夜明 奈央
2024-05-05 13:08:37
10205文字
Public 中太小説
 

なくならないもの

太宰にプロポーズしようとする中也の話 ※最近の世情には反するかもしれない内容が含まれています
2022年7月3日初出

「おつかれさま」
 汚辱で力を使い果たして太宰の胸に倒れ込んだ中也は、太宰の優しげな声と骨ばった腕の感触と、それから温かな体温を感じながら、「ああ、こいつがほしいな」と漠然としたことを思った。もう指1本動かす気力はなかったし、意識だって今にも途切れそうだったけれど、それだけははっきりと覚えている。
 月の輝く夜のことだった。


 さて、そのまま意識を失った中也が目を覚ましたのはマフィア本部にある仮眠室だった。寝台の上に横たわった身体をゆっくりと動かす。指先、手、腕、足、順番に動かし、痛みや違和感のないことを確認する。
 傍らに置いてあった端末を確認すると、あれから数時間が経っているようだった。しばらくぼんやりとしているうちに、だんだんと昨夜のことを思い出していた。それに伴い、「あの人でなし、また俺を放置して帰りやがったな」と苦い気持ちになる。あいつが連れ帰るなら中也の自宅だろう。暗黙のうちに不問に付されているとはいえ、裏切り者がマフィア本部にそう簡単に出入りすることはない。いくらなんでもその程度の分別はある男だ。
 と、おそらく様子を見にだろう、部下の1人がやってきた。部下は中也の目が覚めたことを喜び、それを簡単に首領に報告してから、昨夜の顛末とか、その件は首領に報告済みであるとか、そういった事務的な連絡事項を告げた。まだ十分に休んだとはいえない疲労感に襲われていたので、正直なところ全てをきちんと理解できていたかは危うい。だが、最後に告げられた「今日はこのまま休んでいいそうですので、ご自宅に帰られるならお送りします」という言葉だけははっきりと認識できて、一も二もなく肯いた。
 自宅――太宰と半同棲生活を送る家に足を踏み入れたと同時、太宰の気配を感じて自分でも気づかないうちに入っていた力がストンと抜けるのを感じた。だがとうの本人は出かけているようで(というよりはまだ帰っていないのだろうか?)部屋は無人だった。先程まではそんなこと思い浮かびもしなかったというのに、いないと思うと無性に会いたくなってきて、駄目元で電話を掛けてみた。すると普段は嫌がらせのように数十回コールしないと出ないくせに、こんなときばかり1コールで繋がった。
「目が覚めたんだね。調子はどう?」
 いつもの軽口を装ってはいるが、その奥に心配の色が見てとれて、ああ、もしかして今回はやばかったのかもなとようやく理解した。確かに普段より身体が重いかもしれない。そして、この男も心配してみせることもあるんだなと思うと少し嬉しくなった。もっと素直なら可愛げがあるのだが、これでも昔に比べれば随分ましだ。
「ねぇ、聞こえてる?」
 じんわりと感慨に浸っていると、焦れた太宰が言葉を重ねてきた。それにますます嬉しくなって、滅多に言わない甘い台詞が転がり落ちた。
「会いたい」
…………今どこ?」
 流石に驚いたのか、たっぷりの沈黙の後聞き返してきた太宰に「家」とだけ答えると、返事もせずに通話が切れた。きっと会いにきてくれるのだろう。そう思うと自然と笑みが零れる。
 ああ、早く会いたい。
 だが、疲れ切った身体は安堵からか途端に力が抜けていき、太宰の到着を待たずして意識を手放すこととなった。

 目を覚ますと太宰がいた。どれくらい眠っていたのだろうか。太宰と電話をしたときにはまだ日が昇り始めた頃だったと記憶しているが、窓の外に見える空はもう夜に侵食され始めていた。
 太宰は寝台に腰かけ、中也に背を向けて片手間に端末を操作していた。中也が目を覚ましたのにすぐに気付き、こちらを向く。
「まだ寝ててもいいよ」
 ああ、太宰だ。
 抱きしめたくなって手を伸ばしたところで、不自然な体勢に気付いて視線を足元にやった。そこで自分の左手と太宰の右手が繋がれていることに気付いた。中也がぱちくりと瞬きを繰り返していると、太宰は「君が離してくれなかったから」とはにかんで見せた。なんだか名残惜しい気持ちはあったけれど、それより抱きしめたい気持ちの方が上回って、握っていた手を離して今度こそ抱きしめた。太宰も何も言わずに中也の背に腕を回す。
 しばし、黙って抱きしめあっているうちに、意識が落ちる直前の想いが蘇ってきた。
 こいつがほしい。改めて強く思った。


