晴れの日のふたりを祝福する鐘。うるさくすら感じられるほどの大音量。それでも澄きとおったそれは、どこまでも響き渡る。巨大な窓の向こうでは、空の彼方、ひとつも浮かんでいない雲の代わりだとでもいうように真っ白な鳥たちが群れをつくっていた。そのまま飛び去っていく彼らの行き先は、きっとここにいる誰もが知らない。足元には高級感が漂う、ふかふかのカーペットが敷き詰められている。天井と壁は煌びやかな照明、色とりどりのステンドグラスに囲まれていた。
紛うことなき、結婚式場である。
そこに居合わせたヤスは、自分が集団の最前列で立ち尽くしていることに気がついた。十数メートル前には純白の衣装を着た人物がふたり、すこしだけ段差のついた台に乗ってこちらに背中を向けている。質の良いスーツを着たミューモンに、見覚えはない。しかし、その横に並ぶもう片方については、ヤスには大いに心当たりがあった。同じようなスーツを身に纏ってはいたが、そちらの男ーージョウは、それに加えて薄い布を肩から羽織っていた。かの有名な花嫁のベールとは違うけれど、レースで出来たそれには凝った意匠が刻まれている。隙間から覗く尾羽の焔に合わせて、裾がひらひら揺れていた。もちろん違わず、これも白だった。そう、たとえばハッチンならば、なんかカーテンみてえ〜とでも口から間抜けに零すような。
ヤスはしばらく、そんな不死鳥の後ろ姿をぼーっと眺めていた。どうせ声が届く距離ではないし、名前を呼んだところで、なにを口に出せばいいかもわからないし。正面の一際大きなステンドグラスから差す、すこし色のついた光が真っ白な布を照らしている。本当にレースのカーテンのような揺れ方をしているそれを目で追いかけながら、なんで俺はこんなところにいるのだったかな、となんとなく考える。思考回路がなんだか鈍くて、自分の後ろで声を潜めて話している見知らぬ人々の会話もぼんやりとしか聞き取れなかった。
そのうち、当の2人が、おもむろにこちらを振り返った。その際にジョウの緋色のそれと目があった気がして、それで慌てて視線を逸らす。いやダメだろ、あいつは主役なのに、逃げるような真似をして。主役?主役ってなんだ。ずらしたピントを合わせた左側、そちらの人物の顔はあまりよく見えなかったけど、それは照明の位置の関係かもしれなかった。
ジョウの横にいる見知らぬその人物が気になって、相手を注視しようともしてみる。しかし、それもすぐに取りやめるはめになった。やはりヤスを見つけていたらしいジョウが、眩しい白布を翻して駆け寄ってきたからだった。よく見れば、いつもの見慣れたブーツより硬くて細く、高めのヒールがついた靴を履いている。そんなもん履いてて転ばねえのか、頼むから気をつけてほしい、なんてどこか見当違いな心配が頭をよぎる。
「ヤス!」
「ジョウ」
目の前までやってきたジョウは、まるで校門前で出くわした時のようにヤスに気安く声をかけた。こちらからなにを口にすればよいかは未だにわからなくて、相手の名前を呼ぶだけで黙り込んでしまう。見上げた先の表情は、ヤスの記憶にはないものだ。いつもよりさらに高めにある顔の、幸福とか、慈しみとか、愛情とか、細かいことはわからなかったけれど、なんか、そういう面持ち。少なくとも、ヤスには向けられたことのない感情を体現したものだった。
「ヤス、これまで世話かけてすまなかった。迷惑かけてばっかりだったなあ。感謝してるぜ」
「お、おう」
別に、悪い気はしないし、でもそんなに謝られるようなことでもないと思うんだけど。まだ出会ってたかが3ヶ月なのだから、なにもそんなに改って感謝なんか述べなくても良いのに。だらんと下げたままだった両手をとられ、胸の前で握られる。ジョウは基本的に右手だけにグローブを着ける習慣があったが、今は両方が白いそれに覆われていた。甲の部分に、ラメのついた糸を使って小さな花の刺繍が施されている。相変わらずあたたかくて大きなその手は、ヤスのサラシを巻いた右手とグローブを嵌めた左手をすっかり隠していて、ヤスはそこで自分が周りの人々とは異なり、学校やスタジオへ行くときと同じ格好をしていることに気がついた。そのままなんとなくぴかぴか光る小花模様を見つめていたが、不思議そうな声色で自分の名前を呼ばれて、ジョウの方へと目線を戻す。
「でももう大丈夫だ、今までありがとうな!」
「はあ?」
