千代里
2024-05-02 07:34:52
13763文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その1


 鉛色の空から音もなく降り続ける雪片。それらを見ていると、ノエは否が応でも、傭兵として各地を旅していた頃の己を思い出してしまう。
 特に、幼い時分からノエの面倒を見てくれた老傭兵――ウヴィルトータが、寝床の中で冷たくなっていた朝のことは、そう簡単に忘れられるものではない。
 すでに老齢と言って久しい年月を経てきた人物だと、頭では分かっていたはずなのに。どこかで、自分は彼女と一生涯共に過ごすと思い込んでいたのかもしれない。
(あの頃は、本当に何をどうしたらいいのか全く分からなかった)
 ウヴィルトータの後を継いで、傭兵として生計を立てるべきなのか。それとも、どこかの村に腰を落ち着けて、雇われの用心棒のように村にやってくる魔物や獣を追い払いながら、人生を終えるべきなのか。道は無限大に広がっているのに、どの道を選んでも何かが間違っているような気がしてならなかった。
 何もかもが不鮮明で不明瞭。そんなときに、ノエは出会ったのだ。自分が助けなくてはならないと思った、ノエ以上に自分の行く末がわからずに迷っていた少女に。
 記憶もなく、どこから来たかもわからず、警戒と疲弊だけを滲ませた彼女を助けたいと思った。その瞬間から、ノエには生きる目的ができた。
(そして今、あの時と同じ場所に僕は来ている)
 ノエが今いる場所は、歩き慣れた黒衣森ではない。彼の体は、今は森から遥か遠く離れた雪原を行くチョコボキャリッジの中にある。
 キャリッジが止まったのか、停止した際の反動が車内にいるノエたちにも響き、ノエは意識を現実へと引き戻した。
 目的地に着いたのかと、窓を覆っていたカーテンをずらす。明かり取りにもならない小さな窓から見えた景色は、数時間前の休憩の際に目にした雪原の姿と寸分も違わないように見えた。もっとも、この地はどこを行っても白一色の世界ばかりなので、明確な違いが見て取れるわけではないのだが。
「兄さん、外の様子はどうですか」
「特に異常が起きたわけではなさそうだ。おそらく、前がつっかえているんじゃないかな」
 ノエの隣に座るオデットに問われて、ノエは気楽な調子を装って答える。
 二人のいるチョコボキャリッジの客車の中は、通常のキャリッジと異なり、四方を壁に囲まれている。そのため、外の様子は窓から伺うしかない。
 通常の、通気性の良い外壁のない客車では、雪原地帯のこの場所――クルザスの中央高地では、乗客が凍えてしまう。また、気球もこの地の低い気温では上手く膨らまないようで、キャリッジと名がついているものの、通常のチョコボ車同様、客車を数羽のチョコボが引いていた。
 それでも数少ない交通手段として重宝されているようで、ノエたち以外にもキャリッジの中には数名の旅人が同席している。その中には、ノエにとって馴染み深い者たち――仲間とすら呼べる四人も混じっていた。
「順調に進んでいるなら、そろそろ到着している頃だよね。到着して、検問を待っているとか?」
「その可能性はありそうだな。ノエ、気になるならオレが様子を見に行ってくるぞ」
 現状の推測をしたのはヤルマルで、外に出る提案を持ちかけたのはオランローだ。今回、本当ならば同行の必要はなかったにも拘らず、彼らはノエの出立を聞いて、すぐさま手を挙げた。
「申し出はありがたいけれど、オランローの見た目は、この辺りの兵士には警戒されてしまうかもしれない。それぐらいなら、僕が行った方がいい」
「ノエ。あなたの言い分はもっともだけど、そんな顔をしている人に一人で行かせるのは私は反対」
「サルヒさん……
 ノエは咄嗟に顔に手をやったが、自分の顔が自分でわかるわけもない。普段より少し冷えた肌が、指先越しに感じられただけだった。
 けれども、己の顔が強張る理由をノエはよくよく知っていた。
「そうだな。それぐらいなら、俺が様子を見に行ってやるよ」
「ですが、ルーシャンさん。外の気温はかなり下がっていますよ」
