かみや
2023-01-17 22:25:03
8177文字
Public とーらぶ
 

最悪な夜の最低なはじまり

現パロ稲笹です。ダンサーの卵稲葉くんとフリーター笹貫くんが出会った夜の話。

 最悪な夜だ。
 ショーの最中に野次が飛ぶなどよくあることで慣れたものだが、今夜はやけに五月蝿い輩どもがいて流石にうんざりしてしまった。ダンスで黙らせてやるという意地で最後までショーはやりきったが、己の実力不足を痛感しじりじりと燻る悔しさと焦燥感で全身が焼き尽くされそうだった。唯一の救いは、オーナーが「ここはそういう店じゃないから、二度と来ないでもらえるかな」と穏やかな口調と物腰で輩どもを店の外まで蹴り飛ばしていたことと、「今日は嫌な思いさせてごめんね」と申し訳なさそうに賄いに自家製ローストビーフを出してくれたことだ。
 閉店後のショーレストランを出ると、夜は深いというのに繁華街は未だガチャガチャとネオンの明かりと人々の喧噪で溢れかえっている。誘蛾灯のようにネオンに寄ってくるのは酔っ払いばかりで、奇声と奇行を繰り返す酒臭い集団の横を、稲葉はわずかな闇に紛れるようにして通り抜けていく。いつものことだ。足早に繁華街を抜け、ようやく喧騒から離れた人工川の橋の袂まで来ると、前方から下品な笑い声が聞こえた。ちらりと声のする方を見ると、先ほどレストランで五月蝿い野次を飛ばしオーナーに蹴り飛ばされていた輩どもだった。結構派手にやられていたのに思いの外ピンピンしている姿はまるでゴキブリだな、と不快感が込み上げてきて思わずため息が漏れる。見つかれば面倒臭いことになることは明らかだが、生憎帰路はこの道しかない。見つからないよう気配を殺し、先ほどより面積の増した闇に紛れて稲葉は通り過ぎようと歩を進めた。
「あ! お前、さっきの店にいたにーちゃんじゃん!」
 こういう時に限ってこれである。ぞろぞろと集団に囲まれ稲葉は内心舌打ちした。
「なあ、オレら出禁くらったんだけど。何様なの、お前んとこの店長」
「ま、もう二度と行かねえけどな。あんな店」
……
「野郎ばっかり出してきやがってむさ苦しいんだよ。女出せよ、女」
「どうせ金出すなら野郎よりエロいねーちゃん踊ってるのが見たいわけよ。店長に言っとけよ、女踊らせんならまた行ってやってもいいけどってさ」
 だからもうお前らは出禁なのだから関係ないだろう。自分のダンスを、店のダンサーたちを侮辱された屈辱感を奥歯で強く噛み殺す。なにがおかしいのかギャハハと頭の悪い笑い方をする集団を一瞥し、何も言わずに稲葉は隙間を縫って通り過ぎようとした。目敏くそれを見た一人が「おい、無視すんなよ」とガラガラの野太い声を上げ、稲葉の肩を思い切りどつく。
 体格も体幹もしっかりしている稲葉にとってそれは大したことのない些細なものだった。
 いつもならば。
 なんの不幸か足元にたまたま落ちていた空き缶が、たまたま踏み出した足に入り込み、肩をどつかれた衝撃で踏み外してずるりと身体はバランスを崩した。あ、と思った時には視界は傾き、運悪く道路端へ勢いよく倒れていってそのまま身体は手すりを越えていく。まるで全てがスローモーションのようで、手すりの先に待ち受けているのは。
 バシャン!
