己がわからない、という経験をしたことはあるだろうか。あるいは、記憶が信じられない、と愕然としたことは。俺はまさに今、自分の記憶と正気を疑っている最中である。
深夜の洗面所の鏡には歯ブラシを咥えて間抜けな顔をした俺が映っている。何に愕然としているのか。このところの習慣についてだ。習慣とは、繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと(ヌーヌル調べ)。
はい。同居吸血鬼とのキスが、習慣化していることに気づいたのが今、です。押しかけられて早数年。気易いをとうに通り越した距離感なのはこの際認めるが、断じて、恋人などではない。キスなんてして当然の関係ではない、のに。なんで!?
思い返してみよう。最初の一回は純然たる事故だ。
冷蔵庫を開けていたドラ公が振り向いたタイミングと、俺が冷蔵庫を覗きこんだタイミングが奇跡的に重なったのだ。
あ、まずい、と思ったのは覚えている。存外柔らかい感触と驚いて見開かれた目。瞳はちゃんと赤いんだよな、ちっさいけど。予想していなかった近さには驚いたが、まずは離れるべきだろうと半歩退いて体をずらして。
「麦茶くれ」
今度はぶつからないように、冷蔵庫のドアポケットから作り置きのボトルを抜いた。ドラルクに背を向けて、シンク横で水をきられていたグラスをひとつ拝借して。
「あ、うん」
背後で気の抜けた声がした。それだけ。
麦茶も俺のファーストキスも、レモン味はしなかった。
二回目は別の日の、俺が寝る間際。
ヘッドホンをしたドラ公はリビングのテレビでゲーム中で、俺はソファベッドからその画面を眠くなるまで見ている、珍しくもない夜。
あの日は、画面よりも楽しそうにしている横顔が気になってしかたなかった。おふくろさんは日本の吸血鬼だというが、こいつの顔に日本の要素はあんまり感じないんだよな、とか。彫りの深いところは親父さん似か、でも目元はおふくろさん似だよな、とか。
これから眠る俺のために部屋の照明は落とされていたから、光源はテレビ画面だけ。余計に凹凸が強調されていた。
高い鼻のしたの薄い唇に目が止まる。冷蔵庫、赤い瞳、麦茶。ぬるい温度が思い出されて、腹の底がそわっとして落ち着かなかった。
その時、急にドラ公がこっちをみたのだ。音がするかと思ったくらいバッチリ目があった。まばたきが二度。ひんやりした手がそっと俺の目を覆った。やわらかい暗闇の中、さっき思い出したばかりで、期待した通りの、優しい温度が唇に落ちてきた。
「おやすみ」
という囁きも。悪い気はしなかった。髪を撫でる指は、夢だったかもしれない。
その次は、また別の日の風呂に向かう途中で。
「ロナルド君」
斜め後ろからの呼びかけに振り向けば、ちゅ、と口に柔らかいもの。間近くなった黒いエプロンからは、夕飯の唐揚げの残り香がしていた。
「ボディソープ切れそうだったから詰め替えてくれ」
「……? わかった」
買い置きはいつも洗面台の下に置いてある。トプトプとボトルに流し込みながら、あれ、さっきどうして、ちゅってされたんだろう、と一瞬だけ考えた。零しかけてすぐ忘れたのだけれど。
そのあたりからはそんな感じで、するっとキスされるようになった。後ろを通り過ぎるときに捕まえられて。一人でパトロールに出る時のいってらっしゃいに添えられて。原稿やってる間にコーヒー差し入れてくれて、ついでのように。
だから、俺からもすることにした。
だって、されるばっかりだと負けてるみたいだから。
冷蔵庫から飲み物を取るついでとか、クソ映画みてる時に一瞬引っ張ったりとか。ゲームしてるときにしたらいいところだったらしくちょっと睨まれて、「こら」なんてほんの軽く、額を指で押されたりするのも楽しかった。
ジョンには当然知られている。しようかな、と思った時にジョンと目があって。思わず動きを止めたら、小さい手で両目を隠して「見てませーん」ってされたのだ。世界一かわいかった。
ジョンが見ないふりしてくれるということは、少なくともドラ公は嫌がってはいない。……してもいいってことだよなと再開、続行。
そうやって繰り返してキスは習慣になった。タイミングが決まっているわけじゃないから、しない日もある。でも全然しないと落ち着かない気がする。そういう習慣。
日常は何にも変わらない。ドラ公は俺を煽るし、くだらない悪戯で邪魔してくるし、俺はそれに怒るし砂にする。ジョンとメビヤツはかわいくてキンデメは渋い声で死のゲームは賑やかだ。悪くない日常に悪くない習慣が追加されただけ――。
だと思っていたのだ。ついさっきまで。
なんっでだよ!?
