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ひろか
2024-05-08 22:49:54
16221文字
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観劇録
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*観劇録*『ミュージカルひめゆり』(2024ver)感想と考察
ミュージカル座『ひめゆり(2024)』の感想と考察です。⚠︎内容に関するネタバレと深読みを含みます。
⚠︎内容に関するネタバレと深読み、作品の特性上過激な表現を含みます。
ミュージカル座の代表作『ひめゆり』。
第二次世界大戦下、沖縄戦の犠牲となったひめゆり学徒隊の少女たちを主役にしたミュージカルだ。
本当は去年チケットを取っていたんだけど台風で行けず、一年越しのリベンジとなった。一番観たかったのは2023年の『スター誕生』でヒロインを演じた敷村珠夕さん。そして私の大好きな『Wicked』で日本版初代グリンダを演じた沼尾みゆきさん。
お二方とも今年も続投でよかった。
ということで、ミュージカル座『ひめゆり』感想と考察です。
歴史物なのでいつもよりは浅めですが、内容に関するネタバレと深読み、そして生々しい表現を含みますので、苦手な方はご注意ください。
まず、想像よりもずっと軽く観劇できたことが驚きだった。
戦争を題材にしている作品は小説でも映画でも舞台でもそれなりの重さがあって、胸にずんとのしかかってくるものがある。場合によっては最後まで観続けるのが難しいこともあるし(もちろん途中退席はしないけど)、『ひめゆり』観劇にあたってもそれなりの覚悟をして臨んだ。しかし観劇後の気持ちの落ち方はそれほどでもなく、むしろどこかあっさりと観終えることができたのが衝撃だった。それでいて戦争の事実を軽んじることなく描写し、それを音楽とお芝居で舞台芸術に昇華させていた感じ。だから戦争を題材にしているにも関わらず、観客に考えさせるけれども引き摺らせない作品として長年上演されているのかもしれない。
『ひめゆり』は、ほとんどのセリフが歌で構成されている。ここまで歌メインのミュージカルは初めて観たのでそこも新鮮だったのだが、やはり音楽がとても良かった。一音一音から美しい故郷としての沖縄の景色、少女たちの純粋な心、生きる力を感じた。もしここが歌ではないただのセリフだったら、この作品はもっと重苦しくつらいものになっていたかもしれない。
生まれ育った故郷・沖縄が本土決戦の舞台になっていく。
そのことに対して不安と恐れを抱きつつも日本の勝利を信じきっている純粋な少女たちは、卒業と同時に家へ帰るか従軍するかを迫られる。
私はこの場面、大人ってずるいなと思った。少女たちを囲むように立つ大人たちは、決して高圧的ではないけれど暗に学校に残るように促す話し方で少女たちに語りかけていた。結局のところ、彼女たちくらいの歳の子は男女関係なく使いやすかったんだと思う。家庭を持っているわけでもなく、完全な子どもでもない。だからこそ学徒出陣やら勤労動員に駆り出されてしまったわけで、それを当然のことと教えられて日本の勝利を信じる少女たちに選ぶ余地など残してはくれなかった。「美しい行為」「理想の生徒の姿」などと綺麗な言葉で少女たちの良心に付け込んだとしか考えられない。いつの時代も、ましてやこの時代、平気でそういうことができるのが大人の卑怯さだと思う。
大人たちの話を受けていろいろな意見が飛び交うけれど、最終的にみんなが学校に残り従軍の道を選ぶ様子に日本人の同調圧力の強さを感じた。特にこの当時は“進め一億火の玉だ”“一億抜刀”など、やたらと国民総出で国のためにと囃し立てられていたわけで、少女たちにもその感覚が強く根付いていたのかもしれない。
「帰りたい」と言う子も何人かいたけれど、級長のはるが「この狭い故郷で非国民と罵られて生きていける?」と問いかけたのをきっかけに少女たちの意見がまとまっていくのを、悲しい気持ちで見つめるしかなかった。この時帰宅を選んでさえいれば起こらなかったかもしれない悲劇。「お国のために役に立とう」「私たちで守ってみせる、命賭けて」と朗らかに歌う少女たちの感覚がいっそ恐ろしかった。
けれど彼女たちもまだ学生で、卒業式では涙を流して学舎との別れを惜しむ。
ここで歌われる曲が本当に綺麗で。従軍を決める場面からそう離れてはいない場面なのだけど、命を賭けると歌っていた彼女たちとは別人のようだった。まだあどけない少女たちが、少女時代に別れを告げているかのようなせつなさがあった。歌詞に「二度と戻らないやさしいこの日々に口付けしてゆく さよならと告げて」とあって、彼女たちの行先を思うと胸が張り裂けそうだった。だってこの中のほとんどは、このあと数ヶ月以内に命を落とすことになる。全員がここに集うことはもう二度とないのだから。
