2023-12-24 08:19:46
11737文字
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さいごのきみ

Re:valeの千さん、お誕生日おめでとうございます。
貴方に捧げる「さいごの人」のお話を書きました。

冬になると風邪を引いてしまう百と、同棲時代のとある約束により看病をする千。
つきあってない(けれどキスはする)ユキモモです。

誕生日要素はほぼ無し。時間軸は第2部の後、第3部より前。同棲時代の回想を含みます。
ラビチャ「メルヘンドリーム(千)」「モンスター(百)」を下敷きにしていますが、未読でも問題ないです。
※『ピーター・パン』(原作)ラストのネタバレがあります。
※全編に渡って百が体調不良状態です。重くありませんが、苦手な方はご注意ください。

 オートロックの呼び出しは鳴らなかった。玄関ドアのインターホンも同じく。
 その時点で、だいぶ参っているな、と察する。
 加湿器のスイッチを入れて、ソファから立ち上がった。

……お邪魔します」
「はい、いらっしゃい」
 そろりと部屋に滑り込んできたモモは、ダウンコートにたっぷりのマフラーを巻き込んで、マスクとニット帽の完全防備。前髪の下から覗く瞳は、なんども瞬きをくりかえしながら、こぼれそうに潤んでいた。
「経過、何日目?」
……三十八度越え、二日目」
 ため息は喉の奥に押し込めて、ふらつく身体を抱きとめる。マスク越しでもわかる呼気の荒さに心がざわついた。こんな状態では、インターホンでのんびり喋りたくはないだろう。
 おかりんからは、先んじて連絡があった。明日の午前の仕事はリスケしたので、ひどくなるようなら朝のうちにかかりつけの医院へ送り届けます、と。大人の高熱が三日続けば、それは病院案件だ。僕もモモもおかりんも、慣れすぎているな、と苦笑してしまった。
 コートを脱がせて、そっと背をさする。服越しでもはっきりとわかるくらい、身体が熱かった。
 今日のモモのスケジュールを思い出す。バラエティの外ロケと年末特番の公開収録。冬空の下でどれだけ身体を冷やしたのだろう。衆人環視の中でどれだけ神経を擦り減らし続けたのだろう。
「お疲れさま。モモ、偉かったね」
 心から言うと、モモは泣き笑いみたいに目を細めて、僕の肩に頭をあずけた。
「うん。ありがとう、ユキ」
 仕事を頑張って偉いね、と言われたと思っているのだろう。けれど、もっとずっと偉いことがある。
 僕の部屋に帰ってきたことだ。