 盛大な水音と、壊れたおもちゃのような笑い声で稲葉は我に返った。川底は浅く足は着くが、強かに打った背中がじんじんと痛む。「だっせえ!」「せいせいしたわ」などと喚きながら遠ざかっていく声を聞きながらようやく事態を飲み込み、稲葉はいよいよ舌打ちした。苦虫を噛んだような屈辱と苛立ちが広がっていく。どうしようもなく最悪な夜だ。
 冷たい川の水が急激に体温を奪っていって寒気がぞくぞくと背中を這い登っていった。いつまでもここにいてもしょうがない。唸るようにため息をついてゆっくりと立ち上がる。水を吸った服がぐずぐずと重く煩わしくて、また一つ舌打ちする。
「ねえ、そこのおにーさん。大丈夫?」
 突然頭上から降ってきた涼やかな声に顔を上げると、手すりに両手を付いて誰かがこちらを見下ろしていた。辺りは暗いはずなのに、夏の海のように真っ青な瞳の色が暗闇の中でくっきりと浮かび上がっている。
「さっき酔っ払いに絡まれてたでしょ。災難だったね」
 同情するような言葉の中に面白がるような響きが含まれているのを感じ、稲葉は微かに眉を寄せる。今夜はろくでもない奴らしかいないのか。転落した拍子に脱げてしまったらしいキャップを拾いざぶざぶと足元の水を蹴飛ばすように川縁まで歩いていき土手を上がると、橋の袂にいつの間にか移動していた先ほどの人物が立っていた。襟足の長い髪をゆるくまとめて黒縁眼鏡をかけ、ダウンジャケットにジーパン姿で左手に小さなビニール袋を持った男は「あらら」と稲葉の姿を見て苦笑した。
「見事にずぶ濡れだね。これじゃ風邪ひいちゃうよ」
……
 飄々とした男の風体と軽薄そうな声色に、苛立ちは募る一方だった。これ以上はもううんざりだ。男を無視して歩き出そうとすると「待って」とぐっしょり濡れた腕を掴まれる。
「俺んち、すぐそこだから。お風呂貸すよ」
 眉間に深く皺を刻んで振り返ると、男は綺麗な笑みを浮かべていた。
 
 ◇
 
 いつもと変わらないバイトの帰り道だった。
 コンビニで軽めの夕飯を購入し急ぐわけでもない帰路をただ歩いていると、前方から騒ぐ声が聞こえてきたので思わず立ち止まって視線を向ける。
 背の高い黒尽くめの男を囲む集団は酔っ払っているのか、呂律の怪しい口調で何か喚いていた。うわあと辟易を口の中に溶かして憐れみの目を絡まれている男に向ける。黒いキャップを目深に被り俯くその顔ははっきりと見えないが、鋭く光るその瞳だけは暗がりでもしっかり見えて思わず息を呑んだ。目付きが悪いとか目力が強いとかではなく、何か強い信念が宿っているような力強さがあってたまらなく魅力的だ、と思った。そして寡黙でいかにも不器用そうな男の様子に知らず知らずのうちに口角が上がっていた。酔っ払いなんて適当に話を合わせてあしらっておけばいい。思案していると、微動だにしなかった男がおもむろに歩き出そうとした。それに気づいた集団の一人が肩をどついて止めようとする。スラリとした高身長に暗がりの遠目でも分かる体格の良さを持つ男にそんな小競り合いなど通用するわけないだろうにと思ったが、男はなぜか大幅によろめいて道路端に勢いよく倒れ込んでいって、あ、と思った瞬間手すりの向こうに消えていった。しばらくして派手な水音がして、集団のゲラゲラ笑う声が耳に突き刺さった。
「まじか」
 思わず手すりの方へ寄り手を着いて身を乗り出すと、浅い川底に腰まで水に浸かった状態で座り込む男を見つけて安堵する。落ちた拍子に被っていたキャップが脱げ、男の顔を露わにしていたが街頭から外れた川の中では暗くてよく見えない。満足したのか集団は笑いながら去っていった。
 予想していなかった展開に思わず笑いが込み上げる。奴らがヒートアップするようであれば助け舟を出すつもりでいたが、まさか川に落ちるとは。
 しかし、何故恵まれた体格の男がいとも簡単にこんなことになってしまったのか。辺りを見渡すと落ちていったあたりにひしゃげた空き缶が落ちているのが目に入った。なるほど、なんて不運な。込み上げてくる笑いを奥歯で噛み殺すのに、口角はゆるゆると上がっていく。