***


 そうだ、結婚しよう。中也がその結論に辿りついたのは、それから2日後のことであった。かかりすぎじゃないのかと突っ込まれれば、否定はできない。だってその発想がなかったのだ。裏社会では表と違って結婚している人間は少なかったし、なんせ男同士だったので。
 結婚なんてしたところで本当の意味で太宰を手に入れたとはいえないかもしれないけれど、それでも形式に則るのは悪くないと思ったし、少なくとも中也が太宰を手放す気はないという意志表示にはなると思った。お互い長い付き合いであるし、今更別れるなんてことはきっとないだろうけれど、それでも本当の意味でお互いが帰る場所だと信じているかと言われると疑問が残る。だから、そう信じるための第一歩として、まずははっきり太宰に伝えるべきだろうと思ったのだ。

 最初にプロポーズしようとしたのは2人でドライブをした帰り道、休憩がてら立ち寄った夜景スポットでのことだった。隣に立って静かに横浜の夜景を眺める太宰の右手を握ったら、くすぐったそうに笑って、それでも握り返してくれたので、相応しい雰囲気だと思って口を開こうとした。が、何か言葉にするよりも先に手を引かれ、「流石に夜はもう冷えるね。綺麗だけどもう車に戻ろうよ」と言われた。それは確かにその通りだったので、そのときは、まあこの先いくらでも機会はあるだろう、とさして気にも留めずに手を引かれるまま車へ戻った。

 次は部屋でゆっくりと過ごす休日の昼下がりだった。ふざけ合ってじゃれ合って、甘えるような接吻をして、「ああ、今だ」と思った。しかし、中也が何か言う前に太宰の悪戯な手が下半身に伸びてきて、あれよあれよという間にすっかり身体の熱を上げられてしまった。久しぶりだったのだと弁解したい。結局2人で散々に楽しんで終わった。

 3回目は太宰がいつものように自殺未遂を図った後だった。応急処置をしながらいい加減にしろと懇々と言い聞かせるが、へらへらと笑うばかりの太宰には伝わっている様子はない。どうすれば伝わるのかという積年の悩みに、結婚したいと言えばもしかして終止符を打てるのではないかと考えた。だが直前までいつもみたいにのらくらと躱していた太宰が、急に素直に「ごめんね」と謝るものだから、面くらってそれどころではなくなってしまった。

 流石にこの頃になると中也も不自然だと思い始めていたし、わざとじゃないかと疑った。だが、当然確信は持てない。その後もことあるごとに口にしようとしたのだが、何度も誤魔化され、躱され、結局「結婚しよう」というただそれだけの言葉を口にすることができずにいた。タイミングが悪いだけとはどうにも思えなかった。
 そこで中也が考えた打開策は、高級レストランを予約するというものだった。そういった場所のサービスは充実しているし、そこでプロポーズをする人間も少なくない。だから例えば席にあらかじめ花束とメッセージカードが置いてあるとか、コースで運ばれるデザートプレートにメッセージを入れるとか、そういった演出を依頼することができる。これなら今までみたいにやんわり逃げるということも叶わないだろうし、もし本当に太宰が嫌がっていたとしても、話し合いぐらいはさせてもらえるだろうと思った。

