「こっちは風信。私の侍衛で、仙楽国で一番の弓の遣い手だ。他にも剣や体術もかなり優れていて
………」
「殿下、言い過ぎです」
太子殿下から絶賛され、いつも険しい顔をしている少年は照れ臭そうにボヤいた。
慕情はその時、初めてまともに風信と言う少年を見た。
今まで、太子殿下に常に付いて歩き、こちらを睨んでくる奴と言う程度の認識だった。
風信は頭を掻くと、慕情をジロリと睨んだ。しかし、その目元はまだ赤く染まったままだ。
「まぁ、そう言うわけだ。よろしく」
そう言って手を差し出して来たから、儀礼に則って拱手をしようとしていた慕情は呆気にとられてしまった。
幼くして殿下の侍衛と成るだけの地位に生まれただろう奴が、城下町でも下層の生まれの慕情に対してそんな事をするとは思ってもいなかったのだ。
「
……………よろしくお願いします」
慕情は恐々とその手を握り返した。
「ああ」
風信はやっぱり素っ気なく言うと、手を一瞬ぎゅっと握り返して手を引っ込めてしまった。
目を丸くする慕情に、風信は横目で伺うような視線を向けるとバツが悪そうに吐き捨てた。
「俺は、こーゆーのはガラじゃ無いんだ!その、気を悪くするな!」
そっぽを向いてしまった風信と反応に困る慕情の様子を、殿下が微笑ましげに見ている。
「ほら、仲良くするんだ。君達は今日から等しく私の侍従なのだから」
その日から、慕情は太子殿下の侍従として、二人と多くの時間を共にする事となった。
そのまま、殿下の侍従として、風信とは遠くは無いが近くも無い関係でいるのだと思っていた。
タァン、と音を立てて木に据えられた的のど真ん中に矢が突き刺さる。
的と言っても、手の平にも収まるような板に歪な丸が書かれただけの物だ。
歪なのは、風信が自分で書いたからだ。
的くらい支給して貰えないのか?と尋ねたら、風信は平然と「真ん中しか使わないんだから、デカい的は邪魔なだけだ」と言った。
言葉の通り、風信が真ん中以外を射抜く姿は
……………狙いを寸分でも違える姿は、一度も見た事が無かった。
「相変わらず見事ですね」
仙楽宮の庭を掃きながら呟くと、風信は矢を番えながら「当然だ」と言った。
何とも尊大な態度だが、風信が言うと不思議と嫌味には聞こえない。
むしろ、褒められて喜ぶ犬が連想される。その証拠に、風信の次の一矢は見せ付けるように、より鋭い音を立てて飛ぶと的の更に向こうの林に吸い込まれていった。
的を外したのでは無い。
慕情が目を凝らすと、矢は仙楽宮の裏に広がる林の中でも一際太い楓の木に刺さっていた。
矢には、真っ赤な紅葉が射止められている。
木々の間を縫い目当ての木に当てるだけでも神業なのに、舞い落ちる紅葉の葉を射止めるなどもはや常軌を逸している。
どうだ、と言う目で風信が慕情を見た。そのキラキラした目を見ていると、不思議と捻くれた気分になった。
「人間離れした腕前ですね」
慕情が正直な感想を述べて口元を引き上げると、案の定風信は不服と喜びの入り混じった表情を浮かべた。
「お前は素直に褒められ無いのか?」
「“当然”なんでしょう?ならあからさまに褒める方が失礼かと」
シレッと答えてやると、風信は眉と口元を歪めた。
「お前、可愛げが無いな」
「可愛げじゃ飯は食えませんから」
風信の悔しげな顔がおかしくて、ふふっと笑いが溢れた。
侍従となり、一年近くが経つ。
