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あさかわ
2024-05-02 23:30:03
8633文字
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粉砕鬼水シリーズ
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君よ知るや(粉砕鬼水1)
付き合ってる鬼水。生き馬の目を抜くサラリーマンが諸々粉砕していく話。
ことの発端はこうである。
東山の狐の棟梁と北山の狢の職人が喧嘩をした。今度葺き替える天狗の社のことで言い争いになったのだ。棟梁はお前の細工は艶がないのだと言って、職人は婀娜っぽい屋根が気色悪いと返した。お互い腕は一級品。要は好みの話である。この二人は昔から好みが合わないことで有名で喧嘩も山程しているのだ。しかし今回はお互いに折り合いをつけることが出来ずに、天狗の社の葺き替えが宙に浮いた。困った天狗は昔なじみの目玉の親父に声をかけ、親父は倅の鬼太郎を伴って、棟梁と職人の説得に向かった。
これで自体は解決するかと思ったが、そうは成らぬ。目玉の親父の喧嘩両成敗に狐と狢が歯向かった。山程喧嘩して全て両成敗にされていたゆえに、一度くらい相手に謝らせてみろ! と駄々をこねたのだ。阿呆の所業である。大人ならば弁えろと諭されると余計に駄々をこねる。そして狐の棟梁の駄々が鬼太郎まで及ぶこととなった。
「お世話になります、水木と申します」
白茶の羽織と同じ色の単衣を着た人間が頭を下げる。隣に立つ鬼太郎は人間をチラチラ見て何か言いたげな顔をしている。
棟梁が狢との喧嘩やめてもよいと出した条件は一つ。目玉の親父の倅が最近伴侶を得たと聞いた。相手は人間、しかも元は養親と聞けば狐も野次馬もとい祝いたくなるもの。一日ほど泊りでその人間を寄越してくれないか、と言った。
当然鬼太郎は渋った。狐の棟梁は山に一門を抱えて暮らしており、自分の伴侶を狐の山に放り込むことになる。一方、目玉の親父の方は倅に伴侶とよく相談するように言っていた。
「遠路はるばるご苦労だった。人間殿。人にこの山を登るのは辛かろう」
相談の結果、人間は棟梁の山に遊びにくることになった。左の目と耳に傷がある人間は、自分より上背のある棟梁を見上げて朗らかに笑っている。
「さすがは棟梁様が治める山ですね。鬼太郎に伴われずには、裾野にも近づけません」
「水木
……
さん」
「ありがとうな、鬼太郎。ほら、お前もご挨拶しなさい」
子供のように頭を撫でられて、鬼太郎は黙った。なるほど人間の伴侶には頭が上がらないとの噂は本当だったようだ。
「
……
水木をよろしくお願いします」
渋々といった様子で頭を下げる鬼太郎のつむじを眺めて、棟梁の気分は上向いてくる。
「何かあればすぐに迎えにきますので」
「案ずることはない。人間殿はこちらで丁重にもてなす」
そりゃもう明日までたっぷり人間をからかって気晴らしをするつもりなのだ。狐は人を化かすのが好きなものだし、それが知り合いの倅の伴侶となれば野次馬のしがいもある。人間社会でいう、野次馬根性が激しい近所の迷惑親父なのだが棟梁は気がついていない。
「鬼太郎、また明日な」
人間が鬼太郎の背中を押す。鬼太郎は何度も振り返ったが、人間に手を振られてゆっくりと帰って行った。心なしか普段より下駄の音が気弱に聞こえる。
「さて、まずは中を案内しよう」
「よろしくお願いします」
人間は人当たりの良い笑みを浮かべている。さて、このお愛想がどれほど持つものかと考えながら棟梁は人間を屋敷に上げた。
上座には棟梁とその細君。下座の人間は招かれた座敷に座ると、懐から扇子を出して膝前に置いた。
「水木と申します。この度はお招きいただいてありがとうございます」
するっと手を滑らせて流れるように礼をする。瞬間、ぴりっと空気が震えた。扇の向こうとこちらに僅かな断絶がある。棟梁は顔をしかめ、細君は瞬きをして首を傾げた。
「その扇、もしや鬼太郎さんが持たせたのかしら」
細君が扇子を指さすと人間が頷いた。
「はい、僕が妖怪の世界に疎いものですから、気を遣って持たせてくれたのです。失礼のないように挨拶をする時はこれを使うように
