よる(ひねもす)
2024-05-04 14:51:03
5597文字
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明るい未来

別れてから愛に気づく犬影の話です。ハッピーエンドのつもりで書きました。
(鳩原未来さんは登場しません)



 こんな日がやって来ることを、ずっと前から知っていたような気がする。
 ありふれたドアの錠前に鍵を差し込む直前で、おれは動きを止めた。本当に、この扉を開けてしまっていいのだろうか。あの日気づいた断絶の崖の前で二の足を踏む。……こんな葛藤を、知っていたような気がする。いったい、いつから?
 振り返ってみると、どうしてか美しい光景しか思い出せない。猫みたいに背中を丸めて眠る姿、通りの向こうでおれを見つけてわざと眉を顰めた顔、真冬の路地裏でそっと握ったてのひらの白さ。苦しいくらい幸せな記憶の中で、その一瞬が永遠じゃないことをずっと分かっていた。手を繋いだのは離ればなれになるためじゃないのに、終わりの予感には馴染みがある。
 キーケースの一番左端にぶら下げた、何の飾りもない銀色の鍵。彼の手から受け取った瞬間の驚きと喜びは今も色鮮やかだ。しばらく眺めてから、鞄の中にしまった。
 これはもう使えない。その資格を失ったから。
 インターホンを押す。人差し指に硬い反発。
……はい」
 スピーカーごしにくぐもった彼の声。ぎゅうっと締めつけるような苦しさがこみあげてくるのを、むりやり飲み込んだ。この結末は避けられなかった。当然の帰結なんだ。未練も後悔も、役に立たない。
「犬飼です」
 さほど分厚くない扉を隔てて、ドスドスと乱暴な足音が近づいてくる。鍵の回る音がして、隙間から黒い人影が覗いた。あっちこっちに散らばった黒髪と、眉間に深く皺の刻まれた鋭い相貌。
……久しぶり」
 沈黙に耐えきれず当たり障りのない言葉を選んだおれに、影浦は舌打ちで返事をして、部屋へ招き入れた。
「てめーで開けて入りゃいいだろ」
「いやいや、そういうわけにもいかないでしょ」
 玄関を上がってすぐにあるキッチンダイニングを通り抜け、リビングに足を踏み入れていた影浦が振り返った。窓から差し込む午後の陽光が、彼の身体のシルエットをふちどって輝く。
「おれたち、もう恋人同士じゃないんだから」
 この部屋はいつも静かだ。家賃に金をかけたくないと選んだ、警戒区域にほど近いアパートの隣の部屋に住人はいない。車通りも人通りも多くない。交差点を三つ越えれば瓦礫の街並みが広がっている。
 影浦はおれの目を見て、一度だけ頷いた。その顔に怒りも悲しみもない。
……茶ァ、淹れるから待ってろ」
「え、いいよ、べつに」
「付き合ってねえならただの客だろ」
 こちらへ引き返してきた影浦がキッチンのコンロに立つ。やかんで湯を沸かし、何やら戸棚を漁っている。動き始めた影浦を止めることなんてできないのは、短くない付き合いの中でよく知っていた。諦めて、おれはリビングで待つことにした。
 たったの二週間ぶりなのに、懐かしい匂いがする。彼の、部屋の匂い。カーテンの色も家具の配置も、以前来たときと同じだ。見慣れないのはローテーブルの上に置かれた紙袋だけ。
「これ、おれの荷物?」
 開けっぱなしの引き戸の向こう、キッチンへ声をかける。
「おー」
 中身を確かめると、パジャマがわりにしていたTシャツとスウェットパンツ、端末の充電器、置いていたことすら忘れていた小説の文庫本などが地層のように折り重なっている。
「まとめておいてくれてありがと」
「手間賃で今度焼肉おごれよ」
「ぼったくりじゃん」
 くつくつと、喉を鳴らすだけの笑い声が聞こえた。おれたちはまったく、ぜんぜん、普通だった。だけどこれはおれたちの日常じゃない。ただの凪だ。さんざん吹き荒れた嵐のあと、風も波も静かになるのは、ほんのいっときだけ。ささいなきっかけがあれば、二人の間の海がまた白く濁る。ずっとその繰り返しだった。この二年間、ずっと。
 紙袋をどかしたテーブルの上に、二つのマグカップが置かれた。礼を言って中を覗きこむと、ベージュの液体がまだゆるく渦を巻いている。ミルクの香りが鼻をくすぐる。まだ熱いから、そっと口をつけると、甘さと苦さが混ざり合って溶ける。
「おいしい」
「インスタントだけどな」
 ずず、と音をたてて影浦がすする液体は黒い。焦げるような香ばしい匂いがする。きっとブラックコーヒーだろう。おれのは砂糖入りのカフェオレ。お互いがお互いの好みを知っている。おれたちが過ごしたのは、そういう時間だった。
