バジルと恋人になり、一緒に生活するようになってからしばらく経つ。
今住んでいるところは昔いたあの町からは離れているけれど、みんなとのやりとりは途切れていない。手紙を出し合ったりして、連絡を取り合うこともある。
それぞれが忙しいから、なかなか集まったりとかはできていないけれど。
僕たち2人の休日の過ごし方もまちまちで、各々が趣味の読書やゲームをしたり、花を愛でたり。日々の疲労から全てをシャットアウトして、ひたすら寝たり。あるいはぎりぎりまで溜め込んだ家事を片付けたり。
稀に予期せぬトラブルが舞い込んできて慌ただしくなることもあるが、とりあえずは平和に過ごしている。
……もちろんそれなりに、2人でそれらしい事をして1日を潰すことだってある。
今日もそんな大きな予定のない、なんでもない日だ。
……そう思っていたものだから。
その突発的な提案に、すぐに答えることができなかった。
「久しぶりに、海でも行く?」
………今から。
付け加えられた彼の言葉の後、目の前に置かれたコップの氷がカランと音を立てる。
中身は自家製のレモネードで、夏場にバジルがよく作ってくれるそれは、僕のお気に入りだ。
彼が昔、クッキーとレモネードを売るバイトをした時にずいぶん好評だったから、レシピを覚えてしまったのだという。僕はその恩恵にあずかっているというわけだ。
話を戻そう。
先のとおり、休日はいつも身近な場所で過ごすことが多い。だから今から海に行こう、というのはかなり唐突な提案だった。少し足を伸ばす必要がある外出は、どちらかというと計画的に日程を決めるようにしている。
でも、ここのところ頻繁に昔のアルバムを見返している彼にとっては
……、これもずっと考えていたことだったのかもしれなかった。時間を見つけては、思い出を反芻するように懐かしげな表情で『またこういう事したいね』と話しているのを覚えている。
突然の提案になった自覚もあるらしいバジルは、なかなか返事をしない僕にいたたまれなくなったのか、さらに言葉を重ねる。
「ぼくが行きたいだけだし
……、君があんまり気分じゃなかったら、別にいいんだけど」
……思い切って遠出をするのは、己にとってもいい気分転換になるかもしれない。
僕は噛んで先端がボロボロになったストローで残りのレモネードを飲み切ると、彼の言葉にようやく短い言葉と頷きで返事をした。
それを見て、すぐに花が咲いたように笑顔になったバジルは、そうと決まればさっそく行こう!とやや浮き立った様子で椅子から立ち上がった。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
冷えたペットボトルを入れたビニール袋を掴んで家から出ると、車を用意するために先に出ていたバジルが声をかけてくる。
「サニーくん!準備できた?必要そうなものは用意しておいたよ。あ、それは
……、それもクーラーボックスに入れちゃおうか」
そう言って僕の手から袋を掬い取る。
そうしてすぐに大きな箱の中にしまわれてしまったものだから、いきなり手持ち無沙汰になった。そんなに簡単にひとまとめにされては、実用的持ち運び道具の敗北だ。貴重品だってほとんどポケットに収まっているし、他に必要なものなどあっただろうか
……。
バジルが何を目的に行きたいのかはわからないが、泳ぎが苦手な彼と僕とで海に入ろう、とはならないだろうし。それに、すこしくらい服が濡れてしまっても、すぐに乾いてしまいそうなくらいの気候だ。2人とも今の半袖とハーフパンツで充分だろう。
湿気がないのはいいけど、やっぱり暑い
……。
パラソルを車に乗せようとして悪戦苦闘しているバジルを少しだけ手伝いながらも、頭の中はいつもの思案タイムになっていた。
どういうことかといえば。たとえばこういう
……家を出る前。何かの出来事の分岐になりそうに思える時。口には出さないでも色々な事が頭を駆け巡っている。
『今日まだ見ていないものはない?昨日と違う所は?拾っていないものは。調べていないもの。話していないこと。聞けていないこと。記録していない何か──選択肢は、これで本当に合っている?そもそもやっぱり
……何もしないほうが
……』
……………後悔、しない?
