望月 鏡翠
2024-05-03 14:36:30
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18、弱さの代償

ブツメツフツマ/平 均

 何度か、目を覚ましていた。だがいずれの瞬間にも、体との繋がりを断たれたように指先一つ動かすことができなかったし、瞼は持ち上がらなかった。全身が鉛でできた像に成り果ててしまったように、とにかく重たかった。
 大きな怪我などしたことがなかった平には、それが七億不思議の影響なのか失血の後遺症なのかもわかっていなかった。わかったところで寝ている以外にないのだが、少なくとも考えることしかできることがない状態で、不安に苛まれずにはいられただろう。
 もう二度と目覚めないと診断され本当は意識があるのに生きたまま火葬されることになったらどうしよう。周りでおそらくは平の治療に当たっている人たちの気配を感じながら、戻りかけの意識で悪夢を想像していた。
 意識の覚醒と身体の非覚醒は金縛りのもどかしさで、しばらく平を苦しめていた。まだ自分に体があると実感できるのは、夢の中まで届く痛みのおかげだった。波のように強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、意識の淵に絶え間なく押し寄せていた。
 痛みの占める場所がどんどんと増えていき、立つ瀬のなくなった微睡から押し上げられるように、目が覚めた。
 なんとか瞼を開く。相変わらず重たかったし、油断をするとまたすぐに眠りに落ちそうだった。そして目に入る天井の照明は眩しすぎて、頭が痛くなった。
 馴染みのない天井はきっと保健室か、病室の代わりに割り振られている教室のどこかなのだろう。
 ゆっくりと頭を傾けようとして、皮膚が突っ張り激しい痛みが走って諦めた。
 うめき声が漏れ、声を出したときに口がカラカラに乾いていたと気づく。
 目だけを動かすと、光を遮る人影があった。
「ヘーキン?」
 まだ明るさに目が慣れていなかったが、小声で確かめるように呼びかける声はよく知っている。ぼやけたシルエットでも、赤い髪の毛が輪郭に滲んでいた。
 徐々に焦点が定まり、相手の顔が見えるようになる。
 目があった瞬間、日月の表情が揺れた。唇が何かを言いかけて開き、また閉じる。視線が彷徨ったあと、また平のところに戻ってきた。
「おはよ」
 彼が飲み込んだ全ての言葉の代わりに出てきたのは、なんの変哲もない、いつもの目覚めの挨拶だった。
 朝、目が覚めてほぼ同じ時間に起床する。相部屋のアラームの音が前後する。ベッドから起き上がり、目があって一番最初に朝の挨拶を交わす。
 そんな当たり前の日常はここにはない。
 だが、いうべき言葉を他に見つけられなかったのだろう。
 目覚める前の、痛み以外の部分を思い出そうとする。治療担当の先生がやってきて、言葉を返す前に二人は一度引き離された。
 意識が戻っているかの確認の、簡単な質問。鎮痛剤を処方され、まだ効いていないが少しだけ気分は楽になった。水を求めると、室温になったぬるい水を飲ませてくれた。
 一通りの健康確認が終わり、不健康であることがカルテの代わりの用紙に記入されると平は解放された。無理に動かないようにと念を押されたが、言われなくても元気に動き回ることができる状態ではなかった。
 傷口がズタズタになっている。オブラートに包んだ表現だが、つまりはそういうことだった。幸いだったのは、生き物ではない七億不思議の咬傷は普通の動物とは違って口腔内の雑菌がなかったことだ。重篤な感染症を引き起こす心配はなかった。
 ただ別の危険はある。生気を吸い取られて傷の治りが遅くなったり、噛み傷を媒介として呪いをかけられていたり、毒を持っていたりするかもしれない。そちらの懸念は、目覚めてから今までの間に非常勤講師の先生が対処してくれている。
 どのくらい眠っていたのかを確かめようと思ったが、時計を見ても日付はわからない。携帯は手元になかった。充電を誰かがしてくれていなければ、あったところで電源が入らないだろう。
