昼休みが、あと10分程で終わりを迎えようという頃だった。敦くんと鏡花ちゃんが可愛らしいウサギの形をしたクッキーを仲良く分け合って食べている姿を微笑ましい気持ちで眺めながら、私は手の中の端末を目的もなく弄んでいた。
朝は冷え込んだが、日が昇った今はこの時期にしては随分暖かい。暦の上では春とはよく言ったもので、柔らかな日差しは春の陽気を思わせる。
ここのところ込み入った事件もないし、急ぎの案件もない。期限切れの書類は溜まっているけれど、ガミガミと文句を言う国木田くんは外出中で、今日は定時間際まで帰ってこない予定だ。
なんて平和な日だろう。
眠気を誘う温かさをぼんやりと堪能していると、握っていた端末がメッセージアプリからの通知を告げた。差出人表示は「蛞蝓」という見慣れたもので、脊髄反射でそのメッセージを開いた。
そこに並ぶのは「今日から1週間ぐらい出張」の文字。
思わず口から飛び出しそうになった単音を飲み込んで、丁寧に読み直す。
「今日から1週間ぐらい出張」
今日から、ということはおそらく私が帰る頃にはもう出発しているのだろう。もしかしたらもう出発しているかもしれない。
1週間ぐらい、ということは帰るのは6日〜8日後?
は?
先程打ち消したはずの単音を脳内で生成する。
そう言うことはもっと早く言いなよ。
毒吐きながら考えるのは鞄の中にある中也宛の猪口冷糖だ。
今日は2月13日――バレンタインの前日である。
1月の終わり。世の中がお正月からバレンタインに切り替わる頃から、中也は目に見えてそれを意識し始めた。本人は隠しているつもりなのだろうが、不自然に売り場から目を逸らす姿は私からすれば丸わかりだ。
かつてはバレンタインに貰った猪口冷糖の数を競い合ったこともあったが、それも昔の話だ。私が幹部に上がると同時になくなった。なんせ天下のポートマフィア幹部。文字通り桁が変わる。
だが義理や胡麻擂りどころかあわよくば暗殺を企むような贈り物などうんざりするばかりで嬉しくもなんともないし、今更競い合うような歳でもない。
だから、バレンタインでそわそわする理由なんて「本命から貰えるかどうか」しかないだろう。なんとも可愛いところもあるものだ。だってその本命は私なのだから。
こんなにもわかりやすく期待されれば、応えてやるのも吝かではない。確かにお互いはっきり「付き合っている」という認識を持ってから迎える初めてのバレンタインだ。最初ぐらいそういうイベントに乗っかってあげてもいいだろう。そう思って長い付き合いで初めてちゃんとそれらしき物を用意してあげたというのに。
肝心の本人は受け取りもせずにどこか遠い地に旅立つらしい。
今朝話した時には出張だなんて欠片も言っていなかった。急に決まったことなのかもしれないが、それにしたってタイミングが悪すぎる。事前に知っていれば、いくらでも前倒しで渡したというのに。中也があまりにもそわそわとするから、釣られて2週間も前から準備していたのだ。けれど、帰ってくる頃には世の中からバレンタインムードはとっくに消え去っているだろう。
そこまで考えてから、これでは私が渡したくて仕方がないみたいではないかと思い直した。私は中也が欲しがっているから準備してあげたのであって、決して率先して渡したいわけではないのだ。だから別に、本人にその気がないのであれば、こんな猪口冷糖なんて渡す必要はどこにもない。そもそも中也は甘い物なんて好んで食べはしないのだし、自分で食べた方がよっぽど有意義ではないか。
そう決意を固めたところで、タイミング良く正時を告げる時計の音が鳴り響いた。昼休み終了の合図でもあるそれを聞き、思い思いに過ごしていた社員たちが一斉に仕事へと戻っていくのに合わせて、私も端末をポケットへとしまい込んだ。
私は仕事を終えた後、夕食を済ませてから帰宅した。向かう先は中也と暮らす家だ。1週間も不在なら冷蔵庫の中身をどうにかしないといけないかもしれないが、1日ぐらいはどうとでもなるだろう。今日はとてもそんな気分ではなかった。
家主のいない家はしんと静まり返っている。だが、冷え切っているだろうと覚悟していた部屋は、誰もいないのにほんのりと暖かさを保っていた。中也が日中戻ってきていたのかもしれない。
真っ暗な部屋の灯りをぱちんと入れると、食卓には今朝出る時にはなかったはずの小さな紙袋が合った。不自然な位置にあるそれを見て、一瞬忘れ物だろうかと思ったが、すぐにその紙袋にあるロゴが某有名な猪口冷糖店のものだと気づく。
家に持ち帰るなんて珍しい。そう思いながら近づくと、紙袋の近くにメモ用紙が置いてあることに気づいた。そこには「太宰へ」の文字。署名はないが、筆跡は明らかに中也のものだ。
それを見て、一気に全てが脳内で繋がった。
まさか、そわそわしていたのは、自分が欲しかったからじゃなくて、私宛に渡そうとしていたから?
いやでも、君、今までそんな素振りなんてちっとも見せやしなかったじゃないか。脳内で誰にともなく言い訳をする。けれどその裏では、そういえば中也のスマホにバレンタイン特集の検索履歴があったなとか、私がお菓子を食べていた時にちらちらと見ていたなとか、心当たりがどんどんと浮かんでくる。
てっきり私から貰いたいのだと思っていたが、それは私の願望だったのかもしれない。今になって冷静に考えれば、なぜ気づかなかったのかと言いたくなるようなことばかりだ。
鞄を開けると、私が中也宛に準備していた猪口冷糖の包みがある。自分で食べてしまおうと思っていたけれど、賞味期限はまだまだ先だ。社の女性陣からは義理猪口を貰うだろうし、きっとしばらくは猪口冷糖だらけになることだって簡単に予想ができる。
端末を取り出して、メッセージアプリを立ち上げる。宛先は蛞蝓。用件は「私も君宛の猪口冷糖用意してるから、早く帰っておいで」
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