"大事な──を忘れているよ。"
現実に、そんな細かなフラグ立てのような
……、ましてや親切丁寧な、助言じみたメッセージなんてものがあるわけがないのをわかっている。
でも考えるのはどうしたってやめられない。これは性分だ。
……だから
……結局。
少し気にかかることもあって、一度室内に戻ることにした。
バジルには鍵や電気を見てくる、と言って再び家の扉を開ける。玄関からは冷蔵庫を開けたときみたいな、ひんやりとした心地よい冷気が流れ出てきた。
「サニーくん、クーラーはつけっぱなしでいいからね!」
という声が背中を追ってくるのを聞きながら、まずは自分の部屋を目指した。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
今日は雲ひとつない快晴で、太陽の光が眩しい。
カラッとした日差しは容赦なく地面を照りつけ、ユラユラとかげろうを生んでいる。
運転席に座ったバジルは瞳が焼けないようにサングラスをかけ、のろのろと助手席に乗り込む僕を辛抱強く待ってくれていた。僕はようやく席に着くと、シートベルトをしめて黒いリュックサックを膝に乗せる。
空調がつけられて少し時間の経った車内は、家の中とまではいかないものの、流石に外よりは涼しい空間になっていた。車がゆっくりと発進する。
それからしばらく走ったあとも、バジルは特に何を話すでもなく、僕も黙って外の移り変わる景色を眺めていた。申し訳程度の音量で流れているBGMは、バジルがいつも運転中にかけているものらしかった。それはたとえば会話とか、あるいは外からのクラクションでもすぐにかき消されてしまいそうな、ごく静かなもので。
好きな曲なら、もう少し大きな音で聞いてもいいだろうにと思った。
「着くまで結構かかるみたいだから、寝ててもいいよ」
運転中の彼に穏やかな声でそう言われる。
別に全然眠くはないけど、静かでときおり揺れる車内は睡眠導入剤として悪くないと思う。
運転してくれる人の横で寝るなんていいのかな。と思う程度には成長したつもりだけど、それを言えば『どちらかというと信頼されている気がするから嬉しいかも』と返された。
窓の外の景色を眺めるだけも飽きてきたし、彼が今特に話すことがない、というのなら。少しの間目を閉じてみてもいいかもしれない。
そうして目を閉じると、それ以外のほかの感覚が鋭敏になる。
それまでかすかに聞こえていた程度の旋律が、しっかりとした音として流れ込んでくる。
──耳に残る少し悲しげなこの曲を、遠い記憶の中で覚えている。
それを聴いたのは、やっぱりバジルが隣にいるときで。
自分と彼とで片耳ずつつけたイヤホンで
……
そうだ、そもそも初めてこの曲を選んだのは自分で。
その時の彼は
……泣いていたっけ
…………。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
到着早々バジルは車の外に出ると、手早く麦わら帽子を被り、それと同じものを僕にも被せてくる。
昼前の到着になったとはいえ、夏の刺すような日差しの下、温まった生ぬるい潮風が肌を撫でていく。正直、既に快適だった車内に逆戻りしたくなるほどの暑さだ。
……でも、今日はとことん付き合うと決めたから。
海辺まではまだ少し歩く必要があって、バジルが車に積んでいたクーラーボックスやパラソルなど、雑多なものを抱えて先導してくれる。日差しを遮る日陰のない道をぽつぽつと歩く。流れる汗が首や腕を静かに伝っていく。
そうして歩いていたものだから、少し先の道中に待ち構えるキッチンカーの誘惑には、どうしても抗えなかった。
だって、かき氷を売っている。
バジルに声をかけると、じゃあお昼も近いし、他にも食べるものとか買って行こうか。と快諾してくれた。思ったより人はいなくて混んでいなかったから、特に待つ事なく会計を済ませることができた。
僕はお昼としてキューバサンドを購入する。曲がりなりにも食べ盛りのお年頃だからである。
バジルは何にするのかと思えば、野菜のサンドイッチがいいと言ってそれを選んだ。相変わらず食が細い。きゅうりやトマト、レタスしか挟まっていないパンでいいなんて正気の沙汰と思えないから、僕のものも少し食べさせなければ。
ちなみにキューバサンドはどんなものかというと。ローストポークやハム、チーズを挟んだブレッドの表面にバターを塗り、それを挟み焼き機でプレスして焼いたものだ。バターをたっぷり吸ってじゅわっとしたカリカリのパンからとろーりチーズが溶けだしてお肉と合わさる、高カロリーの権化のような逸品である。