風信と言うのは太子殿下相手にも歯に衣着せぬような男で、慕情に対しても長年の友のような気やすさで接して来た。
そのせいで、いつの間にか慕情の態度も随分と砕けた物となっていた。
ただ、家族でも無く、友人でも無いこの感覚をどう受け止めれば良いかは分から無い。
傍目からは、二人の関係は一線引いた物に見えているだろう。
その妙な感覚の正体を自覚してしまったのは、十五になった秋の頃だった。
とある、一段と冷えた朝。
風信が難しい顔で喉を押さえながら起きて来た。
既に自分の道房から仙宮へと参じていた慕情は、寝乱れたままのその姿に呆れを浮かべた。
「何てみっともない格好をしてるんですか?せめて着替えくらいはしたらどうです」
いつもなら二言三言は言い返してくる風信は、ただ顔を顰めたまま言った。
「
……………………のどがいたい」
「風邪ですか?」
確かに声が掠れている。
慕情は持っていた洗濯物を置くと風信に近寄った。
普段から患った母親を看たり、身寄りの無い子ども達の面倒を見てやっているので、病気や怪我に関しては多少の心得があった。
風信はいつに無く情けない顔で「腕と足も痛い。関節が外れそうだ」と言った。
節々の痛みは風邪らしい症状だが、風信の様子からして違う気もする。
口を開けさせると、風信は大人しく従った。
腫れてもいないし、首筋に触れた感じでは熱も無い。
と、その喉元が少し出っ張っているのに気付いた。
「
……………………」
無防備な喉に触れると、風信がビクッと身を強張らせた。
「ど、どうした?」
風信の言葉に合わせ、その出っ張りがビリビリと震える。
慕情はそれを指先で撫でながら言った。
「安心して下さい。単なる声変わりです」
「こえがわり?」
風信は目をぱちくりとする。
慕情は「ええ」と静かに頷いた。
「手足の痛みが引くまで、あまり弓は触らない方が良いかも知れませんね。無茶をしなければ数日で痛みは引くと思います」
慕情は風信の目線が少し高くなっていた事に今更気が付いた。
元から少年離れした体格を持っていたが、肉体が一人前の男へと変貌しようとしているのだ。
そう言えば、顔立ちもどこか精悍さが増したような気がする。
何故か、心臓が妙な鼓動を打った。
「不都合が出るようなら、殿下や国師に言って侍衛の任は数日休んだらどうですか?」
妙な動揺を悟られないように一際皮肉じみた笑みを浮かべれば、風信がすかさず怒鳴った。
「殿下のお付きくらい、両腕が折れてたって出来る!!」
掠れた声で怒鳴り、直後にゲホゲホと咳き込む。
「言ってる側から不安しか無いですね」
その背をさすってやりながら、慕情は小さく笑った。
それから、数日後。
早朝、晴れやかな顔で風信が慕情の元に来た。
「治ったみたいだ。世話になったな」
開口一番そう言った風信の声はもう掠れてはいなかった。
「慕情」
低くなった声で呼ばれた瞬間、慕情の頭の芯がビリッとした。
殿下よりも誰よりも真っ先にこの声を聞いたのが自分だと言うのが、何故か無性に嬉しかった。
「別に
………私は何もしてませんよ。放っておいても勝手に治るものでしたし」
「喉によい薬湯を淹れたり、痛みを和らげる按摩をしてくれたりしただろう?」
単なる事実だ。指摘された所でどうとも思わない筈なのに、風信の真っ直ぐな言葉にやけに居心地が悪くなる。
黙り込む慕情に、風信は首を傾げた。
「慕情?
