ななき
2023-08-13 22:12:04
1185文字
Public 吸死
 

蛸王の断片

(ドラロナ)
書き出してみたものの、ほぼ同じ流れでもっとずっと素敵な作品を拝見したことがある気がするので供養
初手蛸壺してほしい

一度きりの恋だった。一目で恋をした。


嵐の夜に、人間の船から投げ出されてきた美しいヒトの男。燃える船の火が夜の海中にも僅かな明るさを供し、その男の髪をきらきら光らせては、私の目を奪う。
身分が高いのだろう。仕立ての良い青い礼装のその胸には、橙の薔薇が一輪、しがみついていた。

海に投げ込まれたものは海のモノ。そのまま底まで引きずり込んだって良かった。私の住処まで引きずり込んで、大きな貝にでも飾りつけてしまったって。かわいい使い魔と一緒に、ひとしきりこの美しい男を愛でて、崩れてしまったら大鮫の餌にでもする。……長い生で、本当にそうしたことだってあったのに。

男の口からコポリと銀の泡がこぼれたのを見た瞬間、私は自分でもわからない衝動に従ってその男を全力で海面まで押し上げていた。動物の体は重い。私の八本の足をしても難儀ではある。
海面から頭を出してやると咳き込む音が聞こえた。男――まだ子供を抜け出したばかりの青年だった――は幸いに、水を飲んではいないようだ。
弛緩して揺れる身体を波から、船の残骸から守りながら、もう何十年も上がっていない岸へ登る。何をこんなに頑張っているのだろう。冷静な自分がどこかでせせら笑いをするが、知った事ではない。

砂浜に横たえた体を二腕で揺さぶる。
「おらっ!目ぇ開けろ!よし開けたな!聞こえるか?聞こえてるな?じゃあ立て、歩け!もしくは這え!向こうの岩場なら潮が満ちても沈まないから!わかった!?」
うっすら開いたその瞳の深い青にまた目を奪われる。青ざめた頬を軽く張ると、多少はっきりした目でこちらを見返してきた。青年は何か言おうと口を開閉させ……思い切り咳き込んだ。背をさすってやりたいが、東の空が白んできている。朝日が上る。海中に戻らねば焼かれてしまう。

「そうだ、対価」
海の魔力を行使するモノとして、対価なしには動けない。しかし朦朧とする青年から何か得られるものなど……その時、鮮やかな橙が目に入った。礼装の胸から落ちた薔薇だ。
「ああもう、これでいい!さらば人の子!もう落ちてくるんじゃないぞ!」
薔薇を摘まみ上げ、水面の下へ。

その後は知らない。人の国と海の底は不干渉だ。無事太陽の下を歩いていれば良いと揺蕩う海面の光にぼんやり願う。
極小規模の凍結魔法で保存した薔薇だけが、あの日の縁だ。


……とまあ、美しい思い出の名残を眺めて過ごしてたんだが」
「ほー」
「どうしてその薔薇の君と、陸で向かい合ってお茶なぞ飲んでいるんだろうね」
「対価が足りないって押しかけてきたのも俺の部屋に巨大な蛸壺置いて居座ったのもお前だが?」
「連れ戻された私を海まで迎えにきたのはおまえだろ。わざわざ足をヒレに変えてまで」


つまりはハッピーエバーアフター。一度きりの恋は終わりがないから一度だけだったというお話。