。抑も、めけとは一体何なのか。「めけめけ」と鳴くのであるからめけと名付けられた筈である。しかし、何の生き物がその様な声をあげるだろうか。
「めけや、めけ」
 野辺先生は、相も変わらずめけを探していらっしゃる。庭にお出になって。お姿は見えないけれど。何の先生であったか思い出せないけれど。
「おお、」
 不意に、野辺先生が感嘆の声をあげられた。何事かと庭に出てみるが、何も居ない。
「めけや、ここに居たか」
 何も、何も居ないのだけれど。