 だが当日、中也はそれが浅はかな考えだったと知ることになる。「行きたい店がある」といえばあっさり了承した太宰を連れ出すのは簡単だった。ただ高級ホテルが立ち並ぶエリアに中也の運転する車が差し掛かった辺りから太宰の口数はだんだん少なくなり、ホテルの駐車場に入る頃には何も言わなくなっていた。到着しても車から降りようともしない。中也が回り込んで助手席の扉を開けてやったところで、ようやく口を開いた。
「何を企んでるの?」
「別に何も」
「今日は誕生日じゃないよ」
「そうだな」
 太宰は、強張った顔で膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめていた。こんな風に拒否の姿勢を示す太宰は見たことがなかった。嫌なときはよく回る口で滔々と嫌な理由を並び立て、子供みたいに駄々を捏ねるのが常の太宰だった。只事ではないことだけは明らかで、それ以上無理強いする気にはなれなかった。
「部下が絶賛してたからちょっと行ってみたかっただけだよ。本当に何も企んでねぇから」
 そう宥めすかして太宰は渋々車から降りた。サプライズ演出はキャンセルするしかなかった。
 料理は大層美味かったはずだが、うつむきがちでぎこちなく笑う太宰を見ているとその味は半減だった。プロポーズが失敗するのは仕方ないにしても、せめていつもみたいに中也を揶揄って楽しそうに笑う太宰が見たかった。
 食事を終え、駐車場に戻る道すがら、手を繋ごうと伸ばした手を、やんわりと避けられた。
「今日は寮に帰るよ」
 太宰がぽつりと呟いた。明確な拒絶だった。中也には、それを了承して寮まで送り届ける以外の選択肢はなかった。
 太宰は中也と結婚したくないのかもしれない。少し前から薄々考えていたことが、俄かに信憑性を増してきた。だがそれにしては中也から離れていこうとする気配はないし、浮気している風も感じられなかった。
 公にしていないので中也たちの関係を知る人物は多くはないが、お互いの組織の長を筆頭に、今後の身の振り方に影響を及ぼしそうな人物には概ね知られている。男同士なので知られれば気持ち悪がるような人はいるかもしれないが、あいつが今更他人からの評価を気にするとはとても思えなかった。何せ自分を殺したい程恨む人間が軍隊程の人数いても笑っている奴だ。探偵社の面々は気に入っているようなので、嫌われたくはないのだろうが、結婚したからといって公にする必要はない。今と同じように必要最低限のメンバーに知らせる程度でいいだろう。それに、探偵社は訳ありの面々が揃っているという。このご時世で訳ありの人間が、望むにしろ望まぬにしろ、男色の存在を微塵も知らないとは考えにくかった。
 子供が欲しいというのも考えづらい。いつだかに「自殺主義者が自分の血を引く子供を望むと思うの?」と心底馬鹿にした目を向けられたことがある。それほど昔のことではなかったと記憶している。もし仮に考えが変わったとしても、ならまずは中也と別れる必要があるだろう。
 ひとつだけもしかしてと思うのは、中也の子供になるのが嫌なのかもしれないということだった。結婚と言っても男同士で普通の婚姻関係になることはできないので、中也たちが入籍するとすればそれは養子縁組になる。だから誕生日の関係で必然的に太宰は中也の子供になる。15の頃から中也を自分の犬にしたいと豪語し続けている太宰は今でも完全に諦めたわけではなさそうなので、自分が下になるのが嫌だという可能性はあるかなと思う。ただ、これが理由ならいつもみたいにわざとらしく嫌だと駄々を捏ねる方が太宰らしいと思える。だから、違うんじゃないかと思っている。それに、無理に籍を入れる必要だってない。そんなこと、太宰だってわかっていると思うのだが、違うのだろうか?
 他に考えられるのことといったら、中也がプロポーズではなく、何か別のことを言おうとしていると勘違いしている可能性ぐらいか。例えば別れ話とか、中也の重大な秘密を打ち明けようとしているとか、逆に太宰が隠している何らかの秘密を糾弾しようとしているとか。どれも中也が言おうとしたシチュエーションで口にするには違和感がある内容である。ホテルのレストランなんてのは特に。
 色々仮説を立ててはみるが、どれもしっくりこない。結局太宰に聞くしかないという結論になる。それができずに困っているのだが。