……
と。僕が言うのもおかしな話ですが、優しい伴侶なのです」
「まあ、それは
……
ええ、そうですね。鬼太郎さんは可愛らしい人ね」
鬼太郎が持たせたというそれは利休百首の扇子に良く似ている。五寸ほどの扇子に銀糸の組み紐が付いていて、それを自分と相手の間に挟むことでわずかな守りが生まれる。
この人間は自分の伴侶なので無体を強いるなと、無礼にならない程度に示している。何も知らぬ人間に持たせるとは可愛らしい悋気ではないかと、細君は頬に手を当ててうれしそうだ。
一方、棟梁は気に食わない。さっそくからかって遊んでやろうと思ったのに、惚気られて出端をくじかれた。
「水木さん、うちの人の我儘に付き合わせてごめんなさいね。つまらない意地を張って恥ずかしいわ」
細君はすっかり人間に夢中になってしまった。棟梁と連れ添って二百年もたつと、新婚の初々しさが懐かしくてたまらないのだ。楽し気な細君に棟梁はむっつり口を閉ざす。ここで文句を言うと後が怖い。棟梁はかかあ天下など決して許さないと宣言しているが、細君に院政を敷かれているともっぱらの評判ではある。
人間はニコニコ笑って細君と話している。
「この通り、僕はただの人間です。棟梁一門の建築は見事と聞いてはおりましたが、目にする機会を得られて良かった。この山には一人では近づけませんので」
「ここまでは鬼太郎さんが?」
「負ぶって連れてきてくれました。雪駄を落とすといけないと懐にしまってくれて」
「まあ、健気だこと」
細君は乙女のように頬を赤らめて人間の話に聞き入っている。
一方、置いてきぼりを食らった棟梁は冷静だった。と言うか、蚊帳の外に置かれたので冷静にならざるをえなかった。
この人間、食わせ者だ。
「こちらに見事な屏風絵があると聞きました。奥方様の故郷のものだとか」
「ええ、私は向こう山の方から嫁いだのです。あちらには梅林がありまして、水がぬるむころに蕾が綻び、斜面から見下ろすと紅梅の絨毯のようになるのですよ」
「素晴らしい景色なのでしょうね。一度見てみたいものです」
「鬼太郎さんと一緒なら山に登れるでしょう。次の春にぜひ行ってみてください」
人間は細君が喜びそうな話題をわざと提供しているのだ。座敷で挨拶した瞬間に棟梁と細君の権力関係を見抜き、どちらに取り入るべきは判断した。細君に取り入れば、棟梁など襲るるに足らずと言ったところか。なんと無礼な奴と罵ってやりたいが、細君の会話に割って入ると後が怖い。戦略的撤退を強いられる棟梁を人間がちらりと見た。
細君からは良く見えぬ左の口角だけ、にっと上がった気がする。
「お前様、」
この野郎、と棟梁が膝を立てるより先に細君の声が通る。
「屋敷はうちの人がしょっちゅう改築しているの。面白い場所が沢山あるから、案内しましょうね。そういう訳だから、水木さんは私が面倒を見ますので」
「え」
細君の取り計らいは、ほぼ絶対である。人間は何だか申し訳なさそうな顔をしている。棟梁には分かっていた。この男の申し訳なさは表情筋だけで内心は違う。
「ありがとうございます。ですが、よろしいのですか」
「気にしないでくださいな。この人は忙しいけれど、私は余裕がありますから。昼餉は私の方で取り計らいますから、心配しないでくださいね」
「えっ」
一門の男たちと新婚をつっつく催しが頓挫してしまった。おそらく一門の女たちが新婚で盛り上がる催しが開かれるのだろう。細君はさっと立ち上がると人間を手招きする。
「また後ほど」
棟梁に軽く頭を下げて人間が細君の後を追う。ぽつんと残された棟梁と、人間が向かった廊下の方から色めき立つ声が聞こえる。
「
……
っ!」
一人置いてきぼりを食らった棟梁は脇息をひっぱたいた。
人間。あの人間。あの、水木という
……
いや、ただの人間だ。あれはどうしようもない。棟梁は夕餉を終え、くちくなった腹とやせ細った自尊心を抱えていた。
夜の宴席で最初に棟梁に酌をしに来た以外、人間は女たちに囲まれていた。昼間のうちに全員味方につけていたのだろう。きゃらきゃら盛り上がる女たちを男衆は呆然と見ていた。手出しのしようがないのである。棟梁はほとんど無言で食事をして、気まずげな男たちと酒を飲んでいた。時折細君が思い出したように棟梁の元に戻るのだが、数分するとまたいなくなる。人間も時折話を振ってくるのだが、女たちが棟梁をしっしと追い払う。もういっそ放っておいてくれた方が良い気がした。