 チッと大きな舌打ちが聞こえた。ざばっと立ち上がった男がずぶ濡れの衣服を一瞥して煩わしそうにもう一度舌打ちをする。苛立ちを抑えられない荒々しい仕草だった。その瞬間に降りてきた直感が脳天をつき全身を駆け巡っていってビリビリと痺れた。
「ねえ、そこのおにーさん。大丈夫?」
 突き動かされるように咄嗟に声をかけると、男は初めてこちらを見上げた。
「さっき酔っ払いに絡まれてたでしょ。災難だったね」
 表情は分からないが、心底煩わしそうな雰囲気を出しながらこちらを見る瞳にはやはり力強い光が宿るのだけは見えた。
 男は何も言わない。そのまま顔をそらし無視して歩き出すのを追って橋の袂まで行くと、ようやく男と相対した。
 スラリと高い身長と全身黒尽くめの様相は体格の良さを一層際立たせていて、整えられていたであろう黒髪は乱れて目元にかかり、襟足は不思議な灰色をしている。何よりもその銀鼠の瞳の色はやはり目を引いた。暗い中でもギラリと力強い光を放っている。
 そんな男が全身ずぶ濡れで、立つそばから足元にはぼとぼとと水溜りができるような状態で凄む様に「あらら」と苦笑せずにはいられなかった。
「見事にずぶ濡れだね。これじゃ風邪ひいちゃうよ」
……
 途端にうんざりだと言わんばかりに剣呑に歪む表情に、ぞくぞくと背筋を這うような衝動が湧き上がる。
 知りたい。
 その寡黙さの下に隠れたその愛らしい不運ぶりを、荒々しい粗暴さを、瞳に宿す力強さの訳を。
 好奇心にも似たその衝動に突き動かされるように「待って」と立ち去ろうとするびしょ濡れの腕を掴む。
「俺んち、すぐそこだから。お風呂貸すよ」
 知りたい。逃したくない。気がつけば口角が上がるのを抑えられない自分がいた。
 
 ◇
 
 錆びた鉄製の階段をカンカンと音を立てながら登っていく。
 男の住むアパートは本当に目と鼻の先にあり、これ以上体を冷やさずに済みそうだと稲葉は内心ほっとした。
 二階の一番北側の部屋の前で立ち止まりポケットから鍵を取り出し鍵穴に差し込んで解錠する。ドアを開けた男は稲葉を振り返り、「ちょっと待って」と声をかけて中へ入ると、すぐ左手にある浴室らしき折れ戸を開けて給湯器のスイッチを押した。
「とりあえず服着たまま入って。ここに脱いだの入れて置いといてくれればシャワー浴びてる間に洗っとくから。タオルとか着替えとかも用意するからさ」
 甲斐甲斐しく説明する男をじっと見つめる。軽薄そうな雰囲気からはおよそ想像できない優しさに戸惑っていると、プラスチック製の小さな洗濯カゴを折れ戸の前に置いて顔を上げた男は稲葉の顔を真正面から見て、束の間沈黙したかと思うとふっと吐息で笑った。
……なんだ」
 思ったよりも剣呑な声が出た。いきなり人の顔を見て笑うなど、と訝しがる稲葉をよそに「ごめんごめん」と男はさりげなく口元を隠して静かに笑った。
「何でもないよ。ほら、風邪引いちゃうから早く入りな」
 そう言って男は小さく手招きする。薄暗い部屋の中にぼんやり浮かび上がるような白い手だった。
 
 シャワーを終えて浴室を出ると、目の前で洗濯機がゴウンゴウンと唸るように音を立てて回っていた。横に置かれた脱衣カゴにバスタオルと着替えが置いてあったので拝借する。廊下から部屋に通じるドアは閉められていたが、微かにテレビの音が漏れていた。ひたひたと冷たい廊下を歩いて静かにドアを開けると、床に座りベッドに寄りかかってテレビを見ていた男が「あ、お疲れ」と振り返った。
「服、大丈夫そうだね。前に友達が置いていったやつで悪いけど、よかった。あ、もちろん下着は新品だから」
……助かった」
「全然いいよ。その辺、適当に座って」
 ローテーブルに持っていた缶ビールを置いて男は立ち上がると、冷蔵庫を開けて「ビールでいい?」と聞きながら銀色の缶を取り出した。
「いや」
 目を逸らしながら答えると、男が何か言う代わりにバタンと冷蔵庫が閉じる音がした。裸足のままの自分の足元を眺めていると、ぺたぺたと歩く音が近づいてきて「とりあえず座りなよ」と肩を叩かれる。こん、という音がして目線をそちらへ向けるとローテーブルの上に未開封の缶ビールが置かれていた。