 冬になると、モモはしばしば体調を崩す。
 シーズンに一度は必ず風邪を引く。あるいは二度、インフルエンザを含めて三度ということもあった。毎年恒例で、岡崎事務所ではもはやRe:vale冬の風物詩みたいに扱われている。
 若くて元気でよく食べて体力に自信があっても、とにかくモモは多忙で、かつ不特定多数の人間との接触が多い。仕事のみならず、飲み会やら飲まない会やら、さまざまの付き合いに引っ張りだこだ。十二月ともなれば、忘年会だの打ち上げだの納会だの、年に一度なだけに断りがたいお誘いの数が文字通りの桁上がりで増える。生活は不規則になるし、栄養は偏るし、何よりもウイルスをもらう確率が跳ね上がってしまうのだろう。
 一方の僕は、風邪とも感染症とも、ここ数年はご無沙汰だ。若くてよく寝て野菜をたくさん食べて、体力はあまりないけれど適切に運動をして、仕事以外での人混みはできるだけ避ける。免疫がしっかりと働いているのだと思う。仕事でもプライベートでも、モモと一緒に過ごす時間がいちばん長いのは僕だと自負しているけれど、モモから風邪をうつされたことは一度もない。あるいは、うつされてもごく軽症か無症状で、たくさん寝るうちに知らず治っているのかもしれなかった。
 一方モモは我慢強いし、なまじ体力があるせいで、体調の異変に気がつくのが遅い。それでこんなふうにのっぴきならなくなるまで悪化させてしまいがちだ。
「熱以外の症状はどんな感じ? 悪寒は? あと、食欲はある? 食べたいもの、食べたくないものがあったら教えて」
 ソファに座らせて、パジャマを手渡す。のろのろと着替えを始めたモモの隣に座り、軽く頬をおさえて、耳に体温計を入れた。
「えっと……足がだるいのと、ときどき立ちくらみみたいな眩暈がする。寒気より、どっちかって顔とかが熱い……食欲はあんまりないけど、食べられる。お昼もふつうにロケ弁食べたよ」
 しっかりと答えつつ、声音はどこかふわふわしている。取り出した体温計は、三十八度というより三十九度に近い数字を示していた。
 モモは風邪を引くたびに高熱を出しがちだ。生体防御反応が強いのだろうから、悪いことではないとは思うけれど、そのぶん身体じゅうの力を持っていかれるみたいで、ひたすらぐったりとしてしまうのが、見ていてもつらい。
 着替えを終えて、ふうと吐き出した息が震えていた。ソファの背に頭をもたれさせ、力なく目を閉じる。ブランケットを持ってきて、膝にかけてやった。
「食べられるようなら、おなかに何か入れてから寝ようか。熱がちょっと高めだけど、解熱剤はどうする? しんどいなら飲んでいったん下げる?」
「うーん……様子見。寒気はないから、これ以上は上がらない気がするし」
「わかった。おかゆ作ってくるから、ここで少し横になるといいよ」
 モモはもぞもぞと動いてブランケットにくるまり、ソファの上でごろんと丸くなった。背中を何度か撫でてから、立ち上がってキッチンに向かう。
 風邪で発熱二日目、三十九度。熱は上がりきっている。これから寝汗をかくだろうから、おかゆは重湯の比率を高めにしよう。ビタミンCの補給に、食べられるようなら蒸し野菜かフルーツを添えたい。
 白く煮立ってきた土鍋を、底からゆっくりとかきまぜる。時おり手を休めて、ソファに横たわるモモの様子を見に行った。目は閉じられているけれど、息づかいから眠ってはいないことがわかる。口を小さくひらき、八重歯の隙間から熱を逃がすように呼吸をしていて、だいぶしんどそうだった。
 今年のモモは、これが初のダウンだ。疲れを溜め込んでしまっていたのかもしれない。恒例行事なだけに、看病にもすっかり慣れっこになってしまっているが、今夜はいつもより注意深く見守ろうと心に決める。

 お米から炊いたおかゆ。レンジで蒸した温野菜のヨーグルトソース添え。それと、アセロラの即席はちみつ漬けを小鉢に入れて出してみた。