ヤスと目を合わせて、安心したように笑顔でしっかりと頷いた後。そう言い切ると、ジョウは握っていた手をぱ、と離す。冷たく突き放されたわけではない。だけどあまりにあっけなく、あっさりとした動きだった。それはもう、急速に手から離れていった体温に、ヤスが思わず間の抜けた声をあげてしまうくらいに。変な話、動揺したのだ。だって今までジョウが、ヤスに向かってこんな切り上げ方をしたことはなかったから。いつだって彼は物事の切れ目に慎重で、そのひとつひとつを大事にするミューモンだった。と、ヤスは思っている。
「これからはコイツに頼るし、お前に迷惑はかけねえよ」
それから、外した白いグローブを右手に持つ、隣までやって来ていたミューモンの腕を力強く掴む。思い出さなければよかったとさえ思ったが、ヤスはなぜか知っていた。右手にグローブを携えるのは、花嫁を守るという決意を表すとか剣だとかなんとか、とにかく、そういう晴れやかでおめでたい担ぎのものだった。
ああ、うそだ。まさか、冗談だろ、なあ。
自分にとって晴れやかでもおめでたくもなんともない予感に、後頭部がひんやりとしてくる。ステンドグラス越しに降り注ぐ光が、やけに眩しくなって瞼の裏を刺す。足の裏が、柔らかいカーペットに引き摺りこまれるような、くらくらとした錯覚を覚える。あまりにも現実味が薄くて、どこか頭から遠ざけていた目の前の情景。小綺麗なチャペル、白スーツの2人、鳴り響く鐘の音、祝福する人々、それに混ざって傍観する自分。
満面の笑みを浮かべたジョウが、小鳥が囀るように口に出した。
「オレ、コイツと幸せになるか
「ウワーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」
跳ね起きた。この瞬間を跳ね起きたと呼ばないならば、それに当たる事象はこの世の果てにだって存在しない。あまりにも勢いをつけたものだから、首の後ろの方がつんのめり、がくんと音を立てた。一瞬脳が揺れて、視界がブレる。神経の緊張に、肩甲骨も、背骨の下の方が痛む。長い前髪がかっ開いた右目に突き刺さる。しかも、夜間にふさわしくないデカい声が出た。いや、夜間か?カーテンを見る。閉めてある。良かった、一応まだ夜だ、いやよくない、もう、何もかもが最悪だ。
「なななななんだ、ゆ、ゆゆめゆめ夢か」
動揺したヤスの寝起きの口は、それを感じさせないほどによく回った。おそらくは先ほどお披露目した高らかなシャウトが原因だろうが、半日前に結婚式場で行った出し物ーーーふつうにバンドのライブにて、散々声を出していたことに起因しているかもしれなかった。少し震える右手をシーツの上で乱暴に滑らせ、なんとか暗闇の中でスマートフォンを掴み取る。何度目とは言わない、一度だけボタンを押して、時刻と日付を表示させる。23時30分。結婚式場ライブは、どうやらまだ本日の出来事であるようだった。
「どうしたのー、何かあったの?」
「わ、悪い!ベッドから落ちただけ」
「大丈夫?気をつけてね、おやすみなさい」
寝起きの一声は母親にも届いていたらしく、間延びした声かけが階段の下から届く。それを当たり障りのない嘘で誤魔化してから、ヤスは大きくひとつため息をついた。なんとか気を紛らわそうと、手元の携帯でブラウザの起動ボタンをタップする。パッと表示された画面には練習の休憩中にハッチンが入力した『花婿 手袋 意味』の検索結果が並んでいて、それで結局ヤスは先ほどの夢を鮮明に思い出すことになった。これのせいか、なんであいつも俺の携帯で検索するんだよ。うげ、と声に出し、露骨に顔を顰める。
「なんて夢だよ......」
「なんて夢」、というならば、まあそこまで恐ろしい悪夢というわけでもないだろう。単に、ジョウが結婚する夢だった。ヤスの知らないミューモンとだけど。
「絶対あのブーケのせいだ……」
マナーやら、システムやら、結婚式に関連するページが開かれたタブをすべてフリックで飛ばし去る。披露宴でのライブはもう終わったのだ、当分こんなページに用はない。処分、処分、当分。それからトークアプリを開いて、2番目に表示されたバンドのグループ画面を選んだ。ちなみに1番目は母親との個人チャットだ。会話を遡っていくと、本日のライブの記念写真に混ざってジョウ単体の画像が流れてくる。困ったような顔で笑い、小ぶりのブーケを胸の前で掲げている写真だ。他のものと違わず式の終了後にハッチンが撮ったもので、ヤスが写真のダウンロード時にわざわざ避け、ちらりと流し見するに留めていた画像だった。別にやましいことはなにひとつないのだけれど、これを自分の携帯に保存するにはなんとなく抵抗があったから。やましいことはなにひとつないのだけれど、なんとなく。