 考えてみれば自分の着ていた服は洗濯中で、終わるまではどうやっても帰ることはできないのだ。稲葉は諦めてその場に座った。男も元いた場所に座り、そういえば名前言ってなかったね、と飲みかけのビールに口を付けながらそう言ってきた。
「俺、笹貫。君は?」
 ただ一時世話になるだけの男に名乗る必要もないだろう。黙っていると、笹貫は眉尻を下げて苦笑した。
「そんなに警戒しなくていいって。名前呼んだ方がコミュニケーション取りやすいかなって思っただけ。でもまあ、言いたくないなら別にいいよ」
 真っ青な瞳が緩む。先ほどまでの面白がるような笑みではなく、まさに海のように包み込むような優しい笑みに稲葉の心はざわついた。先ほどの甲斐甲斐しさといい、そんな風に許される自分が却って子供じみた意地を張っているようでいささかばつが悪くなる。小さくため息をついて「……稲葉だ」と名乗ると、笹貫は少しだけ目を見開き「稲葉くんね、よろしく」と再び微笑んだ。
「それにしても災難だったね。なんで絡まれてたの?」
 笹貫は口元に微笑みを浮かべたままのんびりビールを煽る。テレビの向こうで何が面白いのかどっと笑い声が起きた。経緯についての説明は諸々考えるといささか面倒だが、これ以上沈黙を貫くのも何だか憚られた。逡巡して再び黙り込む稲葉の返答を、笹貫は急かすこともせずのんびりとビールを煽り、時折テレビへ目線を向けながら待ってくれているようだった。
……店で酔っ払って騒いでいた輩どもだ。オーナーに出禁を食らったことが気に入らなかったらしい。たまたま通りかかった我に絡んできた」
「へえ、それは大変だったね。店って、居酒屋か何か?」
「いや、ショーレストランだ」
「ショーレストラン? もしかして、稲葉くんダンサーなの?」
 無言で頷くと、へえーと感心の声と共に缶ビールをローテーブルに置いて笹貫は稲葉の方へ体ごと向き直った。
「だからそんなにいい身体してるんだね。鍛えたりとかしてるのかなーとは思ってたんだけど」
 まじまじと下から上まで見られるのが気恥ずかしく、何となく身体を背けると「ごめんごめん、つい見ちゃった」と苦笑いで謝罪が飛んできた。
「今度見てみたいな。稲葉くんが踊ってるところ」
 こちらを向いたまま膝を抱えるようにしてベッドに身体を預ける笹貫の無防備さにまたしても心がざわつく。まるで懐かれているようだと思うと、何故か悪くないなと思う自分がいてますますざわついた。しかしダンスをしているということに興味を持ってもらえたことは素直に嬉しく、ざわつく心は無視して稲葉は背けた身体を少しだけ笹貫へ向けて「ああ」と僅かに口元を緩める。
「是非来てくれ。今日の礼も兼ねてサービスさせてもらおう」
……ほんと? 嬉しいな」
 くるりと瞳を一瞬丸くして笹貫は破顔した。今日見た中で一番の表情だった。そして、店ってどこ? ショーってどんな感じなの? と先ほどのゆったりした雰囲気を一変させ、まるで真夏の太陽を反射する海面のようにキラキラと瞳を輝かせながら身を乗り出して聞いてくるので稲葉は面食らいながら質問に答えていく。最終的に来店の日にちを決め、連絡先も交換した。SNSのトーク画面に表示されている笹貫が送ってきたパンダのスタンプを眺めていると、ふふ、とこぼれ落ちた小さな笑いが聞こえてくる。
「ありがとう。楽しみだな」
 スマホで口元を隠しながら笹貫の瞳がゆっくりと弧を描く。その緩やかな曲線は先程まで無防備に見せていたどの表情とも違っていて、稲葉の鼓動は一つ波打つ。沈黙の帳に包まれた空気がぞくぞくと背中を撫でるようで、またしても心がざわついた。
「稲葉くんて優しいんだね」
 ぽつんと落ちた突然の響きに反射的に眉根を寄せると、こちらを向いていた笹貫はたまらずといった風に軽く上体を折って笑う。そうして再び上体を起こした時、真夏の海の瞳とぶつかった。鮮やかな青。吸い込まれるように釘付けのまま、妙な緊張感に稲葉は乾いた口内の唾液をかき集めて静かに飲み込む。
「橋で会ったとき、人と話したくないし話しかけるなオーラがすごかったからさ。家に入る時も警戒してたでしょ。もっと怖い人なのかと思ってたよ」