それでもこの日のことは今後も少女たちの胸に宿り続けるんだよね。だから従軍したあともいろんな子がこの曲の歌詞や旋律をふと口ずさみ、級友や家族に想いを馳せる。
この曲は当時卒業生のために作られた「別れの曲」をモチーフにした曲だそうだ。生徒たちに親しまれた曲だったそうだが、実際は卒業式で歌われることはなかったという。もしかしたら実際のひめゆり学徒の方の中にも、「別れの曲」を口ずさんで友との時間を懐かしんだ少女がいたのかもしれない。そう思うとあまりにもやるせなかった。
ひめゆり学徒の少女たちと並行して、当時の沖縄の民衆たちの様子や日本の戦況を示唆するような演出がたびたび出てくる。
若い身空で出撃していく特攻隊の青年たち、平和な日常が赤紙によって一変していく家族、子どもたちはどうなるのかと騒めく女性たち。今でこそ戦時中の沖縄のことは“沖縄の悲劇”として語られるけれど、その実人災とも言えるんじゃないかと思う。そもそも戦争というもの自体が自然発生するわけではないのだから人災なんだけれそも、沖縄戦や原爆投下に関して言えば日本の偉い人たちが引き際を誤ったから起きてしまったことだ。「支配され、利用され、見捨てられた沖縄」という歌詞に、沖縄のすべての人たちの怒りと悲しみとやるせなさが詰め込まれているようだった。
その一方で、少女たちは尊い使命を胸に南風原陸軍病院に従軍していく。笑みを浮かべながら朗らかに国のために命をかけるのだと歌う少女たちが、私の感覚では不気味にすら映った。一種の洗脳というか・・・ある意味このあたりは教育の怖さと直結する部分だなと思ったので後述。
ここで登場するのが沼尾みゆきさん演じる上原婦長だ。
『ひめゆり』には何人か実在の人物をモデルにした役が登場しているのだけれど、この上原婦長はそのひとり。『ひめゆり』においては、右も左も分からないまま篤志看護婦としてやって来た学徒たちに仕事を教え、彼女たちを優しく導いていく存在。
学徒たちが派遣された陸軍病院は、彼女たちが想像もしていなかったような場所だった。悪臭と空気の澱み、手の施しようがない重症の患者たち・・・驚き恐怖で腰を抜かす学徒たちに先立つように、婦長は兵士たちの対応にあたっていく。沼尾さんはお顔立ちがとても優しくて声も厚みがあって素敵。上原婦長が醸し出す安心感が沼尾さんにぴったりだった。
婦長もひとりの人間なので、到底病院とは呼べないようなこの場所におそれや恐怖もあったと思う。しかしそれを微塵も感じさせずに兵士たちの苦しみに寄り添い、手当てに奔走する姿は、さながら天使のようだった。
陸軍病院での学徒たちは、過酷な仕事にあたりながらもまだ少女らしいあどけなさや無邪気さを残していた。2幕との比較になるけれど、この年頃の少女たちにとっているべき仲間が近くにいる安心感ってとてつもないんだと思う。
これは同調圧力とはまたちょっと違って、少女特有の団結感みたいなもの。みんなで鬼軍曹の悪口を言うのも、死と隣り合わせの飯上げ任務の最中に「米軍なんか怖くない!」と互いに励まし合うのも、もちろん過酷な状況下なんだけど状況に見合わぬ楽しげな感じもあって。命が危険な状況、衛生的にもよくない環境にあっても、彼女たちの無邪気な心までは縛れないんだなと思った。国のために、と歌っているときとは違って、彼女たちをすごく身近な存在に感じた。
だからこそ、学徒の1人であるちよちゃんが命を落とす場面では学徒たちの悲しみとショックがものすごくリアルに伝わってきて。級友が飯上げの最中に撃たれてしまった、という事実にショックを受ける彼女たちは、この時ようやく真の意味で自分たちが戦戦場にいることを理解したのかもしれない。
この場面で印象的なのは、学徒たちの反応や健気にも級友たちと別れの挨拶を交わすちよちゃんのお芝居。そして、彼女の容態を確認した上原婦長と神谷先生の無言の会話だ。
「ちよが撃たれたの!」と駆け込んできた少女たちの言葉に血相を変え、すぐに駆け寄り容態を見る上原婦長。学徒たちを鼓舞し、この直前では手術に立ち会い心に大きな傷を負ったきみに寄り添い、学徒たちのことも大切にしてくれていた婦長。知識があるが故に致命傷であることを悟ってしまい、神谷先生に力なく首を振って項垂れる。うら若き少女の命が悲しいかたちで、なすすべもなく消えていくことに対する無力感と戦争に対する怒りに苛まれているような背中だった。
そして神谷先生もまた、唇を噛み締める。教師として生徒を守れなかったことに対する悔しさと怒りで震えていた。ちよちゃんが級友たちに微笑みながら別れを告げる裏で行われていた大人たちのやりとりがとても切なくて、いきなり奪われてしまったみんな一緒の日々が本当にやるせない。ちよちゃんを演じた女優さんがパンフレットに「みんなに囲まれて死ねたちよは幸せだった」というコメントを寄せていて、それもまた悲しかった。たしかにこの後学徒たちを襲う悲劇を考えるとその通りなんだけど、本来彼女たちは死ななくてよかったのだから。