「ったく、なんなんだよ、この花......」
今さら画像をタップして気付いたのだが、白を基調としたかわいらしいブーケには、何種類かの植物が取り入れられていた。わざとジョウの顔を画面から追い出すように、瑞々しい花々を意味もなく拡大してみる。しかしまあ当然というべきかほとんどヤスには判別がつかなくて、きっとそれは荒い画質のせいだけではないのであった。かといって花の名前を色だけをヒントにわざわざ調べる気も起きず、中央に鎮座する丸く大きなひとつをきっと白バラだろうと決めつけ、あとは諦める。灯りを消したスマートフォンを床に放り投げて、ヤスは再度ベッドの上に仰向けに転がった。
「なんで俺、こんなに焦ってんだ?……ダセェ」
演者として参加した結婚式のクライマックスが過ぎて、花嫁の幸せをお裾分けするブーケトスのタイミング。空気を読んだつもりで舞台の陰でこそこそ雑談をしていたヤスたちのもとに、突如降りかかった幸福、もしくは災厄。あろうことか、かがんだ背後からジョウの後頭部に、その可愛らしい花束は牙を剥いてーーあるいは花粉を撒いて、襲いかかったのだった。
ジョウはバンドメンバーの中で、唯一の成人だ。体質と学歴こそ頼りなくはあるものの、その代わりに得た人生経験は生半可なものではない。アルバイトや社会奉仕活動を通して、社会への馴染み方も理解している。ヤスからしてみれば、十二分に大人だった。だから当然、「未婚女性」でこそないものの、ジョウはブーケを手にする者としてはなにもおかしくなかったのだ。綺麗なひとが好きなのか、それとも自分を引っ張ってくれるような誰かが好きなのか、聞いたことはなかったが、少なくともヤスよりは恋愛経験も積み重ねがあるはずだ。勉学にバンドにバイトにと大層忙しい今はさすがにそんなヒマはないはずだけど、きっと恋人だっていたことが、いや、まさか、今いたりはしないよな?いちゃ悪いなんてことはないけれど、そんな、俺達に黙って、そんなまさか。
なんにせよ、「次に幸せな花嫁(?)になる」可能性があるミューモンは式のゲストです、ということになったのだから、式場ではちょっとした騒ぎが起きた。ブーケを投げた当の花嫁をはじめとした女性陣の黄色い悲鳴と、これ幸いと張り切ったアナウンスをまくしたてた司会者によって、隅っこで棒立ちしていたヤスたちは再度会場中の視線を向けられることになったのだ。しかし幸か不幸か1日張り切っていたジョウのキャパシティはすでに限界に近く、しばらくは愛想良く振られる会話に対応をしていたものの、頃合いを見て花束をハッチンに預けると控室に引っ込んだ。それに付き添い会場を共に出たヤスはその後の様子は知らないし、花の行方にも浮かれる群衆にもそこまで興味は抱かなかった。
けれど、こうして振り返ってみた時、マジかよ〜と頭を抱え、面倒くさそうにブーケを受け取った幼馴染の顔を思い出して。走馬灯の様に記憶を辿っていたヤスは、自分の中の燻りにふと気づいた。
そうだった。ヤスは、きっとあの花束が欲しかったのだ。
最終的に帰り道ではジョウの手元に戻っていたわけだから、本当にあの一瞬だけの話なのだけど。結局対応を引き継いだ相手がハッチンだったのは、単にヤツの種族が蜂であるからに過ぎないと思いたい。そう、蜂と花ってなんか合う気がするし。だったら、自分に声が掛けられなかったとしても、なんらおかしくないとは思う。ヤスは別にハッチンに嫉妬しているわけでもないし、結婚式場でインタビューを受けたかったわけでもないし、自分が花束の「幸せ」を手にしたかったわけでもなかった。
だけど、ちょっとだけ思ってしまったのだ。なんで俺じゃねえんだよ、と。
ーーハッチンに嫉妬しなかったというのは、少し嘘だった。恨みつらみはない、と言ったらこれも嘘になるが、まあメチャクチャあるわけではない、けれどまあバンドを始めて数ヶ月、普段からヤスの方がジョウの世話を焼いてやっている自覚があるのと、ほんの、ほんの数ミリだけ、強い信頼を得ていると思い込んでいた。それはその、種族的にみたいな、傲慢に近い勘違いもあるのかもしれないけれど。ともかくヤスは、あの場で真っ白な、あれを。やけくそ気味に、ぶん投げてでも良いから自分に託して、それで頼ってほしかったのだ。あのブーケのせいだ、絶対にそうだ。
そう、それでヤスはきっとあんな夢をーーー
「いや、おかしいだろ」
なんでそうなるんだよ!