 翌日、もしかして今日は来ないかもしれないと思っていた中也の予想に反して、太宰は何食わぬ顔で中也の家に現れた。昨日のことなんてなかったかのように中也を揶揄って楽しそうに笑っている。中也の作った夕食を「君、料理の腕だけは確かだよね」と可愛くない物言いで褒め、「今日公園で猫の集会を見たよ」と他愛ない話をし、甘えるように中也の背中にくっついて肩に額を擦りつける。昨日の太宰は幻か、はたまた何かに憑りつかれてでもいたのかと思うぐらいだった。
「なあ、昨日さ、」
「なに?」
 だが、中也が問いを発したと同時に先程までの甘えた楽しそうな空気は一瞬で霧散した。氷のような冷たい声音はそれ以上何も言うなと雄弁に語りかけていて、中也の腹に回された手が強張って小さく震えた。
 幻などではなかった。それだけは確信したが、結局太宰が何にそんなに怯えているのかはわからないままだった。そうか、怯えているのか、これは。どうやら嫌がっているわけではないらしいことは察したが、だからといって怯える理由だって見当がつかない。中也にできるのは「なんでもない」と下手くそに取り繕うことだけだった。

 その晩、中也は眠る自分の頭を優しく撫でる手でうっすらと意識を浮上させた。太宰の手だった。手触りを確かめるように何度も中也の髪を梳かす。あたりはしんと静まり返っていて、太宰の手から心臓の音が伝わってきそうな程だった。
 何時だろうか。なんとなく部屋が暗いことは感じ取れたが、瞼は重く、持ち上げることはできなかった。一緒に寝台に入ったはずだが、また眠れないのだろうか。何か声を掛けたかったが、微睡に囚われた身体はちっとも言うことを聞きやしない。腕を上げることはおろか声を発することもできなかった。
「私ね、中也が好きだよ。だから、君だけは、失いたくないなあ」
 そう囁く声が聞こえたと思ったら、米神に口づけが降ってきた。なら尚更、逃げる必要なんてないだろう、と思ったが、どうにか音になったのは言葉にならないうめき声のようなものだけだった。
「ごめん、起こしちゃった?」
 そう言って抱きしめられ、あやすように背中をぽんぽんと軽く叩かれると、太宰の温かな体温に誘われるように意識は再び眠りの底へと落ちていった。


***


 朝の日差しに照らされて目を覚ますと、既に隣は空っぽになっていた。珍しいことではないが、一緒に寝台に入ったのに朝起きるといないのは、少しがっかりする。探偵社の出社時間にはまだ早かったが、出社前に自殺に精を出すのも情報収集だなんだと単独行動をするのも日常茶飯事である。昨日の今日なので少しばかり気にかかったが、その程度で連絡するのも憚られる。というか、あからさまに触れてくれるなとアピールされてしまったので、なんと言って連絡していいものなのかわからなかった。
 適当な朝食を腹に入れ、身支度を整えてポートマフィア本部に顔を出すと、早々に首領から呼び出しがかかった。もしやと思って首領室に向かうと、待ってましたとばかりに胡散臭い笑みを張り付けた首領に出迎えられた。
「やあ、待っていたよ」
「お待たせして申し訳ありません」
「ああ、いやいやそういう意味ではなくてね」
 帽子を脱いで最敬礼をする中也を制して椅子に坐した首領は、「早速で悪いが、仕事を頼みたくてね」と切り出した。
「こないだ中也君が報告を上げてくれた鼠の件なんだけど、どうも北に逃げてしまったらしくてね。掃討をお願いしたい」
「はい。喜んで拝命いたします」
「よろしく頼むよ。資料は偵察班から受け取ってくれたまえ」
 その後二言三言世間話をしてから首領室を辞すると、執務室に既に資料が届けられていた。内容を確認すると、鼠は明日の夜、手配した追加の武器を受け取る予定になっているらしい。それなら早めに叩いた方が面倒が少ない。すぐに部下を呼び、鼠の規模に合わせた部隊の招集をかける。明日の夜より前に片付けるなら、今晩から明日の朝にかけてが狙い目になる。昼前には横浜を出た方が良いだろう。
 忘れないうちにと思い太宰に今夜は帰らない旨のメッセージを送ってから、昨晩の太宰の様子を思い出す。意識は半分微睡の中だったが、あれは現実の出来事で間違いないだろう。何故なら中也は夢を見ない。問い詰めたい気持ちはあったが、どうせ無駄だとわかっている。自分に都合よく丸め込むことに関して太宰の右に出る者を中也は知らない。
「君だけは、失いたくない」
 あのとき太宰は確かにそう言った。そして、太宰が大事なものを失ってマフィアを裏切ったと知っている。あのときはともかく、今なら太宰の大事なものに自分がカウントされているだろうという自信はあった。太宰の言葉もそれを裏付けている。でも、失いたくないなら、繋ぎとめておきたいと思うのが普通ではないだろうか。
「中原さん、1時間後には出発可能です」
 部下の声にはっと現実に引き戻される。返事をしてから、慌てて出発前に終わらせておくべき仕事に取り掛かる。まずは、留守中に予定していた仕事を各方面に割り振らなくては。


