カルデアレジデンス409⑤

藤丸立香のふしぎな影の話

 藤丸立香はおかしなものを飼っている。
 ――とは、ジャンヌとはまた別の友人の表現だ。
 飼っているというのは適切ではない、そう立香は思っている。居てくれているというのが適切だ。
 物心ついた時から、それは常に、立香の傍に存在していた。
 朝の眩しい太陽が照らす影の中に。夕日で長く伸びた影の中に。LEDライトの灯りが生み出す淡い影の中に。
 金色の目をした何かは、立香の影に住んでいる。
 会話は出来ない。だけれど意思疎通はできる。向こうから急に姿を現すこともあるし、にゅっと手のような部分を伸ばして立香の足を掴むこともある。もの言いたげに、左一つしかない金色の瞳で見つめたりもする。
 立香はそれを守護霊の類だと認識していた。
 事実何度か助けてもらっている。子どもの頃に変な大人に付きまとわれた時、撃退してくれたのはそれ――彼だった。それからバイト先のお客にしつこく言い寄られた時も、街に不審者が出た時もそうだ。いつの間にか立香の周りから事件が遠ざかっていたのは彼のおかげだと思っている。
 あんまり当たり前に居るものだから、誰もがそういう存在を持っているのかと思っていた。
 どうやらそうではないらしく、成長した立香は彼の存在を隠すことを覚えた。
 以来彼は、理解してくれそうな相手にしか打ち明けていない不思議なひみつ。
 ジャンヌはそれを、ボディガードと呼んだ。
 立香は、というと――





「猫ちゃんなんじゃないかと思ってるんだ」
 二十一時のベランダお茶会で、立香は巌窟王にそのように話した。
 上半分が破れた蹴破り戸だが、残った破片を回収してしまえば最早ちょっとした窓である。衝動買いしたきり置き場所が無かったアウトドアチェアを引っ張り出し、室外機は丁寧に拭いてテーブルに。そうするとこのとおり、素敵なテラス席に早変わり。
 そこで、細い葉巻の煙をたなびかせている巌窟王を見上げてお茶をする。
 長い髪はうなじ上で結んである。薄手のタートルネックにスラックスはいつもどおり、黒が好きなのかそれとも無頓着なのか。いずれにせよ格好いいし、ついでに言えば高そうだ。スリッパをつっかけている足は裸足で、ベランダと室内の出入りに区別をつけていないあたり結構雑なのかもしれない。そんな観察記録を頭の中に記しておく。
 今日の話のネタはというと、立香の影の中のモノ、についてだった。
「キミなら、ばかににしないで聞いてくれると思ったんだけど…… 信じてくれる?」
「信用に足る男と評価されているのであれば、頷く以外になかろうさ」
 と、巌窟王は唇の端を持ち上げて見せる。
 よかった。立香は胸を撫でおろし、足元に視線を向けた。ベランダの床に、部屋の灯りを受けた曖昧な輪郭がある。
 ただの影にしか見えない。だが、それでも居るのだ。ずっと。きっと、今も。
「それで。おまえを守護する影は、猫の姿かたちをしているのか」
 同じく影を見おろした巌窟王が問う。はっとして立香は頷いた。
「あ、そうそう! そうなんだよ、形から判断してるわけじゃないんだけどね」
「耳や爪を感じると」
「耳はないなー。でもなんかふかふかした感じ? 爪はありそう。あと牙も。目も金色だしね」
「それを、おまえ以外に視認した事は?」
「景清がちらっと見えたって。他はないかな」
「カゲキヨ」
「うん。剣道やってる友達。だからかなあ、勘が鋭いっていうか。……どしたの、変な顔して」
「いや、何も。……然し、そうか。猫とはな」
 言って、彼はくふ、と、含みのある音を零した。何やら意味ありげな横顔に、立香は前のめりになる。
「なになに、ひょっとしてキミ、もう見た? 見えたりした?」
「さてな。しかし――それが私に牙を見せぬという事は、意味合いとしてはどう取る?」
 彼は面白がるような口調だった。疑わないでくれたのは嬉しいが、そんなにするっと受け入れられると思ってはいなかったので驚きだ。それとも外国では珍しい話でもないのだろうか。
「出会って間もなく抱き、愛し、こうして毎夜逢瀬を重ねる国外の男に対し、獣は噛みつかぬと言う。で、あるならば、其れは私をどう評価したのだろうな」
 そう問われて、立香は小さく首を傾げる。
「巌窟王は悪い人じゃない、わたしに酷いことを絶対しないって、認めてくれてるんだと思うけど」
――そうか」
 声には若干の笑いがあった。葉巻を挟んだ手で口を押えて喉を鳴らす。何が面白いのか、赤い瞳を弓なりにして立香を見る。
(何だろう。どういう意味なんだろう)
 分からないが、不思議と不安も嫌な気分もない。
 たぶん、純粋に面白がっているというか、ただ本当に笑っているんだろう、そう思う。
 巌窟王とは知り合ったばかりだ。分からない、知らないことの方がずっと多い。
 それでいてもう、心も身体もがっつり繋がってしまった仲でもある。
 本来ならば、こんな風に笑われたなら不安が勝る関係だ。だけれど一つも恐れはなくて、この人のことは見たままを信じて構わないと立香の本能が告げている。
 でも、説明して欲しいという気持ちはあった。どうして笑うのか。たまにこうして、見透かすみたいな瞳をして、喉笑いをするのは――

 ぴんぽーん。

 どうして、と、問いかけた口の形のまま、立香は室内を振り返った。
 自宅のインターフォンの音だ。そういえば今日、夜間指定便が届くのだった。慌てて立ち上がり、壁の向こうの恋人にちょっと待っててと手を合わせる。ぱたぱた足音を立てて玄関に向かう。
 ――自分の影がついてきていないことに、全く気が付くことも無く。
 ベランダの床に残った、曖昧だった影が黒々と色を沸き上がらせ、ずるりと這い出てきたことなど、受け取り用の判子を探す立香が知る由もなかった。
……景清に影。これも縁なのだろうな」
 そして、その影に対して、巌窟王が軽く眉を持ち上げたことも。
「あれには猫に見えるらしいぞ、恩讐の虎よ。
 尤も、貴様はそれを善しとしているのだろうが―― 全く、互いに強く結んだものだ」
 と、語りかけたことも知らない。
 影の一つ目が、何とも形容しがたい形に、笑うように睨むように歪んだことも、知らない。
 その時の立香は、二人で食べようと取り寄せた限定イタリアンジェラート詰め合わせの到着を、ただ素直に喜ぶばかりだった。