……じゅるり。
それにかぶりつく想像をするだけで、なんだかるんるんとした気分になる。パンの入った袋をお店の人から受け取り、腕に引っ掛けた。両手にはかき氷。
……今から向かうのはボスラッシュだったっけ。
それからまた少し歩いて、ようやく砂浜に到着する。
遠くに見える水平線、光を反射している海面はキラキラと輝いている。
──久しぶりの海だ。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
砂浜の適当なところにパラソルやシート、持ち物を設置して一息つく。
バジルはパラソルの陰に入ってからサングラスを取り、額や首の汗をタオルで拭っている。僕にも新しいタオルを渡してくれた。彼はここまでの運転と、重いものを率先して持ってくれていたこともあるし
……きっと疲れているだろう。
それになにより、僕たちはまず、溶け始めているかき氷を救わなければならない。
休憩がてら早めの昼食とすることにした。
シャクシャクとした氷のおかげで、体にこもった熱が冷やされてゆくのは心地よい。冷やした飲み物とはまた違う涼を取った気持ちになれる。
シロップかけ放題のサービスをいいことに、色々なフレーバーをちゃんぽんした僕のかき氷は、最終的に形容しがたい色になっていた。隣でいちご味のかき氷を少しずつ食べているバジルは小さな舌が真っ赤に染まっていて、それが時々視界に入り、なんだかそわそわとしてしまう。
早々にかき氷を片付けた僕は、それについてあまり深く考えないようにしながらメインディッシュに手をつけはじめた。
食べながらもつい時々、彼の様子を伺うような僕の視線に気づいたバジルは、美味しいね。と、にこにこ嬉しそうに笑う。
そうして僕の頬についたパン屑を指で拭いとると、そのカケラをパクリと食べた。
………………。
……今でも『僕の世話』と思っていれば、人目も
憚らず、恥ずかしげもなくこういうことができてしまうのに。
少しでも、変に意識した途端にダメになるんだよな
……。だから何も言わない。相変わらず僕たちの需要と供給は、少しばかりズレている。
でもどうしても
……もうちょっとこう
……、変わらないかな。とも思ってしまうけど。それは僕のわがままだし。
相手が
……周りが、自分の希望通りに変わってくれるのを待っているのでは、ダメなのだ。頭ではわかっている。
とりあえずは。
「
……バジルも食べる?」
と言ってパンを差し出した。
彼は遠慮していたけど、結局僕の視線に負けたのかおずおずと目の前に出されたパンに顔を寄せた。
開かれた小さな口からまた赤い舌が覗く。髪がかからないよう、耳にかけるように片手で押さえて
……そういう、全てが。いちいち扇情的な仕草に見えてしまうのは、僕の頭が暑さで再び茹ってきているから
……なのかもしれなかった。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
食後のお腹を落ち着けながら、砂浜と海を眺める。波が寄せては返し、光を反射している。
「昔はサニーくんをみんなで砂に埋めたりもしたよね」
「うん」
懐かしいな。だいぶ物騒な言い回しに聞こえるけど、あれは他に言いようがない。
アルバムの写真にも残っている、首だけ砂浜から出している様は。通りがかりの人たちに心配されたり、驚かれたり。面白がられたりもしたけど。
穴の中は意外と快適だった事を思い出す。
「
……でもさすがにあれは
……今日はできないね」
お城でも作る?
そう言うと、彼は僕の返答を待たずに立ち上がった。
小さなバケツを持って波打ち際まで行き、それをひと掬いするとゆっくり戻ってくる。
パラソルの陰から出て、太陽の下に行ったバジルの白い肌が、光に触れている。それを日陰から見ると、余計に眩しく見えるような気がした。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
2人の間の砂にバケツの水をひっくり返して、ぐしゃぐしゃに混ぜる。そうして、ひとまずは大きな山を作り上げた。
──なぜ彼がわざわざこれを作ろう、などと言い始めたのかはわからないけど。無心で手を動かす作業は不思議と心が落ち着いた。
「つぎ、トンネル掘りたいからサニーくんもそっちから掘ってね」
その指示に従って、固まった山の真ん中あたりを掘り出す。
……お城にトンネルなんてあったっけ。まあいいか。
素手で掘り進めるとざりざりとした砂の感触がする。しばらく続けると、砂とは違うものに行き当たった。
「!
