いを
2024-04-29 18:50:14
1710文字
Public ブツメツフツマ
 

パンドラと金の星

全市。
メロディ先生【tamao2mat】
お借りしています。

 旋律は、旋律の気持ちというものを全市にくれた。気持ちというものは形がない。だから差し出したり、受け取ったりできないものだと思っていた。それでも全市が「ほしい」といったものを男はやすやすと手渡してくれた。全市がほしかったものだ。促されてようやく気付いた。ほしいものはすぐそばにあったのだということに。
 旋律のからだはあたたかかった。
 雨に濡れてはいたものの、全市を抱きしめたそのからだはたしかに、あたたかかった。全市は記憶にある限り抱きしめられたことがないので、肩にいらない力が入る。
 ――ところで、トゥイズラーとは、なんなのだろうか。せっかく現代には片手で検索できる、世界中に繋がっている機械があるのだから、あとで調べてみようと思う。
 そして愛している、という言葉の馴染みのなさに、全市は目を瞬かせた。
 愛という単語。ライクという意味の単語ではなく、間違いなくラブのほうだ。そのラブだというのなら、全市はそれなりの誠意を見せなければいけない。
「お前が俺に愛していると言ったことは、ずっと忘れないぞ。いいのか」
 旋律の体温がそっと離れる。さらりと薄い色の髪が目の前で揺れた。濡れていた髪はもう乾いているらしい。
 眼鏡ごしの瞳はどこか、おもしろいものを見るように細められていた。
「ずっとか。言うは易く行うは難しってやつだ。いつまで覚えているかな」
「俺は十年前に百人一首すべて覚えた男だ。お前が言ったその言葉を忘れないことは容易い」
 旋律の薄い紫色の目は、全市を捉えていた。いすに座ったその男は、顔をあげた全市から先ほどから目をそらしていない。
 人と話すときは目を合せて、と言っていた教師がいたことを思い出す。
「それで?」
 と、男が言った。
 全市の黒い目玉が旋律のくちびるをみとめた。
 水分を存分にふくんだ羽織の重たい音とともに、やっと全市は立ち上がった。
「晴れて恋人同士になったわけだが……
 なにかをいざなうように、または見透かしたように笑う男を見下ろす。
 全市の手が旋律の皮膚――ほおに触れた。おそるおそる触れたため、指先がほんのすこし震えていた。
 まだつめたいであろう全市の手の甲を覆うように旋律の手が覆う。
 どくん、と心臓が熱を持ったように感じた。
 背中をすこし丸めて、もう片方の手のひらも旋律のほおにふれた。全市の部屋の、すこし埃が積もったテレビを見たときに恋人同士らしいふたりが、くちびるを合わせる姿を見たことがある。それがどこかとても遠く感じたし、自分に関係のないことだと思っていた。
 世間でその行為を「キス」と呼ぶことを知識でしかしらない。もっと言うなら見かけでしか分からない。
 だが、全市は「したい」と思ったし「ほしい」とも願った。こういう思いや願いを自我というものなのだと知った。
 気付けば、カチリ、という音がすぐ近くでした。
 あたたかいものが触れたことは、分かる。
 旋律の長いまつ毛が見えた。瞼が双葉が芽吹くように開く。
「へたくそ。なんだお前、初キスが俺なのか」
「そうだ」
 素直に頷く。
 旋律はこめかみを掻いて、「全市、やっぱりノンケなんじゃないのか」と問うた。
……俺は今まで人間に恋情を抱いたことはない。男だからとか女だからとか、そういったことには興味もない」
「興味ないって、ゲイでもバイでもないのかお前は」
「分からないが、お前のことは好きだ。告白したとおりに」
 自分のことにも興味なさすぎるのだろうかと自身でも思うが、今考えても分からなかった。
「お前が女でも俺は好きになったと思う」
「なんだまだ口説き足りないのか」
 盛大なため息をついたあと、まくしたてた旋律は全市のうなじに手のひらをあてて、顔を引き寄せた。
「キスってのはこうするんだよ。マイディア」

 雨音はつづく。
 七億不思議が降らせている雨はいつまで続くのか分からない。このままではこの市ごと水に閉じ込められそうだった。
 でも閉じ込められるのなら、旋律の胸の中がいい。
 そんな今までいだいたことがない感情的な思いを、全市はたしかに感じていた。