 モモは、ゆっくりゆっくりとおかゆを口に運んで、ときどき野菜をつまむ。ごくん、と飲み込む喉仏の動きを見守った。喉の痛みはなさそうで、ほっとする。
「今年こそは風邪を引かないようにって、すっごく気をつけてたのになあ。誕生月なのに、毎年、迷惑かけちゃってごめんね」
 スプーンを持つ手を下ろして、モモがそんなことを言ったので、指でおでこをつついてやる。指先だけで触れても、熱かった。
「ありがとうがいい」
「え?」
「ごめんねじゃなく、ありがとうって言って」
 モモは何度もまばたきをし、困ったように小さく笑って、ありがとう、と言った。あたたかいものが胃に入ったからか、いくらか元気が出てきたように見えて、少しだけ安心する。
「毎度ユキの部屋に転がり込んじゃうのも、ほんと、ごめ……、ありがとう」
「そこは気にしないで。具合の悪いモモを、あの散らかった部屋に帰したくないよ」
「えー……そりゃ、整理整頓してますとは言えないけどさあ」
「治ったら、送りがてら掃除に行くから。いっそ年末大掃除をしちゃおうか」
 からかい半分でそう言うと、モモは心の底から嫌そうな顔をした。
「やだよ。だいたい、年末に掃除するのって、なんでだろう? 忙しいし、寒いし、いいことないじゃん。大掃除は春にするほうが理にかなってるってオレは思う」
「ああ、春に大掃除をする地域もあるよね。ピーター・パンにそういうのがあったな。物語のさいごで、ピーターは毎年、春の大掃除の時期にウェンディを迎えに来る約束をするんだ」
 英国では、大掃除は主に春にするものらしい。まあ冬でも春でも、どちらであろうと僕はモモの部屋の掃除に行くけれど。
「あれさあ、せっかく一年に一度の再会なのに、掃除すんの? 掃除させんの? って読んでて思わず突っ込んじゃったよ」
 モモが『ピーター・パン』を読んでいるのは、少し意外だった。と、思ったところが顔に出てしまったのか、ブロッコリーにヨーグルトソースをかけながら、モモはどこか面映ゆそうに言った。
「少し前に、童話インスパイアの企画があったでしょ。その時のインタビューで、ユキがピーター・パンみたいって言われたことがあるって言ってたから、読んでみた」
 そういえば、そんなことを言ったっけ。ちなみにその「ピーター・パンみたい」が褒め言葉だったのか、悪口だったのか、定かではない。大人向けの訳で読んでみたら、ピーター・パンというのは生意気で自惚れ屋、身勝手で忘れん坊、大人になることを拒絶した孤高の子どもで、まるで好感は持てなかったし、なりたいと思える人物像でもなかった。同族嫌悪の可能性は、まあ、自覚している。
「ウェンディはピーターに会うのを楽しみに春を待っていたのに、掃除させるし、迎えにくるのを忘れて一年飛ばしたりするし、ピーターってひどいよ」
 アセロラの実を口に入れたモモが、小さく顔をしかめる。酸味が強かったのか、ウェンディに同情しているのか。後者であれば同意だけれど、好かないながらもピーターに似ていると言われた身としては、少しだけ擁護したくなってしまう。
「それくらい、ウェンディはピーターのことが大好きだったんだろう。ピーターだってウェンディが大好きだから、毎年迎えに来る約束をしたんだろうし」
――忘れちゃうけどね」
 モモはぼそりと言った。
 何年も何年も。忘れられて、窓をあけたままずっとピーター・パンを待っていた、ウェンディ・モイラ・アンジェラ・ダーリング。
「大丈夫だよ。ジェインがいるし、マーガレットもいる。ピーターは淋しくない」
 十数年後、再び訪れたピーターは、大人になってしまったウェンディのかわりに、彼女の娘であるジェインをネバーランドへと連れて行く。ジェインが大人になると、今度は、ジェインの娘であるマーガレットを。
……そっか。そうだね」
 スプーンに残ったはちみつを流し込むように口に入れて、甘いはずなのに、なぜだかモモは苦い顔をした。