……開通!」
穴の中央で、反対側の彼の手と触れたのだ。
指が突き当たった瞬間は少し痛かったし、細かい砂のついた手はジャリジャリとして、あまり心地よい感触ではなかったけど。
砂の中でぎゅっと握った指に触れる、嬉しそうな彼の顔を見ただけで、僕にも少し達成感のようなものが湧いた。肝心の砂の山は未だ全然、城や建物なんて言えるようなものですらないのに。
……それから"砂の城のようなもの"の形を、時間をかけてゆっくりと整える。ディテールをこだわって作り始めると、意外と熱中してしまった。持ってきているものの中で使えそうな道具を使ってみたり、いろいろ工夫した。
2人で相談しながら、ここはこうで
……こうしたらこうなるから
……と顔を寄せて話し合うのは楽しかった。
彼の話す世界は、いつも僕の世界の一部になる。
砂の城は、ゆっくりと時間をかけて完成に近づいていく。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
あともう少し。
と思ったところで「休憩にしよう?」という声に呼ばれる。周りを見れば、かなり日が傾いてきていた。そんなに時間が経ったのか。
手や服の砂をはたいて立ち上がると、少しだけくらりとする感覚が起こった。
……軽い立ちくらみだ。
集中して作っていたから、結構疲れたな。
再びパラソルの元に戻ったバジルに続いて、その隣に腰掛ける。もう被る必要のなさそうな麦わら帽子を外すと、暑さの少しだけ和らいだ風が心地よく髪を通り抜けた。
彼がクーラーボックスから取り出したペットボトルを受け取って一息つくと、ゆったりとした時間を感じる。ちょっとだけ眠い気もする。
僕は少しだけ甘えるようにバジルにすり寄ってから、そのまま彼の膝の上に寝転んで頭を乗せた。
昔を懐かしむバジルにならって僕も今日はこれくらい、してもいいよね。ぼんやりとそう思いながら彼を見上げると、すごくびっくりしている表情の、見開かれた青い瞳と目が合った。
──あれ、バジルとこうしたのは
……初めてのことじゃ、ない、
……よね?
僕は幼い頃から基本的には姉のマリにべったりしていたけど、これに限っては、バジルとも
……。
だって僕たちは昔も、同じようにして。
彼が頭を撫でてくれるから、僕はバジルの柔らかいその頬に手を伸ばしたり
……、して
…………。
……………………。
…………いや、違う。
違う。違った!
いや、違わないけれど!
……確かに、バジルだった。バジルではあった。
でも、それを──
彼が覚えているわけがない!
夢の中の花冠をつけた鮮やかな髪のバジルが、濡れた赤い瞳で、僕を見て笑う姿が、今の困惑した顔の彼に重なる。
思い至ると、すごく恥ずかしくなって一気に顔が熱くなる。そんな僕につられたのか、バジルの顔もみるみる赤くなった。
よくよく考えてみれば。
僕は彼とこういう関係になってからでさえも、外出先でこんなあからさまにベタベタと
……甘えた仕草なんて、したことない。
無意識に自分がした事を自覚すると、すごく恥ずかしい。
……穴があったら入りたい、とはこのことだろうか。今回も、埋めてもらうべきだったのかもしれない。
「ごめん
……!!」
今日一番の大声を出して、慌てて起き上がりかけた僕を彼の手が咄嗟に制して、柔らかく引き戻される。僕の頭は再び彼の膝の上に沈む。
バジルは相変わらず、僕と同じように赤い顔をしていた。それでも。
「
……いいよ。大丈夫」
静かにそう言うと、そのまま僕の頭を撫でた。
彼の左手は起き上がらなくていい、というように優しく僕の胸あたりに添えられて。だからきっと、僕のバクバク、ドクドクという凄まじい心臓の音も、絶対伝わっている。恥ずかしい。
見上げた先にある彼の顔から目が離せない。
そうすると、見下ろす彼の瞳も今は僕だけを映している事がわかってしまう。