病院の実態、負傷した兵士たち、そして、友の死。
ひめゆり学徒の少女たちは、従軍してからようやく戦争とはなにか、戦場とはなにかを身をもって知っていく。教えられていた日本の勝利とはなんなのか、神風が吹くとはなんなのか、陸軍病院で直面する出来事のひとつひとつから知っていったんじゃないだろうか。
敷村さん演じる主人公・キミもまた、陸軍病院で彼女の価値観や考えを大きく変える2人の兵士と出会う。
1人は杉原上等兵。脚を負傷して陸軍病院に入院している兵士だ。
北海道の根室に母と妹を残し、はるばる沖縄まで出征してきた彼の手術シーンが『ひめゆり』では一番生々しいシーンかもしれない。麻酔なしで脚を切断する、というのはもはや私には想像もつかないことだ。痛い、なんてありきたりな言葉じゃ表せないほどの痛みと恐怖、そして絶望感に、「切らないでくれ!」と泣き叫ぶ姿に思わず目を背けそうになった。「帝国軍人でしょう!」と鼓舞されるが、帝国軍人だって痛いものは痛いし怖いものは怖いだろうに。切断された脚が高々と持ち上げられる場面は異様なほど恐ろしかった。沖縄戦下では麻酔なしの手術が当たり前だったという。こんなつらい目に遭わねばならなかった人たちがいたかと思うと胸が張り裂けそうになった。
しかし片足を失った彼は、キミに命を救ってくれたと礼を言い、故郷の家族の話をする。そこでキミは、この病院に入院している兵士たち、ひいては日本のためにと戦争に行った兵士たちの人間性を見ることになったんじゃないだろうか。従軍する時には朗らかに、級友たちと歌いながら病院にやって来た。その胸にはこれから尊い仕事に就くのだという誇りを抱いて来たはず。けれど杉原上等兵とのかかわりで、キミの中の“お国を守る兵士像”が崩れ、ひとりの青年としての兵士を見たのだと思う。だからキミは眠る杉原上等兵の傍で、当時口にすれば非国民扱いされかねない願いを歌ったのだ。
「どうか死なずに生きて帰って」と。
そしてもう1人が檜山上等兵。
兵士の傷口に沸いたウジ虫を見て悲鳴を上げたキミに「どうした学生さん」と声をかけてくれたのが彼だ。「戦争とはなにか」を語る檜山上等兵の言葉に、キミは激しく反発する。日本の勝利を確信し、この戦争は聖戦であると信じて疑わないこの場面でのキミと、数多の死戦を潜り抜けて生きるために非人道的な行為にも手を染めてきた檜山上等兵では、根本的に見えているものが違うのだ。もしかしたら檜山上等兵はこのタイミングですでに日本の敗戦を悟っていたのかもしれない。
戦争が進んでいくにつれて、檜山上等兵が抱いていたかもしれない予感は確信となって人々の心に迫り始める。病院も安全とは言えなくなり、兵士たちも学徒たちも不安に駆られる。
そんな中で檜山上等兵は大勢の少女たちが戦場にいることを嘆き、早く逃げるようにと指示するのだ。それは戦争というものを見てきたと豪語する彼だったからこそ出て来た言葉だったんじゃないだろうか。安全とは言えなくなった病院、すぐそこまで迫っている敵・・・。そんな状況で非戦闘要員である彼女たちがどんな憂き目に遭いうるのかを知っていたからこそ、早く逃げろと怒鳴ったのだろう。
檜山上等兵は自分のことを戦争を経験する中で人の心を失ってしまったと思っているんだろうな、と感じるセリフがたくさんあった。けれど学徒たちの身を案じて逃がそうとしたり、キミと出会う場面でも声をかけてくれたりと本来人情味のある人なんだと思う。神田恭兵さんのお芝居からは軍人としての荒々しさと同時に、人間としての感情や不器用な優しさも感じられてすごく素敵だった。
この場面、鬼軍曹と呼ばれる滝軍曹は一貫して「病院は安全だ」と言うのよね。けれどこの後走り込んできた学徒のあきちゃんはすぐそこに敵の飛行機を見たと報告し、神谷先生の「我が軍の飛行機は!?」の問いかけには「飛んでないわ、一機も!」と答える。この言葉の絶望感はいかばかりであっただろうか。当時の日本も報道は徹底して管理されていて、国民のほとんどは連戦連勝の日本軍だと思っていたという。けれど実際はあきちゃんが見たとおりどこからどう見ても米軍の圧倒的有利の中で行われた沖縄戦だったのだ。病院はとっくに見捨てられていたと言っても過言ではなかったのかもしれない。
この爆撃からキミを庇ったのは脚を失った杉原上等兵で、彼はあらためてキミにお礼を伝える。ここの「君に会えて本当によかった。人生の最期に、この世の地獄で」という言葉が、なんだか自分の終わりをすでに悟っているように聞こえて2回目の観劇で胸をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