棟梁は部屋の明かりがついていることを確認して、襖の向こうに声をかえた。
「人間殿、おられるか」
応えを聞かずに襖を開くと、座っていた人間が顔を上げた。
「これは棟梁様、このような格好で失礼します」
寝間着代わりの浴衣に羽織だけの格好で寛いでいたようだ。人間がすっと足を整えて正座する。裾を整える動作は手慣れていて、背筋をぴんと張って美しい。この人間、舌鋒鋭いだけでなく所作に隙がない。
「構わぬ。遅い時間に尋ねたのはこちらなのだ。ほれ、昼間はうちの家内が連れまわしてしまっただろう」
「奥方様に屋敷の隅々まで案内してもらいました」
棟梁は人間の向かいにあぐらをかいて座った。
「女たちに構われて疲れただろう。どうだ、箸休めに一つ艶話でも聞かせてくれないか」
「艶話ですか? はて、」
「鬼太郎殿との夜の話にきまっておろう。宴席で聞くわけにもいくまいよ。だからこうして訪ねてきた訳だ」
夜である。酒も入った男が膝を付き合わせてすることなど一つしかない。つまり、下世話な話でからかってやろうという魂胆だ。もう手段を選んでいる暇はないし、やられっぱなしで帰す訳にもいかにぬ。にこにこ笑いながら棟梁は人間の膝を扇子で叩いた。昼間の仕返しである。
「儂は妻と連れ添って随分経つ。そろそろ新婚の初々しい話の一つでも聞きたい。鬼太郎殿は連れ合いのことをあまり話してくれなくてな、気になるというもの」
人間は頬を染めるでも眉をひそめるでもなく、ことりと首を傾げた。まるで何も分かっていない振りをして、棟梁を見上げる。
人間がふっと口角を上げた。紐をほどいて両肩を下げて器用に羽織を落とす。少し乱れた襟元を直して、落とした羽織を拾う。
「棟梁様」
人間が拳一つ分こちらににじり寄り羽織を差し出した。ふわりと漂う匂いに棟梁は覚えがあった。
「
……
これは」
「昼に奥方様に香を焚いて頂いたのです。奥方様と棟梁様の思い出の香と聞きました。初めて共に出かけた梅の山の匂いだとか。二百年連れ添えばそれはもうたくさんの思い出があるのでしょう」
修行中の身であった棟梁が妻となる人と決死の覚悟で逢引きに誘った。思い出の場所の香りだ。あの日以来、細君は梅香を時折焚いて身にまとっている。
「僕では連れ合いとの時間が短くて、とてもとても
……
棟梁様にお話しできるようなことがございません。僕ではなく、棟梁と奥方様の馴れ初めをお聞かせ願えませんか。昼に奥方様に尋ねたらはぐらかされてしまって」
気になるじゃありませんか、と人間が笑う。軽々とかわした人間が細君の思い出の香りを差し出して笑っている。この匂いの中、人間から艶話を引きずり出すのは難しいだろう。そちらは如何と尋ねれば、こちらも話さざるをえない。
「夜も更けてきたし、疲れただろう」
「はい」
「では、失礼する」
「おやすみなさいませ」
棟梁はいそいそと立ち上がって襖を締めた。
廊下を歩き曲がり角まできた棟梁は子供のように、むきゃっと唇を尖らせた。
負けた。負けた、人間風情に負けた! 地団駄を踏むのをこらえて出てきた部屋の方を振り返る。人間がそっと襖を開けてこちらを見ていた。角を曲がった棟梁の姿など見えるはずがない。しかし月影が人間の方に伸びていて、棟梁の影が丸見えだった。
――
チョロいな。
棟梁は人間より聞こえの良い耳を持っていたので、人間の囁くような小馬鹿にした声が聞こえてしまった。人間は棟梁の影をちらりと見て、わざとらしい大あくびをして部屋に引っ込んだ。
棟梁は自室に帰り、布団の上で存分に地団駄を踏んだ。
棟梁は朝餉を食べた後、女たちと布を見比べる人間を遠くから観察した。仕返しをしようにも人間に隙がないのだ。これ以上突いても傷を負うのはこちらだろう。ならば狙いを変えるまで。そろそろ鬼太郎が人間を迎えに来るはずだ。そこで、鬼太郎を突きまわして人間に恥をかかせてやるのだ。
「迎えに参りました」
カラコロ下駄を鳴らして棟梁の館に鬼太郎が入ってくる。一門は庭にずらりと並び、棟梁と細君は縁側に立って鬼太郎を迎えた。