 忘れないうちに、と鞄を開き、さっきしまったキーケースを取り出した。そのうちの一本を外し、テーブルの上に置く。銀色の光はすっかりくすんでしまった。
「今まで、お世話になりました」
 冗談めかして笑顔を作る。向かいに座る影浦は無表情だ。何の反応もないから、おれは何度かカフェオレを舐めた。ごくりと飲み込める温度になったころ、やっと彼が口を開いた。
「ほんとに、これで終わりなのか」
……うん」
 今回の喧嘩の原因は大したことじゃない。おれとの約束があったのに、影浦がなかなか飲み会から帰ってこなかった夜。恋慕をさかさまにした不安と不信が際限なく膨らんで、制御できなくなって、言わなくてもいいことを言ってしまった。
 カゲって、本当はおれのこと好きじゃないんでしょ。
 自分の感情を否定されて苛立った影浦もおれへの不満、……行動を制限されるのが面倒くさいとか、何気ない悪態にいちいち怒られるのがムカつくとか、そういうことを捲し立てた。あーおれたちってやっぱり価値観がぜんぜん合わないよね、別れたほうがいいよねって、口走ってから我に返っても、もう遅い。そうかもな。目を合わせないまま、影浦が呟く。二人きりの部屋の中は深海のように静まり返って、おれの肌にも沈黙が痛いくらい刺さった。耐えきれなくなって夜道に飛び出したおれを、影浦は追いかけなかった。それが答えなんだと思った。
 これまで、どんなに激しく衝突しても、別れを持ち出すことはなかった。暗黙の了解を破ったのはおれだ。千切れてしまった糸を繋げなかったのは影浦だ。どっちが悪いとか、そういう話じゃない。今までのすれ違いが二人の心をすこしずつ削って、あの瞬間、手が離れてしまった。
「ここが潮時だって、カゲも分かってるだろ」
 時間は巻き戻らない。ボーダーで正規隊員をやっていれば、嫌になるくらい実感させられる。あの場面であいつを追わなければ。あの不自然な視線に気づいていれば。あの一発が、命中していれば。どんなに後悔しても取り返せない。
 もっと彼の好意を信じていたら。爆発する前に気持ちを伝えていたら。あの暗い道を、引き返していたら。仮定に意味はない。結果だけが穏やかな海になって、今も二人を隔てている。
 影浦がマグカップに手を伸ばし、苦いコーヒーを飲んだ。ごくりと動く喉仏をぼうっと見る。無言は肯定だ。ここに至ってしまったことを、彼もきっと、受け入れている。
……忙しくても、ちゃんとメシは食え。ゼリーもエナドリも食事とは呼ばねえぞ」
……え?」
 唐突な気遣いは、おれの脳みその表面をつるりと滑り落ちていった。きょとんと目を開くおれを置き去りにして、影浦はぽつぽつと呟くように言葉を繋げていく。
「徹夜で作業するとか任務に出るとか、そういうのはもうやめろ。もうそろそろ若くねーんだから。あと、おめーは人に頼るのがヘタクソすぎる。辻とか使って練習しとけ」
「ちょ、ちょっと待って、なんの話?」
 夜空でひとりきり輝く月のような瞳が、まっすぐにおれを射抜く。
……ぶっ倒れたりしたら、許さねーからな」
 ぐうっと熱いうねりが腹の底からこみ上げる。地面に縫い付けられたときより胸が痛い。おれはこの男を手放さなきゃいけないのか。こんな、この後に及んでおれの心配をするような、優しくて愚かで不器用な人と、離れていくのか。
 影浦が眉を寄せてから、呆れたように笑った。おれの感情が痛いくらい刺さったんだろう。だけどこれは彼のせいだから、甘んじて受け止めてほしい。
「カゲだって、人付き合いをめんどくさがるのやめなよ……
 俯いたら何かがこぼれ落ちてしまいそうだったから、意地でも前を向いて、彼の顔を見た。意外と柔らかい癖のある黒髪、獰猛そうな印象を決定づける鋭い歯、夜中になると髭がチクチク当たるあご、何度も触れて確かめて、だけどもう二度と触れられない。
「愛想良くしろとは言わないけど、誰彼構わず威嚇するのは損するだけだよ」
「ケッ、うるせーな」
 気まずさを誤魔化すように、影浦がカップに口をつける。おれも、ぬるくなったカフェオレを一口含んだ。しつこく荒れ狂う後悔と一緒に飲みくだす。ミルクと砂糖の甘さは舌の上にいつまでも残る。
「あのさ、……いつか結婚したら、ぜったい式に呼んで」
「ハァ? 相手もいねえのに何言ってんだ」
「きっとできるよ。カゲ、実は優しいんだから。それなりにモテるおれが保証するよ」
 傲慢な物言いを、大人になりかけた影浦は受け流してみせた。ともに過ごした時間はおれたちを変えてしまった。見えない手で押しつぶされるみたいに苦しい。いちばんの願い事を、自分の手で叶えられないことは知っている。だから、からかいを含んだ軽い調子で言う。