自分の飛躍する思考に気味が悪くなり、それを千切るように一度右腕をベッドに叩きつけた。べん、と間抜けな音がして、サラシを巻いていない手のひらがスプリングに弾き返される。
いや、なんで俺が。なんで俺が、ジョウのもらったブーケを欲しがるっていうんだ。虫でもないし、押し花なんかを作る趣味もない。あんなもん、ただの花じゃねえか。なんでわざわざ、もらえなかったことを引きずって夢まで見るんだよ。それにあいつに頼られるなら、そんな変なタイミングよりライブ中の方が100倍嬉しいんじゃないだろうか。
そもそもこのヤスの願望は、結婚式本編とは結びつくものであるはずがなかった。ジョウが女とだろうが、男とだろうが、たとえ宇宙人とであろうが、誰かと結婚することはいずれありえる話だ。それで彼の1番の居場所がヤスの近くを離れることになったとしても、バンドというつながりさえ残されているならば、本来自分にはどうだっていい、どうなったって構わないはずの話だった。
なのにどうして、ここまで振り回される。
どうしてヤスは、こんなに取り乱している。
頭の中でぐるぐると、脳細胞が活性化する。未熟な理性が、なけなしの知能が、一生懸命考えているふりをする。
きっと、今日あの場の中心になったのが双循ならば、こんなことにはならなかったのだ。いや、間違いなくなにか面白いことにはなったのだろうけれど、よっぽどの強烈な印象を残さない限り、ヤスの夢にまで影響が及ぶことはなかっただろう。あの夢には、今考えてみればおかしい点が山ほどあった。それなのにまんまと戸惑い、焦り、翻弄される今日のヤスは本当にみっともなくて、嫌になる程ダサかった。自分がわからない。知らない。見当もつかない。ただの気の迷い?錯覚、勘違い。今日のことはすべて忘れ、何もなかったかのように再度眠りにつくべきか。
緊張で開かれ続けた瞳が渇き始める。その裏側に、花を抱え帰り道を行く不死鳥の後ろ姿が焼きつく。記憶の中のそれが振り返って、ヤスを見て一言、また明日とだけ笑顔で告げる。楽しそうに大荷物と夕焼けを背負ったまま、バイト先の店舗がある横路へと逸れていく。
やがてやわく発光する尾羽が見えなくなった時、一度大きく瞬きをしたのは現実世界の方のヤスだった。夕暮れの商店街の残像は消え去り、浮かび上がったひとつの答えだけがとり残される。寝室に射し込む夜の街灯といくつかの星が、冴えた紺色をにぶく彩る。
「……」
たぶん本当は、わかっていた。
浮かび上がった答えは、胸底に沈んで、沈めていただけで。その解にはとっくにたどり着いていて、ただ、ただ見ないふりをしていただけだった。だってそれはきっとヤスにとっても、相手にとっても、とんでもなく都合が悪いものだったから。認めてしまったら、今確かに存在しているものが捻じ曲がってしまうかもしれない。やっと素直に愛せるようになってきた家庭の外の当たり前の日常が、静かに、息を引き取るように終わってしまうかもしれない。そんなことばかり考えて、意図的に考えないようにしていた。臆病で、勝手で、傲慢で、ささやかな自分の感情。
ヤスは、きっと彼のことを。
「やべえ、ちょっと好きかもしんねぇ……」
サラシもグローブも外した両手で、寝転んだまま顔を覆った。すこしだけ開けた窓の隙間から、生温い風が入り込んでくる。額に触れた指が思いの外熱くなっているのを知って、暗闇の中で苦笑を浮かべる。そうだ。高校に入るまで、自分がこんな感情を燻らせるようになるとは思ってもみなかった。ガキだろ、こんなのガキのくだらない感情だ。しょうもねえ、くだらねえ。え、マジでどうしよう。
