カルデアレジデンス409③

巌窟王の事情

 巌窟王の胸の真ん中には、巨大な空洞が空いていた。
 無論、物理的にと言うわけではない。心、魂、在り方、そういったものの中央が奇妙な形にえぐれている感覚が常にあった。別の言葉で表現するとすれば、不満でも不安でもない漠然とした空虚と呼べる代物だ。
 決定的な欠落感。
 何かが足りないという自覚はあれど、正体は分からない。
 そうして、長い月日をまんじりともせずに生きて、現在。
 日本でのマンション生活の最中に、ついに原因を知った。
 虚の名前は藤丸立香。
 彼女こそが、巌窟王の欠落そのものだった。
 藤丸立香とは即ち、巌窟王にとってのraison d'être――存在理由たる概念である。
 決して失われてはならない、絶対にして唯一無二。それが側に居ないとあれば、なるほどまさしく欠損だったろう。
 切欠は偶然だった。たまたま、彼女の腕に、その右腕に触れた瞬間に、巌窟王は記憶を取り戻した。忘却補正――忘れることができない特性が、魔術のまの字もない世界であっても作動した。それはある意味奇跡だったのかもしれない。
 接触した部分から流れ込んでくる膨大な記憶。
 全身がはじけ飛び、再構築されるような感覚。
 巌窟王。モンテ・クリスト。
 そして、アヴェンジャー。
 そう呼ばれた日々が確かにあったこと。得た経験、感情、愛情。
 平和な日本の片隅で、巌窟王は悟った。
 運命が隣に住んでいたことを。その運命が、文字通り隔てた壁を破り――再会できたことを。
(如何ほどの歓喜であったか、おまえは知る由もないが)
 それはそれで構わないのだ、と、思う。
 触れた瞬間に思い出した巌窟王と違い、立香はマスターと呼ばれていた頃の記憶はないようだ。ごく普通の一般的な大学生で、色々とアルバイトをしながら独り暮らしをしているらしい。
 衝動に突き動かされ遮二無二愛し合うという、勢い任せの恋人関係にやや戸惑ってはいるが、本人曰く、
『わたしみたいなので良いのかな、とは思わなくもないけど…… でもすごい嬉しいし幸せだよ。矛盾するかもしんないけど、どっかであたりまえ! とも思ってるんだ。キミとこういう関係になれたこと』
 とのことである。
 そう聞いた時の巌窟王の歓喜がどれほどのものか、語り尽くせるものではない。
 説明はできないが絶対的な何かを感じ、必然だと信じて疑わない。他ならない立香自身が、そう語っているのだから間違いない。
(記憶も無く、体験も無く、それでもなお愛するならば)
 まさに運命、としか言いようがない。
 かつて巌窟王は、藤丸立香の為に在り方を変化させ、エドモン・ダンテスからモンテ・クリストに成った。
 その姿に成り果てた時、一度は捨てた縁を新たに結びなおした。
 結び目は今もなお残り、再会の導きとして一役買っている。こうして隣に在ることが、絆の証に他ならない。
(いや―― 今、でなく、全て)
 未来過去全てに至るまで、結ばれ続けるのだろう。
 彼女が居る場所に、自分は在る。
 どこであろうと、いつであろうと。平和であろうと過酷であろうと。
 藤丸立香が望む限り、永遠に。
 その確信が身に染みる。大穴が空いた壁の向こうで笑っている立香を眺め、巌窟王は自然と頬を緩ませた。
「お、なんかいい顔してる。思い出し笑い?」
 春の夜空に珈琲の湯気をなびかせ、立香は小さく首を傾げた。
 巌窟王が記憶を取り戻したその日の夜から、二人こうしてベランダで逢瀬を続けている。どちらかの部屋に行けばよいのだろうが、始まったばかりの関係に気恥ずかしさを覚える立香は、壁越しの会話を気に入っている。ちょっと非日常で楽しい、らしい。
 戦いの日々では目にすることも叶わなかった、立香本来の趣味で選ばれた衣類の特徴さえも、巌窟王にとっては尊く見える。出会いの夜に着ていた珍妙な猫柄のシャツにパーカーとスウェット、という緩すぎる部屋着も悪くなかったが、流石に恋人と呼べる関係になったからには見栄があるのだろう。今は真新しいルームウェアに、柔いミルク色のカーディガンを羽織っている。橙の髪がよく似合う、甘い色彩が愛らしかった。
 そんな愛しい存在が、巌窟王の淹れた珈琲のマグを両手で持ち、歯を見せて笑っている。
 泰平の世で。身体に傷ひとつつくることもなく。
(ああ、いかんな)
 ただ眩しく、胸が痛む。
 黙った巌窟王の心境など知る由もなく、立香は身を乗り出してねだった。
「おもしろい話なら教えてよ、キミのこと何も知らないし」
「そうだな、知らぬな」
 感じ入っている様は見せたくない。こちらにも年長者の矜持がある。飲み込んだ感動の代わりに、巌窟王はリトルシガーの煙を吐いた。
 なにも知らないと言う、無邪気な笑顔。
 だが、彼女は、本当は――何もかもを知っているのだ。
 自分のように思い出しさえすれば、知らない、などと言う単語は出てこない。
 共犯者、運命。唯一無二にして共同体。そう呼ばれる関係のうちの片方が、欠落した状態のままでいる。この現状をしかし、巌窟王はさほど憂いはしなかった。
 或いは、そう。
 思い出さなくても良いとすら思う。
 マスターとしての記憶は、決して良いものだけではない。過酷すぎる日々の思い出が平穏に影を落とすならば、令呪を刻んだ右手など忘れて然るべきだ。
(過去は私が覚えている、全て)
 おまえには、輝かしい未来だけがあれば良い――
 というのは、いささか過保護だろうか。
 ちらと立香を覗い見る。彼女は興味津々の表情で、巌窟王が喋り出すのを待っている。
 期待の愛らしさには敵わない。銜えていた葉巻を捩じり消し、巌窟王は夜空を見上げた。いつもと変わらない、星の見えない都会の空だ。つられて立香も天を仰ぐ。
「そういえば、初めて会った時も空見てたね。夜空が好きなの?」
 ロマンティックだねえ、と、彼女は笑った。
 思わず笑いが込み上げてくる。噴き出せば訝しがられるだろうと頬に力を込めたが、声はわずかに上ずった。
「そう、だな。無意識だったが、そうだったのだろう、私は」
 昔から、記憶を取り戻す前から、よく空を見上げていた。
 おかげで天体と天候に詳しくなったが、何故そうしていたのかは、決して空に興味があったからではなく――
――長い間、星を探していた」
 暗い夜空に、一番輝く蜜色の星を。
 だが、星は天にでなく、隣に在った。
 運命の名を借りて落ちて来た輝きの眩さに、巌窟王は目を細める。不思議そうに瞬きをする無垢な瞳が、愛しくてならなかった。
「ならば今夜は、星の話を一つ」
 名を隠し、指をささず。
 ただ語って聞かせよう、と、巌窟王は囁いた。
 かつて、闇の中に輝く一等星を見つけたことを。
 その星が今も煌めいていることが、どれだけ素晴らしいことであるかを。
 きっと長い話になるだろう。暖かな夜に、葉巻に火を点ける音が柔く響いた。