カルデアレジデンス409⑧

ぶっ壊した壁が直っちゃった

 蹴破り戸の修復には十日ほどのお時間を頂きます。
 という業者の言葉に偽りはなく、すなわち巌窟王と出会って十日目の昼過ぎこそが施工日だった。
 その日は平日、立香は朝から大学へ。
 不在中にベランダへ踏み入る許可は事前に出しておいた。だから別段急いで帰る必要はないのだけれど、出来れば早く帰りたかった。あの穴はもう無くなる。それなら最後の見送りくらいしたいなと思ったのだ。
 巌窟王と並んで二人、ありがとうさようなら壁の穴――と、手を合わせる、そんな予定。
 急なアルバイトさえ入らなければ可能だった。
 立香の収入源は、大学の知人の雑用的なお仕事だ。ある作家の元へ原稿を取りに行くお使い業務を突然申し付けられ、日が暮れてからの帰宅となった。
 急ぎ足でマンションのエントランスを抜け、エレベーターを降りた頃には駆け足に。息を乱して部屋にたどり着くと――
 真新しい壁が、ベランダをきっちりと仕切っているのが窓越しに見えた。
「あー……
 そっか、そうだよね。
 と、小さく呟き、座椅子の上にぽすんと鞄を置く。
 当たり前のことだ、これでも時間がかかった方なのだ。
 本来だったら三日の内に終わっていた作業だった。たまたま春の繁忙期で先延ばしになってしまっただけ。それだけのこと。
(それだけ、なんだけどな)
 ぺたり、靴下のまま立香はベランダに出る。
 邪魔になるかもしれないと思い、畳んで隅に寄せておいたアウトドアチェアと、ランチョンマットを敷いた室外機。これらが素敵なティーテーブルで居られたのはたったの十日だけ。
 だからって、彼との関係が終わってしまうわけでは、無論ないのだけれど。
……なんか、おなかの辺りがぎゅっとなるなあ」
「腹でも減っていたか」
「うぉ!?」
 突然の低い声に立香は飛び上がる。顔を上げれば、空に流れていく細い煙。慣れ始めた濃い葉巻の匂い。
 まさかと思って、手すりから身を乗り出す。
 壁を隔てたお隣には、少しだけ身体を外に傾け、こちらを見ている巌窟王が居た。
「遅い帰宅だな、リツカ。小間使い業は多忙なようだ」
 なんて軽くからかった口調で言って、細葉巻を持ち上げた挨拶をする。今日はグレーのシャツ姿だ。緩めた襟元から白い喉と鎖骨が覗いて、ちょっとセクシーだった。なんだか妙に気恥ずかしくて、立香は軽く頬を掻く。
「うい、ただいま。てか居たなら言ってよ、音でわかるでしょ」
「突然語りかけては礼儀に反するかとな。この通り塞がれたのだから」
 コン、と軽く、巌窟王は壁を叩く。
「夜毎の茶会も難しくなった」
……うん。それが寂しいって言ったんだよ。空腹じゃないよ」
「そうか」
 そして、沈黙。
 壁を隔てて並んで二人、なんとなく空を見る。
 嬉しい気持ちと寂しい気持ちが、同じくらいの重さで胸にあった。
 ここにいてくれたこと。いつもの時間にいつもの場所で、いつもどおりに葉巻を吸いながら待っていてくれたことが嬉しい。
 覗き込まないと顔が見られないのが寂しい。手を伸ばしても届かないのも悔しい。あの穴があった時は、簡単に触れることができたのに。
 彼の手がすっと伸びてきて、頬を撫でてくれるのが好きだった。
 瞼を薄く伏せて、こちらを見つめる赤い目が好きだった。
 座った立香から見上げる巌窟王はいつも格好よくて、スマートで。飲むか、なんて言って暖かい珈琲を差し出してくれるのも楽しくて。
 それが出来ないのが、とても悲しい。
 もう――
……いったん玄関に回らないと、ちゃんとお喋りできないね」
 すごく気楽に、気軽に、お互いの住んでいるところから接触できなくなってしまった。
(キミもそう思ってくれたら、いいんだけど)
 などとセンチメンタルに浸っていたら、ふわあ。と。