きっかけは、唇がしみたこと。鏡をのぞけば、唇の皮が剥けてささくれのようになっていた。乾燥して硬くなったそれに触れながら、まず浮かんだのは、ドラ公のやつ、さすがにこれで死なないよな? だった。次には、そこまで心配しないとならないほど雑魚かと少しばかりイラッとして。
疑問に思ってしまったのだ。こんなところ、普通同居人に触らせなくないか、ということに。
歯ブラシをくわえて半開きになった口から、泡がダバダバ溢れていくがそれどころではない。友人、例えば半田やカメ谷とルームシェアしたとして、するか? もしくは、したいか? キス。いいや、しない。断言する。
それなのにドラ公とのこれは、習慣に数える程に繰り返している。なんの疑問もなく、当然のように。催眠? いや、相手はあの危険度みみず吸血鬼だ。雑魚すぎて逆に潔白。さらに仕事柄、VRCでのチェックを度々受けているので、催眠の影響下にないことも保証済み。
それに。赤い瞳、ひんやりした柔らかいもの。鼻先をくすぐる香り、つかんだ手首の細さと骨の感触。頬に触れる冷たい指。機嫌よく細められた目、少しだけこちらへ寄せられる肩。繰り返してきた『その』時の情景を、きっちり覚えている。
キスするのもされるのも、嫌じゃなかった。むしろ最初からそうしたくて、そうできれば嬉しくて。
ドッと心臓が変な音をたてた。全力で走った時より動悸がする。洗面台の前で繰り返している『なんで』の答えに思い当たってしまったから。
思わず頭を抱える。恥ずかしさで死にそうだ。ドラ公もドラ公だ、なに平然としてんだ……あれ、ちょっとまて。そもそも、そうだ、そもそもするようになったのは、あれ?いや、え? なんで、だってあいつから、だから俺も。
……もうひとつ、気がついてしまった。
この習慣、始めたのは俺じゃない。俺がしたいだけじゃ、成り立たない。
「オッケー、ヌーヌル」
ちゅーする意味って、なんですか。
そして俺のこの気持ちは、なんですか。
『すみませんよくわかりません』
そうだよな、困るよな。誰かに確かめてみたかっただけだよ、ごめんな。
――誤魔化すなよ。したかったから、考えるのを止めたんだろう? 理由を考えたりどうしてと聞いて、出来なくなるのは、お前にとって大損だったから。
恋という名前の結論は、俺の頭をぶん殴ってそう告げてくる。今更? と呆れた顔で。
◇
どれだけ動揺していようが時間はすぎるし明日――日付としては今日――も仕事だ。リビングに戻らない訳にはいかない。
吸血鬼にとってはゴールデンタイムを過ぎた程度の時間。ドラ公は背もたれを倒したソファでジョンとゲーム中だった。見慣れたはずの後ろ姿に、また心臓がバクバク言い出す。いつもなら、退かすなり砂にするなりして寝床を確保するのだが。
そこ、俺のベッドですけど?! ほんっと今更だけど! なんで人の寝床で平然として……俺もたまに棺桶借りてるけど! ああちくしょう、もう借りられない。絶対ヘンなことを考えてしまう。だっていい匂いするもん、あの中!
リビングの入り口で立ち止まった俺を、ヒョイとドラ公とジョンが振り返る。
「何してるんだ、さっさと寝るんじゃなかったかね。ほら、退いてやるから」
使い魔を抱いて立ち上がる同居人。
「ロナルド君? どうした」
一歩二歩三歩。それだけで俺とドラルクの距離は腕の長さより近くなる。そうだ昨日までなら、こんな距離なら俺からキ……スして「寝る、ジョンおやすみ」って。俺、よく出来てたな!?
まずい、ドラ公の顔が見られない。いま、耳どころか首まで赤くなってる気がする。下がった視線がジョンのそれとぶつかる。ヌー?と首を傾げている世界一の丸。待って、俺、ジョンの前でも。うわ、恥ずかしい。
「顔赤いぞ、一丁前に風邪か?」
「い、いや、大丈夫だ、から、寝る……」
「……? まあいい。おやすみ」
スッと手が頬に伸びてきて、体温がすぐそこに。あ、キスされる。
「アバロヒョアッ!?」
奇声を上げて壁まで飛び退いた俺を、ドラ公がポカンとみていた。その表情が、徐々に変態吸血鬼どもの騒ぎを見るときと同じものに変わっていく。面白いって顔に書いてあんぞドチクショウ!
「もしかして気づいたか?」
「へあっ!?」
「それとも目覚めたとか回路が繋がったとでも言うべきか?」
滅茶苦茶に楽しそうに言いやがる。
「意識した途端にハムカツくさくなるのどういう回路なんだ。ほんのさっきまで、どこの少女漫画のイケメンかってくらい自然にチュッチュしてたくせに」
「ミーーーー!!」
「ヌアーーーー!!」
「うわ、殺すな!混ぜるな!」
「なん、なんでお前!キ……ちゅーなんて!しかも何回も!」
「なんでも何も。私は最初っからロナルド君が好きだからしてるんだが」
「ホアッ!?」
衝撃で塵を混ぜる手が止まる。こいつ今、何、なにサラッと……!?
俺の目の前で再び細い体が形作られていく。
「ああ、一回目は事故だぞ。大騒ぎを覚悟したのに不自然に平然としてたなあ。どうせ思考ショートして深く考えないスイッチはいったんだろう。どうだ? その顔、正解だな? まあ、次の日からすごかったが。どんな目で私を見てたか自覚は? なかったんじゃないか? これも正解だろう? 穴が空くか喰い殺されるかと思ったんだが」
と笑われる。俺、そんなに見てた? 見てた、かも。
「ア、アバ……」
キャパオーバーとは今の俺。溢れたバケツ、詰めすぎて閉まらなくなった冷凍庫。なにも返せない。
「殺されるの覚悟でこっちからしてみたら、流しそうめんより簡単に流されてくれるし。だから、これは絶対面白いことになるなと」
もしかしてこいつ、全部わかってやってた? いつ俺が気づくか、気づいたらどうなるか、面白がってた?
「なにをしてるかもどうやったらいいかもわかってるのに、どうしてするのかはわからないお子ちゃま情緒なんだもんなぁ、このチョロチョロルド」
ほら気づいたなら私に何か言うことがあるだろう、おめでとう勝ち確だ、と嬉しそうに、そして半ば呆れたように告げてふんぞり返るドラ公と、ヌッシッシと笑うジョン。
……悔しいので、首のひらひらを引っ掴んで思いっきりキスしてやった。ザラリとした砂の感触がして、やっぱりレモンの味は、しなかった。
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