「寒さが怖くて冒険者ができるかってんだ。それよりも、お前はもうちょっと気持ちを落ち着けておけ。アドネール占星台を出てから、どんどん顔色が悪くなってるぞ」
 冒険者としては先達であり、年齢的な面から見ても先輩にあたるルーシャンの言葉が、ノエを席へと押し返す。ノエ自身、自分の気持ちが不安定な状態であると分かっていたので口を噤むしかなかった。
「ま、気持ちは分からないでもないし、背中を押した俺が言えた義理でもないかもしらんがな」
……いえ。決めたのは、僕ですから」
「そうか。ま、とりあえず旅慣れたおじさんに任せておけってことだ。ほら、座った座った」
 ノエが再び腰を落ち着けたのを確かめてから、ルーシャンは外套を羽織り直すと内鍵を開いて客車の外へと降りる。
 彼の背中が扉の向こうに消えるのを見送ってから、ノエは自分の懐に手を置いた。コート越しに感じる、かさついた感触。服の奥に厳重に仕舞い込んでいるのは、とある人物からの手紙だ。
……兄さん」
「大丈夫だよ、オデット」
 不安げに声をかけるオデットに、反射的にいつものように「大丈夫」と言ってしまう。だが、もう彼女はそれで引き下がったりはしない。ゆっくりと首を横に振り、
「大丈夫じゃないんですよね。兄さんがわたしを心配させたくないのは知っていますけど、大丈夫じゃない時まで大丈夫と言わないでください」
 そこまでキッパリと言われてしまっては、ノエも返す言葉がない。浅い息のあと、自分の顔を手で覆う。流石に、今の顔をオデットに見せたくたいという意地だけは張りたかった。
……うん。オデットの言う通り、今の僕は大丈夫じゃない、と思う」
 辿々しさの残る言葉と共に、ノエは思い返す。今、懐に眠る手紙を受け取った、数週間前のことを。
 
 ◇◇◇
 
「ノエ・ウヴィルシン。ちょっといいだろうか」
 そのように呼びかけられて、ノエは一体誰だろうかと足を止めた。
 ノエが登録している冒険者としてのフルネームは、実際はノエの本名ではない。それを知ってか知らずか、彼をフルネームで呼ぶものもあまりいない。
 とはいえ、ここは冒険者ギルドもあるカーラインカフェであり、ノエはグリダニアのギルドに登録にしている冒険者だ。故に、登録している名前で呼びかけられても不思議ではない。
「はい、何でしょうか――
 振り返った先、声の主を確かめた瞬間、ノエは一瞬言葉を詰まらせた。それも無理もない。
「ミューヌさん……?」
「ああ、そうだよ。ノエ、少し時間をもらえるだろうか」
 ノエの前に立っているエレゼン族の女性。その人は、冒険者ギルドの受付を切り盛りしているミューヌだ。単なる受付ではなく、彼女は冒険者ギルドの顔役という側面も持っている。
「実は、ノエという冒険者に届けてほしいと、ギルド宛に手紙が来ているんだ」
「そうだったんですね。誰からでしょうか」
 冒険者宛に送られた手紙を冒険者ギルドが受け取るのは、よくあることだ。何せ、冒険者というものは大体が住所不定である。冒険者居住区に家を構えているヤルマルたちの方が例外に値するくらいだ。
「その差出人について、君と少し話をしたいと思っていてね」
 ミューヌに促され、ノエはカーラインカフェの端にある席に腰を下ろす。長い話になるつもりはないようで、茶までは出されなかった。
「ノエ、単刀直入に聞こう。君は、イシュガルドに知り合いはいるだろうか」
 ミューヌからの質問を受けて、ノエは小さく息を呑んだ。
 ――イシュガルド。それは、先日のディアヌ母子の一件からたびたび耳にしている名だ。ノエにとっては、故郷を指し示す国の名でもある。
 だが、まさかその名がグリダニアの冒険者ギルドの顔役から出てくるとは予想だにしていなかった。
「イシュガルドから、僕宛に手紙が……?」
 真っ先に思いついたのは、先だってのディアヌ母子の件だ。彼女らの命を奪おうとした相手に対して、ヤルマルは依頼の仲介を行った貴族を介し、厳重に抗議すると話していた。その件で、母子が元いた家から何か連絡をしてきたのかもしれない。
「それは、ニヴェールという家からでしょうか」
「いや、違う。ただ、貴族の家だろうね」
