戸倉
2024-04-21 14:41:37
16944文字
Public 終わらない牧台シリーズ
 

終わらない牧台②

【一緒に寝ようよ編】
・現パロ W23歳 会社員×V23歳 売れない役者
・高校時代からのともだち
・4年前に失踪したVに再会して同居してる
・付き合ってない、けど無意識にイチャつく




 どうにかなるだろうと成り行き任せに始めた同居生活。数日間ウルフウッドの家で過ごす中、ヴァッシュが気づいたことがいくつか――
 まず、ウルフウッドは想像していたよりも口うるさい、というよりも妙にこだわる部分がある。ヴァッシュのレストランでのバイトが夜まで入っていようと、生活リズムが崩れるからといって翌日の昼前には起こしてくるし、食事の栄養バランスを気にしすぎる。そして帰宅時にはただいまと言わないとあからさまに怒る。
 趣味と言えるほど没頭していることはないようで、執着していると言えば本数の減らない煙草くらい。部屋のあちらこちらに、置き型からスプレー型まで様々な消臭グッズが常備してある。
 酒は好むが飲み過ぎず、ギャンブルもしない。部屋の内装はシンプルかつ必要なものしかなく、一人暮らしの男にしては随分と丁寧で穏やかな暮らし。
 ヴァッシュは若干疑っていた。自分がこの家に転がり込む前にも誰かと一緒に住んでいたのではないだろうかと。
 あとこれは単なる美的センスの問題だが、ウルフウッドは出勤用のスーツに合わせるネクタイ選びのセンスがない。いつも適当に暗い色ばかりを選んで身につけていて、宝の持ち腐れとはこういうことを言うのか、と毎日のようにヴァッシュは思っている。けれどわざわざ角が立つことを言うのは避けたくて、家主の服のセンスには愛想笑いを決め込んでいた。
 そして、いちばんの悩みは寝る場所。ヴァッシュがウルフウッドの家に転がり込んでから一週間経つが、ウルフウッドは一度も自分のベッドを使うことなく床やソファで睡眠をとっている。ヴァッシュはそれがどうしても気に入らない。何度も自分の方が床で寝ると言っているが、ウルフウッドは聞く耳を持たず、強く突っぱねるだけ。
 
 今日もまた不毛な言い争いが続いていた――
 
「アカン」
「なんでだよ⁉」
「ワイがソファで寝る」
「おまえが身体壊したら元も子もないだろ!」
「布団買うてきてリビングに敷いて寝てもええし。まぁおどれは気にせんとベッド使い。アレ、奮発して買うたもんやし結構寝心地ええやろ?」
……じゃあ、一緒にベッドで寝るのは?」
……ハァ? おどれアホやとは思うとったけど、ほんまに……
「おまえのベッド、デカイじゃん。クイーン? キング? なんのためにこんなデカイのかは知らないけどさぁ、とにかくおれたちふたりでも寝れる……
 ぴたりと真顔で黙り込んでしまったウルフウッドに居た堪れなくなり、ヴァッシュは慌てて言葉を続ける。
「分かってるよ! むさ苦しいのは! でもそれしかないじゃん! なるべく近づかないようにベッドの端の方で寝るし! それでいいだろ⁉」
 ヴァッシュは瞬きすら忘れたように動きの止まった男へ迫り寄り捲し立てる。珍しく言い返せない様子のウルフウッドは、顔を顰めながら一歩下がり、低く唸った。
………………アカン」
 そこまで頑なになる理由がヴァッシュには分からなかった。頑固さに腹が立つというよりは、ここまで拒否されると虚しい。やはり四年も音沙汰のなかった薄情なともだちと同じベッドは嫌だということか。そうだとしても、ここで引き下がるわけにはいかない。
 同居生活は、譲り合い。悪く言えば妥協。ならば、ふたりが納得できる妥協点を見つけたい。その一心でヴァッシュはウルフウッドの袖口を引っ張り、本気だという気持ちを込めて男の顔をじぃっと見つめる。
「一緒に寝ようよ」
 意図したよりも拗ねた声が出て、ヴァッシュは自分の頬が熱くなるのが分かった。瞳に薄く張っていく水の膜、次の言葉が紡げずに小さく震える唇。これでは、ともだちの軽いお願いではなく縋るような懇願だ。
 案の定、ウルフウッドは返答に迷い、黒い瞳をまあるくしてヴァッシュを凝視している。困らせたいわけじゃない。ヴァッシュは今すぐ逃げ出したい衝動に駆られたが、袖口を握る手に力を込めウルフウッドの反応を待った。
…………おんどれほんまにアホやな」
 溜息混じりの返答の意味するところが分からず、ヴァッシュは首を傾げ目の前の男を見上げた。家主であるウルフウッドを差し置いてベッドを占領していると、どうしてもこの家の邪魔者のように感じる。家とは、安らげる場所であるべきなのに。居候であることには変わりなくとも、生活の邪魔はしたくない。そしてできることなら――、贅沢かもしれないが、同居人がいて良かったと思ってほしい。
「一回試してみてさ、ほんとにダメだったらまた考えよう?」
 ウルフウッドの視線が宙を泳ぎ、リビングの時計をちらりと見やる。あと十分もすれば、ヴァッシュがレストランのバイトに出かける時間――。もう少しこの問答に耐えきれば、今日はこの話が流れるとウルフウッドは思っている。そのあからさまな態度がさすがにムカついて、ヴァッシュは言うつもりのなかった切り札ともいえるカードを切った。
「おまえがベッドで寝ないせいで身体でも壊したら、すぐにこの家出て行くからな!」
 精一杯の凄みを込めてヴァッシュが言い切った途端、ウルフウッドは苦虫を噛み潰したような顔をしたあと、魂も一緒に抜け出ていきそうな深い溜息を吐いた。視線を左右へ彷徨わせ、そわそわと落ち着きない様子で腕を組み、納得がいっていないことを前面に出しながら喉の奥から声を絞り出す。
……今日だけ、お試しやからな」
「うん、お試しね」
 渋々ではあるが了承してくれたウルフウッドにほっと胸を撫で下ろす。これで居候としての罪悪感が少し減ることに喜びつつも、正直ここまで嫌がられるのは少し心外だった。学生の頃はヴァッシュの家に寝泊まりをしたこともあったはずなのに、やはり過去は過去。今の関係とは違う。

