遠くでがたん、と小さな音がして、それでヤスは目を覚ました。片手で探り出したスマートフォンのロック画面を確認する。午前4時半。アラームの指定時刻より、まだ2時間もはやかった。二度寝がしたくなるほど瞼が重いわけでもなかったので、寝ている間に乱れたTシャツの裾を直して、薄い敷布団の上に立ちあがる。自分の足元でちり紙みたいに縮まっていた毛布は、大の字になって眠っているハッチンの腹にかけてやった。双循がその向こう側で丸まっているが、寝ているのか携帯でも見ているのか、あまりよくわからなかった。
一度換気をしようと、建付けの悪い窓をこじ開ける。ビルの隙間から、初夏の白んだ朝焼けが目に飛び込んでくる。吹き込んだ風が思いの外冷たかったので、薄手のパーカーを拾って肩に引っ掛けた。ついでにタオルを物干し竿にぶら下がったハンガーから引き抜いて、裸足で流し台に向かう。蛇口を捻る。銀色のステンレスに、ぼたぼたと水が落ちる音が反響する。指先で触れたその冷たさに一度眉をひそめてから、ヤスは透明な水流を両手で掬った。
タオルで顔についた水気をふき取りながら、この後のことについて考える。髪のセットは、そうだな、まだいいか。着替えた後の方がなにかと効率が良いだろうし、朝メシを食った後でも十分間に合うと思った。それで整髪スプレーは手に取らず、ヤスは台に置きっぱなしの歯ブラシを掴む。格子のはまった加工ガラスの窓と向き合って、目で柄をなぞりながら手を動かす。今日の予定は、なんだったっけ。練習か。そりゃそうだ。違くて、なにかもっと、他の予定。買い物あったかな。寝起きの頭を一生懸命に回転させてみても、なにも思いつかなかった。もし今日の自分が結構暇だったのなら、タイミングを見計らって母ちゃんに電話をするのがいいかもしれない。
不意にガチャと音がして、新しい光が細く部屋に差し込む。流し台の右手側、玄関ドアが開いたためだった。
「おおヤス、起きてたのか。おはよう」
そこから長い脚を滑り込ませてきたのは、デスフェニックスのジョウだ。彼はヤスの存在を確認すると、気安く片手を上げて朝の挨拶をする。ヤスは歯ブラシを咥えていたから、手を振ってそれに応えた。ジョウが手を洗いやすいようにと、流し台から一歩下がる。悪いなとひとつ声を掛けて、相手はヤスが作った隙間に入り込んだ。その背後から、手袋を外してタオル掛けにひっかける様子を見守る。それから水が流れる音と、ヤスが歯を磨く音のみが場を支配する。
こうしてみると、こいつってやっぱり背が高えんだな。
手を動かしながら、ぼんやりとヤスはそう思った。普段あまり意識することはなかったのだけれど、真後ろからじっくり見てみると、なかなかどうして長身である。そりゃ双循よりかはちょっと低いかもしれないが、あれを標準にしてしまったらお終いだろう。現時点でヤスより15センチ以上高いところに頭があるのだ。なんにせよ、小さいはずがない。
そのうち、追い越すときが来るのだろうか。俺が今高1で170なくて、いや、さすがに成長期はこれからだと思うけど。まさか、ジョウもまだ伸びるとか言い出さないよな。不死鳥だからって永遠にデカくなり続けるとか、そんなことはねえだろうな。かねてからこの鳥には、一般常識が通用しないことが多い。冗談みたいな話だったけれど、ありえそうで怖かった。まだあまり働いていない頭でなんとなく、ジョウの身長を追い越した自分を想像してみる。想像してみたのはいいけれど、自分が上から彼を見下ろす姿が全然具体的に浮かばなかったから、そのまま取りやめる。イメージがつかないのだ。こいつのつむじとか、そういえば見たことないな。そもそも、存在しているのだろうか。さすがにあるか。でもまあ別に、ジョウのつむじを目視しなきゃ死ぬわけでもないし、このままだって構わないだろう、そうヤスは思った。いつかの自分が、中身や器のデカい、母ちゃんに頼られる弁当屋に成長出来ているのならば、それで十分だ。いや、こいつや双循と、同じくらいまで追いつくのは悪くないかもしれないけど。なんだかんだハッチンももう少し伸びそうだし、円陣とか、組みやすそうだし。なんかいい感じに話がまとまったな。じゃあもうそれでいいか。
