いを
2024-05-10 17:21:49
2077文字
Public ブツメツフツマ
 

ひとりふたつのてのひら、ふたりひとつのものがたり

全市。
メロディ先生【tamao2mat】
お借りしています。

 きつねうどんを啜る。となりで旋律は鶏の南蛮そばを食べていた。
 油揚げは甘くてすこししょっぱかった。甘塩っぱい。出汁を思いっきり吸ったおあげは重たくて箸でつまむのに苦労した。苦労しても箸から汁のなかにぼとりと落としてしまって、黄金色の汁が胸もとに散った。
……あ」
 旋律は横目でそれを見て、肩をふるわせて笑っている。
 今着ているものが黒い洋服でよかった。池に石を投げ入れたみたいに波紋が広がって、やがて器のなかの汁はまた静かになった。
「早く食べないと伸びるぞ」
「分かった」
 割り箸の先でつんつんとおあげをつついてから、またそれを摘まんだ。再び落ちる前に背中を丸めておあげを口の中に入れる。
 目尻にしわのある女の「いらっしゃいませ」という大きな声を聞きながら、おあげを食いちぎってからまたうどんを啜った。
 立ち食いそばの店には、なぜかきつねうどんもあった。全市はそれを頼んで、旋律は鶏の南蛮そばを頼んだ。
 器を手のひらで撫でると、ごつごつとしていた。大きなおあげは全市の胃の中に収まっている。旋律は最後の白い色をした鶏肉を口に運んでいた。男の余計な肉がついていない喉が動くのを見つめる。
 そして黒縁の眼鏡をとって、「眼鏡が曇る」とくちびるを尖らせた。
 むしむしとした狭い店内では、ほかの客の器から立ち上る湯気でも眼鏡が曇るらしい。
 割り箸を盆の上に置いて、コップに残った氷ごと水を飲み、そのまま返却口に持っていく。
「そこそこうまかったな」
 店からでて、旋律がとなりで笑った。
「そうだな」
「油揚げうまかったか?」
「うん。……甘塩っぱかった」
 旋律の細い毛先が電灯に反射して白く輝く。眼鏡の奥の目がそっと細まった。

 水槽の中の金魚に丸くて茶色い、ちいさい餌を落とすと二匹の金魚はへたくそに、不器用に口を開けて食べた。
 まるで昔の自分のようだと思った。
 食べるのがへたな男だった、と、他人事のように思い出す。うどんやそばなんかは、まるで細長いゴムを食べているかのように延々と咀嚼をしていた。
 口の中になにもなくなっても噛むような動作をしていた。口の中が乾いてからやっと次のものに箸をつけていたから、食事には時間がかかっていた。
 こたつ机の上に冷えたワインが置いてある。こたつの布団はとっくに取り払って、下には粗末な、汚れてもいい薄いカーペットを申し訳程度に敷いた。
「こいつの演奏はへたくそだな。華美なだけだ。中身が伴っていない」
 と、旋律はくちびるをへの字に曲げて顎でテレビを指す。テレビには「業界一ピアノが上手いアイドル」という、名うての女がピアノを弾いている姿が映っていた。
 白魚のような指がなめらかに鍵盤を叩いている。
「お前が言うのならそうなんだろう」
「20点だ、ダーリン」
 男は二本の指を立てて、ちょっと不機嫌そうな顔をした。どうやら今の回答では不合格らしい。顎に手をあてて少し考える。
「お前のピアノのほうが好きだ」
「ギリギリ合格ライン。よかったな」
 そう言って、旋律は得意げに顎をちいさくあげた。そうか、と頷くと目の前の男は座椅子に背中を押しつけて、グラスに入ったワインを見つめた。
「どうかしたか」
「全市、鍋をしよう」
……今?」
「今じゃない。寒くなったらだ。いい肉買ってすき焼きにしてもいいな」 
 細長くてきれいな手を天井にかかげて、旋律はちらりと全市を見上げた。
「冬か」
「そうだな。うんと寒くなったら」
「分かった」
 その手は、テレビに映っていた女のものよりごつごつとしていて、筋張っていて、青白い血管が見えて何より美しかった。
……余り物の野菜を入れて、汁の残りが濁っても、」
 ぼそりと呟く。
 旋律の、まつ毛に守られた目玉がこちらを再び見上げる。手は下ろされ、こちらからでは見えない。
「鍋の話だ」
「そんなになるものなのか。汁って」
「煮詰まってどろどろになっていた。白菜も締めの米も溶けていた」
 食べるのが遅かった全市は別に鍋を用意された。小さい鍋に白菜と白ネギ、しらたきと豚肉、にんじんやしいたけが隙間が空く程度に盛られて、くつくつと煮だったものを一生懸命食べていたわけだが、家族にはだらだら食べているように見えていたのだろう。
 鍋の汁はやがて米に吸われて少なくなったりして、野菜くずと一緒に底に焦げたものがこびりついていた。
 そしていつしか食事はひとりでとるようになった。
 旋律と食べる食事がおいしいと思うようになったのはいつからだろう。
「でもお前と食べればうまいものはうまいまま、食える気がする」
 いつの間にか旋律はとなりにいた。目を離したら視界からいなくなる猫のようだと思った。
 まばたきをひとつすると、男の手が全市の短い髪の毛をぐしゃりとかき回した。
 なにも言わなかったが、その目は仕方のないものを見るような色をしていた。全市は膝をついてすわっていた旋律のからだを抱きしめた。
 すんと鼻をならすと、花の香りがした。