はっさく(とうらぶのすがた)
2024-05-03 04:01:18
2854文字
Public 南水
 

動いてしまう感情と認めたくない感情

一個前の南水の水くん視点


 水心子正秀が、南海太郎朝尊と共に出陣した回数はそう多くない。
 水心子が本丸にやってきたときにはすでに経験を積みきっていた朝尊は、食事時や当番、非番の折に書庫ですれ違う程度にとどまっていた。自ずと会話を重ねる機会は失われ続け、初めて一緒に出陣したときに彼の放った言葉が、ずっと脳裏に焼き付いたように離れなかった。
 ――こうなるとは……
 若い姿だ、と言外に滲ませた彼の姿は確かに、水心子よりも年長に見え、少しのことでは揺らがないであろう落ち着きさえ感じた。刀工同士の関係性を見れば水心子のほうが年長に見える姿でもおかしくないというのに、だ。
 水心子に対する婉曲なのに率直すぎる物言い、丸い眼鏡の奥の鋭ささえ感じる表情の読めない目、頭一つ分も高い身長、着込んでいてすらわかる鍛えられた体――上げきれないほどの彼を形作る特徴のひとつひとつが、水心子にとっては近づきたくない、と思える原因になっていた。身長が高くないことも、体格が青少年のようであることも、新々刀の祖たらんと気を張っていてもなお不意を突かれると出てしまう素も、何もかもが彼と正反対すぎて。
 本丸にやってきて数ヶ月が経った頃、水心子もとうとう戦場に出る機会がなくなり、食事当番や込み入った場所の掃除などが主な仕事になってきた時期だ。朝尊と初めて夕食当番が重なったのは。
 食事当番はとにかく細かい作業を事前にどれだけ片付けておけるかで調理中の快適さが左右される。特にほかの予定がない者が早めに厨で準備を進めておき、他の用事から戻った者が合流する頃にはスムーズに調理ができるくらいに厨が整っている状態にすることがこの本丸では慣習となっていた。この日が非番であった水心子も例に漏れず、おやつが終わってすぐに当番用のエプロンを手に取り腰の紐を後ろ手に結びながら厨に足を踏み入れた。調味料を量る、道具を出しておく、生のまま出すサラダなどを扱うものは事前に大鍋に湯を沸かしくぐらせておく。やることはいくらでもあった。
 と、やっと腰の紐がきちんと結べ、さてと顔を上げると、なんと冷蔵庫の前には先客がいた。
 南海太郎朝尊である。しかもなぜか眼鏡を外して。
……!」
 見慣れない姿に、なぜか心臓が跳ねた。それは表情の読めない、鋭ささえ感じられる顔を、和らげる眼鏡がなかったかもしれない。睨まれるよりよほど背筋が冷えるような、すべてを見透かして吟味しているような、次の瞬間にはねじ伏せられてしまうような、一種の迫力があった。
「は、早いな。もう来ていたのか」
 早い話が彼の眼鏡のない容貌に怖気づいたわけだが、気づかれるわけにはいかない。水心子はなんとか頭の片隅から言葉をひねり出した。
「お互いに考えることは同じだったようだね。しかしその分仕事が出来ているかと言えば……。冷蔵庫と眼鏡は相性が悪い」
 言って、彼は手元の眼鏡をすっと視線の高さまで上げた。みるみるうっすらと白く曇っていく。
「あ、ああ眼鏡が……。その、代わったほうがいいだろうか」
 あまりに近寄りがたい雰囲気の彼が曇る眼鏡に困っているのがなんだか意外で、少しだけ肩の力が抜けたのを感じた。
「あと数本だからこのまま僕が請け負うよ。君は他の調理器具の準備をしてくれるかい」
「わかった」
 全く捗らなかったと言いたげだったわりに、何は量った・どれはまだだと口頭で説明をするよりも、最後までやってしまったほうが早いというところまで作業は進んでいるようだ。
 ならばと水心子は献立から必要そうな調理器具を頭の中で整理しながら踏み台を持ってきて開きの下に置き、煮沸消毒が必要そうなものは鍋の近くへ置いておこうなどと計画しながら手を洗った。水気を拭うと、ふう、と腹に力を入れてひとつ息をついた。高いのだ。開きの場所が。これでも大太刀や槍や一部の太刀などはよく額をぶつけているので、高すぎる場所にあるわけではなく、人が暮らす建物の基準通りの場所にあるのだろう。そう、自分が自認する性質よりも少し幼く顕現しただけで。
 水心子は踏み台の最上段――といっても二段である――へ登ると、一抱え以上もある大きなザルやボウルをしまってある頭上の開きの戸に手をかけた。竹製のザルやステンレス製のボウルはこれでも厨の中では軽い方で、万が一しまい方が悪く滑り落ちても、下にいた者・落ちた物双方に被害が少ないのでここへ入れているのだと、初めて調理当番になった折に燭台切から軽く説明を受けたのをふと思い出す。確かにガラス製のボウルや包丁、鉄製の大鍋などを目線より高いところに置くのは危険すぎるだろう。その時は深く考えずに人の身も物も大切にする良い采配だと感じていた。ひょいと手を伸ばしてひらきを開け、手を伸ばしてザルを取って見せていた燭台切ほどの身長や体格があれば、の話だということに、その時は気付けなかったのだ。その後何度か食事当番で早めに厨に入るタイミングはあったが、いつもかならず高身長の誰かがその作業を終わらせていたし、短刀などははじめから当番かどうかにかかわらず他の誰かを呼んで取り出してもらっていた。身長が同じくらいの加州清光などは同じように踏み台に乗って伸び上がって取り出していたし、そういうものだ、と受け入れるのにあまり時間はかからなかったように思う。要はあまりこの作業そのものに対して水心子は疑問を持たずに事にあたっていたし、馴染んだ作業であったのだ。
 しかし、そんなことを考えていたからだろうか。水心子は身に迫る危険に気が付かなかったのだ。
 ふと近くに感じる人の気配、肩先にある温度と振り向いた視線の先には案外落ち着いた色をしている切れ長の目とゆるく巻いた髪――
「これが、落ちなくてよかった」
 その言葉とともに視線がそれたことで、止まっていた時間が動き出したように、水心子には思えた。
 間近で見る灰色がかった朝尊の瞳が、一部眼鏡のフレームに切り取られてよく見えなかったから、ぼんやりと眼鏡を邪魔だと思っていたのだ。もう少し長く続いていたら、手を伸ばして眼鏡を取り払っていただろうか。自分が何をしようとしていたか自覚した瞬間、まさに顔から火が出るように、カッと熱くなった。あわてて襟元を引き上げる。染まった顔のすべてが隠れはしないけれど。
「あ、ああ、よかった……。その、ありがとう……
 なんとかそれだけ絞り出す。
「どういたしまして」
 彼の方はすっかりいつもどおりだ。あまりに癪だ。ぼんやり考え事をしていて上に乗ったザルに気がつけなかったのも、それを助けられたのも、助けた彼が普段通りなのも、視線が吸い込まれるほど美しい顔をその眼鏡の奥に隠していることも、そんなことに動揺させられて対外的な振る舞いを崩されることも。
 彼の手がまるで大切なものを扱うかのようにそっと触れていた肩先は、顔よりも先に冷えていた。
 まるでもっと触れていてほしいみたいで、それもまた癪だった。