 ゆっくりと横に目を向ける。
 カーテンは閉めてあったが、その外から漏れてくるのは確かに陽の光だった。雨の音はしない。長く降り続いた雨がようやく止んだらしい。
 街は、元通りになっただろうか。
 教師たちが立ち去ったのを見ていたのか、平のベッドに日月が戻ってきた。
「七億不思議は? もう元通りになった?」
 目覚めた直後よりは、まともに喋れるようになっているが、まだ声は掠れる。
「ごめん。逃がした」
 首を傾げる。でも、外は晴れていると言おうとして、この現象を作った原因ではなく、平を襲った七億不思議について言っているのだと気がついた。
「相変わらずここの人達以外はいなくなったまま戻ってない。雨は止んだけど……進展って言えるようなことは」
 日月の言葉はそこで止まる。
 痛み止めを飲んでいるはずなのに、じわりと傷の痛みが増した気がした。
 帰ってきていない。
 当たり前だ。戻ってきていたら息子が重症で気を失っているのに、家族からなんの連絡もないはずがない。実家に帰ると言って結局帰っていないし、消えていた間に他の人たちがどうなっていたのかの説明もない。
 まだきっと原因は他にある。それを調査して、戦わなければ日常は帰ってこない。
 拳を握り締めようとしたが、傷が酷く傷んで指先を動かすことすら満足にできなかった。痛みとともに頭の中に、間近で開いた真っ赤な口と乱杭歯がフラッシュバックした。
 体が強張る。
 あと何回立ち向かえばいいのだろう。この体はまた戦えるだろうか。走って、それでも勝てない敵に相対したとき、また運良く生きて帰ってくることができるだろうか。
 運悪く怪我をしたのではなく、運良く生還できたのだということは、よくわかっている。
「意味とか、なかったのかな」
 傷つき、戦い、その先に何か得ただろうか。
 視線を落としていた平は、黙って聞いていた日月の目元が鋭くなったことに気づかなかった。
「は? ごめん、あのさあ、意味ないって何? 雨はやんだじゃん」
 言葉の勢いに驚き顔をあげ、ようやくそこにある怒気に気がついた。
「他の特待生とか、先生とか、頑張ってなんとかしてくれてんじゃん。その時間作れたじゃん。解決の主力になりたいって言ってんの? 実力がないんだから、無いなりにやれることやるしかないだろ」
 日月はそこで言葉を切った。
 吐き出した息を吸い込み気持ちを落ち着けようとしていたが、一度吐き出してしまった言葉は止まらなかった。
「何だよ意味って、お前、進んでないように見えんのか?」
 主力になりたいなんて、思ったことはない。ただの一般人が、そんな風に華々しく活躍できるはずがないことはわかっている。割り切っているはずなのに、無力感が拭えないのは、何を期待していたからだろう。
「進んでるのも、役に立ってるのも、日月だよ」
 新しいことを覚えて、応用を模索して、できることが増えた。
 出会ったときより、ずっと強くなっている。
 走ることしかできない平とは違う。囮は囮のままだ。釣りの餌は、成長をしない。削られていく一方だ。
「俺は何も出来ないのに命だけ掛けてる。やれることやるって、そんな試行錯誤が通用するのかよ。一度間違えただけで俺は死ぬのに!」
 ドミノみたいに途方も無い時間をかけて積み上げたものが、一瞬で崩れ去っていく。失うのは一瞬だ。そこにはカタルシスもなく、奪い去っていった側にはちょっとした悪戯心すらも無い。
 通りすがりに、そこにいただけの現象に、奪われていく。
「ヘーキンの方が危ない目に遭うことが多いのはわかってる。今回のは俺も悪かった。学べたことはいくらでもあったろ」
 未だベッドに横たわったままの平を見て、日月の表情が苦しげに歪む。一度声を荒げたあとは、感情を抑え込むように喋っていた。
 気遣われている。今の二人は対等ではない。そうさせていることが、悔しかった。
「嫌なら付いてこなくて良い。元々一人だったし。大体、祓魔師じゃないからいつでも逃げられるだろ!」