 ニヴェール家からでないとすれば、一体どこの貴族が一介の冒険者宛に手紙を書くのだろうか。ノエが不思議に思った時だった。
「ノエ、君はラペイレットなる者の名を聞いたことはあるだろうか」
 血の気が一気に引いた。心臓の鼓動が、完全に停止したのではないかと思うほどに。
 視界がグラグラと揺れて、地震が起きているのではないかと思いかける。だが、現実は違う。周りが揺れているのではなく、それほどまでにノエの体が不規則に震えていたのだ。
……どうやら、知っているようだね」
 ミューヌも、ノエのただならぬ様子を見て、決して穏やかな関係ではないと察してくれたらしい。彼女は上着のポケットから封筒を取り出すと、ノエの前へと差し出した。
「君が読むか読まないかは、君の判断に任せよう。だが、どちらにしろ、冒険者ギルド宛に届いた手紙である以上は、冒険者ギルドの名で何某かの返事を出さなくてはならない」
 相手が名も知れぬ得体の知れない相手ならいざ知らず、イシュガルドの貴族ともなると、無視を決め込むわけにはいかない。相手が筋を通して手紙を届けたのなら、ギルドも相応の返事をする義務がある。
「その反応を見る限り、君にとって友好的な相手ではなさそうだね。もし、君が望むのなら、冒険者ギルドは『ノエなどという冒険者はいない』と言い張ることもできるが、どうする?」
「えっ。そんなことをしていいんですか?」
 動揺を上書きするような申し出に、ノエは目を丸くする。
 ミューヌは涼しい顔で頷いてみせると、
「君が依頼に対して真摯に対応している姿は、ギルドの職員もきちんと見ている。そんな冒険者を、いくらイシュガルドの貴族からの要請とはいえ、大人しく差し出すつもりはないよ。もちろん、要件によるけれどね」
 イシュガルドの貴族に限った話ではないが、冒険者を金で雇える私兵のように思い、時には依頼内容から逸脱した行いに従事させようとする例も無きにしも非ずである。そんな不埒な依頼人に砂を撒いて追い出すのも、ギルドの窓口の仕事だとミューヌは言ってみせた。
「僕が君を呼び出したのは、君がこの手紙に対してどんな返事をしてほしいか、今の時点の君の反応を見ておきたかったからだ。……まあ、結果は言わずもがな、だったようだけれどね」
 もし、ノエが笑顔を浮かべて喜びと共に手紙を受け取ったのなら、ミューヌは何の気兼ねもなく返事をしたためられただろう。
 だが、今のノエの顔は喜びとは真反対の困惑、動揺、時には怒りや恐怖に類した感情まで垣間見えている。そうなると、ミューヌとしても返事の書き方には慎重にならねばならない。
……すみません。僕のことで、迷惑をかけてしまって」
「謝る必要はない。困っている冒険者のために、僕たちのような者があるのだから」
 わざと仰々しく手を広げ、ミューヌはノエの憂いを払拭せんと悠然とした笑みを浮かべてみせる。彼女の態度につられるようにして、ノエの口の端にもわずかな緩みが生まれた。
 だが、それもほんの数秒のこと。彼は再び手紙へと視線を落とし、唇を真一文字に引き結んでしまったのだった。
 *
 思いがけず、生家の名が記された手紙を差し出された瞬間。ノエの心臓は、確かに一度止まったように思う。頭から血がすぅっと引いて、膝に力が入らず、座っていなかったら間違いなくその場に崩れ落ちていただろう。それほどまでの強い動揺が、ノエを襲っていた。
 そして、そんな状況に立たされていたなら、いくら取り繕おうとしてもボロは出る。まして、この半年近く共に同じ部屋で過ごしていた少女相手に対して、ノエの取り繕いなど薄紙も同然だった。
「兄さん、何かあったんですか?」
 その日の晩、オデットが寝てから手紙を確認しようとしていたノエは、機先を制されて固まってしまった。着替えをしようとしていたところなので、実に中途半端な姿勢で硬直する結果となった。
「いや、僕は別に」
「今日の夕方から、ずっと様子が変でした。ご飯の時も上の空で、わたしが話しかけてもちゃんと聞いていないようでした」
……ごめん」