 おかゆは完食、温野菜はパプリカを残して、アセロラは一粒だけ。食べ終えたモモをベッドに入れる。自分の寝床は、横に来客用の組布団を敷いた。こうすれば、もしも夜中に症状が悪化したとしても、すぐに対応できるだろう。
「キッチンを片付けて、氷枕を作ってくる。少しだけ待っていて」
 掛布団の下で、モモはこっくりと子どもみたいにうなずいた。いい子、と言って立ち去りかけたとき、小さく呟くのが聞こえた。
――待ってる。ずっと」
 いとけない声に思わず振り返る。モモは布団を鼻までかぶって、ぎゅっと目を閉じていた。額に汗の粒が浮いている。できるだけ早く戻って傍についてあげようと思いつつ、寝室のドアをそっと閉めた。


 いつもは思うところをなかなか明かしてくれないモモだけれど、風邪を引いたときだけは、きちんと報告をして、僕に身と心を委ねてくれる。自分の健康状態に無頓着なせいで、知らず我慢をしてしまっていることもあるけれど、そういう時は僕のほうが必ず気づいて、声をかけている。気づけている、はず。
 こうなったのは、同棲時代のとある出来事がきっかけだった。
 僕がユキさんで、モモがモモくんだった頃。

 ◆     ◆     ◆

 十二月の半ば、ひどく冷え込んだ日のことだった。
 冬になり、さすがに公園でのレッスンはできない。けれどモモは空いた時間には少しでも練習をしたがった。それで格安のダンススタジオを借りて、ふたりで自主レッスンをすることにした。直前割を使った前日予約で、一時間ワンコイン。掃除は甘いし、古ぼけた床はところどころ軋むけれど、当時の僕らには有り難い値段だった。
 お金を使って、限られた時間で、格安スタジオとはいえ公園とは比較にならない環境の良さ。スタジオに入ったモモはすごく気合いが入っていた。
 そのわりに、いざ踊り始めてみるとどうにも動きが冴えない。振りが全然揃わなくて、何度も何度もやり直したあげく、足をもつれさせ、床に倒れ込んでしまった。
 助け起こそうと掴んだ手の燃えるような熱さに驚き、額に手を当てたら、なおのこと熱かった。
「モモくん、熱があるんじゃないの。これじゃダンスレッスンなんて無理だろ」
 責めているという気はなく、単なる事実確認のつもりだった。けれどモモはびくりと身体を震わせてぱっと手を離し、後ずさって僕から離れると勢いよく何度も頭を下げた。
「すみません……! 朝はそんなじゃなかったし、平気だと思ったんです。せっかく予約したのに、大丈夫です、オレ、やれます」
「大丈夫なわけないだろう。そんな状態で踊って、熱だけじゃなく怪我でもしたらどうするの」
「すみません、ほんとに、あの、ユキさんを心配させるようなことはないです、ごめ……ごめんなさい」
「別に、気にしてないから。謝るのやめて」
 熱でまわらない口で必死に謝らなくてもいいよ、という意味だったのだけれど。モモはぎゅっと目をつむって、ぱちぱちと何度もまばたきをした。長い睫毛の先で雫が散る。
 泣かないでよ……そう言いかけて、以前同じ言葉を口にした時に、完全に決壊させてしまったことを思い出し、すんでのところで言葉を呑み込んだ。
……帰ろう、モモくん」
 予約の時間を大幅に残して、僕たちはスタジオを後にした。ふたりぶんの荷物は僕が持った。モモは消え入りそうなくらいに恐縮していた。


 駅前の雑居ビルのレンタルスタジオからアパートまでは、歩いて二十分ほどの距離だった。
 モモは、熱のわりにはしっかりとした足取りでついてきた。それで僕もすっかり気を緩めてしまった。まあ、風邪だろうな。モモくんは基礎体力があるから、そんなにひどくはならないだろう。とりあえず一晩ゆっくりと休ませてあげないと。
 アパートの外階段に足を置いたとき、それまでずっと黙って歩いていたモモが、背後から躊躇いがちに話しかけてきた。
「あの、ユキさん。風邪だとしたら、同じ部屋で寝たらうつっちゃうかもしれないです。だから、今日はオレ、外に……
 モモが何を言おうとしているのか、察しがついた。古い間取りの1DK。居室と襖で仕切れはするものの、板張りの台所は立っているだけで底冷えがする。たとえ健康であっても、冬に眠れる場所ではない。
 みなまで言わせず、僕は言葉を被せた。
「わかった。僕はどこか適当に泊まる場所探すから、モモくんは部屋で休んで」
 階段から足を下ろしてそう言うと、モモは目を真ん丸にした。瞳が濡れたように光っていて、頬には赤みが差し、いつもよりあどけない顔に見える。思ったより熱が高いのかもしれない。
「泊まる場所、って……
「インターネットカフェだっけ? そういうところに行くよ。なんだったら事務所のソファを借りてもいい。岡崎さんに聞いてみる」
 回れ右をして、モモの荷物を手渡す。
「ユキさん、そんな……
「僕に気を遣わずに、ゆっくり休んで」
 モモの瞳がさらに水気を増した、気がした。けれど僕は、気を利かせてモモくんのための行動が出来た、という独りよがりな達成感に酔っていて、軽い足取りでアパートを後にした。一発くらい殴っておいたほうがいい。いや殴られたくはないけれど。