「おお、よう参った鬼太郎殿」
人間は鬼太郎に向かって小さく手を振る。そうすると鬼太郎がふっと口元を緩める。
「いやはや、この人間中々癖のある男であった」
棟梁はちらりと人間をみやる。人間はすまし顔をして伴侶の隣に並んだ。
「愛想があるように見えて、ちっとばかし突くとわさびのように辛くていかん。鬼太郎殿は随分ゲテモノ食いなのだな。これを齧っても甘くもないだろうに」
「はあ」
棟梁の言葉に鬼太郎が気の抜けた返事を返す。そこは気色ばむなり、嫌がるなり反応すべきところだろう。鬼太郎は顎の下に指を当てて答える。
「僕は水木しか知りません」
とんでもない爆弾が放られた。棟梁がぎょっとすると人間が嬉しそうに
……
そう、地べたを這う虫でも眺めるように微笑んでいる。まずいと止める間もなく、鬼太郎が次の言葉を放つ。
「辛いと言われても
……
酸いも甘いも、すべてこの人の味です。ですから、ゲテモノ食いと言われても自覚がないのです」
もとより他を知るつもりはありませんので、と続けたので大変な騒ぎとなった。
女たちは恋の話に飢えていた。同族の恋の話は聞くのだが、知らぬ種族の熱烈な話となればそれはもう楽しい。新婚の可愛らしい思い出話から、殺し文句まで一通り浴びれば身も心も満たされるのだろう。
色めき立った奥方たちが息を潜めながらも、抑えきれぬ悲鳴を漏らした。ここで女たちに苦言を呈せば、三日は口を聞いてくれなくなるので男たちは黙った。連れ合って百年ほどの妻に尻を叩かれた男がキャン、と狐なのに犬のような声を出した。
棟梁の細君は、世慣れた笑みを浮かべながらも、興奮のあまり亭主の肩を仇のように殴りつけている。ここで痛いなどと声を挙げれば妻の機嫌を損ねることは間違いない。棟梁は口を引き結んで鷹揚に頷く振りをした。
「そ、そうか」
「棟梁様には大層良くして頂きました。ありがとうございます」
人間はニコニコ愛想よくお礼を口にする。その目はすっかり醒めていて棟梁が踏んだ失態を面白がっている。
口下手な鬼太郎を突けばどうなるのか知っていたのだ。一から十までやり込められた棟梁はもうこの人間を敷地の外に放ってやりたくて堪らない。
「奥方様、機会があればまたお会いできるでしょうか」
人間が少し寂しそうな声を出すと細君はぐっと身を乗り出す。
「気兼ねすることはないのですよ。機会などいくらでも作れるのですから。ね、お前様」
「
……
え」
「ねえ、水木さん。いつでも遊びにおいでなさい」
「ありがとうございます。奥方様に教わった梅の山に行ってみようと思います」
「それがいいわ。連れ合いと一緒に出掛ければ楽しい所ですから」
そう言って細君は棟梁の腕に体を寄せた。棟梁がちらりと見た細君の顔は、恋におちた日のように伏せられた目元に美しい色が滲んでいる。
「お前様、私たちも久しぶりに参りましょう」
「そうだな
……
」
「棟梁。隣山の貉の件ですが」
見つめ合う棟梁夫妻に構わず鬼太郎が話しかける。とんでもない朴念仁だなと思うのだが、この男もちゃっかり隣の伴侶と手を繋いでいた。
「立場というものがある。こちらから謝罪はしない。しかし、今後は売り言葉を買わないと約束しよう。それで構わないな」
鬼太郎が答える前に人間が言葉を返す。
「十分です。温情を頂きありがとうございます」
「新婚を引き離すような野暮をして悪かったな。積もる話もあるだろう。うちの若いのに森の近くまで送らせようじゃないか」
だから、とっとと帰れと笑みを浮かべる振りをして牙をちらつかせる。鬼太郎は気が付いていないが、人間の方は意図を察してゆっくりと瞬きをしてきた。最後まで癇に障る男である。
「水木、帰りましょうか」
鬼太郎が人間の手を引く。控えていた二匹の狐が二人の後ろに付いた。
「あ、忘れるところでした」
人間。棟梁が眉を寄せる。人間、そこで振り返るのか。なぜ振り返る。もう帰ってくれないか。
「奥方様、明後日ですが昼前には参ります」
「
……
なあ、お前あの人間と何か約束したのか」
「ええ、明後日に森に生えている筍を貰う約束をしましたよ。お煮しめにしてあげようと思って。うちの味付けを知りたいと健気じゃありませんか」
