ロナルドはソファの背もたれにアゴを置いて、キッチンを観察していた。正確には、キッチンに立つ吸血鬼と、お手伝いをするその使い魔を。
焼きたてのメロンパン、白い、ヌーヌン、愛らしい、かわいい、なめらかな…手入れの行き届いた?、すべすべした、品のよい、上質な、折れそうな、くるくると変わる、柘榴石、防虫剤、器用な、無邪気な、繊細な、……。
ドラルクが軽く息をついて、まな板と包丁から目を上げる。
「やかましいんだが」
「耳4つもあるのが悪い」
「これは髪!耳じゃねぇ!……じゃなくて視線がうるさいっていってるんだ」
さっきからなんなの、と青い瞳を睨む。
「エッセイの依頼、お前とジョンをどういう言葉で書こうかなって」
依頼テーマは「キッチン」。複数作家による連載形式らしい。なぜロナルドに、というテーマだが、著書内の相棒の料理好きを知っているということだろう。ならば、期待されている内容も相棒の話だと、兼業伝記作家は解釈していた。
「いつものロナ戦じゃダメなのかい。『あの私』も料理が得意だし」
それなら今更どう書くもないだろう、ネタを探すならともかく。とキッチンに立つ男は言うが。
「できればロナ戦とは違う文章をって言われてんだよ……」
「おや珍しい」
「素の俺でお願いしたいんです、だって」
ああ、ロナ戦は誇張と修飾の塊だものな、とケラケラ笑う男の手元で、包丁の音が再開される。これは見ていてもいいということだな、と判断したロナルドは、観察を続行することにした。
吸血鬼はよく動き、よくしゃべった。
ジョン、にんじん取って。ああ、ありがとう。ロナルドくん、ソースは甘いのと辛いのどっちがいい。甘いの?おこちゃまめ。そうだ、ヴァミマでショットさんと会ったよ。うん、そうみたい。顔出せって言ってたけど聞いた?え、なんで。あー、それはそのうち。
時折ジョンと何事かクスクス笑い合いながら、ドラルクの手は淀みなく動く。電子レンジが音をたて、香ばしい香りが漂う。彼が上機嫌で鼻歌を歌いはじめれば、ジョンは憂い顔で耳をふさぎ、リビングの同居人たちからは抗議の声が飛んだ。それに文字通り憤死しかけながらもフライパンをふり菜箸を踊らせる痩身の男は心底楽しそうだ。
いいな、とロナルドは思う。こういうの、好きだな、と。キッチンのカウンターを挟んで行き来する他愛のない会話は心地良い。独りきりでは不可能なこと。ドラルクがなし崩しに住み着いてから生まれた時間だ。
幼い頃の記憶が戻ってくる。
夕飯を用意する兄の背中に向かってよくおしゃべりをした。今日のこと、明日のこと、妹のこと。捕まえたオニヤンマのこと、公園で初めて会った子のこと、触らせてくれた野良猫のこと。何でも話した。
返事してくれる大好きな兄の声と、寄りかかってくる妹の体温とがあれば、世界にはなんにも怖いことなんかなかった。
ここにあるのは、あの時とよく似た空気ではないか。
急に鼻の奥がツンとして、ロナルドはソファの背もたれに顔を押し付けた。滲んでしまった涙をごまかそうとしたのだが、こういう時に目ざとい吸血鬼はすぐに気づいてしまう。
おやおや、坊やがベソをかいている。ジョン、お兄ちゃんしてあげて。声は柔らかく響いた。煽りも茶化しも入っていないただ優しい声音に、ロナルドの胸がきゅうとなる。こういう所があの男はずるい。おかげでロナルドはいつもなぜか苦しくさせられるというのに。
ソファに登ってきたキャラメル色をしたまろい形が、その小さい手で銀の髪をなでる。ヌーヌ、と心からの思いやりをこめて、小さい弟にするように優しく。
ふわふわ、砂糖菓子のような、しめつけられる、走り出したい、弾むように、甘い、幸せな。
そう、これはきっと幸せの手触りだ。
ロナルドは思い浮かんだ単語達の中でひとつだけ、保留にすることを決めた。
最後に浮かんだ、いとしい、という言葉。
このくすぐったさの理由が、何か他にもあるとしても、まだ、気づかなくていい。名付けなくてもいい。そう思ったからだ。今は、ここにある明るくて暖かい場所を大切にしたい。それだけで満ち足りることができるから。
寂しがりの青年は、同居人達に囲まれたリビングで少しだけ、ほんとうにほんの少しだけ、青い瞳から水分をこぼした。
◇
後日、退治人事務所のある日が書かれたエッセイは、優しい視線とピュアさがかわいいと好評を博す。さらに一部では、公式が最大手と叫ばれたとか叫ばれなかったとか。
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