カルデアレジデンス409⑨

藤丸春のパンまつり

 カスタードとイチゴのデニッシュ。
 ふんわりとろけるブリオッシュ。クリームチーズを挟んだベーグル。ハムとトマトのずっしりパニーニ。
 パラダイスである。天国である。
 新しくデパ地下に開設されたパン特設販売エリアは、立香の瞳を輝かせてお星さまにしてしまう、そんな蠱惑に満ち満ちていた。
「おお…… おおお……
「まるで神威に触れた宗教者だな」
 感嘆のうめきを上げる立香の隣で、反して冷静な巌窟王が呟く。今日はスタンドカラーのシャツにループタイ、そしてジャケットを羽織った素敵な装いだ。その格好良さに負けないように、立香も白のシャツワンピースにボリュームスリーブのショート丈ブルゾンという姿で挑んだのだけれど、正直おしゃれとかどうでもよくなっている。
 右見てフォカッチャ、左見てバゲット。振り向けばライ麦サンド。
 どこもかしこもパンだらけで、まさに春のパン祭。ご機嫌にならないわけがないのだった。
「ほんとにどれでもいい? いっぱい買い込んでも怒らない?」
「賞味期限を把握した上であれば、な。おまえの部屋ならばともかく、我が家の冷蔵庫はさほど混み合っていない」
「三日、三日分までにしよう。それ以上はおいしく頂けないので!」
「道理だ。鞄を寄越せ、両手を空けろ。消毒は」
「爪の間までオッケーです」
「ならば良い。存分に我欲を貫け」
「アイサー!」
 お許しが出た。トングとトレイを手に突撃である。
 立香の今日の目的は、しこたまパンを買い込むこと――その理由はただひとつ。
「勉強だからね! これは! 将来のための!」





