鶴丸の恋人である大倶利伽羅は、今をときめく戦車レースの乗り手だ。大倶利伽羅はその中でも優秀な乗り手で、優勝争いに加わることも多い。だが、鶴丸にとってそれは誇らしくもあり、不服でもあった。
戦車レースは危険な競技だ。競技中に亡くなる人間は跡を絶たない。実際、大倶利伽羅だって何度も怪我をしたことがある。本当なら無茶をしてほしくない。けれど、どうせなら一等賞で喜ぶ恋人の姿が見たい。それはどちらも本音であった。
そして、それとは別に、鶴丸にとってもうひとつ不服なことがあった。それは、そんな恋人のレースを観られないことだ。恋人がどんなに活躍しようと、はたまた大怪我をしようと、鶴丸はその場に居合わせることができない。本人と周りの噂話で聞くだけだ。
何故なら、鶴丸は奴隷だから。自由に出歩くことはできないのだ。主人のお供としてならレースを見に行くこともできる。だが、生憎主人の三日月は戦車レースには興味がない。それより公衆浴場で汗を流し、雑談に講じ、晩餐を楽しむことを好んでいる。だから鶴丸はいつだって、レースの結果を待ち続けることしかできない。
そんな鶴丸にも自由が許されている時間がある。家人が全て寝静まり、家の全ての用事を済ませた後、朝までの短い時間だ。家人が起き出すまでの時間に帰って来さえすれば、夜中に鶴丸がどこで何をしていようがお咎めはない。鶴丸が出歩いていることに、三日月はおそらく気づいている。それでもずっと、見て見ぬ振りを続けてくれている。
とはいえ、奴隷の夜は遅く、朝は早い。その時間に出歩くと睡眠時間なんてあっという間になくなってしまう。だからほとんどの日は大人しく眠りに就き、翌日の仕事に備える。
例外は、恋人である大倶利伽羅との逢瀬だけ。夜遅くにそっと家を抜け出し、束の間の逢瀬を楽しみ、日が昇る前に戻ってくる。戻ってくれば幾許もしないうちにすぐに奴隷の朝がくる。当然翌日は眠くて仕方がないが、大倶利伽羅との逢瀬は鶴丸の生活の中で唯一の楽しみだった。
今夜は、大倶利伽羅との逢瀬の日だ。見上げると、主人の名と同じ月が夜空に浮かんでいる。鶴丸の足元を照らすにはどうにも心許ないが、空には雲ひとつない。全く見えないわけではなかった。
街灯の類は存在しないし、蝋燭なんて高価なものを一介の奴隷である鶴丸が使えるわけがない。月がなければ周囲はどこまでも続く暗闇に飲み込まれ、待ち合わせ場所にいる大倶利伽羅の蝋燭の灯りだけが頼りになってしまう。だから普段逢瀬に誘われるのは、満月に近い日ばかりだ。しかし、今夜はその限りではない。
明日は、今期の優勝が決まる重要なレースだ。だからどうしてもひと目会いたいと言われ、鶴丸も快諾したのだ。
いつもの場所には、蝋燭の灯りを手にぼんやりと佇む恋人の姿があった。
「伽羅坊」
小さく呼び掛けると、待ち人はすぐに気づいて顔を綻ばせた。大倶利伽羅が手に持った蝋燭がその炎を揺らす。いつでも自由に会えるわけではない2人はしばらく振りの再会を喜びあって、軽いキスとハグを交わした。
「調子はどうだい?」
「万全だ。これなら優勝も狙える」
大倶利伽羅は、明日の優勝候補の筆頭だと風の噂で聞いた。優勝目前までいったことは今までにも何度かあったが、その度に惜しいところで優勝を逃してきた。今度こそ、念願の優勝を掴んでほしい。鶴丸はやっぱり、そのレースを見に行くことは叶わないのだが。
「それは楽しみだ。けどあまり無茶はしてくれるなよ」
「すまないが、今回ばかりは約束できない」
珍しい物言いだった。
大倶利伽羅は去年の優勝が決まるレースでカーブを曲がりきれずに観客席に突っ込み、戦車を大破させてしまった。怪我は幸い打撲程度で済んだが、大倶利伽羅が会いに来るまでの間、鶴丸は気が気ではなかった。それ以来、「無茶をするな」という鶴丸に、少なくとも口だけは「無茶はしない」と約束してくれていたのだが、一体どうしたのだろうか。
無言で先を促すと、大倶利伽羅は鶴丸の右手を両手でしっかりと握りしめた。
「このレースで優勝すれば、目標だった金額に届く。お前と2人、駆け落ちしても十分やっていけるだけの額だ。……優勝したら、俺と駆け落ちしてくれ」
大倶利伽羅の金の瞳が鶴丸のお揃いの瞳を真っ直ぐに射抜く。蝋燭の頼りない光の中でも、大倶利伽羅の瞳の真剣さはしっかりと伝わってきた。
「君、本気だったのかい?」
数年前に、確かにそんな相談をされた記憶がある。ほとんど夢物語のような計画で、あの時の鶴丸は睦言のひとつだと思って流してしまったけれど、大倶利伽羅は諦めていなかったのだ。
大倶利伽羅はローマ市民で、鶴丸は奴隷だ。正式な手段で結婚する術はない。結婚したければ、どこか遠くへ逃げるしかない。ローマの制度が適用されないぐらい、ずっとずっと遠くへ。
「駆け落ちって、ここを出れば終わりというわけじゃないんだぜ? 考えてるのかい? どこへどうやって逃げて、どこで住んで、どうやって日銭を稼ぐのか」
「当てはある」
「そうかい」
握られたままの手にぎゅうっと力が込められる。