脚を失い、自力で病院からの脱出ができない彼は、この後青酸カリを混ぜたミルクで殺されてしまう。どんなことがあっても生きるのだと言われて脚を切られたのに、そのせいで病院からの脱出を試みることさえできなかったのだ。沖縄戦では実際に青酸カリを混ぜたミルクで重症患者を処置したという証言があり、よくもまぁそんな酷いことができたものだと思わずにはいられない。いったいどんな気持ちでその判断をしたのだろう。こんなことは二度とあってはならないと強く感じると同時に、ここでもまた、彼のような目に遭った人たちのことを思って苦しくなった。
脱出する人々の中に杉原上等兵の姿がないことに気がついたキミは、病院へ戻ろうとして神谷先生から真実を聞かされる。なおのこと病院へ戻らなければという気持ちに駆られ走り出すキミを、檜山上等兵が力づくで止めるのだ。
「どうか死なずに、生きて帰って」。そう願った青年の命が呆気なく終わらされてしまった悲しみ。杉原上等兵の名を叫びながら檜山上等兵に担がれていくキミの姿は、あまりにも悲痛で、キミの声がずっと耳の奥に残っているような気がした。
2幕では、病院から脱出した学徒たちの顛末が描かれていく。
病院から抜け出した一向は、南に向かって逃げてゆくことになる。その間にも敵の砲撃は止むことはなく、混乱の最中で命を落としたり、はぐれてしまう少女たちもいた。
実はこの病院からの脱出でとても印象に残ったお芝居があった。
それが脳症兵と学徒のみよちゃん。セリフで一切絡みのない2人のオフでのお芝居が優しくて悲しくて本当につらかったので書いておきたい。
脳症兵は病院の場面から存在感がある役だった。脳症の症状で不随意運動に悩まされる彼は、褌一丁という出立ちや行動の奇妙さで相当目立っていた。少女たちにとっては悪烈な環境にいる兵士たちそのものがまずある程度恐怖だっただろうけど、彼の行動の奇妙さは群を抜いて彼女たちの恐怖を煽った。本来いるべき場面じゃなくても学徒に混ざってしまっているのはちょっと面白かったけれど・・・。
そんな中で彼の世話を一任されたのがみよちゃん。劇中で名前を呼ばれることも言及されることもないのだが、脳症兵を演じていた鳥尾さんが彼女の名前を教えてくれた(その節はありがとうございました)。はじめはどう彼に接していいかわからず、不随意運動に悩まされる彼についていくので精一杯だったみよちゃん。それが少しずつ彼の扱いが上手くなっていき、脱出の場面では病院から出て来た彼にいち早く気がついて、誰に言われるでもなく駆け寄って支えてくれるのだ。それを見ただけでも私的には心を動かされたのだが、この後疲れ果てたみよちゃんが倒れてしまった時に脳症兵の彼が上手く動かない体で必死になってみよちゃんを抱き起こし、おぶって脱出しようとするのを見てもうだめだった。
完全にオフでのお芝居なので、彼らの間にどんな会話があったのかは何もわからない。けれど学徒たちが看護婦として従軍していたこの期間で、脳症兵とみよちゃんの間にたしかな絆が生まれていたのだと思う。双方がまるで当然のように助け合っている姿が何よりの証明だった。
なのにさぁ・・・この脱出時の銃撃で、脳症兵は命を落とすんだよね。銃撃に気がついた瞬間背中のみよちゃんを地面に下ろし、身を挺してみよちゃんを庇って。彼がその行動にいたったのは、人として、兵士として、男としての反射もあったかもしれないけれど、杉原上等兵がキミにお礼を言ったのと同じように、彼自身がみよちゃんにたくさん救われたと思っていたからじゃないだろうか。脳症で体が動かなくても、必死にみよちゃんを守ろうとした彼を見て息が止まるほどのショックを受けたし、いきなり地面に降ろされたかと思ったら目の前で彼が撃たれて死んだ時のみよちゃんの顔がもう・・・。あれは目の前で人が撃たれた恐怖ではなくて、彼が目の前で死んだことに対する絶望だった。
みよちゃんからすればきっと、なんで庇われたのかもわからなかったと思うし、自分が今の銃撃でやられなかった安堵よりも彼を失ったショックの方が大きかっただろう。彼の亡骸に取り縋る姿がただただ悲しくて。戦争ってなんなんだろうか、と思わざるをえなかった。この2人のお芝居が『ひめゆり』で一番印象に残っている。
話を戻すと、ここから物語は大きく4つの視点に分かれていく。
ひとつは上原婦長とひめゆり学徒たち。
ひとつはキミと檜山上等兵。
ひとつはふみとルリの姉妹。
そして、はる・かな・みさの3人組。
脱出時の砲撃で別れ別れになってしまったことが、彼女たちの運命を大きく変えていくことになる。
「首吊りで死のうか」から始まる衝撃的かつポップなナンバーとともに自決の相談を始めるはる・かな・みさ。