 それは、立香が巌窟王の自宅の鍵をもらい受けてすぐのこと。
 彼の部屋で夜食のクロワッサンを口に運び、その時走った衝撃が全ての発端だった。
「うまっ。なにこれ、うま……
 語彙を忘れた立香は呟く。キッチンに立っていた巌窟王が、ん、といつもの短い鼻音を漏らし、こちらを振り返った。
「行きつけのBoulangerieの品だが、気に入ったか」
「ぶら?」
「ベーカリーと呼べば分かるか」
「あ、パン屋ね。フランスだとぶらんじぇりって言うんだ」
「粉から製造している店であれば、そう呼ぶ」
「なるほど。だから美味しいのかな」
 しげしげ、立香はパンを見つめて思う。
 サクサクの生地は何層になっているのかも分からない。破片が散ってしまうのが難点だが、その問題も踏まえて巌窟王は、テーブルにランチョンマットを敷いてくれていた。
 齧る。咀嚼する。パリサクじんわり、幸せが満ちる。
 更に程よい温度にぬるくなった苦めの珈琲が、バターで飽和する口の中をさっぱりさせてくれる。これは無限に食べられてしまう。大変なことだ、カロリーが爆発する。だけれど手も口も止まらない。
「なくなってしまった……
 まさにぺろりと食べきった、その後の切なさといったらなかった。
 誰だろう、おなかすいてないとか言っていたのは。結構な大きさのクロワッサン二個を五分もかからずに食べ終えてしまった。しかも胃もたれがしなさそうなこの後味の良さ。間違いなく今まで食べたクロワッサンの中で最高のお味だった。
「こんなおいしいパン、どこで売ってるの? 行きつけってことは近所?」
 立香が問うと、巌窟王はコーヒーサーバーを手にキッチンから戻ってきた。ワンルームの狭さで数歩。それだけですぐに隣にたどり着く。
 空になったカップに新しく珈琲を注ぎ、砂糖を一つ落とす。巌窟王の分ではなく、立香の追加分を、彼は先に淹れるのだった。
「正しくは近所だった、だな。閉店するそうだ」
「ありゃ、それは残念」
「同感だ。日本のパンは悪くないが、あの店は懐かしさを味わえた」
 何でも店主がフランスに帰るらしく、それで店じまいとのことだった。ますます立香は残念がった。巌窟王が好む味をもっと知りたかった。それに――
「おいしいパンはいくらでも食べたい。わたし、夢だったんだよ」
 藤丸立香十歳の頃の夢は、パン屋さんで働くこと。
 それを聞いて、ぴくんと巌窟王が片眉を持ち上げた。
……初耳だが」
「? そりゃそうだよ、言ってないもん。てかわたしたち出会ったばっかだよ?」
「いや。……良い。続けろ」
 ぎゅっと眉間にしわを寄せた、難しい表情だった。何だろうか、偶に見る不思議な顔だ。
 あんまり気にしないことにして、立香は続けた。パン屋になるのが夢だったこと。理由は単純に、パンが好きだったから。同年代の女の子が憧れから花屋やケーキ屋になりたがるのと同じように、小麦色のこんがりした焼き目やジャムの宝石のような輝き、漂うバターの香りに魅せられた。好きなものに囲まれて生活したかったからなりたいと思った、それだけのかわいらしい理由だった。
「でもほら、大人になると現実が見えるよね。激務だって知ったし、なんかそんな、ふわふわした理由で目指したら本気の人に申し訳ないって思ってさ」
「それで、諦めたのか」
……じつは、ちょっぴり」
 諦めが悪くって。と、立香は頬を掻いた。
「いま大学で、修士課程まで行きたいんだけどさ。でも調理系の専門学校にとも思ってるんだ。やりたいこと多くて困っちゃうよ」
 そうなのだ。
 勉強は楽しい。今学んでいることをきちんと結果として得たいと願っているし、そのつもりもある。だけれど幼い憧れは未だ消えず、目指したっていいじゃないかと小さな自分が胸の内で囁くのも事実だ。
 それなりの迷いもあった。今から目指して叶えられるものか、そんな生ぬるい道では、決して無いのに。
 だから今のところは、ただのパン好きな大学生なのだ――
 と、立香は締めくくり、甘い珈琲をこくんと飲み下した。
 巌窟王はそうか、と、短く頷いて、自分の分のカップを傾ける。
 視線は立香に注がれていた。ワンルームマンションにしては質が良すぎるソファに並んで沈み込んで、二人。なんとなく見つめ合う。
 それから、いつもより少し柔い声で、彼は言った。
「遅すぎるということはない、何事も」
 ゆるくカップを揺らし、赤い瞳が細くなる。
「学業も、目標も、為さんと欲するならば叶えるだろう。おまえはそういう女だ」
「お、おお……? すごい出来る子評価してもらってる……
「その場凌ぎの慰めではない。確信だ」
 言って、また珈琲を一口。
 そして――小さな声で、
「そうか。星の夢、か」
 そう、呟いたように聞こえた。
 意味が分からず立香は首を傾げる。ひょっとしてフランス語のことわざみたいな、そういうものだろうか。彼はよく立香が知らないことを独り言みたいに口にするので、分からないも慣れっこになりつつあった。
 だけれど、悪い意味で言っていないことだけは、分かる。
 多分応援してくれているのだ。だったら笑ってありがとうと言うしかない。右肩にこつんと頭をくっつけて、立香はお礼を言った。ついでにぐりぐり懐いておいた。
「キミがそう言ってくれると、ほんとにどうにかなっちゃう気がするよ」
「いいや、違う。私は手を貸すのみ。歩むのはおまえの足だ」
「手を貸すって、何を?」
 ひょっとして伝手とか、そういうのがあるのだろうか。
 おいしいパン屋を知っていた巌窟王だ。そして、未だに普段何をして、どこで働いているのかも不明瞭な男である。先日の彼氏紹介会でしつこくジャンヌが聞き出そうとしたが結局上手く行かなかった。立香的にはさほど気にすることでもないので、教えてくれる気になったらでいい、と思っているのだけれど――
 ともかく、手伝い。
 とは何ぞや。首を傾げると、巌窟王はにっと口の端を持ち上げて、意味ありげに笑った。
「駅前のデパートに、巨大なパン特化のエリアが開通したらしいが、既知か」
「あ、知ってる! あれすごい気になってたんだよね、ワンフロアパンのみってすごいよね! ……って、もしかして」
 期待に立香は目を見張る。思っていた通り、巌窟王は肯定の頷きをくれた。
「今週の休日、おまえの小間使い業に暇があるのならば。
 現代日本における小麦食品の流行を探るべく、敵情視察というのは――どうだ?」