マンションのベランダにある仕切り壁は、蹴破り戸という名前らしい。
その名の通り蹴って壊せる程度の強度で、災害時に逃げ道を確保するために用意されている。実際壁自体にもそう書かれているし、立香自身、洗濯を干しながらへえ壊してもいいものなんだな、と思ったものだ。
だが、それだけだ。実際にお世話になったこともなければ、その場面を目にしたこともない。大抵の人間がそうであるように、立香もまた、ただの壁のとしか認識していなかった。
今まさに、その認識が改まっている。
質問:蹴破り戸はどの程度の衝撃で壊れますか。
そう問われたなら、立香は自信を持って答えることができる。
回答:物干し竿の先端を勢いよくぶつけると貫通します。
●
「ごっ
…… ごめんなさい、ほんとごめんなさい!」
星のない春の夜のことだった。
物干し竿を放り出し、立香は上面が粉砕された壁越しに頭を下げまくっていた。
大きな破片があちらとこちらにこぼれている。大きく開いた穴の向こうから、隣人が動きを止めてこちらを見ていた。口に銜えた吸いかけの煙草から灰がぼろんと零れる。長くて灰色の髪をした外国人男性だった。へえお隣さん外人さんだったんだ、なんて小さな発見を楽しむ余裕もなく、ただただ謝るしかない。
今日は大分温かいから、夜のうちに洗濯ものを干してしまおうと思った。
思いがけず量が多かったため、竿の長さが足りないことに気が付いた。そういえばこれ伸びるんだったな、とステンレスの部分を回してみたら、これが固くて動かない。力まかせに思いきり引っ張ったら、勢いよくいった。シャカァン、と良い音を立てて思ったよりもずっと伸びた先端が蹴破り戸と衝突し
――
結果、隣人と初めての邂逅を果たした。
彼は夜の喫煙を楽しんでいたようだ。こんな気持ちのいい夜だ、さぞかしいい気分だっただろうに、まさか物干し竿が貫通してくるとは欠片ほども思うまい。そう考えるともう申し訳なくて申し訳なくて、立香は上げた頭を戻せない。
「あの、すぐ弁償、修理? しますから!」
彼は答えない。言葉が通じないのだろうか。どうしよう、こういう時何て言えば
――混乱する頭で必死に対策を練っていると、遠い音が聞こえた。コール音だ。静かな住宅地の夜だからこそ聞こえる、他人のスマートフォンから漏れ聞こえる電話の音。
顔を上げると、隣人は耳にスマートフォンを当てていた。
「
――カルデアレジデンス四〇九号室の者だが。ベランダの仕切りを破損した場合の手続きを知りたい」
「え、え、えちょっと!?」
速攻電話で対策を始めている。手が早すぎる。しかも流暢な日本語で。
慌てた立香が蹴破り戸の生き残りたる枠の部分を掴んで身を乗り出すと、彼は手だけで動きを制した。黙っていろ、ということらしい。
「
……私でなく隣、
……いや、そうでなく」
はらはらする。なんか揉めている雰囲気ではなかろうか。こちらをちらと見た後、背中を向けた。心なしか声が小さくなっていた。
「
――分かった、それでいい。当方による破損だ」
「ちょっと待ってそれは駄目っ、あ! 切った!?」
「切った」
くるり、男が振り向く。通話を終えたスマートフォンをスラックスのポケットに戻して。
そしてぺたぺた、スリッパ履きの足で元居た位置まで戻ると、新しく煙草に火をつけた。ふわあ、と白い、湯気のような豊かな煙が舞い上がった。
「話が通じなかったのでな。自損だと思い込まれていた。これも余所者の弊害か」
「わたしちゃんと説明しますから! 物干し竿ブッ刺しましたって、お隣さんは関係ないですって!」
「営業時間外だそうだ。明朝折り返すと」
「んあああああ夜間対応窓口いいいい!」
いや、日本人の働きすぎ問題を考えるとむしろ良いことなのだろうが、立香にとっては今ばかりはそうではない。情けなく上げた悲鳴のまま男を見ると、彼は既に状況は終了したといわんばかりに、煙草を楽しむ姿勢に戻っていた。いや、何も終わっていない。
「あ、あの
……?」
恐る恐る立香は話しかけるが、相手は銜え煙草のまま紫煙を吐くばかりだった。
(なんだ、この人
……)
と、立香が眉間にしわを寄せるのも仕方がないことだった。
なんというか、超然としている。この騒動
――自宅に物干し竿を突っ込まれるという珍事件に対して、まったく動じていないし怒っても居ない、ように見える。
夜風に長い髪と結んだリボン紐を揺らして、こんな状況でなければ見入ってしまいそうなほど綺麗な顔だ。背も高くて目鼻立ちも整っている。黒いぴったりとしたセーターにスラックスという姿だが、仕立てが良いのか皺や光沢が上品で、ひと目見て、この人はお金持ちなのだなと分かる。よくよく見てみれば、煙草すら白い紙巻ではなかった。細い葉巻みたいな奴だった。
そんな人が何故、単身住まい向き1Kタイプ・居室八畳の小さなマンション、カルデアレジデンスの四階に居を構えているのか。
謎だ。謎過ぎる。声をかけたはいいが、その先何を言ったら良いのかわからなくなってしまった。
黙ってしまった立香に対し、男は短くなった煙草だか葉巻だかを捩じ潰し、静かに踵を返した。カーテンが半分閉じられた掃き出し窓に向かって歩いていく。
「待って待ってまって! 何事もなかったかのように!?」
「ん」
振り向いた彼はこちらを見、しばらく黙った。そしてふと空を見上げてから、立香の背後をつい、と指さす。
「服を干すのはやめておけ。雨が降るぞ」
「え、ええ
……?」
「ではな」
からから、ぴしゃん。
窓は開いて閉じられ、鍵のかかる音が最後に響いた。
取り残された立香は立ち尽くすしかなく、そして今になって、洗濯かごを室外機の上に置きっぱなしにしていた事に気が付いた。なるほど、それを見て干さない方がいいとか言ったのか。
空を見上げると、星ひとつない暗闇が広がっていた。赤っぽい満月だけが薄っすら、夜雲の向こうに透けて見える。
(降りそうになんか、見えないけど
……)
そんな謎の天気予報よりも、もっとどうにかしないといけない事があるだろうに。
だけれど冷静になってみれば、時刻はもう遅い。こんな時間に騒げば近所の迷惑にもなるし、この場で相談を重ねるのも非常識だ。だからこそ彼はさっさと引っ込んでしまった、のかもしれない。
「
……明日、ちゃんと謝ろう」
それで、ちゃんと手続きはこちらで引き取ろう。
今はそれしか出来ることもなく、立香はしょんぼり、かごを抱えて自室の窓に手をかけた。
最後にもう一度、大穴に目を向ける。カーテンの隙間から細い光が漏れていたが、物音は何一つ聞こえてはこなかった。
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