それから、本当にくだらないことを考える。ジョウも今、両手には何もつけていないのだろうか。グローブも、気に入りの指輪とブレスレットも。いつか誰かから託されるであろう永遠の愛を約束するリングは、寝る時でも着けたがるタイプなんだろうか。なんとなく、親指と人差し指でマルを作ってみる。サイズはこんなもんかなだなんて、小さな空洞を広げたり狭めたりしてみる。ああ、あの綺麗で大きな手の、端からふたつめの指に。銀色の輪っかをはめる大役が自分の仕事だったならば、それって、きっととてつもなく素敵なことなのではないだろうか。一生に一度の機会を、出来れば星明かりの下で、そう、彼は青空の下も似合うミューモンだったけれど、きっと夜の方がもっと素敵に映るはずだった。彼がぼんやりと周囲を尾羽や瞳で照らしている中で、それより輝く鈍色の指輪を、黙って自分の手ではめ込みたかった。だってヤスは、彼のことがちょっと好きなのだから。いやこれ、本当にちょっとか?それはまだ、あまり深く考えたくなかった。
でもすべては、ヤスの勝手な想像に過ぎなかった。俺にやらせてくれよだなんて、そんなことを申し出る勇気はない。具体的な展望もないこれ以上の幸せのために賭けに出るより、今居る場所の足場を崩さないよう、音楽と、くだらない日常だけを囀り続けたい。だって、今でもヤスは不幸であるとは思ってはいないのだから。もうちょっと距離は詰めたいし今より頼られたくはあるけれども、それはこれからの時間が解決してくれるはずだった。幸い、下手すれば同級生よりも長く交友関係を続けられる道筋が、バンドメンバーである2人には存在した。
だったら、これでいい。まあ、別に、これでいいだろ。
そうやって核心に迫ることは何も言い出すことが出来ないまま、言い出そうと決意することも出来ないまま、彼はいつか自分の側を離れていってしまうのだろうけど、それはそれだ。
自らの視界を塞いだまま、仰向けで大きく息をつく。そろそろ寝るかだなんて寝返りを打った時、床に転がるスマートフォンが明るく点滅した。一瞬間を置いて、軽やかな通知音が流れ落ちる。目覚ましをかけていたから、マナーモードは切っていた。
「……誰だ?」
腕を大きく伸ばして、無理やり端末を掴み取る。先ほど開いたばかりのメッセージアプリを立ち上げ直し、グループ一覧を見たところでヤスはうお、と詰まった声を漏らした。
『来月のシフト出たから上げる まだ融通効くから練習の日早めに決めてほしいです』
表計算ソフトで作成された予定表の写真と、簡潔な文面をチャットに投稿していたのはジョウだった。7月度のカレンダーは、後半が異常にカラフルだ。おそらく、高校が夏休みに入るからであろう。
弁当屋の手伝いを毎日しているヤスが言えたことではなかったが、こいつよくもこんなに働く気があるなと文字列をなぞりながら変に感心を覚えた。そしてその直後に、いやそんなにうまくいくわけないだろ、と脳に電流が駆け抜ける。やる気があるのは大いに結構だが、悲しいかなそれに追いつくだけの運と健康がジョウには存在しない。気力でどうにかできることと、そうでもないことで世の中は構成されているのだ。
『先に休みの予定も入れとけよ』
『ヤスだ! 今年の夏期講習の日程ってもう出てたか?』
「あ、しまった……」
つい思いついたままにメッセージを送ってしまったヤスは、顔を顰めてのっそりと起き上がる。勢いで押してしまった送信ボタンを一瞥してから、ベッドの上で胡座を掻いて再び頭を抱えた。休息日を決めておくようにというのは本心であったが、さすがに、すぐに返信が返ってくるとは思っていなかった。バイトから帰ってきたんだろうが、いまお前は早く寝るべきだろ。それに、なんだその返事は。そういうことじゃねえんだよ。なにが、ヤスだ!だよ。
やっぱりバカだろこいつ、と呆れると同時に、そんな実直なところがちょっと好きなのかもしれない、とわずかに胸を焦がす。そんなヤスもたいがいバカであることに変わりはなく、ただそれでも不思議と嫌な気はしなかった。一種の浮かれ、みたいなものだと思う。しばらく動かない画面を睨んでいたが、そのうち突如スマートフォンが着信音とともに震え出し、ヤスは肩を跳ねさせた。発信者を見るとまあ当然というべきかそれはジョウの番号で、一瞬躊躇した後に緑色のボタンをタップする。耳をすませて聞き取った第一声は、ヤスの名前ではなかった。