 食事の時間は、二人にとっては大事な団欒の時間でもある。特に、近頃のオデットは、お腹の大きくなってきたディアヌの手伝いに行ってることが多い。ノエも時折顔を出して様子を見ているが、日々の稼ぎを得るために魔物退治やら街道の整備やらに赴いている日も少なくない。
 別々に行動している時間が長くなってしまう以上、お互いの顔を合わせる時間は貴重だと分かっているのに、上の空でいるなどとは。そう思ってノエは頭を下げたが、オデットはゆるゆると首を横に振る。
「話に集中できなかったのは、兄さんにとって気になることがあるからですよね。それは、わたしには相談できないことなのですか」
 オデットの問いかけに、ノエは言葉に詰まる。先だっての騒動を経て、自分の身に降りかかる出来事の全てを、自分一人で抱え込みすぎても良い結果を生まないと、あれほどはっきり分かったというのに。
(だけど、今回は僕の実家に関わることだ。そんな個人的なことをオデットに相談しても――
「兄さん。今、わたしに相談しても仕方ないとか、心配させるだけとか、そんな風に思ってませんか」
 そのものずばりを言い当てられて、ノエは咄嗟に顔に手をやってしまう。それが、もはや答えのようなものだった。
 オデットはノエに寝台に腰を下ろすよう促し、自分はその隣に腰掛ける。腕にもたれかかる少女の小さな重みが、不安定に揺れていたノエの心を確かなところに留めてくれた。
「それで、兄さんは何でそんなに不安そうな顔をしているんですか」
 ことここに至って無理に隠したところで、きっとオデットは諦めない。観念して、ノエは口火を切る。
……実は、手紙が来たんだ。イシュガルドから」
 イシュガルドからの手紙と聞いて、オデットも体を硬くした。
 ディアヌ母子にまつわる騒動の当事者の一人――ティエリーに、ノエは一つの手紙を託していた。彼の実家には、オデットの過去について知っているかもしれない人物がいる。ミラベルという名前らしいその司祭に対して、ノエはオデットを保護した経緯を添えて、何か知っていることはないかと一筆認めたのだ。その返事が来たのではないかと、オデットは身構えたのである。
 だが、オデットの予想に反して、ノエはゆっくりと首を横に振った。
「例の司祭様からじゃない。それに、ティエリーの家の人からでもない」
「じゃあ、一体誰から……?」
「僕の、家からだ」
 オデットですら一度息を飲み、言葉に詰まった。オデットは、ノエの家族と会ったことはない。だが、彼の言動の端々から、彼がどれだけ家族に対して屈折した感情を抱いているかは、よくよく知っている。どれだけ、傷つけられてきたのかも。
「兄さんの家から……ですか」
 おうむ返しで繰り返したのは、それがあまりに予想外の内容だったからだ。もしかしたら聞き間違いかと思ったが、ノエは頷き返すだけだった。
「それで、その……家の人は、何と書いてきたのですか」
「いや、まだ見ていないんだ。オデットが寝てから見ようと思っていたんだけど」
「またそうやって、わたしに内緒で辛い気持ちを飲み込もうとしていませんか」
 痛いところを突かれて、ノエは言葉に詰まる。実際、オデットの言う通りなのだから反論の余地などどこにもなかった。
「わたし、兄さんの隣にいます。何が書いてあっても、わたしは兄さんの気持ちを受け止める準備ができています」
「それじゃあ、まるでオデットに手紙が来たみたいじゃないか」
 動揺しきりのノエと比較すると、オデットはすっかり落ち着き払って、何でもこいという姿勢を見せている。むしろ、これからオデットが手紙を開くかのような気合いの入れっぷりだ。
 そして、彼女の堂々とした振る舞いは、ノエの胸の内に巣食っていた不安の幾ばくかを追い払ってくれた。
……うん。でも、少し落ち着いたかもしれない。ありがとう、オデット」
「どういたしましてです。それに……わたしもちょっぴりは不安なんですよ。当事者の兄さんには比べるまでもないと思いますが」
「オデットが僕よりも不安がっていたら、その方が驚きだよ」
 どうにか軽口を叩きながら、ノエはゆっくりと封蝋に手をかける。
 そこに刻まれた家紋は、自分の親指にはまっている指輪の紋と同じだ。ここにあるのはノエの生家からの手紙であるという、揺るぎようのない証拠でもある。