手袋をはめ直しているジョウを横目に歯ブラシと口を濯いで、コップを隅へと追いやる。イビキをかくハッチンの屍と双循の塊をまたいで渡り、部屋の窓を閉めて、やることのなくなったヤスは着替えに取り掛かった。
「ヤス、今日はえらく早起きだな。何か予定でもあるのか?」
「別にねえけど、目が覚めちまった」
荷物置き場に戻ってきたジョウが、寝ている(?)二人を気遣ってか小声で問いかける。彼はすでにいつもの髪型に、見慣れた服装だった。それなりに、身なりを整えてから外出していたのだろう。
「そうか?暇なら一緒に朝飯買いに行こうぜ」
「……行く。髪やるから待ってろ」
当然といえば当然ではある話だが、自炊できるほどの食材は今この部屋に存在していなかった。なので、転がっているハッチンに目をやり、ヤスはそう答える。双循はその横で、一際大きな掛け布団にくるまっていた。中身がどうなっているかはわからない。2人の間には、ぐしゃぐしゃになった毛布がバリケードのようにそびえ立っていたから、おおよそ夜遅くまでくだらない言い合いでもしていたのだろう。昨日のヤスは2番目に早寝だったので、その顛末を知ることはない。
ヤスの返事に気を良くしたのか、ジョウは何か奢ってやるよと自らの財布を荷物の山から引っ張り出す。おくすり手帳はすでに彼の手元にあったけれど、金銭は先ほど出掛けていた時は使わなかったらしい。それはヤスが母親に買ってもらったものより年季が入ってくたびれていたが、それでも随分と質の良い、大人の持ちもののように見えた。
腕にサラシを巻き終え、ジャケットの代わりにパーカーを再度羽織り、アパートの玄関扉を押し開ける。先に出ていたジョウが、靴のかかとを指先で整えていた。何も起きないとは思うけれど、念のため鍵を閉める。外付けの軋む階段をゆっくり降りて、それからふたりで歩き出す。
「ヤス、寒くねえの?」
「平気だけど」
「子どもは風の子ってとこか。さて、出て来たのはいいがどこで買うかな」
ポケットに手を突っ込み、そうぼやくジョウをヤスは見上げる。白い朝焼けに照らされて、銀髪が柔らかく光る。早朝の街は、ひんやりとした空気と静けさに包まれていた。これが数時間後には立っているのも嫌になるような暑さになるのだから、まったく夏という季節は侮れなかった。
「この時間じゃスーパーも弁当屋もやってないだろうし、コンビニでいいんじゃねえの」
「それもそうだな」
「この前駅前で見たけど」
「駅まで歩いたのか?じゃあ、ヤスに道案内をお願いするかね」
すこし前、駄々をこねるハッチンに連れられて、駅までのルートを探索したことがあった。探検探検と喚くあの幼馴染はいつまで経っても本当にガキのままで、それで仕方なく付き合ってやったのだ。練習をするスタジオや公園とは別方向だから、おそらくジョウや双循はそこまで足を延ばしていないだろう。
別に悪い気はしなかったから、ヤスは軽く頷いた。面倒ごとでさえなければ、頼られるのは嫌いではない。こっちだ、とだけ口に出して、大通りの角を曲がる。道路沿いに木が植えられているような、舗装された広めの道だった。
しばらくふたりは無言で歩みを進めていた。ヤスの半歩後ろを、ジョウは黙ってふらふらと着いてくる。具合が悪いというわけではないことはわかっていたので、ヤスはたいして気に留めない。別に機嫌が悪いわけでもない。ただ長い脚を持て余し、ヤスに合わせて歩幅を調節しているだけだった。ひよこの後ろをニワトリが着いて歩いて行っているようなものだ。見慣れない街並みを、真顔できょろきょろと見まわしながら歩いている。残念ながらほとんどの施設がまだ開店前で、カラフルなシャッターを眺めながらゆっくり歩いている、といった方が正確だった。先ほど身長は追いつけなくても困らないと思ったばかりだったけれど、少なくとも足の長さは伸ばさないといけない、そうヤスは考えなおした。なんとか、歩幅だけでも追いつかないと。一生このままだったら、なんとなく情けないから。
「なあ」
