いを
2024-04-23 22:11:41
2562文字
Public ブツメツフツマ
 

詩人に梔子

全市。
NO.39
参議等(880-951)
・メロディ先生【tamao2mat】
お借りしています。

 ピアノを弾くことが好きなのだろうかと全市は思っていたし、頭の片隅で考えていた。当たり前のように、ピアノを弾くためには手が存在しなければならない。ピアニストにとって手は命だろう。それがなくなったら旋律、お前はどうする?
 
 傘が遠い場所に転がっている。この雨は人間の生気を奪う。せめて屋根のある場所に連れて行かなければならない。
 全市は羽織っていたコートを旋律の頭からかけた。これですこしはしのげるだろう。
「おい、お前が濡れるだろ」
「だったら早くあの店の中に入れ。応急処置をする」
 旋律の顔が思い切り歪んだ。近くの古い店に旋律を押し込んでから、傘を取りに行った。今はすこしの雨具も無駄にできない。
 燃えた七億不思議はもう跡形もない。痕跡や影すら残っていない。あの七億不思議が在った証明すらこの世からきれいに消えた気がした。
 店は駄菓子屋のようだった。かすかに甘い匂いがした。チョコレートの匂いかもしれない。
 旋律は奥まったレジ横の椅子にすわっていた。しとどにぬれた、細い髪の先からは雨粒が流れおち、ざらついた床にしみをつくっている。
……
 生気がどれだけ奪われたかは分からない。だが、顔色を見ればすこしくらいは分かる。旋律は今、生気を奪われて弱っていることくらい、分かっている。そしてそれを、自分がどう思っているのかも。
 旋律の左手首と右手を見下ろして、床に片膝をつく。
「手をみせろ」
「大丈夫だ、これくらい」
「大丈夫なわけないだろう。傷口から雑菌が入る。膿んだらどうするんだ。お前の手は……
 お前のその手は、ピアノを弾くために必要なきれいな手のはずだ。
 そこまで言えず、全市はそっと歯を噛んだ。
 感情を表にだすことはいけないことだと学んだ。本心を曝け出すことは弱みになることだからしてはいけないと学んだ。
 その学びを飲みこんでその通りに動いても、結局なんにもならなかった。
 まず旋律の右の手のひらに消毒液を数滴乗せたガーゼをあて、包帯をゆっくりと巻く。ガーゼをあてた瞬間、旋律からかすかな呻き声が聞こえたが、聞こえないふりをした。
「痛むか」
「痛い。沁みる。ずきずきする」
「もう少し早く到着すればよかった。すまない」
 ぽた、と旋律の髪からしたたり落ちた雨水が全市のひたいに落ちる。眼鏡の奥の目が、紫色のうつくしい瞳の色が、全市を映した。
……お前の手は、大事なものだ」
 次は左の手首を診る。まるでささくれだった硬い縄が皮膚に食い込んだような傷跡だった。全市はその手首に慎重にふれ、消毒液をまたガーゼに浸した。
「俺はお前が弾くピアノが好き、だと思う」
「なんだ、だと思うって」
 心外そうな声色を全市は聞いた。そしてぽつりと呟く。
「俺には好き嫌いがない」
 ガーゼで細い手首をぐるりと当てる。そして白い清らかな包帯を、自分の思いを押し込めるようにそうっと巻いた。
 血がかすかににじんでゆく。じわじわと白い包帯を赤く染める。禁忌のようなその色を全市は知っていた。
 人間が流すにふさわしい液体。人間のぬくみの正体。
 包帯をゆるく結ぶと、全市はちいさく息をついて、旋律の両手を自身の両手で包んだ。
「全市?」
「人間への好き嫌いも、食べものへの好き嫌いも、物事への好き嫌いもない。ない、はずだった」
 ぼそぼそとつぶやき続ける全市のひたいは青白い。瞳孔も、開いているのか開いていないのか分からないくらいにあいまいだった。
 旋律の手のぬくもりが、今の全市を全市とたらしめるようなものでもあった。
「でも」
 ――でも。何。
 自分はなにを言おうとしているのだろう。自分は自分であろうといつもしていたが、今だけはちがう。たぶん、動揺しているのだと、思う。
 旋律が怪我をしたから。
 きれいな、うつくしい手に傷をつけたから。
 傷をつけたのは、全市が燃やした七億不思議だ。それでも全市は重苦しく感じた。傷口を見たときから、それはつきまとっていた。
 旋律の息の音が聞こえる。
 雨音が遠い。
 自らの呼吸の音はさらに遠い。
……お前と食べるものはうまい。お前がいるからだ」
 それがなぜか、もう分かっていた気がした。
「お前と一緒にいるとどうしてか、楽しい。お前はこんな俺を見捨てなかった。俺といてつまらないと言って去っていく人間はたくさんいた。でもお前は違った」
 旋律とは中学校以来にこの学園で再会した。
 それからこんな、人間もどきのような男と話をしてくれた。そのきれいな手でピアノを弾いて聴かせてくれた。それは全市にとっての「うつくしいもの」だった。
「なあ旋律。俺は人間に見えるか? 人間のかたちをしているが、お前は……
 口をつぐんでそっと手を離す。
 わずかに青白い旋律の爪が、いやでも全市の視界に入った。
「俺は、人間になってもいいんだろうか」
「お前はなりたいのか? 人間に」
……。なりたい、と思う。お前とおなじ人間になりたい」
 旋律の声は雨の音と混ざるけれど、それでも全市の耳にとどく。音楽室で彼が弾いたピアノの曲のように。
 駄菓子屋のなかは冷える。
 そろそろ、戻ったほうがいいかもしれない。

 みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに
 乱れそめにし われならなくに

 恋に乱れる心を重ねて詠まれた歌だ。
 恋。
 恋、
 ――恋。

 見覚えのない、感じうることもない恋という感情。
 それでもこのように百人一首では恋の歌は四十三首あるという。ほぼ半数のそれは、全市の頭の中に入っている。
 入っているがその恋の色を、恋の激情を、叙情を、全市はしらない。
 ――しらなかった。
 
 自分以外の人間がそばにいて安心したり、楽しく感じたり、苦しくなったり――そしてただ、ほしい、と思ったりすることを人間は「恋」と呼ぶのだろうか。
「あさぢふの 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき。……今まで黙っていたが、もう隠しきれない恋しさをうたった歌だ。俺は、お前のことをずっとそう思っていたのかもしれない」
 幻滅したか。気持ち悪いと笑うか。困るか。恐ろしいか。
 駄菓子屋のなかはあいかわらず暗い。
 暗くて、寒かった。