 軽い抵抗と共に封蝋が開き、丁寧に畳まれた手紙が外気に触れる。ノエはまだ震えの残る指で慎重に手紙を取り出し、意を決してそれを広げた。
――――
 呼吸すら一度止めて、ノエは文字を目で追う。流麗な筆致だけでは、誰が書いたものかは分からなかったが、差し出し人の署名を確認すれば、誰が書いたかは一目瞭然だ。何より、手紙の内容が『その男』が記したものだと明確に示している。
 文面の最初から最後までを目で追った後、ノエは震える唇を叱咤して、
……ふざけてる」
 ただ一言、そう言った。
「兄さん……?」
 隣に座っていても、横から覗き込むような真似はしていなかったので、オデットには文章の全てが目に入ったわけではない。
 故に、彼女ができたのは、湧き上がる感情に押し流されるように震え続けている兄の腕を掴むことだけだった。
……ふざけてる。今更、そんなことを言われて、素直に頷けるわけがないだろう! 僕が、どんな思いでずっと過ごしてきたか――!!」
「兄さん!」
 オデットの鋭い呼びかけに突き飛ばされるようにして、ノエはハッとする。微かに乱れた呼気は、彼がそれだけ動揺している証拠だ。普段の彼は、こんな風に我を忘れて、声を乱したりはしない。
……オデット」
「兄さん。いったい、何が書かれていたのか、わたしにも見せてもらえますか」
 いつも滅多に声を荒らげないノエが、こんなにも動揺して激昂している。それだけで手紙の内容がノエにとって許し難いものであるのは分かった。それでも、ノエがいっときの感情で判断を誤らないように、オデットは正確にその文面を知りたかった。
 ノエから渡された手紙を開き、オデットもまた文章を追っていく。
 まずは、季節の挨拶。続いて、ここ最近のイシュガルドの情勢が丁寧な筆跡で記されている。そして、その次にノエの生存を知った経緯が書かれていた。
(グリダニアに赴いた若者から聞いた……とありますが、ティエリーさんのことでしょうか)
 ただの冒険者が貴族に会えるとも思えない。だが、血筋はどうあれニヴェール家の長男であるティエリーなら、貴族同士の付き合いでノエの父親と出会う機会があるかもしれない。彼が、ノエの父親に自分が出会った冒険者について語った可能性はある。
 だが、問題はノエを知った経緯にあるわけではない。続く文章を見て、オデットですら思わず眉を寄せた。
(『あの時、お前が異端者の咎を受けていると知っていたのにも拘らず、見て見ぬ振りをしてきたことを、私は長年後悔し続けていた。だが、とうの昔に戦神様の御許に旅立ったものを、今更呼び戻すことはできない。それこそが、私への罰だと思っていたが……』)
 頭の中でノエの父親が記した言葉を反芻し、オデットは柔らかな薄紅色の唇をぐっと噛む。
 ――お前が生きていると知って、私がどれほど戦神様に感謝の祈りを捧げたか。
 ――もしお前が私と会うことを受け入れてくれるのなら、お前を私の屋敷に招きたい。
 それは父親の懺悔と贖罪の言葉だ。それはオデットにもわかる。
 だが、だからといって、はいそうですかと素直に頷けるわけがない。オデットですらそう思ったのだ。ノエが激昂したのも当然である。
(だって、兄さんの母親は、この人のせいで異端者ってことにされたのでしょう)
 そのせいで、ノエもまた異端者の関係者として処刑される運びになった。父親はそれを黙認した。取り返しのつかない亀裂を作ったのは、父親の方だと言い換えてもいい。
 なのに、何を今更。
「兄さん。わたしも読みました」
 激しい感情を外に出すまいと、ノエは自分の腕に爪を立て、血が滲むほどに強く唇を噛んでいた。
 オデットが隣にいるからこそ、ノエは無作為な八つ当たりを避けられている。もし、誰も隣にいなかったなら、ノエは間違いなく手近な物に拳を振り上げていたはずだ。それほどの激しい感情が、彼の中で暴れ回っている。
「兄さんが、そんな顔になる理由の幾らかは、わたしも分かっているつもりです」
……オデット」
「だって、兄さんはあんなにも悩んでいたのに……それを、全部無かったものみたいに扱われたら、怒るのは当然です」