……は? それって俺がさ」
 覚悟が足りていなかったと言われれば、それまでだ。
 頭の中を酷い言葉がぐるぐると回っていた。
 俺は要らない。
「俺は、必要なかったけど、勝手についてったって、思ってんの。いてもいなくても変わらないなら、やっぱり意味なんてないだろ!」
 治ったら、逃げ出して目を背けてそれで終わりならきっと、戦う意味なんてなかった。
「そうじゃない! 話聞けよ。そんなこと言ってない。変わらないわけないだろ。今回だって……結果として失敗だったけど、そもそも俺一人だったら街にすら出ていけなかった。今までだって、ヘーキンと組めたからできたことがいっぱいあった」
 いつも日月の言葉の勢いは、平の怪我を見て衰える。
「でもそれを俺の勝手で強要できないって、そう、言ってるんだよ」
「俺たちが頑張れてたのなんて、最初の方だけだよ! わかってるだろ日月も。敵は強くなるし状況はどんどん悪くなってる。もう俺たちの手に負えるような状況じゃなくなってる。戦いたくたってさ……
 学園長が生きていた頃なら、まだやりようはあった。学校は安全だったし、危険を感じたら逃げて帰ってくればよかった。だが今は、学園内にも強大な七億不思議が出る有様で、なんとかそれを倒してもすぐに次が来る。
 怪我を治療し休んでいる時間すらなく、次の戦いに赴いている。少しずつ削られて追い詰められている。
 今は全員がそんな有様だ。
「俺は、強くなれるわけじゃないのに、どうやってついていったらいいのか、わかんないよ」
「それでも俺は行くよ。そういう規則だし、周りの仲間が戦ってるんだからサポートだけでもしに行く。ヘーキンだって、長く速く、走れるようになってるじゃん。なんでそういうこと言うのか全然わからない。時間かけてやってきた努力の方法が間違っていて逆効果になることだってある。でも俺たちはそうじゃない。少しずつでも進めてると俺は思ってたけどね」
「怖いんだよ!」
 声を荒げたときに傷が痛み、涙が滲んだがそれでも止まれはしなかった。
 一人で戦っていた日月だって、きっとこの痛みまでは知らない。
「死ぬのなんて一瞬なんだよ。運が悪かったから怪我したんじゃなくて運が良かったから生きてるんだろ。規則だからとか、そんな、割り切れないよ。日月が怪我すんのもいやだよ。俺は逃げてもいいとか、そういう話でも、ないじゃん」
「じゃあ、どうする? 怪我治ったらの話。悪いけどヘーキンに何言われても、俺はやっぱり全部を人任せにはできないよ」
 二人の間に沈黙が横たわった。
 その答えを平は持っていなかったからだ。決められない。今決めようとしたら、感情に任せて心にもないことを言ってしまうかもしれない。
 口を開こうとしたところで、ベッドを区切るカーテンが勢いよく開いた。
「怪我人がいるのよ! 騒がないで!」
 ごめんなさいという隙もなく、日月は教室の外に追い出され話は中途半端に終わった。
 だが最後に投げかけられた問いだけはいつまでも頭の中にぐるぐると回っていた。
 どうするのか。そもそもどうして相罠関係を結んだのか。
 七億不思議に襲われた人間は消えてしまうが、この世にいた痕跡は残る。
 七億不思議を見ることも触れることもできなくても、それが残した影響は一般人にも視認ができる。
 全部忘れて元の生活に戻るなんて、できそうになかった。
 見て見ぬふりをすることはできなかったけど、全てを知るためには相罠関係を組むのが条件だった。
 きっかけは、それだけのことだ。
 だけど自分はいらないのでは無いかと思ったときに感じた痛みもまた、本物だった。共に戦ってきたという自負を持っていたし、一緒に強くなりたい。
 本当のことなのに、今度は軽々しく頷くことはできない。命を賭けるということの意味を、痛みとともに理解してしまっている。
 腕を動かすことすら苦しいのに、この痛みを抱えてもう一度立ち上がることができるのか。
 枕に頭を沈めて、目を閉じる。すぐに答えを出さなくてもいいことが、唯一の救いだった。