話し合っていることは現代の感覚ではとんでもないことなんだけど、この3人の場面は敢えてポップで愉快な描き方をされている。そのおかげで彼女たちのシーンがいい塩梅にほっとする場面になっていたのだけど、それは面白おかしく脚色されているというよりも、価値観を強要してくる大人という存在がいない中で友人たちと3人だけでこの状況を切り抜けなければならないがゆえのトンチキな感じだったのかな、と思っている。たとえばこの場に誰か大人がいたとしたら、彼女たちはガマに避難して投降できなかったかもしれない。集団自決に巻き込まれていたかもしれない。みさのパートで「“捕虜になるなら潔くその身を割いて自決せよ”教え込まれて来たのに、やっぱり死ぬのは恐ろしい」という歌詞があるけれど、少女たちの多くの気持ちはきっとこうだったろうと思うのだ。みさだけではなくて、はるにもかなにもこの思いがあったからこそ、彼女たちは自決に踏み切れなかった。ここに大人がいたら、叱咤されて終わりだったと思うので、3人だけで逸れられたことはある種彼女たちの幸運だったのかもしれない。
けれど彼女たちが置かれた状況はとても笑えるようなものではない。食料も水もなく、行く宛もない。いつどこから敵が来るかわからない状況でただ彷徨い続けるのは、精神的にも身体的にもとんでもなくつらかったはずだ。死ぬのはいやだ、でも捕虜になるわけにはいかない、だからといって家に帰れば非国民呼ばわりされてしまうかもしれない。
そんな思いに決着をつけることができずひたすら彷徨った結果、3人は米軍に捕虜にされることになる。聞いた話と違って優しい米軍に狼狽して3人は泣くのだが、実際の米兵もこうだったらしい。“鬼畜米英”というスローガンに踊らされ、彼女たちのようにそれを信じていた人は多かったそうだ。だからこそ投降の呼びかけに応じずに亡くなった人が沖縄戦では多発した。投降していれば助かった命だってあったろうに、とやるせなく思うのは、現代に生きる私だからなのだろう。
従軍するか否かを話し合ったときに真っ先に「帰りたい」と口にしたふみ。体の弱い妹がいるから帰りたい、と言った彼女は、幸いにも妹のルリとは逸れずに済んだ。ふたりぼっちで途方に暮れていた時に、「帰りたい」というルリの気持ちに寄り添う形で家に向かって歩くことを決める。
ここのメロディーが、従軍する少女たちが「私たちで守ってみせる 命賭けて」と歌ったのと同じ旋律なんだけど、まったく違うように聞こえた。絶対に家まで帰るんだという強い決意。同じ旋律で歌われた従軍への覚悟には恐ろしさを感じたけれど、この場面ではむしろふみルリ姉妹を応援する気持ちになった。戦時下の教育で洗脳まがいの心意気を教え込まれ、同調圧力で固められた決意ではなく、彼女たちの本心からの決意だったから。「私たちで守ってみせる 命賭けて」が本心ではなかったかと言われたら多分そうではないのだけど、少なくとも“こうしなさい”と教えられてそれが当然だと思っているから出た決意ではなくて、彼女たちが誰に何と言われようとそうしたいと固めた決意だったと思う。
私はふみはそんなに強い女の子ではなかったと思うのね。どちらかというと気弱で、自分の意見を押し通すよりも周りに流されてしまうような子。卒業式でもひとり号泣してゆきちゃんからハンカチを貰うお芝居もあった。
そんな彼女が、級友たちから逸れ、銃弾の飛び交う戦場に妹とともに置き去りにされた。この瞬間から彼女がうちに秘めていた強さが発揮されることになった。病院が襲撃されてようやく妹と再会した時からその片鱗は見えていたけれど、妹を連れて家に帰ると決意した時にふみの中で覚悟が決まったように見えた。文字通り命を賭けてでも、絶対にたどり着くんだという強い意志のもとで歩き始める姿が本当に健気で。熱を出して弱気になる妹を鼓舞して、その背中におぶって歩く姿に涙が出た。彼女だって陸軍病院での従軍期間、まともに休めてなんていなかっただろうに。いつ何時なにが起きても不思議じゃない状況で頼れる相手がいないのは心底怖かったはず。それでもふみはひたすら歩き続け、その間一度だって泣かなかった。
思うに、ルリがいなかったらふみはこんなに強くなれなかったんじゃないかな。何としてでも生きて妹を家に連れて帰る。その気持ちがふみを強くしたし、終わりの見えない道を前へ進む勇気になったんじゃないだろうか。ルリが「私を置いていって」と言ったときはわかりやすく動揺して「お前を置いていけるものですか」と半泣きになりながら、それでも力強くルリを鼓舞していた。ルリの存在がふみに生きるという選択をさせたのだ。そうでなければ最悪の場合、はる・かな・みさと同じように死ぬ方法を考え、実行に移していたかもしれない。
けれどふみはその決意通り、ルリを連れて家に戻ることができた。家に着いてもお母さんの姿が見えないことに不安を隠せず、帰ってきても表情がこわばったままのふみ。ルリの声にはっとして振り返り、お母さんを目にした瞬間、「わーーー!!お母さん!!」と大泣きしながらお母さんに駆け寄るのを見て、心の底からよかったねと思った。ここの水越里歌さんのお芝居がとてもよくて・・・。いままで泣きたいことも諦めたいこともたくさんあって、けれどそれに耐えて妹を鼓舞してきた彼女の気持ちが全部溢れ出した瞬間だとひと目でわかった。彼女がこの先生きていく道は、もしかしたら家への道よりはるかにつらいものかもしれない。それでも、歯を食いしばってここまで歩いてきたふみが、妹を連れて家に帰るという決意を成し遂げて、お母さんに抱きしめてもらうことができて本当によかった。