 今まで貴族の子供として暖かな環境で育っていたのに、突如ノエはその温もりから切り離されてしまった。
 オデットには家族というものは分からなかったが、ノエにとってそれはかけがえのないものだったとは想像できる。ノエは今でも、昔を思わせる食べ物を口にする時、子供のような笑顔を浮かべる。その柔らかな空気に触れたことがあるからこそ、ノエにとってかつての日々がどれほど大切なものだったか、オデットにも伝わっている。
 だが、ノエの父親は、ノエから温もりを奪っただけでなく、自らそれを破壊したのだ。なのに、いきなり再び自分の手元に呼び戻そうなどというのは、そんな虫のいい話があるだろうか。
……僕は、あの男のことを許せないと思った。許したくないんだ」
「はい」
「死んだお母様に、ありもしない罪を押し付けたことも。僕の言葉を聞かずに、碌に面会もせずに別れたことも。全部、許せない。だから、あいつの顔も二度と見たくないと思っている」
……はい」
「でも――それは、本当に僕にとって正しいことなんだろうか」
 怒りと動揺で震える彼の手は、オデットが返そうとした手紙を受け取り損ねてしまう。床へと滑り落ちる手紙は、中途半端に開いたまま、ノエへと無言の問いかけを投げかけていた。
「兄さんにとっての、正しさ……ですか?」
……うん。今の僕は、きっととてもみっともない姿を晒している。誰彼構わず怒鳴り散らしたい気持ちもあるし、今すぐあれを破り捨てて踏み躙りたいとすら思っている」
 自分の顔を震える手のひらで覆い隠して、ノエは呻き声をあげる。少しでも、みっともない己をオデットに見せまいと必死に隠す姿に、オデットは自分の手を宙に彷徨わせる。
「冷静でいられないんだ。ユーガンさんに、あいつの話を聞いたときもそうだった。彼は、あいつが後悔しているって教えてくれたけど、僕はあいつが気の毒だとか、可哀想だとかそんな風には全然思えなかった」
 本来なら、後悔に涙する人がいたら憐憫ぐらいは感じるべきだと、ノエの中の『正しさ』はそう言っていた。
 だが、以前のように己に正しさを強制できるほど、今のノエは頑迷ではない。そして、その柔軟な発想こそが、ノエをより苦しめる原因になっている。
「あいつのことを考えても、憎しみとか嫌悪とか、そんな気持ちしか浮かばなかったんだ。誰もそんなことを言っていないのに、まるで『あいつも後悔しているんだから、お前も許してやれ』って言われているような気がして、余計に腹が立っただけだった」
 湧き上がる感情にどう整理をつけていいか分からず、ノエは自身の顔を覆っていた掌に力を込める。皮膚に爪が食い込み、赤い筋をつけかけたとき、
……兄さんが、どれほど怒りで我を無くしても、悲しさで相手を許せないと言っても、わたしはそれも兄さんの大事な一部だと思います」
 ノエの腕に寄り添う、柔く暖かな気配。それはゆっくりと肌の奥に染み渡り、強張っていたノエの体を少しずつほぐしていく。
「前に言いましたよね。お母さんにひどいことを言われたって話をした、あの時と一緒です。その瞬間の兄さんが辛いって感じた気持ちに、無理に目を逸らさなくていいと思います」
 そして、それは過去に限ったことではない。今まさに湧き上がる激情を、無理に否定する理由もないはずだ。
……オデット」
「お父さんの招待については、兄さんの気持ちを整理してから考えましょう。兄さんも、自分の選択が『正しい』か気にしているようでしたから」
 冷静に考えるなら、イシュガルドの貴族と関係を結ぶことで得られるメリットはあるはずだ。特に、オデットの記憶について調査を進めている現状を踏まえると、対外的には鎖国政策を取っているイシュガルドに赴ける機会は貴重である。そればかりは、望んでも簡単には手に入れられるものではない。
 しかし、だからといって、今のノエの心を切り捨てる理由にはならないとオデットは言う。
……ごめん。こんな顔を、オデットに見せたくないのに」
「わたしは、兄さんのどんな顔も見たいですよ」
「オデットは、強いな」