 やっと問答に決着がつき、ヴァッシュは心晴れやかに軽い足取りでバイトへと向かった。今日は日曜日だからウルフウッドの会社は休み。不規則に働いているヴァッシュとは微妙に生活リズムが合わないが、その少しのすれ違いが今はちょうどよく感じる。
 ヴァッシュのバイト先はカジュアルなイタリアンレストラン。創業二十年、味のある佇まいと、気さくな女性店主の作る定番料理から創作料理が有名な人気店。カフェだけの利用も可能なので客層も幅広く、何度か雑誌の取材を受けたこともある。
 厨房でアラビアータを作りながら、ヴァッシュはぼんやり考える。今日は二十二時半まで働いて、急いで帰って二十三時。そこから風呂に入って髪を乾かし就寝するわけだが、今日はウルフウッドも同じベッドで一緒に寝る。
 はて、ウルフウッドは先にベッドで休んでいるのか、それとも寝ずにリビングでヴァッシュの帰りを待っていてくれるのか。気軽に言った言葉がいきなり現実味を帯びてきて、ヴァッシュは顔にじわじわと熱が集まるのを感じる。
 どっちを向いて寝るのだろう、顔を合わせたら気まずいからお互い外側を向けばいい? 寝返りはしちゃダメ? 変な寝言を聞かれたらどうしよう? 考え出すとキリがなく、ただ眠るという行為があまりにも難しく感じられる。
「アッッツ!」
「ヴァッシュさんどうなさったんですの⁉」
 店主の娘であるメリルが大声に驚きカウンターから身を乗り出す。彼女はヴァッシュの所属する芸能事務所のマネージャーであり、この店のバイトも彼女の紹介があって始めたものだった。
「ダイジョーブ、ちょっとフライパン触っちゃっただけ……
「早く冷やしてくださいな、跡になったら大変ですわ!」
「うん、平気。ごめんね、驚かせて」
「なんだかぼーっとしてらっしゃいますわね。何か悩み事があるなら、なんでも相談してくださっていいんですのよ。仮にも私はあなたのマネージャーなんですから。仕事はほとんどないですけど!」
 メリルはカウンターの椅子に座り直し、悪戯っぽく笑う。長方形のドロップピアスが楽しげに耳元で揺れた。
「うわぁ、君ほんとに僕のマネージャー? 仕事がほとんどないとか言っちゃう?」
「事実は認めないといけませんわ、今後の成長のためにも」
 メリルはいわゆる敏腕マネージャーというやつで、ヴァッシュの他にも多くの役者を担当している。本来、私生活まで面倒を見てもらうのは良くないと思っていたが、彼女の母が営むレストランの仕事を紹介してくれたのは正直とても助かっている。シフトの融通も嫌がることなく聞いてくれる職場はなかなか見つけられるものではない。
「悩みってわけじゃないんだ。ただ最近生活環境が変わってね」
――お引越しされたんですの⁉ そういうことはちゃんと言ってくださらないと!」
「あっ、そうだった! ごめんメリル! でも、もしかしたらすぐに出ていくかもしれないからちょっと様子を見てから君に話そうと思ってたんだ」
「出ていくって、どなたかのお家にいらっしゃるんですの?」
「うん、高校時代のともだちの家」
……その方と何かあってぼんやりされてたんですのね」
「えっ、いや、そんな大した話じゃ……
「まぁ無理には聞きませんけど、外に出るお仕事をされていることを自覚なさってくださいね?」
 柔らかな雰囲気の木製テーブルの上を、白い指が若干の緊張感を持ってリズミカルに叩く。
……どういう意味?」
「それはもちろん……まだヴァッシュさんは売り出し中の身ですし、その方となんらかの噂になるようなことがあったら今後の活動にも響きますわ」
――あぁ、えーと、大丈夫だよソウイウノは。アイツは男ともだちなんだ。僕みたいなどうしようもない奴ですら放っておけないお人好し」
「ヴァッシュさん。大丈夫かどうかなんて誰にも分かりませんわ。この世界はなんでも起こりますから」
「何それ、どういう意味?」
「昔知り合いに聞いた受け売りですわ、お気になさらず!」
 メリルはマグカップに口をつけ、一方的に会話を終わらせる。次のオーダーが入りヴァッシュが忙しくなった頃には、メリルはカウンター席から姿を消していた。
 