「お、出た。お前が出るのは夏期講習じゃなくて補習だったか?」
「……んだよ、急にかけてくんじゃねえ。寝ろ」
「お前が既読つけたまま無視するからだろ。休みもだけどよ、予定表埋めてから寝かせてくれよ」
ジョウの声の奥で、ボールペンがカチカチと鳴る音が聞こえる。印刷した例の表を眺めているのだろうと、なんとなく考える。
「……まだ時間割出てねえよ。どうせ期末テスト終わってからだろ」
「それもそうか。配布日休んだかと思ったぜ、危なかった。バンド練は月曜日に学校で決めさせるかなあ」
「明後日、双循は生徒会あるっつってたけど」
「ふーん、そうか?じゃあ火曜日のバンド練のときでいいか」
受話器の向こう側で、かち、かち、とペン先が出たり、引っ込んだりする音がする。手持ち無沙汰にヤスは胡座をかいたままベッドのシーツを指先で摘んで、意味もなく捻ってみる。結局ジョウの予定表は埋まることがないままに、静寂だけが通り過ぎていく。
「……あのさあ」
じゃあおやすみ〜、と流れを作ることができずヤスが黙りこくっていると、ジョウが腑抜けた声で質問をかけてくる。
「ヤスとさあ、この時間に電話するの、初めてか?」
「たぶん」
「明日は休みだけどよ、あんまり夜更かしするんじゃねえぞ」
「お前に言われたくねえよ。いつもだったらとっくに寝てる」
なんとなく質問をされて、なんとなく答える。口先だけで悪態をつくと、すまん、と口先だけの謝罪が返ってくる。それに気の利いた返事を出来るほどの知恵も経験も、今のヤスは持っていなかった。
「……ああ。そんじゃ、火曜日な」
「あ、あのさ」
切られる。そう思ったとき、深く考えるより先に口から声が滑り出ていた。これじゃあ先ほどのメッセージ送信と何も変わらないじゃねえかと、すぐに後悔を覚える。頭を抱えたかったけど、スマホを落とすわけにはいけなかった。
「ん?なんだ」
「あーっと…」
どうしよう。目線をそのままずらして、薄く開いたままの自室の窓を見やる。レースのカーテンの奥で向かいのビルの蛍光色のライトがすこしだけ反射して、下の方を彩っている。
「め、飯」
「めし?」
「食ったのかよ」
「は?……おう、さっき。帰ってきてから」
一瞬、ガラス越しの光が強くなる。車か何かが、通りすぎていったのだと思った。ヤスはゆっくりと一度まばたきをしてから、会話を無理に引き伸ばそうと試みる。
「なに、何食ったんだ」
「なんだそれ。……ええ……?」
呆れたような含み笑いの後、本気で困惑した調子の声が届く。薬局でサプリメントを両手に選択を迷っている時のような、そんな相手の表情をふと思い出す。夜更けの商店街に目を向けたまま、ヤスは静かに返事を待つ。
「ええとな、弁当」
「は?どこのだよ」
「なにキレてんだ?本日のおすすめ、生姜だれからあげ弁当」
「……うちのじゃねえか」
ライブからの帰宅後、ヤスはそれを配達時に山ほど抱えて歩いた覚えがある。それに、自分の夕飯にも登場した唐揚げは、つい数時間前に口にしたものだった。最初にそう言わなかったことに苛立ちを覚え、それから偶然でも同じものを食べていたという事実に、ほんのちょっと、現金にも心が浮き立つ。それを無理やり鎮めて、もうすこしなにか相手から引き出そうと言葉をつなぐ。
「でも、アンタが来てた覚えないけど。黙って買ってったのか」
ジョウには店に顔を出す時、律儀にもヤスに声を掛ける習慣があった。店番をしていないときでも、母親に在宅の有無を聞くくらいには。
「まあ多分、配達にでも行ってたんだろ」
「母ちゃん何も言ってなかった」
「……そりゃ、今日はいても呼ばないでいいって頼んだしな」