すぐさま離れて転がりまわりたいような気持ちと、永遠にこのままでいてほしいようなぐちゃぐちゃした相反する気持ちが暴れている。
現実の僕は、この状況で彼の頬に手を伸ばす余裕なんかなくて。優しく置かれた彼の手に、自分の手を重ねるだけで、精一杯だった。
顔の熱さと煩い鼓動が落ち着いてからも、彼はしばらくの間そのままでいてくれた。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
太陽が完全に海に落ちる頃、最後のひと頑張りと思いながら手をつけた砂の城は、ようやく完成と言えるシロモノになった。
……うーん、ジョークノートにはちょっと載せられないかな。
日が暮れて全てが深い青に包まれそうな景色の中、まばらにいた他の人たちの影も、もういなくなっている。空には丸い、大きな月が顔を出している。
「完成したね
……!」
そう言うと、バジルは満足げな様子で城の隣に寝転がった。全身砂まみれになる事もお構いなしだ。まあ、それも今更か。
「初心者にしては、上手くできたんじゃない?」
と、バジルは愛おしいものを見るような表情でそれに触れた。僕も、結構良くできたと思う。
…………2人で作った、砂の城。
「
……サニーくんとね、どうしても一緒に作ってみたかったんだ。」
だから、嬉しい。ありがとう。
バジルは視線を城から外すことのないまま、噛み締めるように呟く。
……そんなの。
これに限らなくたって。
これからいつだって。いくらだって
……。
だから。
「また一緒に色んなこと、しよう」
「
……うん、そうだね。」
きっと同じ気持ちなのに、もしかしたら違うことを考えているんじゃないかと思ってしまうのは、どうしてだろう。
──やっぱり、明日には崩れちゃうのかな
カシャ、というシャッター音が響いて、一瞬強い光が起こる。
それに驚いた顔で振り返った彼をお構いなしに、僕の手の中のカメラが写真を吐き出した。
「
………サニーくん、
………カメラ、持ってきてたの?」
「うん」
バジルが忘れていたのか、わざと持ってこなかったのかはわからなかったけど。出る直前に彼の準備している荷物の中には見当たらなかったから、取りに戻ったのだ。
瞼の裏に鮮明に浮かぶ大切な記憶も、今この時も、これからも。今度こそ、ずっと、大切にしたくて。
「こういう時のために、持ってるんでしょ」
海風に攫われないように、僕はその写真をすぐにポケットの深くにしまい込んだ。
「
……そう、だったね
………」
…………じゃあ、サニーくんも、撮らせてくれる?
少し泣きそうな顔で聞いてくる彼の言葉に頷くと、そっとカメラを差し出した。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
……帰りの車で寝てしまったらしい。
バジルに揺り起こされ、気がついたら家に到着していた。
『今度はもっと計画的に来ようね、みんなも誘って
……スイカとか、花火も持ってこよう。』
彼とそんなことを言いながら車に戻ったのは覚えている。
砂浜で転げ回ったままの服でいるのはちょっと
……ということで、バジルが準備してくれていたゆったりとした服に着替えをして。
……写真には収めたとはいえ、どうしても置いて行かざるを得ない砂の城を、やっぱり名残惜しく思ったのに。身体に残る独特な疲労感や潮の香りがなければ、まるで夢だったみたいだ。
……こういうところで彼との体力の差を感じる。
やっぱり普段から外に出ないとダメなのか。
外での楽しさの有無に関わらず、家に帰ってくるとやっぱりどこかほっとする。
……そうだ。せっかくだから。
鍵を開け玄関に入り、少し進んだところで振り返る。
続いて入ってきていたバジルが、僕の突然の方向転換に驚いて立ち止まる。
「わ、なに?サニーくん、なにか忘れ物?」
心配そうにする彼に、両手を広げる。
「バジル。
……おかえり」
「!!!
