なろ
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アストランチア

付き合ってないうっすら🍱→🔥。商店街の七夕まつりの後片付けをだらだらやったり、願い事を考えて短冊を書いたりする話。

昨日の晩は、曇りのち土砂降り。
七夕伝説のふたりは今年は出会えなかったのだろうな、と靴紐を結びながらぼんやり思う。名前は忘れてしまったけど、なんとか星みたいなやつだった気がする。宇宙の天気なんてヤスには知ったことではなかったし、ロマンチックな伝承もうろ覚えで頭を過ぎていく程度には蚊帳の外の出来事だ。流れ星より儚い記憶が、銀河を望むには明るすぎる街に落ちていく。
「じゃあ行ってくる」
小さな鞄だけを肩に掛けて、裏口から家を出る。夕暮れが商店街を赤く照らして、舗装された道はわずかに熱を残している。
遊びに行くわけでも、バンドの練習予定でもない。立派な『仕事』のための、外出だ。
「おじさん、集会場で待っててくれるって言うから。お願いね」
背後から見送る母親の声に、ヤスは軽く手を振って答えた。

ヤスの本日の仕事は、ここ1週間商店街で行われていたイベントの片付けだ。イベントといえばウキウキワクワクな感じの聞こえではあったが、実際のところはメインストリートに設置した大きな竹に短冊を飾らせ、菓子の詰め合わせを引き換えに渡すだけだ。要は、ガキども向けのささやかな催しである。大きな街ではあちこちに飾りをぶら下げたり、提灯でアーケードを彩ったりと華やかな祭りが展開されるらしいが、ヤスの感覚からすればこれがこの商店街にはちょうど良い規模であった。第一ヤスもガキンチョのころは、このイベントにお世話になったわけである。
今度は夏祭りの準備が始まるからとは勝手な話だが、七夕が終わった今大きな竹はさっさと処分しなければいけない。笹だけに。いやそうではなく、回収業者が来るのが今晩であるからだった。毎年同じのを使っちゃダメなのかよ、とヤスは思うものだが、どうやらなにかしらのプライドが商店街にはあるらしい。八百屋や惣菜屋の男店主が朝のうちにひとまとめにしてしまうのが毎年の恒例ではあったが、しかし今朝は生憎の大雨で、それどころではなかった。
そういうわけで雨の止んだ放課後、各店が常連客捌きに忙しい時間帯。割と自由のきく男手ーー放課後元気有り余り高校生のヤスが召集されたのである。

「ちわ、す。ノコギリ借りにきました」
「待ってたよヤスくん、忙しいのにすまんねえ」
集会場の古いガラス扉が音を立てる。老人がパイプ椅子に腰掛けてヤスを待っていた。商店街の会長だった。
「それ、重くないかい?やっぱり大人で手すきを探そうか」
「ギターより全然軽い」
「そう。解体したら、竹はそのまま道の隅っこに置いておいてくれればいいからね、あとで回収してもらうから」
ビニールカバーの付いたノコギリを持ち上げ、片手で軽く回して見せる。随分と相手はヤスをまだまだ子供に見ているようで、下手したら十年前に出会った幼稚園児をいまだに相手にしているつもりかもしれなかった。
「短冊とか、くっついてる折り紙みたいなやつはどうすればいい?」
「雨で濡れてるだろうね。普通の装飾は来年作れるから捨てちゃっていいけど、短冊はどうしようかなあ」
「そういや、短冊は飾ってるんだったな」
集会場の中に、綺麗に整列された短冊が模造紙に貼り付けられて掲示されていたことを思い出す。無邪気な子どもが、一生懸命書いた夢。悪い記憶ではないが、むかしむかしの自分が何を書いていたかは正直思い出したくない。
「綺麗に乾けば今年もできるんだけどね。今日は湿度も高いし、難しいか」
記憶に残る壁に目をやると、お子様短冊の一覧ではなくクリスマス会の写真が貼られていた。地域密着型会長が、わざわざイベントごとに貼り替えをしているからである。笑顔の子どもたちが、モミの木の下で団子になってピースをしているのを見て、なんとなく、彼らの短冊が今年の分に入っているのではとヤスは考える。それから、それならすこし残念だなとも。
ガキどももがっかりするだろうし、せっかくだしどうにかしてやれねえかな。ドライヤーは持ってこられない。週刊誌で挟んで1枚ずつ脱水するわけにもいかねえし、もっとこう、一気に乾燥できるものがあればいいのに。
なんというか、そう、ギリギリ燃えない程度に。
「あっ」
突然脳裏にちらついた心当たりに、ヤスは思わず声をあげた。なんだい、と一緒になって懐かしそうに壁を眺めていた会長が首を持ち上げる。
「濡れちまった短冊、なんとかできるかもしれねえ。ちょっと電話していいか」
ヤスはそう答えるとポケットから使い慣れた携帯電話を取り出し、発信履歴の上から2番目の番号をタップした。

