日付が変わる少し前。車も少なくなった、駐車場を横切る。しゃり、しゃりと足元から音がせり上がってくる。数年前に買った長靴の底越しにまるっこい石を踏みつけて、土踏まずに鈍い痛みを感じながら歩みを進めていく。さすがに買い替えどきだな、とぼんやり考えた。流行り廃りに関係なく履けるデザインを選んだつもりだったけれど、経年劣化には勝てなかったようだ。いっそのこと開き直って、今度はトレンドものを購入してやろうかと思う。肩をひっつけながら2人で覗き込んだ雑誌の特集を頭に浮かべる。今後しばらくの収入のことを思い返して、それから隣の靴を見やる。自分のそれとだいたい同じサイズの足跡が、毎秒単位で生産されてゆく。
「雨、降りませんでしたわね」
「そういうこともあるぴゅる」
「予報なんて、あいまいなものですから」
まあ、大雪が降るような時期は過ぎたし、梅雨はまだ先だし。仕方ないでしょうと独り言のように呟くと、ぴゅる、と同意だか異議だかわからない返事が戻ってきた。
視線を向ける。マフラーで口元が隠れていて、表情がいつもより幾分読み取りにくかった。目があって、ぱちぱちと大きな青の眼が瞬く。まばらに設置された電灯の金色の光が映り込んで神秘的といえば神秘的であった。宇宙的ななにかを感じないこともなかったが、どうせ本人は大したことは考えてないんだろう。良くも悪くもいつも通りだと思った。石畳の道は、今日も変わらず歩きやすい。
「なんか、失礼なこと考えてるぴゅる」
「あら、それはわかるんですか」
「モアのチョコまん、あげないぴゅる」
「こんな時間に私は食べません」
あたたかいコンビニのビニール袋を、彼女が抱きしめる。いらないですけど、と否定した声は思ったより呆れた調子になった。自分は夜遅くにあま〜い炭水化物を摂取するほど、危機感のない女ではない。部屋でこの宇宙人と駄弁っていると、たまに食べてしまうけれど。たまにだ。
「ふふん、どうせバレンタイン後にはチュチュもチョコ地獄ぴゅる。バレンタインフェス以外に、モアたちからもチョコをお届けするし。あ〜あ、大変ぴゅる」
「はあ?メンバー内でも交換したいぴゅる〜、とかお気楽なことを言い出したのは誰でしたの、この忙しい時期に」
「チュチュ」
眉をひそめて、人差し指でさされる。あまりにも不本意だったので、嘘おっしゃい、とぴしゃりと告げて頭を小突く。ぴゅ、悲鳴とも文句とも取れない呻き声と共にアンテナが間抜けに揺れた。この女の反応は、いつもどう捉えていいか迷う。
「シアンは3人分、別の種類を作るって言ってましたわね」
「すごいぴゅる」
「レトリーは最悪買うけどごめんって言ってましたけど、まああの子のことですし、練習してでもどうにか作ってくるでしょうね」
「楽しみぴゅる〜」
「具体的には?」
「シアンへの本命チョコ、すっごい気になるぴゅる」
赤信号が目に留まる。横断歩道の手前で立ち止まって、ぼそぼそと話し合う。白い息が糸のように延びていって、交差点の上に消えていく。車が数台走り抜けて、冷たい風がマフラーを揺らした。耳当ても持ってくればよかったかもしれない。
「私たちにも見せてくれるんでしょうか。まあ見た目は同じものかもしれませんけど、シアン宛はまず間違いなく本命ですわよね」
「たぶんシアンもそうすると思うぴゅる。クオリティはモアたちのやつも揃えてくれるし、込めてくれる気持ちも同じくらいだろうけど」
「そこは、まあ、自惚れますけど。お互いに向けては気持ちのジャンルが違うってことですわね」
「甘酸っぱいぴゅる〜。やっぱりイチゴチョコかも」
「ふふ、本当に。あの2人、実はもう付き合ってるんじゃないのかしら」
「チュチュは?」
どうするの、と。右折してきた車の真っ白なライトに照らされた横顔が、ふとこちらを向く。まんまるの瞳が、自分の顔を映し込む。弾んだ会話の割には、つまらなそうな顔だった。
ああ、その話題は隙を見て自分が吹っかけようとしていたのに。本当に勘が鋭くて、真っ直ぐで、いやな女だ。
「私は」
頭上から降り注ぐ光が、青へと変わる。向かいの信号が、同じ色を示していることを確認する。彼女の手袋をはめた右手をとって、傷んだブーツを踏み締めて歩き出す。反対の手には、ホットスナックの入ったビニール袋。自分の右手には、のこりの2人へのお土産のアイスクリームと、低脂肪のヨーグルトが入った冷たいビニール袋。
「私は皆さんに、同じものを渡すつもりです」
「モアもそうするぴゅる」
「気持ちも、同じ種類のものを込めますわ」
引っ張るように歩き出したつもりだったのだけど、いつのまにか彼女は真横に立っていた。一度手を握り直して、そのまま横断歩道を渡り切る。
「きっと、来年も、再来年も」
「チュチュがそうするなら、モアも同じぴゅる」
つま先は、機械的に事務所兼自宅に向かう。結局雨も雪も降ることはなさそうで、寂れた看板はすでに目視できる位置にまできていた。