ヤスが抱いていたわずかな危機感になんか一切気付かず、暢気に問いかけながらジョウが覗き込んできた。ただ会話がしたくなったのか、雛鳥みたいに後ろをくっついて歩くことに飽きたのか、シャッター街に興味を失ったのかはわからなかったけれど、ヤスの隣にぴったりはりついて、そこから離れるつもりはもうなさそうだった。なんだ、そういう歩き方も出来るのかよ。
「昨日最後に流し台使ったのって、ヤスか?」
「は?」
まったくもって想定していなかった質問が襲い掛かってきたものだから、ヤスは一度まばたきをして、相手の方を見た。
「ほら、オレはあんまり調子が良くなかったから先に寝ただろ。その後誰が使ったかは知らねえが、最後はヤスだったんじゃないかと思って」
まあ、こんだけ早起きならヤスも遅くまでは起きてなかったんだろうけど。そう添えて、ジョウは笑う。ヤスは記憶の糸をなんとか手繰り寄せて、そうだったかもしれない、と返した。
「ほら、やっぱりな!あいつら出来るくせに面倒臭がってやろうとしねえんだ。ヤスは偉いな〜」
「は?何の話だよ」
「シンクの中、洗っておいてくれただろ。あと、ペットボトルの回収」
「ああ……」
急に褒められて、喜びよりむず痒さが勝つ。一度声を荒げて聞き直して、ようやく合点がいった。確かにヤスは昨晩寝る前に甘い飲料を飲んでいたから、もう一度歯を磨いて、その時にそれとなく水回りを片付けていたのだった。正直な話、家で暮らしているときの習慣だった。
「お前、そういうとこちゃんとしてるんだよな。マジで孝行息子だと思うぜ」
「うぜえ。ハッチンや双循だってやってるだろ」
「や、でもこういうのって、自主的に?出来るってのが大事なんじゃねえの。あいつらだって家ではやってるかもしれねえけど、こっちじゃオレが言わなきゃやりっ放しだぜ」
まあそのくらいカワイイもんだ、別にいいけどさ。と 続けるジョウから目を逸らしたヤスは、適当に逃げ道を作りながらうつむいた。ほめられたことに対してだけではなくて、ジョウが環境に残された痕跡から自分の行動を推測して、さらに見事に当ててきたのがなんだか照れ臭い。かなり普段から見られていて、自分のことを理解しているのだと思った。けれども、不思議と嫌な気はしなかった。それに少しの嬉しさというか、照れというか、そういう言葉にしがたい複雑な感情を持ったのだ。
「そりゃどうも」
「あいつらも働くようになるきっかけとかありゃいいのにな。とくに双循。いくら叱ってもオレの話じゃ限界ってモンがある、誰か助け船でも出してくれないもんかね」
「……ああそうか、アンタ、ゴミ捨てに行ってたのか」
「は、今。なにお前、気づいてなかったの」
「散歩だと思ってた」
「ひでえな、献身的な歳上を労ってくれよ」
軽口をたたきながら、できるだけ自然に会話の軌道をずらす。ヤスはジョウからして左側に立っていたから、今の表情は見えにくいはずだった。助かったな、とぼんやり思う。たぶん、まだちょっと赤いだろうから。別に隠す必要はないのだけれど、しょうもないプライドが自分にあることをヤスは知っていた。
「今日俺、ドアが閉まる音で目が覚めたんだよ。ジョウだったんだな」
「そっか。オレが起こしたのか、それは悪かった」
いや、そういう話じゃねえんだよ。的外れな謝罪を聞き流しながら、ヤスは一度立ち止まる。駅前の交差点だった。
「見えてきた。あれ」
「うわ、混んでる。出社ラッシュあたりに被っちまったか」
向かいのチェーン店を指さすと、ジョウは手を目の上に掲げてそちらをのぞき込んだ。彼の言う通り、スーツや作業着を着たミューモンが店内をひしめき合っている。信号が青く変わったのを確認して、ふたりは揃えた一歩を踏み出した。
地元でも聞きなれた入店音を耳にして、それからヤスはカゴを手に取った。電車が来る時間とでも重なったのだろうか、慌ただしく数人の客がすれ違うように店を出ていく。気が付くと、ジョウは勝手に飲料が置かれている棚まで移動していた。ヤスはそれを横目に、弁当コーナーへと足を進める。後で合流すればよいだろう。
おにぎりやサンドイッチはあらかた捌けてしまっていたが、弁当と総菜パンは十分に在庫が残っていた。自分の分のパンを確保してから、そういえばハッチンたちの取り分はどうするかな、と考える。勝手にしろといいたいところだが、手ぶらで帰ればまたひと悶着起こるのは目に見えていた。最悪奪われる。