……………………具合が悪いのか?なんだか顔が赤
…………」
無遠慮な手の平が慕情の額に触れた瞬間、思わず手を払いのけていた。
「さ、触るな!!」
「す、すまない」
風信が目をまん丸にする。
慕情は乱れた前髪を整えながら、顔を背けた。
頬がやけに熱くなっているのが自覚出来た。
その熱は、何故か風信の低い声を聞く度に増すのだ。
「慕情?大丈夫か?」
「
………………いえ、こちらこそ
………咄嗟にすみません」
ボソボソと呟く声がやけに掠れる。
今度は慕情が声変わりを迎えたのだと思いたかったが、どうやら変わろうとしているのは別の何かだった。
大丈夫じゃない、と内心唸る。
いつの間にか、慕情は風信に友人にも家族にも当てはまら無い感情を抱いていた。
◆◇◆◇
「慕情に最近避けられてる」
どよんと効果音が付きそうな様子で項垂れる風信に、謝憐は何とも言えない顔をした。
慕情は、元から必要以上の接触はしない性格だ。必要な事があれば喋るし、必要が無ければ黙っている。
避けるも何も、元から近寄っては来ない印象だった。
「うーん、その、具体的にどう避けられてるんだ?」
問いかけると、風信は少し考える素振りを見せた。
「言葉が素っ気なくて、態度も素っ気なくて、どんなに話しかけても適当にあしらわれて
……」
「それは
……………」
謝憐は眉間を揉んで、慎重に考えながら言った。
「今まで通りじゃないか?」
むしろ、にこやかかつ親身に人の話を聞くようになったと言われた方が正気を疑う。
「それは
………そうですが
………」
風信もそれは同意するしか無い。
同意はするが、でも違うのだ。
言葉の端々が何と言うか、余所余所しい。かと言って怒っているのでも無さそうだし、話しかければ必ず返事はしてくれる。早々に会話を切り上げられるが。
今だって、風信が謝憐と話しているのを良い事に、座学の復習をすると言って自分の道房に籠ってしまった。
どこかおかしいが、空気が悪いわけでも無い。
どちらかと言うと風信と慕情の間にある空気はむしろ良いものだと思うのだが、とても良好かつ円滑かと言われれば、違うと言うしか無い。
黙り込んでしまった風信に、謝憐は腕を組んで唸った末、微笑んだ。
「慕情もほら、今は修行に打ち込んでいるのだから、素っ気なく見える事もあるだろう。勿論、二人が仲良くしていてくれた方が、私としても嬉しい。何か力になれる事があったら何でも言ってくれ」
「はい
…………」
風信は納得いかないまま頷いた。
その頃から、風信は妙な居心地の悪さの理由をずっと探していた。
むしろ、おかしいのは風信の方だった。
一心不乱に弓の修練に打ち込み、ふと木陰によく冷えた水が用意されているのを見付けた時。
慕情が何かを振り払うように剣の修練に打ち込むようになった時。
皇極観の門下生達が公然と慕情の悪口を言っていた時。
風信の心はやけにざわついた。
汗だくになって弓を引く風信の為にわざわざ冷たい湧き水を届けてくれた事に気付けば、何故一言かけなかったのかと憤然とした。
そもそも、少し前までは風信が弓を引いていたら何だかんだ近くで見ていたと言うのに、最近は見ようともしない。
剣の手解きを殿下から受けている姿を見れば、何故真っ先に自分の元に来ないんだと不愉快になった。
風信とて、剣は一通り扱える。国師や殿下には及ばずとも、皇極観の弟子達よりは余程腕が立つ自信があった。
常々身分やら振る舞いやらをあれだけ気にしているのだから、殿下に直接教えを受ける前に、まず風信の元に来るべきだろう。
あと、皇極観の弟子達だ。慕情の生まれの事や、度々母親の様子を見に下山する事を当て擦り、やたらと慕情の悪口を言う。
殿下の侍従となったのが気に食わないのならそう言えば良いし、殿下に直訴すべきだろう。慕情を侍従に据えたのは殿下なのだから。
大体、それを黙って聞いている慕情も気に食わない。あれだけ口が立つくせに大した反論もせず、目に余ると殿下が注意しようとしても、弟子達の間に不和をもたらしたく無いからとそれを制止するのだ。
それから
………………
そんな事ばかりがチラついて、ちっとも集中出来ない日が続いた。
心の迷いはそのまま弓に現れる。
気を落ち着ける為に放った矢は、あろう事か的の中心から
一寸 もズレた。
「クソッ」
弓を抱えたまま、風信は地面に座り込んだ。
汗で張り付いた前髪を乱暴に払い除け、深呼吸をして気分を無理矢理落ち着けようとする。
(大体、慕情が何を考えてるか分からないのが悪い)
不貞腐れたように心の中で吐き捨て、ふと疑問が過った。