「それでオレが呼ばれたってことか」
地面に敷いた新聞紙の上に、手袋を外して濡れた短冊を一枚ずつ丁寧に広げていく。しゃがみ込んだまま、ジョウはそう言って笑った。今日はバンド練も、学校内で出くわすこともなかったので、顔を見たのは昨日ぶりだった。
「ヤス、なんだかんだいい奴だよなあ」
「ウゼェ。さっさと終わらせるぞ」
「なんだよ、せっかく来てやったんだろうが。もしオレがバイトとか通院とかあったらどうしたんだよ」
そりゃ、今日アンタがバイトも病院もないの、知ってたからな。売り言葉に買い言葉で口答えをしようとして、だけれどもそれを飲み込んだ。別に変な意味ではなかった。メッセージアプリでのバンド内のやりとりをきちんと把握しているに過ぎない。いや、本当に。もし迂闊に答えて、「なんで覚えてたんだ?」なんて掘り下げられたら困ってしまうだけだ。
約1時間前。ジョウの出す炎なら効率的に短冊を温められると考えたヤスは、集会場の外に出てその場で電話を掛けた。無機質な呼び出し音が聞こえ出したところで我に返り、俺はなにを?と後悔を覚えたが、2コールで元気よく返事をした相手は、幸いにも快諾してくれたのだった。今から家帰るとこだったからいいぜ、と寄越された気の良い返事に、なぜだかヤスは心底安堵した。

「竹って硬いよな。オレもそっち手伝うぜ」
木箱に足をかけてノコギリを引く小鴉を見兼ね、退屈そうにジョウが足元から声をかけた。渡された短冊を並べているのには飽きたらしく、尾羽が地面のすぐ近くでふわりと揺らいでいる。
「いい。もう少しで終わるから。あんまり近づくんじゃねえ、切れるぞ」
「そうか。まあ邪魔する気はねえが......おっと、こいつは白紙だな」
結びつけられたヒモを外して、また1枚新聞紙上に色紙を貼り付ける。次に手に取った短冊の裏表をひらひらと確認したところ、両面ともが無記入であるようだった。
「白紙?ああ、どうせ最初につけた賑やかしのやつだろ」
「なに、短冊にもそんな、サクラみたいなやつがあんの」
もともとなにかしら飾りがついていないと、参加を躊躇する子どもがいるかもしれない。吊るされていた短冊には数枚ただの色紙が紛れ込んでいる。ガキがそんな難しいこと考えやしねえだろとヤスは思うものだが、これもまた昔からの習わしだった。
「まあいいか。とりあえずこれも乾かしとくぜ」
ジョウはわかりました、とばかりに頷き、『お願い事』の書かれたものの横に白紙を添えた。一体お前はなにに納得したんだ。一瞥してから、ヤスは足元の竹とノコギリに目線を戻した。