 とりあえず駅に向かうことにして、道すがら、その頃はまだ岡崎さんと呼んでいたおかりんに電話をかけた。モモが体調を崩した。どうやら風邪らしい。うつるのを気にしているから部屋を出てきた。事務所に泊まれると助かるんだけど。そう言ったら、おかりんはしばらく絶句していた。それから、諭すように、噛んで含めるように、言った。
「帰ってあげてください」
 なぜ、と問う僕に、直接は答えず、ただこれからするべきことだけを教えてくれた。百くんに電話かラビチャをして、必要なものがないか聞いてください。それとドラッグストアに寄って、風邪薬とスポーツドリンクを買って下さい。レシートは必ず貰って。福利厚生費の立替代として後でお支払いします。とにかく、帰ってあげてください。ひとりにしないであげてください。
 そして、困ったことがあれば、夜中でも構わずに連絡を寄越すように、と言い添えてくれた。
 今にして思えば、おかりんは当時のモモの心身の状態も、僕の人間性の未熟さも、ぜんぶ把握していたのだろう。
 おかりんの言葉に従って、モモにラビチャで連絡をした。アパートに戻るよ。欲しいものがあったら買って行くから教えて。経費で落ちるそうだから薬も買って帰る、と。
 モモからの返事は、ぽこん、ぽこんと一語ずつ届いた。
『すみません』
『オレはだいじょうぶです』
『欲しいもの』
『とくにないです』
 いつもと比べて格段に短い文章で、送信の間隔もやけに長かった。もしかして、だいぶ具合が悪いのかも、と急に心配になった。
 早足に階段を上がり、ドラッグストアの袋を手に部屋へと入る。台所の空気は冷え冷えとして、骨まで凍えそうだった。木造モルタルのアパートは火気厳禁で、石油を使ったストーブとファンヒーターが禁止されている。部屋のおんぼろエアコンはちゃんと動いているだろうか。
「モモくん?」
 襖をあけると、ひやりとした風が頬を撫でた。寒い。台所よりなお、寒かった。
 室内を見れば、薄っぺらい布団にくるまってカタカタと震えているモモがいた。顔を窓から外に向け、サッシに寄りかかり、座り込んでいる。
 窓。この冬の夜に、窓が全開になっている。
「ちょっと、なんで窓――
「か、換気、しないと」
 歯を鳴らしながら、モモが言った。唇は青紫色になっている。
「ユキさんに、風邪、うつっちゃう……こんな、迷惑ばっかりかけて、ユキさんに風邪までうつしたら、オレ、どうしたらいいか……どうしたら……
 慌てて部屋に入り、窓をぴしゃりと閉める。エアコンのスイッチを押し、めいっぱい設定温度をあげた。
「で、電気代が……
「そんな場合じゃないだろ!」
 モモを窓から引き剥がし、薄べったい布団に横たわらせる。なにげなく触れた手が氷のように冷たい。両手で包み込み、揉みほぐす。少しでも温めたかった。
 耐用年数をはるかに過ぎたエアコンは、それでもけなげにうなりをあげて、のろのろと部屋をあたためていく。けれどモモの手は冷たいままだ。顔の色は真っ白に近い。
 とにかくなんでもいいから温めてあげたくて、頭を抱き寄せ、僕の胸に埋めさせた。するとモモは僕の胸を押しやるように手で突っ張った。
「だめ、です、離れて、うつっちゃうから……
「うつらないよ。僕に風邪はうつらない」
 後で思い返すと、僕もたいがい動転していたのだと思う。勢いだけで、筋の通らない言葉を自信満々に言い切った。
 けれどモモはイヤイヤと首を横に振り、抱っこを拒否する猫みたいに、突っ張った手をめいっぱい伸ばして、僕を少しでも遠ざけようとする。
 あからさまな拒絶の仕草をモモに見せられて、正直、頭に血が昇った。
 モモの手を胸からはずし、二の腕を掴んでそのまま引き寄せ、唇を重ねた。
……っん!?」
 開けられたままのモモの目が、驚愕と混乱にぐるぐると回る。まるくて、大きくて、かわいかった。ふと衝動が強まり、ぐっと深く口づけをした。舌を入れる。熱があるからか、モモの口のなかは、これまでの誰とのどんなキスよりも熱かった。捏ねまわすように口じゅうを蹂躙し、怯えて奥へと引っ込められた舌をとらえ、吸いあげる。さいごの仕上げに、モモの口の端から溢れた唾液を大きく舐めとって、これ見よがしに舌なめずりをした。
 モモは口を半開きにしたまま、茫然と僕を見つめた。この日、ダンススタジオを出て以来、やっと真っ直ぐに見てくれた。だいぶ溜飲が下がる。
「モモとどれだけ近くにいても、触れても、僕は風邪を引かない。だから同じ部屋で寝られるし、暮らせる。それを証明してみせる」
「あ……?」
 まだぼうっとしているモモの頬を両手で挟み、真正面からじっと目を合わせる。モモの顔がさらに赤くなったのは、熱のせいばかりではなさそうだった。
「賭けをしよう。この先一週間、僕が風邪を引かなかったら、僕の勝ち。僕に風邪はうつらない。今後、具合が悪いときは、隠さずに教えること。そして、僕を拒否せず、看病をさせること。いいね?」
 何の根拠もなかったし、当時の僕の身体はあまり強くはなかったはずで、無謀にすぎたと思う。けれど幸いにしてその後に体調を崩すことはなく、一方的な賭けは僕の勝ちとなった。