「ヤス、弁当じゃねえんだ」
「うぜえ。いいだろうが」
ヨーグルトを手にこちらに歩いてきたジョウが、ヤスの持つカゴを覗き込む。そのままそこに放り入れたので、勝手に入れるんじゃねえと一瞬苛立った後で、そもそも奢ってもらうという話であったことを思い出す。あらためて相手の方に居直ると、彼は片手に携帯電話を握っていた。
「電話してたのか」
「ん?双循。一応、飯いるか聞いておいた方がいいと思って。ハッチンはまだ寝てるって言ってたけど」
まあアイツらはハチミツパンとかでいいだろ、ジョウはそう笑いながら適当に棚から菓子パンを数個取り出し、内容を確認しないままぽいぽいとカゴに突っ込んだ。それから改めてその中を見て、ヤスに問いかける。
「お前もパンだけでいいのか?菓子とか買ってやるつもりだったんだけど」
「ガキじゃねえんだから!別に、欲しいやつないし」
「じゃあオレが選んでやる。そうだな、お前はボーカルだから、これ」
男子高校生的にそれはないだろ、そうヤスが思うような、昔から愛され続けるアソートキャンディの大袋を手に取る。フルーツの写真がパッケージにはぎっしり詰め込まれている。かといって他に欲しいものも本当になかったし、なによりジョウが選んだものであるという認識が芽生えた瞬間、見慣れたオレンジ色のパッケージがなにかとんでもなく良いもののように思えてきて、それでヤスは口を開くのをやめた。
店を出ると、日が少し高くなっていた。もと来た道を覚えているのか、左手にレジ袋を持ったジョウは機嫌よさそうに数メートル先を歩いている。今のところ、体調もよさそうだった。一日中、こんな感じだといいのだけれど。揺れる尾羽を眺めて、ヤスは考える。今日のジョウは、早起きで、先にひとりでゴミ出しにいって、一回帰ってきてから俺と喋りながらコンビニまで散歩して、それでパンと飴玉を買ってくれた。たぶんUNZを拠点にしていたら、ありえなかった、知りえなかった出来事だった。でも、それとも、自分が知らなかっただけで、ジョウは他のミューモンに対しても同じように振舞っているのだろうか。そんなに難しく考えなくても良いのに、普段いろんな人に自分が迷惑をかけていると思い込んでいるこれは、他の人にも、いたって同じように。
いや、なんかそれ、やだな。
僅かな嫌悪感が、胸によぎる。ジョウの学校とバンド外での姿や、これまでの人生で起きてきたことや出会ってきた人のことはほとんど知らないし、こんなことを言える筋合いなんて自分にはまったくないこともわかっていたのだけれども、それでもなんとなく嫌だと思った。
ヤスが抱えたのは、総合的に見ればきっと戸惑いだった。だけど、同時に形容し難いいろんな感情が血液と一緒に体内を巡って、ありもしない出口を探している。ヤスはジョウのことを、親のような存在だとはべつに認識していない。先輩、もしくは友達か。うん、今のところはおそらく仲間とか友達とか、そういう類いのものだ。でも、あまりジョウが他人に親切にしたり、特別扱いをしたりしているところを想像したくない。あるいは自分自身が、彼のもっと特別な存在になりたくて、なってほしいのかもしれなかった。その先は「親友」かもしれないし、そうでない可能性もあった。頭に浮かんだ幼馴染の顔は、思考の隅に追いやる。どうやら幼馴染になりたいわけではないようだった。ヤスは相手の背中を目線で追いながら、今まで自分の見えないところで燻っていたであろうささやかな願望を言語化させていく。
よく聴いている有名バンドのボーカルの歌より、俺の声の方が好きであってほしい。
コンビニの唐揚げより、俺の揚げたやつを美味いと言って食ってほしい。あわよくば、どこの店でも弁当を見た時に、まず俺の家のことを思い出してほしい。
さっきは双循と電話をしていたけど、俺もその場にいないタイミングでバンドメンバーに連絡をとるんだったら、とりあえず最初に俺に掛けてきてほしい。
出来れば一日の中でなるべく長く俺のことを考えていてほしいし、具合が悪い時は真っ先に俺のことを頼ってほしい。