 この世界はなんでも起こるから――。確かに、まさか四年ぶりに再会した男と一緒に住むことになるとは思わなかったし、まさか自分の方から一緒のベッドで寝ようと誘うことになるとも思わなかった。だが、別に深い意味があるわけではない。もう少しあの場所で暮らしてみたい。簡単にあきらめたくない。だからこそ、家主であるウルフウッドには居心地よくいてもらわなければならない。そしてあの家にベッドは一つしかないから、ヴァッシュに残された道はたった一つというわけだ。

 気もそぞろな状態でバイトを終え、ヴァッシュは地に足のつかない気分で帰路につく。ウルフウッドが先に寝ている可能性を考慮してなるべく音を立てぬよう鍵を開けると、リビングの電気は既に消えていた。
 軽くシャワーを済ませ、脱衣所で髪を乾かしながら考える。もう既にウルフウッドがベッドで寝ているのなら、ヴァッシュが部屋に入った時に起こしてしまうかもしれない。今日は自分がソファで寝るか――。だが、それでは自分から言い出したくせに約束を反故にして逃げるようなものだ。せっかくあの頑固なウルフウッドを説得できたのだから、このチャンスを逃してはいけない。ヴァッシュの本能がそう叫んでいた。
 息を潜め寝室の戸を開けると、横向きでベッドに寝そべる大きな黒い影。細心の注意を払ってベッドの端に乗り上げ、掛け布団を頭から被る。眠る時の呼吸は鼻から吸うのだったか、口から吐くのだったか。ヴァッシュは静かに混乱していた。数分経っても、隣で眠る男の寝息は聞こえてこず、寝息どころか息をしているのかも怪しいほど音がしない。あまりにも静かに眠るウルフウッドのことが気になり、ヴァッシュは身体を起こし、シーツの上に手をつきながら四つ這いでそっと近寄った。
 上からウルフウッドの顔を覗き込み、息をしているのか確認するだけ――だったのに、暗闇の中ヴァッシュの視界に飛び込んできたのは炯々と輝く眼光。思わず、ヒッと上擦った声を漏らして飛び退き、危うくベッドから落ちそうになった。ウルフウッドは欠伸を噛み殺しながら身体をヴァッシュの方へと反転させると、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「帰っとったんか……おかえり」
「あ、うん………
「うん?」
 喉の奥を鳴らすような低音。徐々に暗闇に慣れてきた目が、ウルフウッドの左目の下がヒクリと動くのを捉える。
「あ、あー、えっと、ただいま」
 こんな時でも「ただいま」と言わないと機嫌が悪くなるウルフウッドは、律儀というよりは若干しつこい。ここまでされると、ヴァッシュはまるで自分が躾をされている犬のように感じる時すらある。実際、拾われたようなものではあるが。
「ゴメン、起こしたよな」
「いや、別に」
「寝よう。おやすみ、ウルフウッド」
 ヴァッシュはベッドの端に寄り、掛け布団で全身をすっぽりと覆って鼻の高さまで引き上げる。しかし背に強い視線を感じて、目線だけウルフウッドへと向けた。
「何? どうかした?」
……寒ないか?」
「え、あぁ、うん。まだ少し夜は冷えるよな」
 そう言って足の指先を擦り合わせると、背後でウルフウッドがゆっくり起き上がる。
「ワイが使うてた掛け布団と交換しよか」
「えっ、いや……
 ウルフウッドは返事も待たずヴァッシュの被っていた布団を引き剝がし、代わりに自分が使っていた布団でヴァッシュを包み込む。微かに煙草の匂いのする既にあたたまった布団の温度が身体にじんわりと移って眠気を誘う。ヴァッシュはそのまま三分と経たずに眠りに落ちた。