 それからずっとモモは、風邪を引くと、僕のところにやってくる。
 不承不承、といった時もあれば、やけにテンションの高い時もあり。風邪の症状もモモのご機嫌もさまざまだけれど、いつも同じなのは、僕に頼って、甘えて、構って欲しがることだ。
 去年だったか、一昨年だったか。看病中、モモに言われたことがある。
「ときどき、思うんだけどさ……
 少しだけ不満げ、というか胡乱げな声だった。
「オレの看病するときのユキ、ちょっと嬉しそうだよね」
「そんなわけないだろ」
「そう、だよね。ごめん……
「ちょっとじゃない。かなり嬉しい」
「え、ええ~……?」
 わからない、ユキがエキセントリックわからない。そう言いながら、モモは枕に突っ伏した。
 ほんとうに、わかっていないのだろうか。
 病気で元気のなくなったモモを見るのは心が痛むけれど、そんなつらい時のモモが、僕を頼ってくれる。僕の家に来て、僕の目の届くところに居てくれる。それが、なによりも嬉しいのだということ。なによりのプレゼントだということ。

 ◆     ◆     ◆

 頬にひんやりとした空気が触れた。ゆっくりと目を開いて、いつもより低い視点にしばし戸惑い、それからベッドをモモに譲っていることを思い出す。
 あの後、氷枕を首の下にあてがい、汗を拭いてやりながら、モモが寝つくまで見守った。閉じられた瞼の内側で小刻みに震えていた眼がだんだんと落ち着いて、息づかいが穏やかになるのを見届けた後、ほどなく僕も横になり、すぐに眠ってしまった。
 しんと静まり返って、まだおそらく深夜だ。布団から手を出して、頬を撫でる。空調と加湿器は静かに動いていた。どうして空気に冷たさを感じたのだろう。と、その手の甲に、今度ははっきりと、風の動きが触れた。
 起き上がって、ベッドを見る。
――モモ?」
 暗がりに目を凝らす。
 居なかった。人ひとり、抜け出したままのかたちのふくらみはあるけれど、そこにモモは居ない。
 ベッドサイドのライトを点けて、立ち上がる。布団に手をあてると、触れて思わずびくりとするほどに冷たかった。離れてから、かなりの時間が経っている。
 また、頬を風が撫でた。寝室のドアが半開きになっている。その向こう側も、暗がりのまま、明かりはついていない。
 ガウンを羽織って、寝室を出る。リビングへのドアを引き開けた瞬間、さあっと風が通り抜けた。ベランダへと続く掃き出し窓。そこが大きく開け放たれ、冬の夜の凍えそうな風が室内に吹き込んでいる。カーテンがはためき、外に溢れる街の灯かりが、部屋をほのかに照らしだした。
「モモ……!」
 ベランダにぺったりと座り込んで、モモがいた。空を見上げて吐く息が、夜にたなびき、白く溶けていく。
 リビングを大股で横切り、背後から抱き寄せて室内に引っ張り込む。冷え冷えとした外気から庇うようにモモの身体に覆いかぶさりながら、手を伸ばしてサッシを掴み、叩きつけるように窓を閉めた。
「モモ、どうして……どうしたの」
 冷たい。眠りにつく前はあんなにも熱かったモモの身体が、今は、おでこも、腕も、触れるすべてが冷え切っていた。急いでガウンを羽織らせ、氷のような指先をさする。
 僕の指を握りかえし、モモは力なく笑った。笑みとともに漏れた息だけが熱くてぞっとする。寝室へ連れていこうと腕を引いたけれど、モモは動こうとしない。
「あつくて、汗かいて、いちど目が覚めたら、眠れなくて。ちょっと涼みたかったんだ。ごめん」
「起こしてよ。氷嚢も準備していたのに」
「外の空気が吸いたかったんだ。それで、なんとなく空を見ていたら、……ウェンディもこんな風にピーターを待っていたのかなって」
 ウェンディも、とモモは言った。ウェンディは、ではなく。
……ずっと待っていたのに、忘れられて、忘れて」
 羽織らせたガウンを頭からかぶって、顔を隠したまま、モモは言った。
「そうして次にピーターが来たとき、連れていくのは娘のジェインなんだ」
 ガウンの下から聞こえる声は、低く掠れていた。
 どうして、僕はいつも、気づくのが遅いのだろう。酸い味のアセロラ。甘いのに苦いはちみつ。モモの表情の意味。