「これでお願いします」
「わかりました、では全て持ち帰りますね」
会長から預かっていた書類を手渡し、業者に頭を下げる。回収可能なサイズに分けられた竹は、数人の作業員に分割して抱えられ、横道の奥に吸い込まれていった。
「終わりか?」
「ああ。回収、思ったより早くて焦った」
「間に合ってよかったな。じゃあ、こっちもやっちまうか」
業者が去り、付近に通行人がいないことを確認する。見られて困るものではないが、今から火を扱うので危険のないように、と念の為の確認だった。
頷いたジョウが右手から炎を出すと、共鳴するように彼の尾羽が鮮やかに輝き出す。太陽は既にほとんど沈んでいて、例えるならば紫色とでも呼べるような空だった。薄明かりの中では街灯の白い光よりも紅い焔が目立つということを、ヤスは以前から知っている。短冊の貼りついた新聞紙を引き摺って、なるべく傍の店からは遠くなるよう、通路の中央で腰を下ろす。
「ヤス。それ燃えねえようにな、頼むぞ」
「わかってるよ。お前こそ気をつけろよ......乾けばいいんだから」
少し離れた位置から、ジョウが敷紙ごと短冊たちを照らし出す。ヤスはとくに何も言わないまま、時折新聞紙をくる、と回転させた。ヒトの体温などとはまた異なったその熱が、紙越しに腕に届いて溶ける。並んだ短冊の端が持ち上がるのを確認して、無言で2枚目の新聞紙と入れ替える。やったことはないけれど、煎餅を焼いたりするときもこういう感じなのだろうか。あれは一枚ずつ裏返さなくてはいけないから、もっと大変か。
「熱くねえか?」
「いや、別に」
しばらく無言で紙をくるくるさせていると、沈黙に耐えかねたジョウが、数メートル先からそう問いかけた。声をかけられてしまったものだから、さすがに顔を上げて返事をする。
「燃やす訳にはいかねえからな。本当気をつけろよ」
「何度も言わなくてもわかってるって」
やけに神妙な顔で忠告するジョウに、なんだか咎められた気がして眉を顰める。ガキでもないんだし、それくらい一度聞けば覚えられる。
そうして恨めしそうに睨んだとき、ヤスは真っ赤な炎越しに見える相手のさらに後ろ、建物の隙間に覗く空に、いくつか星が浮かび始めていることに気づいた。

結論からいえば、短冊は概ね無事だった。ペンが滲んで『お願い事』が見えにくくなってしまっているものもいくつかあったが、他のほとんどは鉛筆を使い、子どもの力で精一杯強く書かれたものだったからだ。多少のよれは残っているものの、特に問題はなく掲示はできそうだった。燃えてしまったものがないのは、丁寧な仕事をしたジョウの功績だろう。
「すげえな、この辺ってそんなに小さい子いたのか」
「通りがかりでもいいんだよ、こういうのは。数が多いほど商店街の皆も喜ぶ」
「なるほどねえ。来年も来てくれるといいよな」
からからになった、新聞紙の上。色ごとに短冊を分類して並べ終えたとき、目の前には百枚弱の『お願い事』と、ただの色紙が5枚佇んでいた。想像していたより数が多かったのか、ジョウは感心したようにピンク色の折り紙を指で摘んでいる。ゴミ用のビニール袋にくしゃくしゃになった飾りたちを詰め終えたヤスは、短冊を重ねて整えると近くに佇んでいた女性に手渡した。
「ありがとうね、ヤスくんもお友達も。これは私たちが集会場に返しとくから」
乾かした後の作業を手伝ってくれたのは、店仕舞いを終えた付近の文房具屋の夫婦だった。そこまで親しいわけではなかったが、まあノートやペンは学生にとって必要なものであったし、ちょくちょく買い物に行って面識はある程度の仲だ。奥さんの方が柔らかい紙で短冊を包むと、旦那がノコギリとビニール袋を担いで、そのままヤスが来た方の道に向き直る。
「新聞紙は俺が持って帰るんで。よろしくお願いします」
ヤスはそう挨拶すると、集会所に向かう旦那にもう一度頭を下げた。横目で見るとジョウも新聞紙を畳む手を止めて、愛想の良いお辞儀をしていた。