……
「でも俺の話ちゃんと聞いてくれるし、お礼まで約束してくれて律儀だし、本当は優しいんだなって」
……風呂と着替えまで用意してもらったんだ。流石に礼ぐらいはする」
 優しいかどうかはさておき窮地を救ってくれたことへは感謝しているし、こちらとしてもそう言われて甲斐甲斐しくしてくれた様子に軽薄そうな印象を抱いていたことを少々申し訳なく思った。口には出さないが。
……じゃあその優しさに甘えて、お願いしてもいい?」
 妙に含みを持たせた声音だった。どこまでも青々と深い瞳から未だ目を離せない稲葉の鼓動がまた一つ波打つ。
「俺とセックスしよ」
 こちらを伺うようにこてんと小首を傾げる、青々と深く鮮やかな海の色。穏やかに凪いでいたそれが白波を伴って荒れ狂い、やがて津波となって襲いかかり、思考も何もかも全て押し流していった。
 僅かに目を見開いたまま完全に動きを止めた稲葉に畳み掛けるように、小首を傾げた笹貫は含みを持たせた声色で続ける。
「知りたいんだよね。稲葉くんのこと……知りたくなっちゃった」
 ますます意味が分からない。二、三度瞬きをしてようやく動き出した脳がもっと警戒するべきだったとか、少しでもこの男を信じた自分が馬鹿だったとか、そもそも男同士でだとか様々な思考を生み出していく。
「我を知りたいから、セックスをするのか」
 口をついて出てきたのは生み出された様々な思考とは全く別のものだった。自分でも何故そんな言葉が出てきたのか分からない。これではまるで肯定しているように聞こえる。決してそんなつもりはないと繕おうとするが口下手が災いして言葉が出てこない。
「お互いを知るなら、一番手っ取り早いと思うけど?」
……我は別に知りたくない」
「いいじゃん。ついでに知ってよ、俺のこと。稲葉くんのこと教えてくれるお礼」
 立てた膝と両手を床につけ、身を乗り出した笹貫の顔がぐっと近づく。唇が作り出すやけに美しい三日月の形が面白がっていることを示していた。それなのにあの青はただ真っ直ぐに稲葉を射抜いていて、そのちぐはぐさに心のざわつきと鼓動はどんどん大きくなっていく。
「正気か?」
 眉間に深い皺を刻んで唸るように聞くと、「ああ、そういえば」と思い出したように笹貫が声を上げた。
「うちの洗濯機、乾燥機ついてないからすぐ乾かせないんだよね。一晩干しとかないと乾かないかも」
 言うの忘れてた、とにっこり笑ってみせた整った顔に、しまった、と頭を抱えたくなった。最初からそのつもりだったのだ、この男は。
 もはや怒りはなかった。呆れた感情がただじわじわと苦く広がっているだけだ。
 笹貫はローテーブルに手を伸ばして未開封のビール缶を取ると、かしっと景気良く開けた。それをぐいっと煽ると稲葉に顔を近づけ、後頭部を手で固定して唇を塞いだ。薄く開いた隙間から冷たい炭酸が流れ込んできて、反射的に飲み込む。入り切らなかった分が唇の端からぼたぼたと顎を伝って溢れていった。
 口の中のものを全て飲み干すと、今度はぬるりと舌が入り込んできて稲葉の舌の裏側からぐるりと撫で上げ、口内を蹂躙する。粘膜と粘膜、唾液と唾液が擦れ混ざり合う水音が静かな部屋に響いて、聴覚から脳までぐちゃぐちゃにされる感覚に稲葉は戸惑っていた。今日初めて出会った男の最低な仕打ちに、嫌悪を抱くどころか受け入れてしまっている。何故か甲斐甲斐しく優しい笹貫の無防備な表情が頭をよぎり、強く拒否することができなかった。
 やがて小さな音を立てて唇が離れると、一瞬唾液が糸を引いてすぐふつりと切れる。そのタイミングで廊下からピーピーと洗濯終了を告げる電子音が聞こえてきた。
 まだ吐息がかかるほど至近距離で見つめている笹貫は「夜はまだ長いよ、稲葉くん」と小さく笑った。
「とりあえず服干そっか」
 後頭部から手を離し、顔も離した笹貫は缶ビールをローテーブルに置いて立ち上がると洗濯機の方へぺたぺたと歩いていった。
 全くもって、最悪な夜だ。
 洗濯機から衣類を取り出す姿を眺めながら、稲葉は盛大にため息をつき、ローテーブルに残された缶ビールを一気に飲み干して、力任せに空き缶を握り潰した。