太宰くんの執務室の前まで来ても、扉の向こうからは何も聞こえてこなかった。これだけ聞くと何が言いたいんだと思われるかもしれない。だって僕はまだ扉の前に立っただけで、ノックも何もしていないので。ただ、太宰くんはその限りではない。彼は自分の部屋に訪ねてくる人間の足音はほとんど把握していて、普段なら僕が自分の部屋に近づく足音を察知して声を掛けてくる。それはもちろん「やあ、安吾。開いているから入っていいよ」という機嫌の良さそうなものから「悪いが今は取り込み中でね。出直してくれるかい?」という言葉だけは優しい氷の刃のように研ぎ澄まされたものまで様々ではあるけれど、今まで例外はあまりなかった。だから、はてと首を傾げてしまった。
中からはこそりとも物音がしない。事前にこの時間に在室しているということは聞いていたのだが、何か急用でもできたのだろうか。それとも僕の足音にも気付かない程に疲れ切っているとか、あるいは寝ているとか、あるいは。そこで彼の悪癖を思い出して嫌な予感を覚える。まさかこの部屋で自殺に励んでやいやしないだろうか。そう思うとすぐにでも乱入した方が良いような気もしてくるが、如何せん相手は五大幹部の一翼である。これで勘違いでしたとでもなろうものなら僕の命は危うい。そういう世界だ。
ひとまず控えめにノックをしてみる。
コンコンコン
だが中から応答はなかった。
「坂口です。頼まれていたものを持ってきましたが、ご不在でしょうか」
誰に聞かれても問題ないよう、形式ばった敬語で言葉を投げかける。すると、中で人が動くような気配があった。寝ていたのだろうか。それならそれで悪いことをしたかもしれない。
誰の足音だってなかったものにしてしまう毛足の長い絨毯の上を、それでも足音を忍ばせるようにひっそりと動く気配が扉に近寄ってくる。
これは武道に長けた人間のものだ。
気付くと同時に、まさか襲撃ではあるまいなと眉を顰める。マフィアには当然この手の身のこなしをできる人間は多数存在しているが、太宰君が不在の執務室への立ち入りを許すような人物など存在しない。部下はもちろん、友人である僕たちにだって常に警戒を怠らないような人間である。もし襲撃であった場合、僕にできるのは精々不審者の侵入を周囲に知らせることぐらいであろうが、相手が手練れであればそれも叶うかはわからない。
しかして、ひっそりと開かれた扉から覗いた顔を見て、僕は合点がいった。太宰君が唯一信頼を置いているであろう人物だったからだ。その人物――中原中也は、苦い顔で人差し指を自らの口の前に立てている。
「静かにしてくれ。さっきようやく寝たところなんだ」
潜めた声で注意を促し、部屋の中央にあるソファを視線で指し示した。応接用のソファのうちこちらを向いている側は乱雑に本や書類が置かれるばかりで、向こうを向いている側は背凭れしか見えない。僕の位置からでは何を示しているのかちっとも見えやしなかったが、何を言いたいのかはなんとなく伝わった。きっとこの部屋の持ち主が寝ているのだろう。
口を噤んで様子を窺っていると、中也君は後ろ手で扉を静かに閉めた。
「悪いが首領の命令でもなきゃ後にしてくれ」
そう言う声は硬い。近頃酒場にもあまり顔を出さないと思っていたが、そんなに忙しいのだろうか。資料を持ってきてほしいとの指示は電子手紙だったので、よくわからなかった。
「別に急ぎではありません。起きたら渡してください」
持ってきた紙束を封筒ごと手渡すと、わかったと言って中を検めることもせず小脇に挟む。
そこで実質用件は終わりである。太宰君を通して面識もあるし、話したこともそれなりにあるが、仲良く世間話に高じるような間柄ではない。なのでここで立ち去っても良かったのだが、どうしても少し気にかかることがあった。
「すみません。歳上として少しばかり助言をしたいのですが」
「なんだよ」
まさか僕がそんなことを言い出すとは思わなかったのか、一気に剣呑な表情を向けられる。だが情報員として渡り歩く僕はその程度で怯みはしなかった。