 ピーターの相方は、代替わりをする。ウェンディからジェインに。ジェインからマーガレットに。代替はいくらでも、何世代でも変わって、ピーターとともにネバーランドへと飛んでいく。
 新しい相方として。

 モモの頭からガウンを取り去って、かわりにてのひらで頬をつつみ込んだ。まだ冷たい頬を、親指の先で擦るように撫でる。
「モモはウェンディでも、ジェインでもないよ」
 モモの瞳が、ふっと翳りをおびる。
「わかってるよ。いくらなんでも、オレ、そこまで……
「そこまで、何?」
 黙り込んだモモの、風で乱れた髪を撫でつける。つむじからくるくると渦を巻いている癖っ毛がかわいかった。いつだってモモはくるくる、ぐるぐるしている。
 難攻不落の城砦の天辺が見えた、ような気がした。
 モモの顎をそっと掴み、仰向かせる。都会の仄暗い夜空ではなく、僕だけが視界に入るように。まるくて大きな目は、零れそうに水気を湛えて、暗がりのなかで不思議ときらめいていた。熱のせいなのか、涙となって溢れてしまいそうなのか。
 きらきらの瞳を数秒見つめて、それから、静かに唇をあわせた。
 漏れ出す吐息は熱く、早い。そろりと舌を滑り込ませる。モモの口のなかは、あの日と同じに、蕩けるように熱かった。ゆっくりと、丹念に味わう。違っているのは、モモの舌が、逃げずに出迎えてくれたこと。舌先でざらつきを撫で、優しく絡ませたあと、ふうっと息を吹き込んだ。熱を癒す風となるように。
 顔を離すと、モモは、やっぱり茫然としていた。僕の行為に、というよりも、応えてしまった自分に戸惑っている。そんな感じがあった。
 すっかり力の抜けた身体を、よいしょと持ちあげて、寝室へと連れて行った。冷え切ったリビングとの扉を閉めると、しっとりと暖かい空気に包まれてほっとする。
 そっとベッドに横たわらせて、布団をかけた。気づかせないようにこっそり耐えているようだけれど、モモの身体は微かに震えている。額に手をあてると、熱さが戻っていた。悪寒だとしたら、夜明けまでにもう少し熱が上がるだろう。今度は絶対に目を離さない。ずっと見守り続ける。
 ベッドの横に膝をついて、枕のうえに頭を落ち着けたモモと視線を合わせ、一語一語が沁み込むように、声を強く深くして言った。
「モモはウェンディじゃない。ジェインでも、マーガレットでもない」
 ほんとうにわかっていない。ならば伝えていく。苦手だけれど、恥ずかしいけれど、言葉にして伝えていく。
「僕にとってはお前がたったひとりで、さいごのひとりだ」
 応えは帰ってこない。けれど、小さく開かれた目が揺れるのを、確かに見た。今度は見過ごさなかった。耳もとに口を寄せて、内緒話のように囁く。
「賭けを更新しよう。この先一週間、僕が風邪を引かなかったら、僕の勝ち。いいね?」
 何の、とは言わない。モモも聞かなかった。ただ、こっくりと頷き、少しだけ表情を柔らかくして、ふわりと目を閉じた。
……、ありがとう、ユキ」
 ため息を落とすように、その言葉だけを口にして、モモは眠りについた。


 眠るモモの顔を眺めて、静かな時間を過ごす。
 深まる夜を見送りながら、思い出すのは、いつかの冬の夜、ひらかれた窓の古ぼけたサッシにもたれかかっていた後ろ姿。まるで誰かを待っているかのように。
 そして、つい先ほどの、ベランダから星も無い都市の空を見上げていた後ろ姿。まるで何処かへ飛び去ってしまいそうな。

 生意気で自惚れ屋、身勝手で忘れん坊、大人になることを拒絶した孤高の子ども、ピーター・パン。
 けれど誰をも魅了する愛らしさを持ち、無鉄砲な勇気で、戦いへと飛び出す英雄、ピーター・パン。

 ピーターはどっちだ。軽やかに、縦横無尽に飛びまわるモモを、ウェンディのように待ち続けているのは、いつだって僕のほうなのに。
 この部屋に帰ってきてくれることを、羽を休めてくれることを、ずっと願い待っている。

 ◆     ◆     ◆

 曙光が射す頃に、静かに落ちた呟き。
――約束して。ひとりで飛んで行ってしまわないって」

 それは、果たして、どちらの言葉だったのだろう。


〈Fin〉