歯切れの悪い台詞に、首を傾げる。ジョウとてバイト帰りに寄ったはずなんだから、もしかしたらヤスが家に戻った後のことかもしれないのに。携帯電話の固い液晶を耳の軟骨に押しつけて、取り調べのように回答を求めた。
「なんで?」
「いや……なんとなく」
「意味がわからねえ。嘘だろ」
「……まあ、そうだな、嘘だけど」
「なに?俺と顔を合わせたくなかったとかじゃねえだろうな」
「まさか」
頬に当たっているガラスが冷たい。シーツを摘んでいた左手を離して膝小僧の上に置くと、そこもそれほど熱は持っていなかった。それで、なんでもない瞬間、ジョウが隣に座って話しているときは感じられる体温が、電話越しの今は届かないことに気づく。
「……今日の夕方さあ、あの後バイト行ったんだけどよ」
「知ってる」
「花を、あの、もらったやつ。見ただろ。あれをさ、入れる瓶とか、そういうのを帰りに買おうと思って」
話が飛んだな、とヤスは若干訝しむ。会話に集中していないのか、ジョウの手元からはふたたびペンのノック音が届いていた。
「バラとか入ってたな」
復習しておいてよかった。あれには白バラは確実にあった。
「ああ。まあバラくらいしか知らねえんだけど」
「アンタもわかんねえのかよ」
「詳しそうに見えるかね、オレが」
「まあ、俺よりは」
「なんだよ、入退院で貰い慣れてるだろって?」
「ちが、そういう話じゃ……」
「はは、わかってるって。なんだ、そう、花屋に花瓶も売ってるってハッチンが言うから見に行ったんだが」
乾いた笑い声が響く。その後なにかを引き摺るような音がして、ごと、と固いものが置かれた感触がする。
「結局、白い花に合うやつがわからんくて、それで買うのはやめちまったわけ」
ジョウの声が遠くなって、それからビニールが擦れる音とともに元に戻った。きっと携帯電話を机に置いて、花束をどこかから持ってきたのだと思った。ジョウの部屋を見たことはなかったから、全ては想像に過ぎなかったけれど。
「……で、そのまま帰るのもなんかあれだし、賄いも食ってなかったし、晩飯でも買おうと」
「それで?」
だからなんだよ、というレベルの話だった。というか今までにもそうやって弁当を買いに来たことがジョウにはあったし、別の店で食事を取ったり、テイクアウトをしたりしている姿も想像に難くない。なにも、一年中弁当を食っているわけではないのだし。
合点がいかなくて先を促すだけになったヤスの反対側で、またビニールががさりと音を立てた。
「……は、まあそれだけなんだけど」
「なんだよ、歯切れ悪いな」
「そうか?……最初はスーパーにでも行こうと思ったんだけど。なんか手に持ってた花見てたらさあ、今日お前に控室連れてってもらった時のこと思い出して」
「え、」
想定外の言葉が飛び出て、ヤスの尾羽がぴん、と伸びた。もともと低めだった声のトーンがさらに下がっていくのを一語一句聞き逃さないように、先ほどより強く耳を携帯に押し付ける。
「また今日も悪いことしちまったよな〜って思いながらぼんやり歩いてたんだけどさ、そしたら知らん間に店の前まで来てて、だから弁当買って、おばさんにヤス呼ぶ?って言ってもらったんだけど」
「やっぱり俺、居たんじゃねえか」
「なんか、いま会うのはちょっと気まずいなってなって、今日はいいですって返事した」
まあ、オレが勝手にそう思っただけなんだけど。それだけ。
すでに落ち着くところまで落ち着き切った低音が温かみを残していることに、ヤスはすこし安心した。それから大した容量もない頭をフル回転させて、浮かんだ都合の良い考察を現実へと擦り合わせようとする。
「俺のこと考えて、うちまで来てたってこと?」
「……まあ、後付けだけど、そういうことになるか」
「なんで」
「なんでって……そこは聞いてくれるなよ」
「やだよ。ちょっと、う、嬉しいから」
「いや、本当に嬉しそうにすんのやめろよ、なんなの、お前?なんか素直だな、え、本当に?」