 ✧

 ベッドを共にして六日が経った土曜日の昼下がり――
 ウルフウッドの休日は、基本的にヴァッシュが昼食をつくる。メニューはレストランのバイトで作り方を覚えた洋食だったり、レムと暮らしていた時に教わった家庭料理。ウルフウッドに料理を振る舞うのは、バイトで客に料理を提供するよりも何故か緊張する。
 エプロンを身につけてキッチンで作業をしていると、ウルフウッドはヴァッシュの周りをちょこまか動いて何かと手伝いをしたがる。せっかくの休みなのだから、何もしなくてもいいと言って椅子に座らせても、じっとしている方が苦手だと文句を垂れる始末。あまりにもうるさい時には味見係に任命することもあるが、見られながら作るのは緊張するので基本的にはキッチンに入れないようにしている。
 今日のメニューは、ポークソテーとキャロットラペのサラダ、野菜たっぷりコンソメスープ。
「ウッマ……! このドレッシング何入っとるんや? あ、マスタード?」
「そう! あとオリーブオイルと白ワインビネガー、塩こしょうだけ!」
 手料理を振る舞ったのはまだ数回だけ。ウルフウッドはいつも美味しいと言って食べてくれる。他人の手料理が物珍しくて嬉しいだけかもしれないが、それでも大口を開けて平らげてくれる様を見るのは気持ちが良かったし、次は何をつくったらその笑顔が見れるのかを考えてしまう。役者の仕事だけでは食べていけずバイトを続けていることに後ろめたさを感じていたが、ウルフウッドに喜んでもらえるような料理のレパートリーがあるのは嬉しい。バイトをしていたのも無駄ではなかったと素直に思える。