***


「出張に行く。帰りは明日か明後日の予定」
 太宰が簡潔なメッセージを受け取ったのは、最近になって急に来る頻度が増えてしまった織田作の墓の前だった。
 そっか、今日はいないのか。じゃあ今日は久しぶりに1人で呑みにでも行こうかな、と自然に考えた自分に気付いて溜め息が零れ落ちる。いつのまにか、中也がいるのが当たり前になっている。いや、はっきりいつからかは覚えていないが、随分前からそうなっていたことにはとっくの昔に気付いていた。気付かない振りをし続けていただけで。
「なにやってんだろ、私」
 誰にともなく呟く。見上げた空は太宰の気分とは裏腹に晴れわたっていた。
 中也が最近、太宰に何かを告げようとしているのは気付いていた。たぶん、「ずっと一緒にいよう」とか「一緒に生きてほしい」とか、そういう類のことだ。中也がそう思ってくれているのは素直に嬉しいと思うし、太宰だって、そうであればいいなと思っている。だから本当は逃げる必要なんてない。なのに、明確に言葉にしてしまうと手から滑り落ちていってしまいそうな気がして、それが恐ろしくって、みっともなく逃げ続けてしまっている。それに中也が少なからず傷ついていることだって気付いているのに、あと一歩が踏み出せないままだ。こんなことで、中也を手放したくなんてないのに。
 こんなところに来たって、何ひとつ解決しないことなんてわかっているし、正直なところ生きていたところで織田作に相談するような内容ではない。織田作はなんでもない世間話をする相手としては良いのだが、相談相手としては向いていない。特にこんな、恋愛相談なんてのはもってのほかだ。
 恋愛相談。心の中で復唱して自嘲する。別に、誰かに相談したいわけではないのだ。こんな馬鹿みたいな心情を他人に曝け出したいとは思わないし、仮にそうしたとして何を言われるかなんて大体想像がつく。どうすべきかなんてわかっている。ただ怖がっているだけだ。
「私、こんなに意気地なしだったっけ」
 口に出すと、なんだか本当に惨めな気持ちになってくる。誰でもいいから、背中を押してほしかった。


***


 掃討作戦はまずまずの結果だった。鼠を早々に追い詰め、主要人物の何人かを捕え、残りは殺した。中也が出張る程ではなかったかもしれない。こちらの被害は少なかった。重軽傷者数名。死者1名。鼠の規模を考えると、悪くない数字だった。
 だが、その死んだ人間は名前も知らない下っ端などではなかった。それなりの古株で、特別親しいわけではなかったが、会えば世間話をする仲だった。マフィアの世界ではこんなことはしょっちゅうなので、いちいち守ってやりたかったと嘆くことはないし、既に殲滅済みの組織に対して復讐だなんだということもない。本人だって、いずれこういう日がくることを承知している。そういう世界だ。そして、それがいつ自分や親しい人間の番になるかはわからない。明日は自分の番かもしれない。そういう覚悟ができない者は、この世界では生きていけない。重々承知していることではあったが、それでも顔見知りが死んで、思うことが何もないほど冷酷無比な人間ではない心算だった。

