かの有名な都市伝説【きさらぎ駅】その駅へ通ずる踊り場の横に穿たれた扉の奥──、化野兄妹が元の世界へ戻るまでの仮住まいとして暮らしている長い間使用されていなかった駅の宿舎。
その二段ベッドの下段部分。決して寝心地が良いとは言えないベッド縁に腰掛けた化野乙の膝上に何故か彼女より幼い姿の緒川菫子がちょこんと座り、化野兄妹と深い関わり合いを持つ切っ掛けになった【呪書】を再び手に持ち、どういうわけか乙に読み聞かせを強要されているというなんとも困った状況に陥っていた。
「(──何故こんな事に)」
「団地妻、これ読んで」
「そもそもこれは声に出して読んではいけないって化野くんが言っていた気がするが」
「大丈夫」
「大丈夫って……」
「はやくはやく」
上着がずり落ち剥き出しになった肩を掴む小さな手。後ろからのぞき込む子供らしい無邪気で愛らしい乙の横顔に菫子の中にある天秤が左右にグラつき、悩みに悩み唸りに唸ったあと彼女のリクエストに応える方に呆気なく傾いた。顰めていた眉根を解き、しょうがないなぁと軽く息を吐く。
もっとも読み聞かせをしてくれるまで絶対離さない意思を持っている可愛らしい枷は肩から当分外れそうもない。姿かたちが乙より幼い子供になっているため「これでは重たいだろう退くよ」という逃げ道は塞がれている。さり気なく菫子が乙の膝から下りようにも前に進んだ分だけ後ろに戻された。
「(これは諦めて読むしかないか。最悪読んだ者にだけ呪いが掛かるというのであれば、乙ちゃんに被害は及ばないはず)」
若々しい柔らかい乙の頬が同じく幼く丸みの帯びた菫子の頬に重なる。
「(代わりに私が一体どうなってしまうのか……、そこは考えないでおこう)」
猫の王の件を境に当たりが弱くなったを通り越して、懐いているようなそうじゃないような乙の態度は菫子にとって満更でもなかった。
何処か警戒心剝き出しにしていた猫が心を許し始め触らしてくれるようになった気分に近い。言い表し難い心のむず痒さに菫子の口元が波打つ。
「団地妻ァ…」
「ああ、ごめんごめん」
間近で見る大きな目でジトりと睨み唇を尖らせ拗ねた乙の表情は可愛いに尽きる。妹馬鹿の兄の気持ちが少なからず理解出来た、と菫子は胸中呟き赤紫色の万葉集の表紙を捲った。
「言っとくが全部読めるわけじゃないぞ」
「うん」
菫子の諭す言葉を半分程度しか聞いていない乙の大きな瞳が待ちきれないと云わんばかりに輝く様に菫子の口角が緩む。実に子供らしい微笑ましい姿。
閉じた太腿の隙間で古書を固定した際、穿いていたズボンが脱げ剥き出しの太腿が擦りあう感触から意図的に意識を逸らした菫子は1ページ目に書かれている歌を声に出して読み始めたのだった。
足早で階段を掛け下りた化野は額に薄っすら滲む汗を拭い、踊り場で少々弾んでしまった息を整えるため立ち止まる。
「(急遽菫子さんに乙を見てもらうことになったが大丈夫だろうか)」
訳あって乙を一人にさせぬよう無理を承知でバイト帰りに頼み込めば、菫子は即二つ返事で返してくれた事に化野蓮は心から感謝していた。自分ら兄妹の問題に半ば引きずり込むかたちで巻き込んでしまい、それが命に係わる事だとしても「巻き込んでくれ」と言い笑ってくれる菫子にどれだけ兄妹の心が救われた事か。
せめてものお詫びにコンビニで購入したカフェオレがビニール袋の中で少しばかり揺れる。三人分購入したゆえバランスが絶妙に取り難い。斜めになっている水面を元に戻し、手にしっくり馴染み出してしまっている休憩室のドアノブを握り扉を開けた。
滲んだ汗を拭った。呼吸も整えた。あとは普段通り糸目爽やかスマイルを浮かべなんやかんや恵体の菫子を茶化して礼を言う。それが化野にとっていつものお約束だった。だったのだ。
「ただいま乙。菫子さんも乙を見て下さってありが──」
扉を開け二段ベッドがある部屋に歩を進めた化野蓮の視界に飛び込んできた光景に彼の手からビニール袋の持ち手がするり抜け落ちた。幸い綺麗に着地を決めたカフェオレトリオは透明カップの蓋のお陰で中身が飛び散らずに済んだ。
「おかえりレン兄」
「思ったより早かったじゃないか化野くん」
心なしか機嫌がいい時に聞く乙の声、何より普段の時より高い菫子の声もとい子供姿になっている彼女の姿に化野の閉じていた目が開かれた。よろめく身体を足を踏ん張って耐え、小刻みに震える手で口を覆い胸中渦巻く感情を言の葉として舌先に乗せた。