「この短冊、ヤスが書けば?」
「は?なんでだよ」
文房具屋夫婦に集会場への用事を頼んでしまったので、ふたりはひとまずヤスの家まで戻ることにした。どちらにせよ、使い終わった新聞紙やあまりの短冊を、家で処分しなくてはならなかったので。ジョウには来なくていいと言ったが、弁当買うからと押し切られた。
少し皺の残った、無記入の用紙。手に持った5枚のそれをジョウはしばらく風に靡かせながら歩いていたが、ふと思いついたようにそれをヤスに寄越す。突き放そうにも両手は空いておらず、新聞紙を片脇に挟んだままそれを嫌々受け取った。
「捨てればいいだろ、こんなの」
「なんだよヤス、お前には願い事の1つもねえのか」
「は?ウゼェ。ガキじゃねえんだし」
寂しいやつだなあ、オレはあるぜ。なぜか得意げにこちらを見てくるジョウに、顔をしかめて返事の代わりとする。それはまったく相手にされなくて、呑気な不死鳥は正面を向きながら指折り勝手に『お願い事』を数え始める。
「まずは大前提として卒業だろ、健康だろ、あと言ったっけ、今年はこの辺でやってる夏祭りで神輿担ぎてえし。海かプールでもライブしたいよな。いやでも在学中に体育祭とか文化祭とかも1回くらい見ておいて、そうだ、そこでもライブ出来たらいいのにな。学校で演奏したら、面白いだろ」
……それは全部目標だろ」
「おう」
……願い事とは言わねえんじゃねえの?」
「そうか?昔から短冊に書くことなんてこんなもんだろ。夢見てることに変わりはねえよ」
ここで、『通院回数が減る』とか、『出席日数のカウントが甘くなる』とか、そういうことを言い出さないのがこいつだよなあ、とヤスはなんとなく考える。それから勝手に相手を理解した気になっている自分に気づいて、若干の自己嫌悪に陥る。ちょっと気色悪いな、こいつだよなあじゃねえよ。
「じゃあお前が持って帰って書けば」
「オレはもう散々病院で書いてきたからいいんだよ」
「今年はやってないんだろ。持って帰ったって、どうせ俺、なんも書かねえし」
「お、おまえ」
ジョウが目を見開く。心底呆れた、というばかりに大きくため息をつく。
「なに、話の流れ読むのヘッタクソだな!」
「ウゼェ〜〜〜」
「『願い事』聞かせろって言ってんだよこっちはよ」
「わかってて拒否ってんだって、こっちは」
「はあ!?減るもんでもないだろうが!」
「うっぜ......あったとしても、教えねえし」
夢見ることが、ないわけではない。昔短冊に書いたようなおさない絵空事とはまた違う、今のヤスの目指している場所。だけれどもそれはジョウのものと同じで、目を開けたまま、自分で叶えなければならない『目標』だ。
「うわ、何様?わざわざ平日に快く仕事を手伝ってくれたヤツに対して、それはないんじゃねえの」
「なんか今日マジでウッゼェな、お前......」
年上の同胞は形の良い眉を露骨に顰めて、すっとぼけるように文句を言う。そのまったく困っていない様子に寧ろこちらがむかついてきて、つい勢いで言葉が口をつく。
……わかったよ、一個な」
「おっ?」
嬉しそうに、声が返ってくる。すこし身をかがめて、横に並んだヤスの顔を覗き込んできた。それにも無性に腹が立って、目を逸らして短冊をつまむ自分の爪先を見る。脇に抱えた新聞紙の束が、ぐしゃりと音を立てた。
「......とりあえず夏までに、1回デッカいライブやりてえと思ってる、いつものとこ以外で」
ハリのない声で、ぼそぼそとそう伝える。慣れてきたライブハウスもまったく嫌いではないけど、そろそろ新しいステージに飛び出したいとも思うようになっていたのは、若さ故の愚かさかもしれなかった。未熟だし、早すぎるかもしれないし、けれども時間の流れる速度には置いていかれたくなかった。
それを聞いたら、大人であるジョウには笑われる、もしくは軽く流されると思っていたくらいだった。だから、すぐに返事が返ってこなかったことがむしろ気まずくて、今度はヤスがジョウの顔を見上げる。ゆっくりと瞬きをした相手は、いつも通りの調子で口を開く。
嘘じゃねえよな?」
「嘘なんかつくかよ」
「うん」
……お前と一緒で、これも目標だよ。誰かに叶えてもらうようなもんじゃねえ」
「おう」
「あーまあ、それでいうと、俺ひとりで達成できる目標ってわけでもないけどな」
言い訳するように続けた言葉は、すべて本心だった。吐き出すだけ吐き出して恥ずかしくなったヤスは立ち止まって、もう一度きちんと背の高い相手を見上げる。尾羽の炎に照らされているせいか、若干その顔にはいつもより赤みが増している。そう、なぜかジョウの尾の光量は眩しいほどに明るくなっていて、それは先ほど短冊を意図的に照らしていた時と遜色ないほどであった。
「そうだな......それは」
ヤスの『願い事』を絞り出そうとしていた悪ガキの顔を引っ込めて浮かべた、影すら纏った表情に心臓が掴まれたような感覚を得る。口元を上着の襟に隠したままヤスに一度微笑みかけて、そのままアーケードの隙間に覗く空を見上げる。彼の目線の先のそれは先ほどよりも青が濃く暗いのに、どこまでも透き通っている。
「オレたちで、なんとしても叶えなきゃなあ」
緋色の瞳の奥越しに、夏の大三角がちらつく。
小学3年生で習ってから、ヤスがこの形を認識するのは今年で8回目だった。
たぶんジョウがこれまで見た三角形、迎えた夏はヤスより何回か多くて、その分七夕の短冊も、『願い事』も『目標』も幾度も積み重なってきているはずだと思った。
星に届かなかった願い事とか、諦めざるを得なかった目標とか、全部をぜんぶ大事に一つずつ抱えて、それなりに大きな手からどれもを零しそうになっていて、それでもジョウはそれをひっくり返さないままに、ヤスのことを真っ直ぐ見据えていた。