そしてひめゆり学徒たちは、病院から脱出した滝軍曹、上原婦長、先生たちとともにガマを転々とすることになる。
ゆきちゃんが歌う「小鳥の歌」。あの小鳥になって魂だけでも家に帰ろう、と歌い上げる彼女の心があまりにも切なくて。本当は生きて帰りたいだろうに、生きることを諦めてしまうくらい過酷な状況に置かれているからこそ、小鳥になることを願ったんだろうな。これ、後から歌詞を読んだら1番は「広い青空は故郷(ふるさと)へ続く」なのに、最後は「広い青空は天国(ふるさと)へ続く」になっていて頭を抱えてしまった。美しい旋律に乗せて、空を羽ばたく鳥の向こうに天国を見ていたんだ・・・。
そして、あまり触れられなかった神谷先生と親泊先生の想いが明かされる。
この時代の教育者の在り方は本当に難しかったと思う。私自身、子どもの教育に携わる仕事をしているから、この場面には頭を殴られたようなショックを受けた。
これまで教わってきたことを今こそ、と自決をしようと言う学徒たちに対し、教えたことが間違っていたと頭を下げる神谷先生。冒頭の場面で少女たちに従軍を促すように語りかける姿もあったので、神谷先生も親泊先生もものすごい自責の念に駆られていたんだと思う。自分たちがした教育が、自分たちがかけた言葉が、いままさに多くの生徒たちを追い詰めて命の危機に晒しているという状況。耐えられないほど苦しかったと思う。その気持ちを抱いて少女たちに懺悔する場面、学徒たちの中には耳を塞いだり泣いたりする子もいて・・・。そりゃあそうよね、先生というのは一番身近な親以外の大人であって、これまでずっとその教えに従ってきたわけだから、彼女たちにしてみれば全ての根幹が揺らいでしまうような出来事なんだと思う。
でも、神谷先生と親泊先生が悪い先生だったかと言われるとそうじゃない。「人生は豊かだと知ってほしい」「君たちは生きろ」というメッセージを送るあたり、生徒たちのことをすごく大切に思っていたことは間違いないと思うの。そして、若いからこそここで懺悔ができた。実際岡教頭先生はこの後「生きて捕囚の辱めを受けず」として集団自決を選んでいる。にもかかわらず自決を促す少女たちを諌め、懺悔し、彼女たちの未来を願う姿は、こんな時代でなければと思うに充分だった。
親泊先生は上原婦長同様、モデルとなる方がいらっしゃるそうで、彼女は当時まだ23歳の若さだったそう。23歳なんてまだ大人よりも子どもに近いだろうに、それでも少女たちを率いていかなければならなかったわけで。どれだけ恐ろしかっただろうか。
ここで上原婦長が語りかけるのもよかったなぁ。先生たちは先生たちで打ちひしがれ、少女たちが支えを失ったところに優しく甘く響く婦長の歌声。夢を語ることで少女たちに希望を持たせ、いっときでも悲しくつらい現状を忘れられる時間をという心配りが本当に素敵。けれどそんな婦長にも、少女たちがこんな場所にいることへの大人としての申し訳なさがあったんだと思う。少女たちが歌う中で今度は婦長の目から涙が溢れ、それを少女たちが慰めるのだ。もはやこの場にいる誰もが心に大きな傷を負ってしまっているんだよね。
この時に「先生になる」と歌った子がいて、それを聞いた先生たちがはっと顔を上げるのね。自分たちの懺悔を聞いてもなお、先生を目指すといってくれる少女がいたことが先生たちにとっては救いだったのかもしれない。
その頃、キミは檜山上等兵と行動を共にしていた。負傷した檜山上等兵は、ここでようやく「日本は負ける」と口にする。
キミと檜山上等兵の場面は、ふたりの価値観や考え方の対比が主軸になっていた。かたや女子学生のキミ、かたやあらゆる死戦を潜り抜けてきた檜山上等兵。序盤で衝突した時のように、ふたりの考えが違うのは当たり前だろう。日本の敗戦を悟り、「俺が死んだらこれを母に」と自分の死すらも見越した檜山上等兵。対してなんとか生きながらえる道を探そうとするキミ。彼女が語りかける「たとえ1日の命でもまだ生きているわ」という言葉は、檜山上等兵には届いていないようだった。
檜山上等兵は1幕でも「戦争とはなにか俺は見てきた」と歌い上げる場面がある。1幕と病院脱出後で違うのは、檜山上等兵が日本の敗戦というかたちでの終戦を疑いようもなく確信し、終戦後の自分を見据えているということだろう。「戦争とはなにか」で歌った通り、檜山上等兵は軍人として多くの人を殺めてきた。詳細には語られないけれど、想像を絶するような経験をして、手を汚してきたのだろう。戦争という非常事態においてそれはあり得ない話ではなくて、どんな人でも戦争に駆り出されれば経験しうることなんだと思う。けれど、だからといって手を染めた側が何も感じないわけがない。その記憶は脳裏に、心にべっとりとこびりついて離れないんじゃないだろうか。戦争に行き、生きて戦後を迎えるということは、心に抱えるにはあまりにも重すぎる記憶と経験を抱えたまま生きていかなければならないということだ。