「死ぬまで幸せでいてね」
 おれがいなくても。おれがいないからこそ。夢みたいに降り注ぐ光と花の真ん中で、屈託なく笑うお前の顔がいつか見たいよ。今日の選択が正しかったことを確かめさせてほしい。おめでとうって祝福の言葉を送って、それできっと、この恋が終わるから。
 影浦は片方の眉を持ち上げただけで、何も答えなかった。憐れみなのか訝しみなのか分からない。これ以上、彼の目の前にはいられなかった。マグカップをあおってから、紙袋を掴んで勢いよく立ち上がる。
「ごちそうさま。もう行くね」
 返事はない。視線も寄越さない。黒い頭を見下ろす。髪をかき分けて探すとつむじが二つあって、それがなんだか可愛くて笑ったら怒られた日のことも、そのうち忘れてしまうんだろうか。
 かぶりを振り、後ろ髪を引きちぎって部屋の外へ出た。
 ガチャンと大きな音をたててドアが閉まる。冷たい扉に背中を預け、おれはずるずると座り込んだ。こんなところにいたら迷惑だから早く帰らなきゃって、思ってるのに足が動かない。なまぬるいカフェオレの甘さが舌にこびりついている。外廊下の手すりの向こうから、燃えながら落ちていく夕日が目を刺す。
 おれとカゲの間には、たしかに愛があったんだ。
 頭の中でそう言葉にしたら、胸の奥にぽっかり穴が空いた。
 いくどもすれ違って傷つけあった果てに残ったのは、捨て去られそうなくらいみすぼらしくて、あたたかな感情だった。自分の利益も苦痛も投げうって、相手の幸福を願うもの。これが愛じゃなかったら何だっていうんだろう。離れてから気づくなんてバカみたいだけれど、離れなきゃ気づけなかった。
 たぶん、おれたちは近づきすぎるとダメなんだ。知り合いと友だちの中間くらいの適度な距離を保ち続けるべきだったんだ。だからこの結末は正しい。日が沈めば明日が来る。明るく輝かしい未来がやって来る。おれたちは離ればなれで幸せになるだろう。体の真ん中から捩じ切れてしまいそうに痛む空洞も、いつかは埋まる。そこに穴があったことなんて忘れて、心から笑える日が来る。
 そんなのクソ喰らえだって、怒鳴る声が恋しくても。
 ドンッ。
 突然、背中に大きな衝撃がぶつかって、おれは中腰で前につんのめった。ギリギリのところで踏ん張って手をつく。反射的に後ろを振り返ると、半分開いたドアの向こうに、元恋人が驚いた顔で立っている。
……まだいたのか」
「ハァ⁉︎」
 男はそのまま一歩こちらに踏み出して、大げさな音を鳴らして玄関の扉が閉まった。あんまりな態度に湿っぽい感傷も吹っ飛んだ。転んで怪我するかもしれないのに「まだいたのか」ってなんだよ! と捲し立てようとしたおれの後頭部を、影浦の腕が抱き寄せた。彼の肩口に顔が埋まる。驚きで目を見開く。
「いやだ」
 蚊の鳴くような声だった。初めて聞く、影浦の懇願だった。
「てめーと離れるのは、まだ、できねえ……
 彼の腰に腕を回し、きつく抱きしめる。波が打ち寄せるように、そうせずにはいられなかった。懐かしい匂いがする。影浦の匂い。あたたかいのに寂しくて、ずっと孤独だった人の匂い。
「そんなこと、言ったら……
 おれたちの相性が最悪なことなんて分かりきっている。今までの傷は埋まらない。時間は巻き戻らない。腕を振りほどいて、ここを去るのが二人にとって最善だ。またくだらないことで喧嘩して傷つけあって、一時の感情に流されたことを後悔するんだから。
 頭の中で渦巻く正論に耳を塞ぐ。背中を焦がす太陽が輝きを失っていく。真っ当でありふれた明るい未来が遠ざかる。
「カゲを離してあげられないよ」
 本当の気持ちを口にするのはいつだって恐ろしくて、苦しい。首に巻きつく腕の力が強くなる。耳もとで、影浦がいくどか鼻をすすった。この男も泣いたりするんだろうか。おれのせいで泣かせてしまうのはすごく悲しいから、ただ頷いただけであってほしい。
 コンクリートの床が水のように冷たい。おれたちを隔てる海はまだそこにある。ここを渡るすべを、二人で見つけられるだろうか。いつか二人で、この湾を出ていけるだろうか。
 骨が浮いて硬い肩にぎゅうっと顔を押しつける。おれたちを繋ぐか細い光を知ってしまった。もう、どうしたって、離れるなんてできない。この人と、死ぬまで幸せでいたい。ナイフのような鋭い風が肌を裂いても、波間にきらめく陽光を追って、たった今、見送った未来を捕まえたい。夜の暗闇があたりを塗りつぶすまで、そんな夢みたいなことを思い描いていた。