 横浜に戻ってきて、真っ先に向かったのは墓地だった。マフィアの共同墓地。かつての上司や、部下や、同僚が眠る場所。穏やかな潮風が頬を撫で、ウミネコが頭上を飛んでいく。特に誰の墓に参るでもなくふらふらと合間を縫うように歩く。親しかった相手もたくさん眠る場所だったが、そのひとつひとつで立ち止まっていれば何時間あっても足りはしない。それぐらい、たくさんの仲間たちが眠っている場所。できれば今でも生きていてほしかった。だが、自分もその仲間たちも、たくさんの命を葬ってきた。自分たちだけが助かりたいなんて都合の良い願いが聞き届けられないことはわかっていた。きっとみんなまとめて地獄行だ。
 中也にできるのは、自分の力を付けて少しでも多くの敵を葬ること、死んだ仲間の顔を忘れないこと。その程度だ。
 当て所なく彷徨っていると、遠くに見慣れた人影が見えた。太宰だ。誰かの墓の前に立っている。それが誰の墓かは知らなかったが、きっと織田の墓だろうと思った。仲間が死んでも悲しむ素振りなんてちっとも見せやしなかった太宰が、唯一織田の墓参りだけは頻繁にしていることを知っていた。
 ぼんやりその姿を眺めていると、視線に気付いたのか太宰がこっちを見ていた。軽く片手を上げて挨拶すると、こちらに向かって歩いてくる。さっと周囲に視線を巡らすが、他に人影は見受けられなかったので、まあいいかと思い、中也も太宰の方へと近づいていった。
「戻ってたんだね」
「ああ、ただいま」
 てっきり「おかえり」と言ってくれるだろうと思っていた太宰は、曖昧に微笑むだけで何も言わなかった。
 そういえば、いつから太宰は「おかえり」と言わなくなったんだったか。相棒だった頃は勝手に中也の家に上がり込んでは葡萄酒を飲み、帰ってきて早々怒鳴り散らす中也を見て「おかえり」と笑っていた。言わなくなったのはたぶん、裏切った太宰と再会してから。
 それも、最初の頃は特段気にした風もなく言っていたように思う。だから、もっと最近。毎日言う機会があるわけではないのでいつが最後だったかはっきりとは覚えていないが、ほとんど毎日中也の家に出入りするようになった頃には、もう言わなくなっていたように思う。
 そこで中也は、いつだかに太宰が言っていた言葉を唐突に思い出した。
「求める価値のあるものは皆、手に入れた瞬間に失うことが約束される」
 どうしてそんな話になったのかは覚えていない。それでも、あのときそう言った太宰が今にも世界から消えてなくなってしまいそうだったことだけは覚えている。あれはきっと、世界の全てを諦めた顔だった。
 すとんと胸の裡に落ちてきた。太宰が何に怯えているのかも、あの晩の太宰の真意も。そして、絶対に手放してなるものかと思った。中也が口を開く前に、また何かを察した太宰が誤魔化すように今日の晩飯の話を始めていたけれど、もうそんなことで誤魔化されてやるつもりはなかった。
「俺はとっくにお前のだし、お前は俺のだと思ってる」
 ぺらぺらと滑らかに動いていた口がぴたりと動かなくなった。そして、ともすれば風の音に掻き消されてしまいそうな程の弱弱しい声で言った。
「いきなりなに?」
「悪あがきしたって無駄だって話」
 会話するだけなら十分だったが、手は届かない距離だった。それを一歩ずつ詰めていく。また逃げられるかと思ったが、太宰は途方に暮れたような顔で突っ立っているだけで、身動ぎひとつしなかった。あと一歩で太宰の胸に顔が埋まるというところまで近づいてから言った。
「とっくに手に入れてるものを、今更手に入れてないことにしようったって、そんなのは無意味だ。それに、手に入れたものがいつか失われるってのも、あながち間違いじゃねぇ。少なくとも人は、いつか死ぬ」
 太宰がぎゅっと唇を噛みしめたのがわかった。酷なことを言っている自覚はあった。
「だけど俺は、失われないものだってあると思ってる」
「例えば?」
「名字」
 太宰が小さく息を呑んだ。
「結婚しようぜ。それなら俺が死んだって手前は俺のだって証が残るし、物や記憶と違ってなくなることはねぇ。立場やお互いの気持ちが変わったって、ずっと消えない。だろ?」
 にやりと笑ってみせる。太宰の瞳が小さく揺れているのがわかったが、黙って待ち続けた。そのままたっぷり10秒。太宰の目から、ころりと雫が落っこちるのと同時に首が小さく縦に動いた。それからずっとポケットに隠されたままだった太宰の手がおずおずと中也の背に伸ばされたので、中也もしっかりと抱きしめ返してやった。


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