シェルショックと呼ばれる症状がある。戦場での経験や記憶がトラウマとなりPTSDを起こす症状のことを特にこう称するそうだ。自分の所業を告白し「鬼畜とは俺だ!」と絶叫する檜山上等兵は、おそらくこのままいけばシェルショックに陥っていただろう。ここまで檜山上等兵は、軍人らしく荒々しい、けれど不器用な優しさを隠し持った人として映っていた。けれどこの場面は心の奥底に隠された檜山上等兵の苦しみや悲しみ、弱さ、戦争で彼が見て見ぬふりをして殺さざるを得なかった本当の彼の感受性が溢れ出しているようで。あの記憶と経験、己の所業を考えたとき、とても生きてはいられないと思い詰めているのがあまりにも悲痛だった。彼があくまで死を選ぼうとする気持ちが、なんとなく、本当になんとなくだけど理解できるような気がする。
でもキミは違うんだよね。違うというか、彼女は彼女の立場でこの戦争を見てきたからこそ、檜山上等兵に死んでほしくなかったんだと思う。
もちろん級友や先生たちと逸れた彼女は檜山上等兵が死んでしまえばひとりぼっちになってしまうので、そのことに恐怖を抱いていたのはあっただろう。けれどそれ以上に、あの日飯上げ任務で命を落としたちよちゃんや、生きるために脚を失いそのせいで脱出さえできなかった杉原上等兵のことを思えばこそ、今この瞬間に生きていることを何よりも尊く大切にするべきだと思ったんじゃないだろうか。
そんな彼女の想いが詰まったナンバー・「生きている」。
『ひめゆり』では「小鳥の歌」と並んで代表曲として名前があがるこの曲は、キミと檜山上等兵を取り巻く木々であったり、花や虫、遠くに聞こえる沖縄の海の音やじめっとした湿度や気温の感じがなんかもう全部曲に入っているような感覚に陥る。『ひめゆり』の曲は総じて沖縄の風を感じるような音の重なりをしている気がするんだけど、「生きている」がやっぱりダントツでその傾向が強い。
死を選ぼうとする檜山上等兵に心から寄り添い、生きていることを語るキミ。彼女が精一杯檜山上等兵に語りかけた言葉は本当に美しかった。「この広い世界に命を与えられて私は生きている」。千秋楽公演の敷村さんの歌唱がとんでもなくて、まさに“生きている”だったんだよ・・・。汚れた顔で、ぼろぼろの服で、それでも生命力に満ち溢れた歌声。劇場の空気が揺れたのを感じた。
檜山上等兵にキミの言葉が届いたか、と思われたところで襲う米軍の機銃掃射。あの時檜山上等兵は、本当に咄嗟にキミを庇ったのだと思う。おかげでキミは助かるけれど、檜山上等兵は呆気なく亡くなってしまう。あれだけ生きていることを檜山上等兵に諭していたキミの心も、あの機銃掃射で一緒に砕かれてしまったようだった。「私も殺して!」と泣き叫びながら米軍機を追いかけていく姿に、こんな酷いことがあっていいのかと顔を覆ってしまった。
舞台中央に横たわる檜山上等兵の亡骸の後ろ、高々と掲げられる米国旗と米国歌。
こんなにも演出を憎いと思ったことはない。なんて、なんて残酷なんだろうか。ここまで残酷な現実の連続ではあったけれど、この演出が作中一番残酷だった。そして戦争における人の死を、ある意味一番よく表していたような気がする。観劇録執筆現在、ちょうど観劇から1ヶ月経っているけれど、この場面が頭から離れない。
一方、ガマにいるひめゆりの少女たちは憔悴しきっていた。何人もの友人たちを、そして自分たちのためにとキャベツをとりに行った神谷先生を失ってしまったことは少女たちの心をずたぼろにしてしまったのだろう。
常に神経を張り巡らし、体力も気力も限界をとうに超えている中で、滝軍曹が泣く赤ん坊の首を折ったりその母を射殺したりするのを目の当たりにして、もはや信じるべきものさえわからなくなってしまっている。
滝軍曹と赤ちゃんのお母さん・サチさんのシーン、会場中が息を呑んだのを感じた。ただ泣くだけの赤ちゃんに、そのお母さんに、どうしてこんなひどいことができるのか。滝軍曹は美しい故郷を守ることと、母の命をいきなり奪っていった敵に対する憎しみでここに立っていたはずなのに、いつの間にか自国の民間人を手にかけるような人に変わってしまっていた。サチさんが「日本軍は沖縄の人間を殺すために来たのか!人殺し!」と叫ぶ声が、サチさんの絶望そのもの、ひいては当時の沖縄の人たちの叫びとなって胸に刺さるようだった。
もはや「助けてください」と祈ることしかできない少女たち。
そこへ満身創痍のキミがやって来る。再会を喜んだのも束の間、上原婦長が撃たれてしまったことを知らされたキミは(そして私も)衝撃を受ける。