…………ただいま、サニーくん」
バジルが嬉しそうにぎゅっと抱きついてくる。
「サニーくんも、おかえり」
「
……うん、ただいま」
僕も彼をぎゅう、と抱きしめ返した。
「っ
……!?」
「バジル?」
ハグの途中で少し違和感を覚えて名前を呼ぶと、彼は身体を離して何事もないかのように穏やかに笑った。
「ん、どうしたの。サニーくん」
「
………………。」
バジルの腕を掴む。ゆとりのあるシャツの片袖を許可なく無遠慮に捲り上げると、日に焼かれた彼の白い腕は真っ赤になっていた。全体が少し爛れたようにカサつき、目に見えてヒリヒリという音が聞こえてきそうな有様になっている。
……日焼け止めを塗り忘れたのか。
「
…………。」
「
…………。」
腕から視線を上げバジルに目を合わせると、明らかにバツが悪そうな顔で苦笑いした。
──また、隠そうとした。
咄嗟にそう、思ってしまう。
「あの
……サニーくんこれは、」
「手、赤くなってる」
太陽に灼かれて。
「
……うん」
「
……早く冷やしてきた方がいいよ」
「そ、そうだね。
……シャワー、先に使わせて貰うね
…」
サニーくんも疲れてるだろうにごめんね
……。
そう言いながら、シュンとした顔でバスルームに消えていく。
それを見送りながら、この1日の終わりが彼のそんな表情で締めくくられるのはなんだか嫌だな、と思った。
☀︎ ❀ ☀︎ ❀ ☀︎
リビングにある複数人がけの長いソファに座って彼を待つ。その間に今日撮った写真を見ていると、やっぱり行ってよかったと思う。
あのときはじめに撮ったバジルの横顔を改めて見ると、いつか彼が
『人の自然な表情を撮りたい』
と言っていた気持ちがわかる気がした。
形に残るものが手にあるのは、いいな。
ややあってバスルームから戻ってきたバジルは、まず僕の方
……ではなく、ある場所に一直線に向かうと、その引き出しを開けて中身を確認した。
あれ、とした仕草の後すぐにこちらを振り向く。
目当てのものが僕の手元にあるのを認めると、何か言いたげな表情をしつつも、すぐに普段通りの笑みを作って近づいてきた。
「サニーくん、シャワー先に使わせてくれてありがとう。つかれたでしょ。お風呂、ゆっくり入ってきて」
そう言うと、僕が持っている救急箱を受け取ろうと両手を差し出してくる。目的はこの中に入れているワセリンや軟膏だろう。僕はそれを抱えたまま、自分の座っているソファの隣のスペースをポンポンと手で叩いて彼に座るよう促した。
いい、いいから!とすごく渋られたけど、何を言われても箱を手放さないし、風呂にも行こうともしない僕に根負けしたバジルは、観念したようにソファに座ると赤くなった腕を出した。
自分で冷やして、多少保湿もしたのか先ほどよりは赤みの引いた肌にクリーム状のそれを塗り広げる。
「痛い?」
「
…………いや、そんなに
……。」
ならこのくらいの強さでいいか。
……こういうとき、痛いの痛いの飛んでいけ
……というのは、いまさら子供騙しが過ぎるのかな。
「次、足出して」
「え
……、い、いいよ。流石にそれは自分でやる
……」
「いいから」
「
………………。」
じっと彼の目を見る。
「じ、自分でできるから」
「僕がやりたい」
バジルがどう思ったかはわからないけど、僕の言葉に彼は気まずそうに、ぎこちなく両の足をソファの上に乗せた。
彼は今日ハーフパンツにサンダルを履いていたから、膝とふくらはぎ
……それに足の甲あたりまでがしっかり赤く焼けていた。
それに比べれば僕は、それなりに焼けてはいるもののたいした痛みもない。あとで自分も保湿はしたほうがいいとは思うけど、同じような格好で同じ場所にいて、こんなに違うのか、などと思った。
脚も腕と同じくらいの力加減で優しく手を当てる。
「ん
……」
「大丈夫?」
「い、痛くはないよ、ほんとに!
……ただちょっと
……、くすぐったい
……かも」
「そう」
そわそわとして落ち着かなそうなバジルに構わずに処置を進める。
格好だけ見ればまるで
洗足式のようだけど、きっとそんな神聖なものなんかではない。
「
……っ、ふ、」
ゆっくり塗り進める手が足先まで到達すると、ピクリと彼の脚が動き、短い息が漏れる。痛みを訴えられたら止めればいいか。と思いながら、きちんと塗れているか確認するために再び手を滑らせる。
「
……さ、サニーくん
……く、くすぐったい
…………」
顔がほんのり赤くなって、困ったように眉を寄せたバジルが小さな声でそう言いながら身じろぎをする。
そういえば。
「
……くすぐりって、好きな人にされないとくすぐったいって感じないんだって」
「んっ
……な
……に、それ」
ふるふると耐えるような仕草をしているバジルに、少しだけ悪戯心が芽生える。彼の脚をしっかり掴んだまま、今度は少し違う手つきで、いまは特に触れる必要のない足の裏にも指を滑らせた。
「
……っ!?」
「ねえ、僕のこと好き?」
「も、な
……っそれ、!