ーーこれは、今までにいくつの『夢』を見送ってきたのだろう。

「あっそうだヤス、これやるよ」
弁当屋の前に辿り着き、店先でジョウを見送ろうとした時。カウンター越しにヤスの母親と挨拶をすると、ジョウは思い出したように鞄から保冷バッグを取り出した。個包装のゼリーを2つ掴むと、薬局で売ってたんだと横に突っ立っていたヤスに手渡す。
「七夕終わったから安くなってたんだ。お袋さんと2人で食ってくれ」
「いや......なんで?」
本当に純粋な疑問だった。なぜ急に鞄からゼリーが出てきたのか、ヤスにはまったくわからない。質の悪い手品?
「こういうゼリー、持ってると体調崩した時に良いんだ。冷蔵庫に入れとけばしばらく食えるし。イベント事の後は、大体買い溜めしてる」
「お、お前なあ......」
「ほら、まだあるから。貰ってくれ」
見せつけてきたバッグの中には、保冷剤と一緒にまだ複数個の同じ商品が入っていた。口を開けて呆けたヤスを見てけらけらと笑うと、ジョウは店内へと向き直る。
「思ったより遅くなっちまったな。すみません、店ってもう閉めちゃいましたか?」
「大丈夫よ、何がいいかしら?」
温くなり始めたゼリーを両手に持ってヤスが硬直している間に、ジョウはさっさと母親とやり取りを始める。
「今日のオススメって残ってます?」
「エビフライね。お弁当は無くなっちゃったんだけど、単品があるからオマケでつけておくわ。今日、忙しかっただろうにごめんなさいね」
いえいえとんでもないです、ありがとうございます。笑顔でそう返しながらジョウは財布を取り出す。夜の蒸し暑さにも負けて頭が回っていなかったヤスは、そこでやっと我に返った。慌ててカウンターの前に腕を割り込ませる。
「待てジョウ」
「は、急に何」
「おおお、俺が出す」
「どういうことだよ
申し訳程度にぶら下げていた鞄を開こうとして、結局脇に挟んでいた新聞紙が音を立てて散らばり落ちた。夜風に吹かれ、カサカサと悲しそうに鳴き声をあげている。
「今日のお礼、しないと」
「バーカ、カワイイ後輩にそんなことさせられるかよ。単語帳でも買ってろ」
前髪から覗く額に、力強くデコピンをされた。ベースを弾く指の力は伊達じゃない。でえっ、と痛みに堪えたヤスは、母親が口に手を当ててくすくすと笑っているのを視界に入れて、居心地悪く口を尖らせた。ジョウはまったくそんなヤスには目をくれず、石畳の上に広がった新聞紙を集め始めていた。

⭐︎

まったくインクの減る気配のないサインペンを握り、ヤスは腕を組んで机と向き合う。机上には、無記入の4枚の紙が並んでいる。残りの1枚は、ジョウが持ち帰った。「オレもライブのこと書いとくぜ!」と言って、エビフライ付き魚フライ弁当のレシートと共に財布に入れて帰ったのだ。
なんとなく部屋の電気を消して、勉強机の蛍光灯だけで手元を照らす。雰囲気が出るかと思ったからだったが、普通に暗くて物を書くには向いていないと感じた。長方形の短冊を上から睨め付けるようにしてみたが、大したアイデアは思い浮かばない。
「......とりあえず、ライブからだよなあ」