 オデットに促され、ノエはそっと手を顔から引き剥がす。肌には爪が突き立った跡がいくつか赤く残っており、彼の心情を痛烈な形で訴えていた。
 それでも、掌の向こう側にあったのは、オデットのよく知るノエの顔だった。張り詰めたところはあっても、オデットが兄と呼び慕う青年の全てが変わったわけではない。
……少し早いけれど、今日はそろそろ休んでもいいかな。起きていても、きっと今の僕じゃ何も手につかないだろうから」
「それなら、わたしはハーブティーを淹れてきますね。ミューヌさんから、心が落ち着く効果があるって教えてもらったんです」
 オデットは寝台から立ち上がると、ノエへと向き直り、彼の頬を両手で柔く挟む。そうすると、ノエの視線はオデットのそれと自然と重なり合う。
「兄さん。どんなことがあっても、わたしは兄さんの味方ですよ」
……その割には、僕はオデットに叱られていることが多いような気がするな」
「もう、兄さんったら。味方であることと、甘やかすこととは別ですから、厳しくするときは厳しくします」
……じゃあ、今は?」
 他愛のないやり取りを繰り返し、ノエは薄氷の安寧を己へと取り戻そうとしている。それに気がついているが故に、オデットもまた茶目っけを帯びた返事をした。
「今は、とびきり甘やかしていいと思っていますよ」
……ありがとう」
 ノエの額を、オデットの手が撫でていく。目元を隠した前髪がどけられ、不安に揺れる青年の眼差しが露わになった。
「大丈夫です、兄さん。大丈夫ですよ」
 いつも自分にかけられる、おまじないのような言葉。それを繰り返してから、オデットは彼に背を向けて、階下へと向かっていった。
 *
 翌日になってからも、手紙の返信をどうするかについて、すぐに答えは出なかった。感情を最優先していいのならば、無視を決め込むか、断りの連絡をしたいというのが本音だった。
 だが、現在は旅人にすら門戸を閉じているイシュガルドの領内に招待されるというのは、そうそう簡単に得られる機会ではない。せっかく手に入れた機会を感情を理由に台無しにしていいのかという自問は、冷静になればなるほど、ノエの思考の多くを占めるようになった。
 結局、ノエは自分だけでは判断しきれないと、最も頼れる『仲間』の二人に相談することにした。その一人は、ノエが貴族の庶子であると打ち明けた場に居合わせていたヤルマルだ。
「君が行きたくないと思うのなら、無理に行く必要はないと思うけどね。ボクだって、里から手紙があったら即破り捨てていただろう」
 話を聞いたヤルマルは、真っ先にそう言った。ノエ同様、故郷に対して好意的な感情を持っていないからか、彼女はノエの心情に寄り添う発言をしてくれた。
 最終的にノエが後悔しない道を選べばいいと言いつつも、ノエが拒絶したい気持ちを無理に押し殺す必要はないと、オデットと同じ意見も付け足していた。
「もし行くことになったなら、ボクも同行させてもらえると嬉しいね。友達が側にいる方が、嫌な相手と面会するにしても、いくらか気が紛れるだろう? イシュガルドの知り合いの顔も、久々に見ておきたいからね」
 彼女はそう言って、ノエの相談への回答を締め括った。
 だが、ヤルマルとは逆の意見を口にする者もいた。
「お嬢ちゃんの記憶の件を調べるには、どのみちイシュガルドに行く必要があるんだ。後から運良く入国したとして、それを聞きつけた親父さんからの使者が宿の前で待ち構えているよりは、今の誘いに素直に乗っておいた方がいいんじゃないか?」
 ノエが相談したもう一人の人物ことルーシャンは、ノエのイシュガルド行きの背中を押す選択をした。
 彼の言うように、オデットの一件を踏まえれば、イシュガルドに赴かずに彼女の記憶の全容を知ることは難しいだろう。彼女の身内や保護者がイシュガルドにいる可能性も高い。オデットについての調査を途中で投げ出すつもりはないので、ノエとしてもいずれイシュガルドに足を向けるつもりはあった。
 そして、その時に思わぬ形で生家の者が顔を出そうものなら、再びノエは動揺してしまうに違いない。それぐらいなら、最初から覚悟を決めて向かった方がいいのではないか、というのがルーシャンの案だった。