嫌がっているような、すこし照れているような、あまり聞いたことのない調子で文句が返ってくる。練習中に騒ぐメンバーを叱る声とは、ずいぶん違って聞こえた。意味もなく腿に乗せた手をずりずりと動かしながら、ヤスも気恥ずかしさを誤魔化そうとしてみる。なんとなく、相手にはもう伝わってしまっているだろうとも思ったけれど。すみません、ばっちり本心です。
「とにかく、弁当は美味かったし、花はそのままブーケ状態だって話だよ。わかったか?知りたがり」
「おう……。たぶん、大体」
ヤスが電話越しに頷いて、すこしの間、また沈黙が訪れる。ペンのノック音も、また聞こえなくなっていた。続ける言葉が見つからず、何か言わなくてはとは思いつつもそのままにしていると、おもむろにジョウが話題を転換する。
「……ああそうだ、さっきの話だけど。今日、ありがとな」
「べつに、いつものことだろ」
「いつものことじゃ、まずいってのはわかってんだけどなあ。そういやハッチンの奴にも面倒押し付けちまったし、今度なんか埋め合わせしないとな」
3人でメシでも食いに行くか、でも双循抜きってのもなあ。そう言って、ジョウは笑った。
窓から一筋、生温い風が吹き込んでレースのカーテンを揺らす。ヤスは薄暗闇の中で壁にかけられたカレンダーに目をやり、赤いペンでつけた印を視線でなぞる。今月分の相手のバイトの予定は、すでに末日まで書き込んである。バンド練習の予定を立てるためではあったけれど、おそらく4月の終わりには身についていた習慣だった。明日の日付に、赤いリングはつけられていない。
「じゃあ俺、明日がいい」
「急だな。いいけど、オレいろいろ休みだし。ハッチンとは別でまた行くか。なんか食いたいものあんのか?」
「メシは別にどうでもいいけど」
「はあ、そりゃまたどうして」
「花屋が微妙だったんなら、ホームセンターとかで花瓶、買ってさ。スタジオにでも置いてもらおうぜ」
「なに、着いてきてくれんの」
「まあ」
「あー……でもそれ、礼にならなくないか?」
「……俺がそれがいいって言ってるんだけど」
ジョウの手元にあるであろう、白い花束を思い出す。今日は持たせてもらえなかったけれど、明日はチャンスがあるかもしれない。そんな気が、今のヤスにはしていた。後でもう一回写真を見て、花瓶でも牛乳瓶でも、スマートに選べるようにしておこうと考える。それから、あの写真、やっぱり保存しておこうか、なんて思い返す。
「そう、なら頼むかな。……ほんとに2人で?」
「……おう」
「ふーん…悪くないな」
「昼に迎えに行く。それまでに、場所調べとくから」
「わかった。オレ、明日も花持って歩くのかぁ」
もう今日だぞ、そう壁掛け時計を見てヤスが伝えると、マジじゃねえかと明るい笑い声が返ってくる。
夜闇に目蓋はどんどん重たくなっていくのに不思議と心は落ち着いていて、煮詰まるような閉塞感ももう覚えなかった。
「いいやつが見つかったらさ、それからハッチン達にも見せりゃいいだろ」
「そうするか。双循は別に見たがらねえと思うけどなあ。マスターに言えば、スタジオに飾ってくれんのかね」
適当に飾り付けて、教室の自席にでも置いとこうと思ったんだけど。真剣な声音でそう加えたジョウに、冗談でもそれだけはやめておけとヤスは眉を顰めて咎め、それから耳に届いた笑い転げる声にゆっくりと頬を緩めた。
「それじゃ、また10時間後、くらいに」
「おう、待ってるぞ。さっさと寝ろよ」
「そっちこそ、体調崩してたらキレるからな」
おやすみ、今度はその台詞を詰まらせずに声に出すことができた。画面の赤いボタンを押して、通話を切る。それからヤスは軽い足取りでカレンダーの前まで向かい、少し悩んでから、水色のペンで本日の日付に大きくマルをつけた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.