旋律は、旋律の気持ちというものを全市にくれた。気持ちというものは形がない。だから差し出したり、受け取ったりできないものだと思っていた。それでも全市が「ほしい」といったものを男はやすやすと手渡してくれた。全市がほしかったものだ。促されてようやく気付いた。ほしいものはすぐそばにあったのだということに。
旋律のからだはあたたかかった。
雨に濡れてはいたものの、全市を抱きしめたそのからだはたしかに、あたたかかった。全市は記憶にある限り抱きしめられたことがないので、肩にいらない力が入る。
――ところで、トゥイズラーとは、なんなのだろうか。せっかく現代には片手で検索できる、世界中に繋がっている機械があるのだから、あとで調べてみようと思う。
そして愛している、という言葉の馴染みのなさに、全市は目を瞬かせた。
愛という単語。ライクという意味の単語ではなく、間違いなくラブのほうだ。そのラブだというのなら、全市はそれなりの誠意を見せなければいけない。
「お前が俺に愛していると言ったことは、ずっと忘れないぞ。いいのか」
旋律の体温がそっと離れる。さらりと薄い色の髪が目の前で揺れた。濡れていた髪はもう乾いているらしい。
眼鏡ごしの瞳はどこか、おもしろいものを見るように細められていた。
「ずっとか。言うは易く行うは難しってやつだ。いつまで覚えているかな」
「俺は十年前に百人一首すべて覚えた男だ。お前が言ったその言葉を忘れないことは容易い」
旋律の薄い紫色の目は、全市を捉えていた。いすに座ったその男は、顔をあげた全市から先ほどから目をそらしていない。
人と話すときは目を合せて、と言っていた教師がいたことを思い出す。
「それで?」
と、男が言った。
全市の黒い目玉が旋律のくちびるをみとめた。
水分を存分にふくんだ羽織の重たい音とともに、やっと全市は立ち上がった。
「晴れて恋人同士になったわけだが……」
なにかをいざなうように、または見透かしたように笑う男を見下ろす。
全市の手が旋律の皮膚――ほおに触れた。おそるおそる触れたため、指先がほんのすこし震えていた。
まだつめたいであろう全市の手の甲を覆うように旋律の手が覆う。
どくん、と心臓が熱を持ったように感じた。
背中をすこし丸めて、もう片方の手のひらも旋律のほおにふれた。全市の部屋の、すこし埃が積もったテレビを見たときに恋人同士らしいふたりが、くちびるを合わせる姿を見たことがある。それがどこかとても遠く感じたし、自分に関係のないことだと思っていた。
世間でその行為を「キス」と呼ぶことを知識でしかしらない。もっと言うなら見かけでしか分からない。
だが、全市は「したい」と思ったし「ほしい」とも願った。こういう思いや願いを自我というものなのだと知った。
気付けば、カチリ、という音がすぐ近くでした。
あたたかいものが触れたことは、分かる。
旋律の長いまつ毛が見えた。瞼が双葉が芽吹くように開く。
「へたくそ。なんだお前、初キスが俺なのか」
「そうだ」
素直に頷く。
旋律はこめかみを掻いて、「全市、やっぱりノンケなんじゃないのか」と問うた。
「……俺は今まで人間に恋情を抱いたことはない。男だからとか女だからとか、そういったことには興味もない」
「興味ないって、ゲイでもバイでもないのかお前は」
「分からないが、お前のことは好きだ。告白したとおりに」
自分のことにも興味なさすぎるのだろうかと自身でも思うが、今考えても分からなかった。
「お前が女でも俺は好きになったと思う」
「なんだまだ口説き足りないのか」
盛大なため息をついたあと、まくしたてた旋律は全市のうなじに手のひらをあてて、顔を引き寄せた。
「キスってのはこうするんだよ。マイディア」
雨音はつづく。
七億不思議が降らせている雨はいつまで続くのか分からない。このままではこの市ごと水に閉じ込められそうだった。
でも閉じ込められるのなら、旋律の胸の中がいい。
そんな今までいだいたことがない感情的な思いを、全市はたしかに感じていた。
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