「イシュガルドに行くっていうなら、案内役は引き受けてやるよ。お前の故郷でもあるんだろうが、傭兵と一緒にいた頃は都市部にはあまり行ってなかったんじゃないか? 俺なら、最近の情勢もある程度把握してるから、何も知らない奴よりは案内ぐらいはできるだろうさ」
 ノエの背中を押しつつも、彼は旅支度のアドバイス役を引き受けてくれた。ノエもイシュガルドを擁するクルザス一帯を旅していた身ではあるが、彼の言うように都市部の様子については知らない部分も多い。旅慣れた冒険者の経験に裏打ちされた助言は、貨幣の山と同等の価値はあるだろう。
 そうして、二人から助言をもらったノエは、さらに時間を重ねて悩み続けた。
 実に一週間近く、彼の頭の中では無数の選択肢が行き交い、父のことを考えるたびに湧き上がる苦い感情に苦悩の声をあげていた。加えて、父親のことを考えすぎたせいで、母が死んだときの様子や、異端者として崖から落とされた瞬間を何度も夢に見た。その度に飛び起き、眠れない夜をいくつも過ごす羽目になった。
 たった一言、ミューヌに「断りの手紙を出してくれ」と言えば、この悪夢から逃れられる。そう分かっていても、ノエは軽率に拒絶の選択をできずにいた。
(もし、今回はあいつの招待を跳ね除けられたとして……じゃあ、次また同じ手紙が来たら、どうするんだ)
 悩み続けた七日目の夜。幾度目になるか分からない悪夢に魘されて飛び起きたノエは、冷や汗の残る寝巻きのまま、部屋の窓へと近づいた。睡眠時間を十分に確保できていないせいで、憔悴しきった己の顔が、灯火で浮かび上がった窓に映し出されている。
(手紙ではなくて、今度は直接あいつの使いの者が来たら。あいつ自身が僕に関わることは諦めても、周りの人たちが僕の生存を嗅ぎつけたとしたら)
 映し出された虚像と向かい合いながら、ノエは自問を重ねる。
 ティエリーとディアヌ母子の一件は、奇しくも貴族社会の血筋と歪みを再びノエに認識させていった。たとえノエの父親が息子との再会を諦めても、ノエとの邂逅をお膳立てする人物が父親本人だけとは限らない。
……蹴りを、つけておいた方がいいんだろうか)
 ろくに話もできないままに別れたことが互いの間に亀裂を生んだのなら、曖昧に生まれた亀裂を明確な断絶にするためにも再会は必要なのかもしれない。
 父親と会うと考えただけで、今も体は極寒の地に放り込まれたように震え始める。ありとあらゆる内臓がぎゅっと握り込まれたように、体のあちこちが苦しくなる。
(でも、僕は今は一人じゃない)
 君さえよければ一緒に行くよ、と肩を叩いてくれたヴィエラの麗人。彼女が来るのなら、きっと彼女を一番に想っている友人――オランローもついてきてくれるだろう。
 案内人ぐらいならなってやると背中を叩いた、ノエにとっては人生の先達でもある魔道士の男。貴族社会の事情にも詳しい彼なら、ノエの心痛の幾らかを理解してくれるはずだ。彼の従者であるサルヒもまた、不安に揺れる仲間のために力を貸してくれるはずだ。
……頼りきりになってしまうな」
 ――でも、少しは相談しろと言われたところなんだろう?
 胸の内から微かに響く、ノエと同じ志を持つ若者の声。呆れたような、苦笑いのような言葉の泡がノエの内側から浮かび上がり、弾けて、溶けていく。
 人ならざる友人の後押しを受けたおかげか、ノエの中で最後の躊躇は払拭された。
 文机の脇に、押し隠すようにして置かれていた手紙。それを取り出し、改めて彼は文面を目で辿る。
 怒りはある。悲しみはある。苦々しさなど、いくら積み重ねたか分からない。
 それでも、これがオデットの記憶の手がかりがある地に向かうための切符になってくれるのなら。そして、自分自身が生涯纏わりつくと思っていた影を振り払う切っ掛けになってくれるのなら。
……イシュガルドに、行こう」
 
 青年は、ついに結論を出す。自分を見捨てた父との邂逅と、自分が護ると決めた少女の記憶の手がかりを得るために。
 向かう先は、今も邪竜との戦いが続く氷雪に閉ざされた地。峻厳な山々に囲まれた、その国の名は――『イシュガルド』。