濃い闇に少しずつ朝の光が溶け込んできている。マフィアの時間がもうすぐ終わろうとしている。一晩中働いた身体には些かの疲労が残っているが、興奮した頭は不自然なまでに冴えていた。
寝台に入ってもすぐに眠れるだろうか。幸い明日まで休みなので、寝酒の一杯でも楽しんでから眠りに就こうか。
中也はそんな風に考えながら駐車場に車を駐め、昇降機へ向かう。呼出釦を押す前から昇降機の階数表示は動いていた。こんな時間に住人と会うとは予想外だ。疲れた身体では何をする気にもなれなくて、ぼんやりと階数表示を眺める。1階ずつ順番に上がっていき、やがて中也の部屋がある階で止まり、また順番に下がってくる。
隣人だろうか。交流しないようにしているので、顔は知らなかった。
ポーン
軽い到着音と共に昇降機が止まり、扉が開くと中にいたのは太宰だった。
ああ、なるほど。合点がいった。
2人で目を見開いて見つめあったのは1秒にも満たない時間だった。太宰はすぐに淡い笑みを浮かべた。
「おはよう」
「おう、おはよう」
太宰は昇降機から降りると、猫のような軽やかな身のこなしで中也の横をすり抜けていこうとする。それを脳が認識するよりも先に身体が動いていて、気づいた時には太宰の腕を掴んでいた。
「どうしたの?」
問いかける太宰の声は柔らかい。漏れる吐息が揺れていて、笑ったのだとわかる。
身体が咄嗟に動いたから、理由なんて考えていなかった。問いかけられて初めて自分が太宰ともう少し一緒にいたいのだと理解した。理解はしたが、それを直球で伝えられるような甘い関係ではなかった。もちろん、伝えて了承されるような関係でも。
「あー、その、煙草。切らしてたの、思い出して」
太宰の視線がじっと中也に降り注がれている。冷たくはないが、観察されている。最後まで言えずに言い淀むと、太宰はそれを察したかのように続きの言葉を引き取った。
「じゃあ、ついでに送ってよ」
「おう」
太宰の目元がふんわりと弛む。釣られて中也の口元も緩やかな弧を描いた。
去っていかないとわかると、太宰の腕を掴む手からは自然と力が抜けた。
連れ立って向かう先は駐車場だ。降りたばかりだから、まだエンジンは温かいままだろう。
ホールから駐車場への道のりに会話はない。
車に乗り込むと、まだ車内も十分暖かかった。太宰が安心したようにほっと息をついた。まだ屋内だが寒かったのだろう。
安全帯を締め、胸ポケットの煙草を取り出そうとしたところで先程の会話を思い出してやめた。
滑らかな動きで車を発進させてから、口を開く。
「出社には早いんじゃねぇの?」
「その前にやることがあるんだよ」
「例えば?」
「ゴミ出しとか」
「手前もゴミ出すのか」
「出すでしょ」
嘘ではないだろうが、それだけではないのだろうなと察する。嘘だと見破らせるのは、太宰が中也との間に引いた線だ。そうやって時折明確に線を引かないと、すぐに境界が曖昧になってしまうのだろう。そう思うと、悔しい気持ちよりも自分がまだ太宰の特別であることを感じて密やかな喜びを覚える。
太陽が地平線から顔を出すまで、まだしばらくある。交通量は少なく、速度超過で止められることもない。帰る時にはここぞとばかりに制限速度を超えていたが、今はあえてゆっくりと走っている。信号の遥か手前から緩やかにブレーキを踏む普段とは程遠い運転にも、助手席の太宰は何も言わない。
それがなんだかくすぐったくてちらりと横目で様子を窺ったが、窓の外に意識を向ける太宰の顔は見えなかった。
探偵社の社員寮は中也の家からも然程離れていない。車で行けばすぐだ。できるだけゆっくりと運転したつもりでも、この時間は長く続かない。
社員寮から3本離れた通りに着いて、ハザードを点灯させて停車した。太宰を送る時にいつも下ろす場所だ。監視カメラがなく、人通りも少なく邪魔にならない。
太宰は車が完全に止まるより先に安全帯を外す。中也は短い逢瀬の終わりを惜しんでいるのだが、太宰にはそんな感慨がなさそうなのが悔しい。だがこんなところで長居するわけにもいかない。
手早くサイドブレーキを引いて太宰を見送る体勢に入る。と、それを待っていたかのように太宰の体温が近づいてきて、カサついた唇が触れた。
「夜、行くから」
呆気に取られて太宰を見つめるしかできない。ドアを開け、車から身を乗り出す太宰の動きに躊躇いはない。
「飯、作って待ってる」
太宰がドアを閉める前に中也に言えたのはこれだけだった。
振り返らない太宰が通りの向こうに渡るのを見送って、完全に見えなくなる前に車を発進させた。
緩やかな眠気が中也の脳に迫っている。日が昇るのは、もう少し先だ。
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