「いえ、ああいう言い回しは誤解を生みます。そんなだからデキてるなんて噂が立つんですよ」
「はあぁああ!?」
突然大声を出した中也君の前で、彼が登場したときと同じように僕の口の前で人差し指を立てて見せると、慌ててはっと口を押えた。
「デキてるって誰が!」
「君と太宰君に決まっているでしょう」
「いや、誰だよそんな笑えない冗談言ってる奴は!?」
「出所は知りませんよ。噂ですからね。ですがかなり広まっていますよ。僕は今月に入って別のルートから3回聞きました」
嘘だろ、とがっくり項垂れる中也君は本気で信じられないという顔をしているが、自業自得としか思えない。だって原因となった「太宰と中原がしょっちゅう密会している」という噂は事実であるので。なんでも太宰君のあまりの不摂生を見かねた中也君が夜な夜な手料理を振る舞っているのだとか。もうそれ、十分デキてると言っていいのでは?と思っているが、本人たちには言わないでいる。
そして噂が広まった原因は十中八九もう1人の当事者であろう。
なんせ僕がその噂を聞いたうちの1回は隣にいたのだが、「随分愉快な噂が広まっているみたいだね」と楽しそうに笑っていたのだ。火消しに走るどころかガソリンを注ぎに行きかねない勢いだった。
噂に付随している「密会の後は機嫌が良い」だとか「密会を邪魔するとただの事故に見せかけて怪我を負う」だとか尾ひれなのか事実なのか判然としないものだって、全部太宰君の自作自演で成り立つものでもある。
そもそも太宰君が本当に嫌ならそんな目撃情報なんて1つも出ないよう徹底するに決まっている。つまり、噂が立ったという時点で太宰君が望んだことであるというのは確定なのだ。
「僕は忠告しましたからね」
それでは、と別れの挨拶を告げると、中也君はうん、だか、おう、だかよくわからない声を上げた。そのまま特に引き留められることもなく来た道を戻る。
外堀から埋めるなんて素直じゃない真似して、拗れても知りませんよと思っていたのだが、案外相手も満更ではなさそうだったので、太宰君の作戦が功を奏するのも近いかもしれない。
***
中也は坂口の姿が見えなくなるまで見送ってから、身体の中の空気を全て吐き出す程の大きなため息をつき、ようやっと執務室の扉を開けた。
「ねぇ、誰か来てたの?」
「まだ寝てろよ」
中也が戻ってくるのを待っていたかのように間髪入れずに飛んできた声で、太宰が起きてしまったことを知る。まだ開ききらない目で欠伸をする太宰が十分に睡眠を摂れていないのは明白だった。何しろ寝息を立て始めたのを確認してからまだ10分も経っていない。
近寄って、ソファから降りようとする太宰を慌てて押し留める。
「まだ寝てろって」
「ねぇ、誰だったの?」
中也が先程と同じような台詞を言うと、太宰も同じように繰り返した。太宰が引かないのを察し、中也は観念して口を開いた。
「坂口だよ。手前に頼まれたっていう資料持ってきた。急ぎじゃねぇっつってたし、今は寝てろって」
「あぁ、安吾か。流石仕事が早いね。でも悪いことをしたな。せっかく持ってきてくれたのに」
納得したのか、大人しくソファに横になったので、床に落ちてしまっていた毛布を拾い上げてかけてやる。両目を片手で塞いでやると、嬉しそうに笑う吐息がくすぐったい。
「ねぇ、安吾はなにか言っていた?」
「あ? いや、特に何も」
「そう」
先程のやりとりを反芻して苦い気持ちになる。扉は閉まっていたので、流石に何を話していたかまでは聞こえていないと思うのだが。
「ちゃんと寝るからさ、ここにいてよ」
「わかったから。もう喋るな」
すると返事の代わりに手が伸びてきたので、反対の手で握ってやった。ほどなくして安定した呼吸が聞こえ始める。両目を覆っていた手を外して額にかかる前髪を払ってやった。
どうか、少しの間でいいから、この眠りを妨げるものがありませんようにと願った。
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