これは、一体どういう感情なのだろう。ヤスにはまだ理解できなかったから、口に出すことはしなかった。どうせ相手には聞こえないことはわかっていたけど、それでも出さない方が良いと思った。
1番に、なりてえのかな。こいつの、1番に。それで、出来るだけ、隣で寄り添っていたいのかな。バンドやってる時だけじゃなくて、今みたいな時とか、プライベート、的なタイミングでも。だけど、自分が母親を大切にしているように、ジョウにもきっとどこかに大事な家族がいるのだとヤスは思った。そしたら、そこに割り込むのは烏滸がましいから、その次。ああ、しっくり来た、自分はそこのポジションにいずれ就きたいと思っているのか。一般的に、家族の次に大切な人って、誰なのだろう。ジョウにとって、大切な誰か。病院の先生か。それじゃ太刀打ち出来ないな。大親友の幼馴染がいるとか、そういった話は聞いたことはなかった。
じゃあ、恋人とか。
脳裏にその言葉が過った瞬間、ヤスは無性に焦りを感じた。それで、その有無をかなり心配した。たぶん、血圧がぶわっと上がって、身体中の血管が引き締まった。ジョウからは見えないからいいとして、実際問題尾羽もぴんと逆立ち持ち上がっている。今まで、そんなことを意識したことはなかったのに。UNZに居た頃に彼から彼女が〜、とか彼氏が〜、みたいな話を聞いたとしても、間違いなく「はあ、そうですか」で終わりだった。むしろ、昨日聞いていてもそうだったかもしれない。
だけど、今はダメだ。もうダメだ。頼むから居てくれないでくれ、そうヤスは願っていた。我ながら急だし、単純な己が信じられないし、無責任すぎると思う。自分がその席につくことを望んでいるかすら、わからない。ヤスはもしかしたら別の形で、ジョウの「1番」になりたいのかもしれない。
でも、お願いだから、その止まり木はまだ空けてままでいてほしい。
気づけば、ほぼ見慣れたといってもよい風景があたりに広がっていた。あと数百メートルもしないほどで、アパートに到着する。おそらく、ハッチンももう起きているだろう。なんだかんだで、朝から元気な奴だから。そうしたら、しばらくジョウと2人で話す機会は訪れないかもしれないとヤスは思った。
先ほどから頭を巡っている、相手の恋愛事情に対する疑問がちかちかと点滅する。聞いてしまうか。今、聞いちまうか。怖いと思う気持ちはあったけれど、確認しておかないと自分はいつまででも気にしてしまうと思った。練習に支障をきたすわけにはいかないというのは、きっと建前上の理由に過ぎないのだが。
「ジョウ」
「うん?」
相変わらず数歩先を進んでいた、ジョウが振り返る。尾羽が揺れて、朝日にオレンジ色の残像が溶ける。飴玉のパッケージよりも彩度の低い、落ち着いた橙色。
「そういえばさ、アンタ、カノジョとかいんのかよ」
見上げてそう聞いたものだから、睨みつけるような形になってしまった。目付きの悪さを自覚しているヤスは少し後悔をしたが、相手は意外そうな顔で瞬きをしただけだった。
「なんだ、急に」
「いや、別に......もしいるなら、せっかくの夏休みに家空けてるなんて可哀想だと思って」
「恋バナがしたいお年頃か?いいぜ、教えてやるよ」
追いついたヤスの耳元に袋を持っていない方の手を寄せる。一度真面目な顔をして「実はな、」と声をかけた後、いませーん、とふざけたようにさえずる。
「はは、残念だったな。年上として、おもしろい話のひとつやふたつ、持ってれば良かったんだけど」
「......」
「ヤス?なに、そんなに残念だったか。え、もしかしてお前はいるの?」
「......じゃあ、カレシは」
「は、あ?」
「カレシじゃなくても、好きな人とか」
「え」
「俺の知ってる奴かよ」
訪れもしない沈黙が怖くて、矢継ぎ早に質問を浴びせる。まだ人気の少ない通りで立ち止まって、相手の目をまっすぐに見据える。緋色の瞳が浮ついて、一瞬余所へと揺らぐ。だけどすぐに目線はふたたびかち合い、それから質問が返ってくる。
「......どうして、そんなこと聞くんだよ」
「俺はいない」
「......そう。そうか」