上原婦長は神谷先生から「万が一の時はお願いします」と拳銃を託されていた。本来人の命を救う立場である看護師の彼女に人の命を奪う道具を渡すのが、個人的にはこれが戦争か、と思わされる瞬間だった。婦長は神谷先生の代わりに先頭に立って学徒たちを誘導していたが、撃たれてもうどうすることもできない状況。それでもキミや学徒たちに、出ていきなさいと優しく声をかけるのだ。まだ未来のある、人生は豊かだと知らない少女たち。檜山上等兵に語りかけたキミではないけれど、生きてこそなのだと語りかける姿は命のおわりにあってもなお美しかった。
タイミングよく米軍からの投降要請が流れ、キミは白旗を手にするも滝軍曹に止められる。これまで見てきた戦争と婦長の言葉を受けて生きるために白旗を手にしたキミと、根っからの軍人であり戦争の中で心が歪んでしまった滝軍曹は、互いに譲れない思いでぶつかることになる。「出ていくのならこの場で殺す」とキミにさえ銃を向ける滝軍曹。この状況が本来であればおかしいことに気づく余裕さえ、滝軍曹には残っていなかったのだ。
そして、最後の力を振り絞った上原婦長が滝軍曹を撃ち殺す。
ああ、この瞬間が彼女が思う“万が一”だったのだとその時思った。
少女たちに生きろと言い残し、人生は豊かだと知ってほしいと言った神谷先生。彼の願いを叶えるため、彼女は人の命を救ったその手で滝軍曹を殺めたのだ。
この場面、上原婦長の行動と同時に後ろの兵士のお芝居も印象的だった。滝軍曹が命を落としたと知り、唇を引き結んで帽子を取る。
滝軍曹は物語中一貫して怖くて冷酷で非道な男だった。けれど兵士たちにとっては、学徒たちにとっての上原婦長のような存在だったのだろう。それが見て取れる、なんとも悲しいお芝居だった。
その瞬間、ガマにガス弾が投げ入れられた。
それは本当にあっという間のことで、煙がもうもうと上がり、たちまちガマの中にいた人たちはばたばたと倒れて死んでいくのだ。そこに人間としての尊厳は一切なく、ただ作業のように殺されていく。一切の音がしなくなったガマの中で、学徒のひとりが「おかあさん」と呟いて息絶える。
あとは、沈黙。
この静寂はどう言えばいいのかわからない。
ただ、死を感じるだけの空間が恐ろしかった。
10人以上子どもがほしいと言っていたあきちゃん。
恋人と島で星を見るのだと語ったのぶちゃん。
小鳥になって逃げようと歌ったゆきちゃん。
先生になりたいと言ったみちちゃん。
東京でバスの車掌になりたいという夢を抱いていたクミちゃん。
みんなみんな、呆気なく死んだ。
たったひとり、奇跡的に生き残ったキミだけを残して。
キミの走馬灯の中で歌われるのは、卒業式で歌ったあの歌だ。
あまりに美しく明るく朗らかなコーラスが悲しくて悲しくて、あの時一緒に歌った少女たちの魂がもうここにないことを感じさせる。
「私は旅立つまだ見ぬ世界へ」という歌詞は、本来学舎からの巣立ちを意味している。けれどこの場面ではまだ見ぬ世界=あの世なのだということが反射的にわかってしまった。それでも少女たちの美しい歌声と笑顔に、キミの思い出の中のひめゆり学徒たちはずっと、あの日々を一緒に過ごし助け合い励まし合ってきた、かけがえのない愛おしい友なのだと思った。
ひめゆり学徒隊。
沖縄県立第一高等女学校から動員された240名の少女たち。
そのうち136名が、沖縄を巻き込んだ地上戦で命を落とした。
終戦からまもなく80年を迎えようとする現在、ひめゆり学徒隊の生き残りの方々はどんどん少なくなっている。
『ひめゆり』はあくまで史実をもとにしたフィクションだ。この作品を観劇したからといって実際に少女たちが体験したであろう恐怖や苦しみ、悲しみなどがわかるわけでも、想像できるようになるわけでもない。それは史実を残す目的と同時に『ひめゆり』が舞台作品として人々の心に残るようにと演出がされているからで、だからこそ美しい音楽やコミカルな場面などが盛り込まれ、冒頭で書いたようにただ戦争をもとにした作品を見て気持ちが沈むようなことはなかったのだろう。
ただ、もう一つ思うのは。いくら戦争中といえど、いくら過酷な環境下であろうとも、級友と過ごし楽しく笑ってふざけて語り合った日々は少女たちの心にきらきらと残り続ける記憶なんじゃないだろうか。そんな少女たちの記憶や想いに重きを置いたからこそ、『ひめゆり』はこんなにも美しく、愛おしく、かなしい作品になったんじゃないだろうか。戦争の悲惨さや、二度と繰り返してはならない出来事を描くと同時に、そこにいたのは私たちと同じ、友だちと笑ったりふざけたりしながら日々を過ごしていた少女たちであることを『ひめゆり』は伝えているのかもしれない。
〈公演情報〉※敬称略
制作:ミュージカル座
公演期間:2024年4月4日〜4月7日
会場:シアター1010
作:ハマナカトオル
演出:梅沢明恵
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