 目の前が白くなった。風向きが変わって、葉巻の煙がちょうど顔の高さに流れてきていた。
「んお、煙たっ」
「ああ、悪い」
 と、言いながら葉巻を消さないのが彼である。
 知り合ったばかりの立香が良く知っていることといえば、巌窟王のヘビースモーカーぶりと珈琲好きくらいなものだ。たぶんこの人の肺は真っ黒なのだと思う。
(だって、唇からもう苦いんだから)
 なんて思い出したら、もうだめだ。
 急にあちこち寒く感じる。触れていない箇所が寂しい。心も、身体も、全部寂しい。
 本当に、こんな壁無ければいいのに。一層の事、もう一度破ってしまおうかなんて愚かなことを考えてしまうくらい、立香の心身に孤独が染みた。
 壁はいやだ。隔てられてしまうのが。
 ちゃんと触れあって、笑いあって、彼氏だって友達にも紹介したのに。何の不安も感じなくていいはずなのに、まるで、
(近づくな、って、言われてる気がして)
 何の証拠もないのに、そう思ってしまって、怖い。
 唇を噛んで、壁を睨む――と、
「要るか」
 目前に。
 鍵がぬっと、突き出された。
「え、へ……? かぎ……?」
「他のものに見えるか?」
 巌窟王はベランダから手を伸ばしたまま、つまんだ鍵を軽く揺らした。
 立香の部屋の鍵と同じ形だ。ギザギザじゃなくくぼみが沢山あるタイプの、確かディンプルシリンダー錠とかいう名前の、銀色の鍵。それに、光沢ある紫のリボンが結んである。巌窟王が髪を結わえているものと同じ、綺麗なリボンだった。
 鍵と顔を、立香は交互に見る。いるか。要るか。必要ですか。欲しいですか。そんな言葉と一緒に差し出された鍵の、意味は。
「キ、キ、キミのお部屋の鍵、ですか」
「何だその敬語は。……肯定だ。予備の一本だが、毎度呼び鈴を押すよりも手軽だろう」
「それって……!」
 期待に自分の目が、潤んできらきらするのを押さえられなかった。
 見つめた先で巌窟王が、あの優しい、すっと細める視線を立香に向けている。薄い唇が皆まで言うなと小さく囁き、ぽい。鍵を放って寄こした。慌ててキャッチする。危なかった、四階から落下したら大変だ。
「ちゃんと! 渡して! 大事なものは放らない!」
「おまえならば取り落すまいよ」
 と、巌窟王はベランダから身を起こした。短くなった葉巻を灰皿にこすりつける。
 立香はというと、貰った鍵をぎゅっと両手で握りしめて感無量に震えていた。
 だって、部屋の鍵だ。巌窟王の住む場所の鍵だ。
 それはつまり、壁を超えてもいい証。
 こっちに来ても構わないと、いつでもいいと、許してくれた証拠だった。
「っ……ありがと、がんくつお……
 だめだ、泣きそうだ。嬉しくて爆発しそうだ。
 大分舌足らずになってしまった感謝に対し、クハ、と癖のある笑いだけが返ってきた。
 もう姿は壁の向こうで、だけれど立香には見えている。広い背中、綺麗な長い髪。それを翻して、ぺたぺたスリッパ履きで部屋に戻る後ろ姿が。
 そして、ぴたり。足音は止まり、こんなことを言った。
「帰宅の遅い我が運命にと、ささやかな夜食を用意してあるのだが。ああ、腹は減っていないのだったな?」
「っ~~~!」
 きっと彼は、意地悪で愛情深い、唇を持ち上げる独特の笑みを浮かべていたに違いない。
 それを確かめるために、立香はベランダを飛び出す。部屋を横断し玄関を抜け、四〇九号室の扉に初めて鍵を差し込むまで一分とかからないこともきっと、彼は予測していたのだろう。
 思いっきり開いた玄関。ふわ、と、煙草の匂いが薄く香る。
 それから珈琲の匂い。ちょうどベランダから戻ってきた巌窟王が、軽く室内に顎をしゃくる。ローテーブルに湯気が立つコーヒーカップとクロワッサンがふたつ。
 もう堪らなくなって、立香は靴を脱ぐのももどかしく、大きな声で叫んだ。
「おじゃまします! と、いただきます!」