相手の求めている回答は渡せなかった。だけど、フェアではないと思ったから、ヤスは自分からそう伝えた。嘘はついていない、はずだ。相手の1番になりたいのと、恋愛的な意味で好いているのと、きっとそのふたつは似て非なるものだ。いずれ意味はズレていくかもしれないけれど、少なくとも今はそうだった。ジョウは答えをしばらく考え込んでいたようだったが、やがてぽつりと答えをこぼす。
「オレも、いねえよ。恋人も、好きな人も」
「いたことはあるのか」
「どうだろう、なあ」
ジョウはそこでくるりと回って、また歩き出した。返す言葉が見つからなかったから、ヤスも無言でそれに続く。
「まあ1つ言えるとしたら」
「うん」
「お前が思ってるほど、オレも大人じゃないんだぜ」
こちらに背を向けたまま、ジョウはそう言った。
「どういうこと」
「お前が何考えてるかは知らねえけど、そう物事を難しく考える必要はない、ってことだ。まあ、なんか悩んでるようなら相談にくらいは乗るが」
「......ああ。そのうち、頼むかもしんねえ」
ヤスの心持ちは、数分前の自分が想像していたよりも穏やかだった。今恋人とか、好きな人とか、そういう相手がジョウにいないことを知って、ある程度落ち着いたのかもしれない。ジョウの言っていることは正直よくわからなかったが、ヤスの不躾な質問に不快感を覚えられた様子もなかったので安心した。
「そうか、ヤスが、そんな話をなあ」
コンビニを覗いた時と同じように、ジョウは頭上に手を翳し、今度は空を見上げた。歩みは止めないまま、眩しそうに何かを呟く。ヤスには聞き取れなかったけれど、追及する気も特には起きなかった。
相手から目を逸らすように、ヤスも初夏の青空を見上げる。
どこからかやって来た入道雲が、ゆっくりと東へ流れて行く。
名前も知らない鳥が、数羽連れ立って電信柱を越えていく。
羽織ったパーカーがそろそろ暑くて、一筋だけ、首を汗が伝った。
もうすぐ有名バンドとの対バンがあって、おそらくそこでフェスへの出演権をつかみ取ることができるかが決まる。いや、もぎ取ってみせる。そしたらフェスまではまた毎日練習をするわけだから、いま見えてきた寂びれたアパートで、4人で過ごし続けることになる。それでフェスでのライブも成功すれば、ヤスたちはUNZに戻り、校長と再び顔を突き合わせて、卒業とか、進級とか、そういう込み入った話をするのだ。
家に帰れるのは嬉しい。母親の手伝いもしたいし、弁当も恋しい。たまに巻き込まれる喧嘩はうぜえし面倒くせえけど、それでも愛着のある地元だった。
だけど、どこか惜しくなってしまっていた。いっそ、笑えてしまう。まだこちらに来て、数日だというのに。この非日常を手放すことが?音楽漬けの日々を終わらせることが?昨日までならいざ知らず、けれども今のヤスにはその理由が理解できた。
やることができた。ヤスはこの期間に、もう一羽の鳥との距離感を見直す必要があるのだ。だって、隣にいたいと思ってしまったから。それなら、同じケージにいるうちに、感情を整理するのが最適解だろう。
2人で話す機会がないなんて、言い訳に過ぎないよな。機会なんてものは、なんとかして捻出するものだ。覚えがないけど、たぶん偉い人もこういうことを言いがちだと思う。だから、明日も、明後日も、なんとかして早く起きよう。できれば自分が先にゴミ捨てを済ませてしまって、それでジョウを誘ってまた朝焼けの中を歩こう。またなんでもないような話をして2人で散歩でもしながら、その道すがら俺は自分の気持ちと向き合ってみよう。ヤスは、1人心の内で覚悟を決める。俺は正直言ってバカだけど、バカなりに考えがまとめられたら、それがどんなものであったとしても、必ずアンタに伝えよう。
長い脚ですたすたと階段を上っていく相手を、ヤスは追いかけるように足を運ぶ。包帯を巻いた右手に握られたビニールが鉄柱にぶつかって、カンと音を立てる。それに気がついたジョウがまた振り返って、まるで面白いものでも見たかのようににやつき、それから手を伸ばす。ヤスはしかめっ面で舌を出し、ポケットから出したアパートの鍵をその掌に乗せた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.