「これは乙に抱っこしてもらっている菫子さんに嫉妬すればいいのか、菫子さんを抱っこしている乙に嫉妬していいのか。いや、むしろこれは大好きと大好きが一緒にいるので両方を愛でればいいのか?」
「真面目な顔をして言う台詞がそれか小僧」
菫子の突っ込みを受け流した化野が床に落としてしまったビニール袋を拾い上げ机に置き彼女らが座っている二段ベッドに歩み寄る。
すっかり糸目に戻った化野だったが、菫子が持っている本を見て右目だけ「おや?」と開けた。その反応に菫子は申し訳なさそうに目を逸らしてから幼さ宿る目で彼を見上げた。
「すまない。乙ちゃんにねだられて読んでしまった」
「それ、僕の机の引き出しの中にあったものですよね」
流石に何処から持って来たのか分からない菫子が無言でいれば、探し持って来た張本人である乙が頷き答えた。
大人の時よりも遥かに表情豊かな菫子の短太眉が頼りなく下がり悲しみに暮れた色を瞳に浮かべる。
「また新しい呪いに掛かってしまうだろうか」
「なりませんよ」
「・・・は?」
気分は断頭台前に突き出された囚人だったというのに、菫子の手に嵌められた手枷を外しただけではなく処刑人の恰好をした化野が小さくなった菫子を抱きかかえ上って来た階段を下りる映像が高速で彼女の脳裏を過っていった。
状況が飲み込めず慌てふためく菫子に化野は重心を右足に傾け腰に手を添え、そんな慌てふためいている菫子を膝上に乗せ抱えている乙は彼女の頭頂部に顎をのっすと乗せた。
「それ、あなたを変若人にした【呪書】ではないです」
「え?」
「僕が回収したのはくすんだ浅葱色の表紙。対してそれは赤紫色、至って無害なものです」
「え? え?」
改めて表紙を見た菫子の視界にはっきり映り込む赤紫色。鮮明にとは言い難いものの記憶に残る逆万引きの本こと【呪書】の表紙の色はくすんだ浅葱色だった気がする。錆びついた秒針の如き動きで菫子が振り返り、自分を膝上に乗せている乙に目で問い掛ければ「はじめに大丈夫って言ったじゃん」という目で見られてしまった。
瞬間、菫子の中で湧きあがる羞恥心。穴があったら入りたい気持ちに比例して本を抱えた小さな身体をさらに縮める姿に化野がとても楽しそうに笑みを浮かべ──、徐に乙の隣に腰を下ろした。
ぎしり鳴るベッドのスプリング。顔から火が出てしまいそうな菫子は彼が隣に座った事やおろかベッドが上下に揺れた動き、スプリングが鳴る音も届いていない。
「乙」
そっと掌を上に向け差し出す化野に乙が頷き、自身の膝上で膝を抱え丸まっている菫子を「ん」と彼に引き渡した。
乙でも余裕で持てる菫子の軽さ。それを受け取った化野は自分の膝上に乗せ緩やかに彼女を囲うように腕を置いた。流石に移動された振動と気配に菫子が顔を上げると、あまり見る機会がない糸目の化野が自分を見下ろしている顔が視界に映り込んだ。
「熟女感皆無ですが、僕の膝の上に乗せられる菫子さんは新鮮でいいですね」
薄っすら細め開けられた化野の瞳に宿る好意の色。いやらしさも何も無い、かといって馬鹿にしているわけでもない純粋に親愛の情または慈しみが込められた視線に菫子はむず痒さを覚えた。
散々好きだの一途だの宣う口から吐き出されるにしてはいつもとてんで違う雰囲気。それは庇護する相手にか、はたまた他のものなのか定かではない。少なくとも飄々と軽い感じではない、しっとり湿り気を帯びた頭蓋奥に響く低い声色。
「も、もう君が来たのだから私は自宅に帰らしてもらう!」
動揺した気持ちが声と身体に伝染うつり菫子の頬を違う意味で赤らめさせる。
だが、緩い腕の檻を開けろと駄々を捏ねる菫子をからかうように化野のは檻を開けるどころか狭めた。
触れ合っているのは精々膝上に接触している面だけ。化野の腕は一切菫子の身体に触れていない、だのに菫子は彼に抱き締められているような錯覚に陥って仕方なかった。触れていない肌が熱を持ち、かち合っていた目を逸らしても化野のあの特徴的な目が終始注がれている感覚が身を包み込む。
「お詫びにカフェオレを買ってきたので、それを飲んでからでも遅くないですよ菫子さん」
「いいっ! 君たちで飲んでくれ!」
「団地妻、今日泊ってく?」
「乙ちゃんまでっ」
なんなんだもーっ。子供の姿で叫ぶ菫子の頭を撫でる乙は実に楽しげで、化野は耐え切れずフッと吹き出したのだった。
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