……わかって言って、ふっ、ふふふ、あは、くすぐったい、くすぐったいってば、ちょっとまって、サニーくん
……!あははストップ、ストップ!」
「好き?」
「〜〜〜っも、すき、好きだからっ!」
「これが?」
不届きな僕の手から逃れようと丸まった両の足先を離れ、今度は下側のかかとから土踏まずにかけてにつつ
……と指を這わせる。足の指を丸めたところでは隠れようのないそのくぼみを、こしょこしょとたて続けにいじめると、彼の体はより強い反応でビクビクと跳ねる。
「ひぁ!ちがっ
……、も
……!あっ、だめ、そこ、あぁ、あははは!んん!く
……くすぐったいよう!うう!だめ、だめ
……!ん
……っはっ、はあっ、はあ
……ッ」
「バジル、言って」
「あ"っ
………!!んぅ
……!す
……すき
……、さ、サニーくんが、すき!サニーくんが好きなの
……!」
その言葉を聞いてパッと手を離す。
「っ、ふ、
……はーっ、はーっ、はあ
………、はぁ
……うぅ
……」
バジルは完全に脱力した上半身をソファに沈めて、乱れた息を整えようと深呼吸している。額にしっとりとした汗まで滲んで、薄い胸板やお腹が上下に大きく動いている。帽子のおかげで唯一日焼けの難を逃れたはずの顔も、今はすっかり赤く染まっていた。これは、完全に僕のせい。
……やりすぎ?
「はぁ
………………も
…………、つかれた
…………」
彼の乱れた呼吸が落ち着いてくると、今度は疲労と睡魔に襲われているようだった。目がとろんとしている。
一日中砂浜で遊んで、行き帰りの運転もしていたバジルはあまり休めていないだろうから、当然と言えば当然だ。
……まあ、彼の最後の体力をここまで削った原因は、疑いようもなく僕なんだけど。
ふにゃふにゃになっている彼を寝室に行かせるために、上半身に触れて抱き起こそうとすると、ビクリと身を固くされる。さっきの今で、僕の手にはあまり信用がないらしい。
……確かにあんな反応をしてくれるなら、こっちもまた少しくらい
……、と思わないことはないけど。
でも、今日のところはバジルの体力が残っているうちにベッドに移動させてしまいたい。僕は流石に風呂にも入らなければいけないし。
「もうしない」
「
………………。」
何か言いたげなふくれ面をされ、ふいと顔を逸らされた。車で寝たので彼よりはマシとはいえ、僕の体力もあるうちになんとか引っ張って寝室に移動させた。
寝かせようかと思ったけど、彼は僕の指示を嫌がるように、ベッドに座るだけに留まった。
「バジル
……まだ怒ってる?」
「
…………サニーくんは」
「
……うん」
「サニーくんは
……ぼくのことすきって、いってくれないの」
そういえば、彼に言わせるだけ言わせっぱなしだったかもしれない。
しかし、怒っているのかと思えばなによりそれを気にしていた、なんて言われるとたまらない気持ちになる。
「んっ
……」
ちゅ、とバジルに軽いキスをする。
本当はもっともっと深くしてしまいたいのをどうにか堪えて離れた。
「
……僕もバジルが好き。
……愛してるよ」
流石に最後は照れが入ったが、バジルはやっとはにかみながら笑ってくれた。
「
……うん
…………、さにーくん、だいすき」
それからまだ僕の服の袖を掴んで、何か言いたげな彼の顔にどうしたの、と顔を寄せる。
「あの
……ね、ぼく、もうちょっと
……がんばっておきてる
……から。
……だから、はやくかえってきてね」
そう言うと、甘えるように頬をすり寄せてきた。
………僕も早いところ頭から水を被った方がいいかもしれない。どうにもならない熱を落ち着けなければ。
そう思いながら、足早にバスルームへと向かった。
おわり.
一年経過してバジル視点ができました。
・・・---・・・
Bitter side:月の溺れる海
・・・---・・・