奴隷としての生活に、そう不満はない。鶴丸は所謂上級の奴隷で、仕事は誰にでもできる肉体労働などではない。任されているのは三日月の秘書のような仕事で、仕事振りも高く評価されている。
自由は少ないが、暴力を振るわれることもなければ衣食住に困ったこともない。病気になれば十分な休息も与えられる。数多に存在する奴隷の中では、ずっとずっといい生活をしている。
逃げたいと思ったことはなかった。ただ、この生活をしている以上、いつまでも大倶利伽羅と一緒にはいられないだろうとも薄々気づいていた。
「いいぜ。優勝したら、な。けど約束だ。やっぱり無茶はしてくれるな。相手がいなきゃ、そんな約束したって意味がない」
もし本当に駆け落ちするなら、明日が大倶利伽羅にとって最後のレースだ。大倶利伽羅がこの仕事を好いて、誇りに思っていることを知っている。なのにそれを投げ打って自分との未来を選んでくれるのだ。申し訳ない気持ちもあるが、嬉しかった。
2人は互いに固く抱きしめ合い、その晩の逢瀬を終えた。
翌日、大倶利伽羅は見事優勝を果たした。
約1ヶ月の準備期間の後、鶴丸と大倶利伽羅は約束の駆け落ちを決行することにした。空にはあの日と同じ、細くなった月が浮かんでいる。こっそりと逃げるには満月では明るすぎて、新月では暗すぎる。ちょうどよい日取りだろう。良くしてくれた主人に見られているようで、針先でチクチクと突つかれているような気分になる。
待ち合わせ場所は、いつもの逢瀬と同じ木の下だった。遠くからでも、家々の隙間を縫って大倶利伽羅らしき人影が見える。辞めるなら今が最後のチャンスだろうと思った。それでも、大倶利伽羅との未来を選び取ったのは鶴丸だ。奴隷である鶴丸が初めて自由意志で選んだ未来だ。
決意を込めて足を踏み出す。が、すぐに人影がもう1人いることに気づいて、足が止まった。その影にはどうにも見覚えがある。
そして気づいた。どうして遠くから人影が見えたんだ? 今夜、鶴丸たちは駆け落ちするつもりなのだ。当然、夜闇に目立つ灯りを持つわけにはいかない。
「鶴丸に逃げられると困るのだよなぁ」
聞き馴染んだ朗らかな笑い声が聞こえて、身体が硬直する。現れたのは、主人の三日月だった。鶴丸が家を出る時に、眠っているのを確認したはずだ。どこからか計画が漏れて先回りされたらしい。
終わった。逃げようとした奴隷がどんな末路を辿るのかは考えたくない。連れ戻されるだけならまだいい。鶴丸だけなら処罰だって甘んじて受けよう。それだけならいいが、大倶利伽羅だってお咎めなしとはいかないだろう。仮に万事上手くいったとしても、今まで通りのような逢瀬は望めない。
鶴丸が絶望していると、三日月の背後に本来の待ち人である大倶利伽羅が申し訳なさそうに顔を出した。
「そう固くなるな。何も俺はお前たちの仲を引き裂こうというのではない」
鶴丸たちは、ただ固唾を飲んで三日月の言動を見守るしかできない。
「鶴丸のように優秀な奴隷は希少価値が高くてなぁ。先も言ったが逃げられると非常に困る。かといってここで無理に引き留めても俺が恨みを買うだけだし、いつまた逃げられるかわからないのでは堪ったものではない。そこでひとつ、取引をしたいのだが……」
そこまで言ったところで、大倶利伽羅が三日月と鶴丸の間にスッと割って入った。
「俺が唆した。鶴丸には寛大な処置を」
「待ってくれ。俺はかまわないから、大倶利伽羅は、」
競うようにお互いを庇い合う。それを、場の雰囲気にそぐわない軽快な笑い声が遮った。三日月は一頻り笑った後、「そうじゃない」と手を振る。
「鶴丸をローマ市民にしてやろうと思ってな。もちろん大倶利伽羅との結婚も認めよう。代わりに俺の下でこれからも同じように働いてくれ。どうだ? お互い損はない取引だと思うが」
あまりに信じがたい内容だった。何か裏があるとしか思えず、大倶利伽羅の方を見る。大倶利伽羅も困惑した様子だった。
見つかってしまったからには決行は難しい。今日はひとまず従うべきだ。素早くアイコンタクトを交わした後、従う意志を示す。三日月は満足したように頷いた。
「よいよい。朝になったら鶴丸をローマ市民にする手続きをしよう。ついでに2人の結婚の手続きもな。そこまですれば、お前たちも俺の言うことを信じるだろう?」
そして鶴丸たちに背を向けた。家へ帰るつもりなのだろう。困惑してまた顔を見合わせる。三日月はここで鶴丸たちが背後から襲いかかるかもしれないとは思わないのだろうか。奴隷による主人の殺しは重罪だが、この状況ならあり得ない選択肢でもない。人目はなく、逃亡の準備は整っている。周囲には手頃な石も揃っているし、2人がかりなら負けることもないだろう。
ついていくことも襲いかかることも、はたまた逃亡することもできずにその背を見守っていると、三日月が振り返った。
「おいで。大倶利伽羅も今日はうちに泊まればいい」
そうして今度は返事も待たずに真っ直ぐに歩き始める。鶴丸たちも意を決してその背を追った。
三日月はその後きちんと約束を守り、大倶利伽羅と鶴丸はいつまでも仲睦まじく暮らしたという、むかしむかしの話。
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