「ねえチュチュ、モアはチュチュのこと本当に大好きぴゅる」
「私もですわ」
あとちょっとで到着するというのに、待ちきれなくなったのか彼女は結局ビニール袋からチョコまんを取り出した。2月限定の、あんまんよりすこし高級な季節商品だ。
「チュチュはカッコいいし、美人だし、性格も良い…良いところの方がたぶん多いし、いつも一生懸命で、モアはほんとに尊敬してるぴゅる」
「ええ、私もあなたが好きですよ。たまにあなたのことがよく分からなくなることもありますが、それもひっくるめて、きっと全部が」
紙袋のセロテープを剥がして、中身を取り出す。当たり前のような顔をして、真ん中からふたつに割る。両手で片方ずつを持って、目を細めて吟味しているようだった。握った手は、とうに離していた。
「特別だと思ってるぴゅる?」
「勿論」
左手に持ったほうを差し出される。小さい方だった。シェア先が夜間の摂取カロリーを気にしていることを考慮した動作にも見えないことはないが、間違いなく自分が大きい方を食べたいだけだということが自分にはわかった。
「それは嬉しいぴゅる。へへ、一生の自慢ぴゅる」
受け取ったそれをさらに千切って、破片を彼女の口に突っ込む。まだデカい、この時間に食べていいサイズではない。相手はぴゅる〜、と鳴きながら、満足げに咀嚼した。
「あら。星に帰っても私たちのこと、誰かに話してくれるんですか」
「当然ぴゅる。お土産話は多ければ多いほど良いぴゅる」
「それはどうも。……ねえ、私たち」
ずっと良い友達で居ましょうね。続けようとした言葉は吐き出さずに、すこしぬるくなったチョコまんを口に入れて塞ぐ。彼女もなに、と聞き返すことはなく、残っていた白い皮パン部分をちょっと押しつぶしてから大きな口に放り込んだ。目線が、『割と喉がパサパサしています』と語っている。自分はもう飲み込んでいたので、空っぽになったビニール袋を彼女の手から回収しつつ首を振った。
「私のヨーグルト、ドリンクタイプじゃありませんから。さっさと帰ってお茶でも淹れましょう」
「へひ」
「ケチじゃありません。あなたが歩きながら、器用にヨーグルト食べられるわけないでしょう」
そもそもこんな時間にあまり甘いものを食べるのはよくない、と小言を続ける。体重が増えるとか、スタイルが崩れるとか、お肌の調子が乱れるとか、云々。
「こんな生活、続けるのは絶対ダメですよ」
「MIDICITY来てからぴゅる、というかチュチュに会ってから」
「はあ!?あなた、もしかして私のせいにしました今!?」
責任転嫁された怒りにぺちゃんこに戻った頬を思わず引っ張ると、情けない顔をして謝ってくる。催促してもう一度謝罪の言葉を受け取ってからパッと手を離したところ、イテテと嘆きながら彼女は反対の頬を撫でた。痛みが貫通した?
「……まあ、宇宙渡るにも健康状態ってけっこう大事だし、搭乗や操縦にもいろいろ制限もあるし……それなりには気をつけるぴゅる」
「それならいいですけど」
「……もし宇宙船に乗れなくなったら、その時はここにずっと、」
「嘘おっしゃい、そんなことがありますか」
願い事を口に出すと叶わなくなるとか、はたまた口に出すことで叶いやすくなるだとか、そういった願掛けみたいなものにあまりは興味はないけれど。明らかな嘘を彼女の口から聞かされるのは、少々不快だった。
「ごめんぴゅる〜」
「…いえ、別に。バレンタイン、被らないように今度相談しましょうか」
こういった流れは初めてではなかったので、彼女の返事も割と軽めの声色だ。ナゴナゴファッサグアにすると言い出したので、それならまあ打合せは不要ですかね、と軽口をたたいた。
ガラスのドアの取っ手に指をかける。到着した古いビルの、オンボロネオン看板のヴヴン、とした音が頭上から響いてくる。エレベーターのボタンを一個、自分の部屋のフロアのものだけ押す。屋上は押さない。通り過ぎるふたつの部屋が静かであることを確認したので、足音を立てないように気をつける。立て付けの悪い鍵を開けて、ただいまと無人の部屋に声を掛ける。当たり前のように、自分の後に靴を脱いで、彼女がプライベートルームに入ってくる。手を洗面台で軽く濯いで、冷蔵庫のドアを勝手に開けられる。オレンジジュースがない、とか言い出したので、いつでもあると思うなと返して手元のビニール袋を渡す。冷凍庫の方の扉を引いて、アイスクリームを棚に並べているもこもこのかたまりを見下ろす。
あと何年こうしていられるのだろうか、そうなんとなく考える。たとえ突然、明日終わったとしてもそれは歴史的にも常識的にも正しいことで、責められる悪い人も誰一人いやしなくて。空っぽになった屋上について、自分は誰にも文句を言うことができないというのは。
それは、すこし淋しいなと思うのだ。
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