追い出したばかりの人間が明後日に戻ってくる。あの人間、また会いたいなどとしおらしく言っておいて再訪の約束を取り付けていたのだ。細君も泊まり来ないものは数に入らぬのだろう。下手をすれば週に一度は上がり込むのではないか。棟梁は痛くなってきた胃をさすった。
人間は、水木と言う男は、口が達者で無難な態度に非礼を滲ませ、その上他人の泣き所を蹴り上げていく。最低な人間だ。だが、すべての振る舞いが伴侶のためと隠しもしない。
「今後とも良くしてください。
……
伴侶ともども、ね」
人間の言葉に黄色い悲鳴が漏れる。キャン、キャンと尻を叩かれたどこぞの夫の声が聞こえる。
「世話をかけるのぉ」
鬼太郎の頭から顔を出した目玉の親父の目が死んでいる。目玉一つきりの姿なので全身から虚ろが伝わってくる。その姿だけで気苦労が知れるというもの。棟梁は思わず身を乗り出した。
「親父殿、アテさえ持ってきてくれるのなら、酒は出そう」
「かたじけない」
人間と鬼太郎は親父の苦労など知らぬように、仲良く手を繋いでいる。棟梁は半ばやけになって妻の手を握ったら、細君が頭を肩に乗せてくる。ふんわり香る梅の匂いに、恋のはじめを思い出す。
人間は鬼太郎と一緒に帰っていった。アイツのせいでとんだ迷惑を被ったが、悪いことばかりでもなかった。この心情の匙加減すら人間の謀というのなら、こちらは匙を投げるまで。
「大人がつまらぬ意地など張るものでないな
……
」
「あら、ようやく懲りましたか。それでは、今夜は情けなくて可愛い良い人を労わってあげましょうね」
「よろしく頼む。お前
……
」
からから笑う細君の肩に額を擦り付ける。どっと疲れた棟梁の耳に、妻に尻を撫でられるどこかの夫のすすり泣きが聞こえた。
「あー
……
疲れた
……
」
自分の家に帰って早々、水木はだらしなく足を投げ出した。鬼太郎が羽織を受け取って掛けに行くと、目玉の親父がちゃぶ台に飛び移った。
「お疲れ様でした。水木のおかげで、ようやく喧嘩が収まりそうです」
戻ってきた鬼太郎が小さく微笑むと、水木が目を細める。
「お前の役に立てて嬉しいよ。妖怪がらみでお願いなんて滅多にないからな。見ただろ、棟梁のげっそりした顔。一日かけてたっぷり虐めてやったからな。これに懲りたらつまらぬ意地も張らぬだろう」
「手心を加えろと散々言ったのに聞きもせんで
……
酷い奴じゃ」
ちゃぶ台の上で目玉があぐらをかく。
水木はもとより棟梁の招きに乗り気だった。人をからかって遊ぼうとする狐を狩りに行ってやろう。命までは取れないし、いらん。干物にする程度だ。意気込む水木を目玉が散々宥めたが効果はなかった。鬼太郎は暴力ではないのだからと最初から止めなかった。
「生き馬の目を抜く営業マンを潰せると思ったのが運の尽きだな」
「そういえば、水木が生き馬の目を抜くと聞いて以来、うまつきが近寄らなくなりましたね」
「物の例えだってのに大げさな奴だ」
本物の馬の目を抜くなんざ面倒だ、と水木が言った。鬼太郎は水木の背中の方に立つと、両手で優しく肩を揉む。
「泊まりの仕事は疲れたでしょう。何か欲しい物はありませんか」
「さすがに夕飯を作る気が起きないから、商店街で適当に見繕って来てくれ。米だけ炊こう」
「はい」
「あと、明後日ゲゲゲの森で筍を採ったら棟梁の奥方に届けないといかん。送り迎えを頼めるか」
「勿論です」
鬼太郎はせっせと水木の肩を揉んでいる。倅の嬉しそうな顔を見ながら目玉が声を掛けた。
「お主ら、もうちっと手心を加えると言うことをだな」
「やなこった」
「父さん、話し合いで解決したのだから良いのではありませんか?」
「鬼太郎、世の中には言葉や仕草を使って相手を虐げるような輩が
……
」
「水木は話してきただけです。それに棟梁と奥方は仲睦まじい様子でしたよ」
何がいけないのでしょう、と小首を傾げる鬼太郎。水木は素知らぬ様子で黙っている。
「鬼太郎
……
茶椀風呂の用意をしてくれんかの」
「はい、父さん。水木、少し待っててください」
目玉は説得を早々に諦めた。あぐらをかいた水木が頬杖を付いて、立ち上がる鬼太郎を眺めている。その目線の愛おしげなこと甚だしく、目玉は風呂に入る前からのぼせそうになった。
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