全部の紙を埋めてみようと思ったのは、たぶんヤスの気まぐれだった。1枚目の紙に、『デカい箱でライブ』と大きな字で書く。ペンを走らせている途中で思いついて、2枚目にさらにでかでかと『商売繁盛』と記した。スマートフォンで調べれば漢字が表示されるので、書くのは簡単だった。単語帳だなんだと言っていたジョウは、やっぱり自分より一世代前の学生なんだよな、と考える。けしてバカにしているわけではないけど。
「そうか、一応勉強のことでもいいんだよな」
3枚目に『赤点回避』と記し、なんだか正月の書き初めみたいになってきたと唸る。それから、最後の1枚に何を書くか、首を傾けて思案する。
そもそも、もう七夕は終わっている。
そりゃ今日は天気も良いが、笹を片付けたくらいだし、今から書く『願い事』なぞ神さまや伝説の2人、それどころか世界のどこの誰にも届くことはないだろう。それはヤスも重々承知していたし、間違いなく彼も知っていた。
だからきっと、これは決意表明のための用紙なのだ。ジョウは残念がるだろうが、だれに提出することもない、ヤスのためだけの。
水性マーカーを仕舞って、ペン立てからシャープペンシルを取り出す。2人で歩いていたときから頭の隅にぼんやりとこびりつく考えを、極力薄い字で書き出してみる。正直で切実な言葉はヤスの頭ではうまくまとめられなくて、引っ張り出した消しゴムで何度も何度も文字を削りながら、たとえ神様にだってどうすることもできない『願い事』を紙上に紡いでいく。

完成した短冊は、たくさんの書き直し跡のせいでさらにシワが寄っていた。端っこの折れ目を指で正しながら、可視化された自分の必死さにヤスはひとり苦笑を浮かべる。
「まあこれも、自分で、やらねえとなあ......」
その最後の1枚だけを机の引き出しに突っ込んで、先に完成していた3枚を並べ写真に撮った。明日、バンド練習のときにジョウに見せてやろうと思ったからだった。
やっぱり3枚分も夢があったんじゃねえか、と笑われるだろうか。これからさらに練習頑張っていこうな、と肩を叩かれるだろうか。商売繁盛は余裕だろ、昨日買った弁当も美味かったぜと伝言を頼まれるのだろうか。それともこんな時ばっかり気にしてないで勉強は普段からちゃんとしろ、と叱られるだろうか。無反応が1番怖いな、そうしたらお前が焚き付けたんだぞって逆ギレしてやろうか。
それで、短冊を結局全て埋めたことを突っ込まれたら、今までヤスの知らない土地やベッドの上で相手が書いてきた『お願い事』を教えてもらおう。3つも教えてやるんだし、そっちも公開してくれなきゃフェアじゃないよな。練習とか音楽とかの話をされたら、子どものころ好きだった、もしくはこれから挑戦してみたい音楽のことを聞こう。弁当の話をされたら、辛いもの以外ならどんな食べ物がお前は好みなのか尋ねよう。勉強の話をされたら、じゃあお前は15の頃の成績どんなもんだったんだよ、ともう一回逆ギレして困らせてやろう。

なんにせよ、そのどれだって構わないから、なにか俺の知らないお前の話を返してくれればいいのだ、とヤスは考える。
その願望は幼稚だし、急に変なことにムキになり始めてて悪いんだけどさ、まあ俺、お前と比べたら子どもだし。いつもみたいに先輩風を吹かせて、しょうがねえなってさ、付き合ってくれないかな。今日来てくれたのもそうだし、いつもアンタが俺のこと気にかけてくれるの、実は結構嬉しいんだ。嬉しいんだけど、それだけじゃなくて、同じように俺もアンタのことを気にかけられるようになりたいんだよ。
俺がガキなのはわかっている。それでも、ジョウも決して大人ではないということもわかっていた。だから、背中を眺めているだけじゃなくてさ、隣に並び立ちたいんだよ。でもそれって、お前のことを何も知らないうちにはめちゃくちゃ難しいことだった。
だからそう、俺は、俺は。

もう一度、最後に書いた短冊を机の中から取り出す。広げて文字を目で追ってから、やっぱり丁寧に折り畳み直す。
まあ、明日からちょっと頑張ってみるかななんて、敷居の低い決意を飲み込む。洗ったゼリーの透明な容器にそれを入れて、窓際の観葉植物のとなりに並べる。机の電気を消すと、街の青い灯りがカップに吸い込まれて、不安定な薄い虹色の影を木枠に落とした。小さな光の揺れが収まるのを見守って、それからベッドに潜り込む。今頃頭の真上に来てるであろう夏の大三角形をもう一度思い出して、それから瞼を閉じる。

小さなころ見た夢も、音楽の趣味も、好きな食べ物も、花も、10年前の誕生日プレゼントのことも。俺はまだ、なにも知らない。出会う前のことも含めて、アンタのことを全部知ることができればいいのに。
きっとそれは、明日からの自分に懸かっていた。