風信は人の内心を察するのが正直苦手だ。殿下の言動も読めずにしょっちゅう振り回されているし、国師や他の弟子達の思考もわけが分からない。
他人の思考など別に知りたいとも思わないのに、慕情の思考だけが何故こんなにも気になるのだろう。
その答えは、意外にもアッサリと見つかった。
気配を感じて振り返ると、慕情が立っていた。
その手には竹筒を持っている。またこっそりと水を置こうとしていたのだろう。
風信と目が合った瞬間、慕情があからさまに動揺したのが分かった。
あの淡白な慕情が、こんなに分かりやすく驚く様を初めて見た。
「な、何で弓を引いて無いんですか?」
やけに責めるような口調で慕情が風信を睨んだ。
弓の修練に励んでいるのはあくまで風信の意思であり、いつ休憩しようが責められる筋合いは無い。
だが、理不尽な言葉に腹はたたなかった。
「水か?助かる」
声をかけると、慕情はギクリと身を強張らせ、それからそろりと近付いて来た。
「
…………………………倒れられても困るので」
顔を背けながら、慕情は竹の水筒を差し出した。
その声は記憶していたより少し低い。いつの間にか、慕情も声変わりし始めていたのだ。
そう言う慕情もさっきまで剣の稽古でもしていたのか、白い頬は紅潮していた。
風信は手を伸ばし、
「
………………っ!?」
慕情が跳ね上がる。
風信は水筒では無く、慕情の手首を掴んでいた。
「な、な、何を
………」
「慕情」
風信が呼びかけると、慕情の動きがピタリと止まった。
至近距離で顔を覗き込めば、動いているわけでも無いのに、何故か耳朶にまで赤みがさす。
慕情は色の薄い唇を噛み、目を逸らして表情を消していた。
好意的とは真逆の反応な筈なのに、何故か無性に胸が躍った。
これは、もしや。
「照れてるのか?」
思ったそのままが口から出た。慕情は目を見開き、わなわなと震え出した。
風信がとんでもなく失礼で配慮のカケラも無い言葉を吐いたと言わんばかりだ。
「訊くな!!何を考えてるんだお前は!?」
思わず叫び、慕情は我に返って口を抑えるとバツが悪そうにまた視線を逸らした。
「
…………どこに照れる要素があるって言うんですか?」
不貞腐れたような言葉が、やけに耳に心地よい事に気付く。
風信は慕情をじっと見ながら呟いた。
「そのままで構わないのに」
「はい?」
「口調。俺には敬語を使う必要は無いだろ。いや
………………使わないでくれ」
「
………………………ッ」
掴んだ慕情の手首が小さく跳ねる。
「そうはいかないでしょう。国師に叱られるのは私です」
慕情が淡白に言う。風信は必死に言い募っていた。
「なら、二人きりの時だけで良いから」
どくり、と心臓がまた強く打った。
それを悟られたく無いから何とか逃れようとするのに、風信の手が慕情を掴んでむしろ引き寄せてくる。
出会った当初に握手した時よりも骨張り、大きくなった手の平は振り解けない程に強く、熱い。
人が平静を装おうとしていると言うのに、コイツときたら慕情の心を乱して追い詰める事しかしない。
だから避けていたのに。
あまつ、二人きりの時は、なんて言うから、嫌でも意識してしまう。
風信に対する口調を崩せば、国師や兄弟子達に見咎められると言うのは嘘では無い。面倒なので避けたいのも事実ではある、が。
敬語と言う分別が壁となって、風信への想いや態度を押し留めさせていると言うのに。
ただでさえ薄くなっていくその壁を、よりにもよって風信が無遠慮にぶち壊そうとしてくる。
怒りで頭がおかしくなりそうなのに、それ以上に嬉しさを感じてしまうのが心底タチが悪い。
慕情が言葉を見失っていると、風信が少し不安げに顔を見て覗き込んできた。
「
……………嫌なのか?」
表情も、声色も、言葉も。
全てにおいて、こんなにも卑怯な男だっただろうか。
こんな問い方をされたら、慕情に否定など出来無いのに。
「嫌、と言うわけでは、無い」
ぎこちなく返せば、風信の目が嬉しげに細められた。
ああ、クソ。
笑うなんて反則も良いところだ。
「後で、やっぱりムカつくとか言うなよ?風信」
動揺だとか葛藤だとかでぐちゃぐちゃな内心を悟らせない為に、ヤケクソ気味にフンと鼻を鳴らして笑い、ついでに呼び捨ててやる。
しかし、すぐさま後悔した。
「言わない。慕情」
風信は何とも嬉しそうに宣言した。
二人の関係が均され、新しい関係が芽生えるのは、少し先の話だ。
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