 食事を終え、ふたりで片付けを済ませたあとはコーヒータイム。他愛のない話をしたりしなかったり。休日らしいまさに何もしない時間。
 ヴァッシュは目の前でマグカップに口をつける男の顔を密かに見つめる。青っぽい――いかにも不健康そうな濃い隈が目の下に浮かび上がり、浅黒い肌色の上でもはっきりと分かるほどになっていた。
 ふたりが同じベッドで寝始めてから六日が経った今、ヴァッシュは今日こそウルフウッドに話を切り出そうと決めていた。さすがに見て見ぬふりを続けることはできない。膝の上で両手を握りしめ、ヴァッシュは小さく深呼吸をした。
「あのさ、ウルフウッド。最近ずっと思ってたんだけど、君、最近ちゃんと眠れてないだろ? 隈ひどいよ……
「隈ぁ? 元からこんな顔やったやろ」
 ウルフウッドは視線を合わそうとはせず、再びカップを傾け素知らぬ態度を取る。
「いや、顔色悪すぎだし! 寝不足なんだろ?やっぱり誰かと同じベッドで寝るのがダメだったってことだ!」
 ヴァッシュは自分で結論を言いながらどこか投げやりな気分になっていた。お試しの結果、ウルフウッドに害があると分かってしまった今、もうふたりで同じベッドでは眠れない。この六日間、ヴァッシュはウルフウッドの健やかな寝息を一度も耳にしていない。ウルフウッドが眠れないのは、他人の気配が側にあるからなのか、それとも「ヴァッシュ」が原因なのか――。どちらにせよ落ち込む必要なんてないことなのに、後者だったらと考えるだけで気が滅入り、ヴァッシュの両目はまるで溶け出すように熱くなる。
「トンガリ?」
 上擦った声を出した男がテーブルに肘をついて身を乗り出し、立ち上がる。
……自分の家で安心して眠れないっていうのは死活問題だと思うんだ。だからやっぱり!」
 その先を言おうとして、言葉が喉の奥でぐちゃぐちゃに絡まった。滲む涙を無理やり引っ込めようと、ヴァッシュはテーブルの端を見つめ耐える。ウルフウッドの観念したような溜息が静かな部屋に消えていった。
「確かにここ最近は上手く眠れてへん。……けど、一つだけ試してみたいことがあるんや。今夜ええか?」
……なにを試すの?」
「それは、まぁ今晩――
 ウルフウッドは気まずそうに目を逸らす。結局、何度しつこく聞いてもその「試したいこと」を教えてもらえなかったヴァッシュは懶い気持ちを抱えてバイトへ向かった。
 いつでも終わらせられるからこそ気軽に始めた生活なのに、いざ壊れそうになると惜しくなってしがみつこうとしている。自分に泣き虫のきらいがあるのはヴァッシュ自身分かっていたが、一緒に眠れないだけで泣きそうになるだなんてあまりにも恥ずかしい。
 一度も目を合わせようとしなかったウルフウッドはどこか後ろめたそうで、その表情を思い出すだけで余計に気になって仕事が手につかない。身の入らない状態で仕事をしていたせいで、オーダーを間違えたり、同じ料理を三度作ったり。さすがに店長に怒られてしまい、ひたすらに平謝りを繰り返す夜が過ぎていった。

 二十三時過ぎ――。バイトから帰宅すると、ウルフウッドはリビングのソファで横になり目を瞑っていた。大きめのソファとはいえ、体格のいい男が寝るには狭い。片方の脚がはみ出て床についているのを見て、やはりソファで眠る選択肢はナシだとヴァッシュは苦笑した。人の気配を感じたのか、ウルフウッドがうっすらと目を開け、緩慢な動きで首を動かす。
 乾いた声が「おかえり」と言い、ヴァッシュは反射的に「ただいま」と返す。眠そうなウルフウッドに先に寝てくれと言うべきだったかもしれないが、どうしても好奇心には勝てない。一体何を試したいのか知りたくてしょうがない。
 ヴァッシュは五分もかけずにシャワーを浴び終え、髪を乾かすのも適当に済ませてウルフウッドの元へと戻った。再び固く目を閉じた男を起こすのは忍びないが、この大男を疲れた身体で寝室まで運ぶのはさすがに厳しい。ヴァッシュはソファの肘掛け部分に両手を添え、そっと耳元で囁く。
「ウルフウッド、一緒に寝よ」
………ん、あぁ、風呂入ってきたんか。髪、濡れとるやんけ」
 掠れた声を漏らし、ウルフウッドは半乾きの金糸へと手を伸ばす。しかし、指先が触れる寸前でカチリとスイッチが入ったかのように目を見開いて手を引っ込めた。
「おどれ今日はバイトでどんな失敗しよったん?」
「は? 何だよそれ?」
 ウルフウッドはガシガシと後頭部を掻きながら軽やかな動きでソファから起き上がり、ヴァッシュの背を押し寝室へと誘う。ニヤニヤ、という形容が似合う笑みをこぼして。
「どうせ昔みたいにトラブルに巻き込まれて店の人にもお客さんにも迷惑かけとんねやろ?」
「心外だな、普通に働いてるよ!」
 喚き声にも聞こえるそれにウルフウッドは口元を綻ばせる。まぁ今でもバイトで失敗はするのだが、高校時代のトラブルメーカーぶりと比べたらかなりマシな方だ。できるだけ面倒事に巻き込まれないために接客ではなく主に厨房を任されている――という事実は黙っておいた。
 
 寝室の戸を開け、電気をつける。知らない香りが仄かに漂いヴァッシュが視線を落とすと、部屋の隅に見慣れぬアロマディフューザーが置かれていた。疲れた身体を包み込んでくれるような優しい花の匂い。リラックスできる香りで上手く眠れるか試すということなのだろうか――。そうこうしているうちに、ウルフウッドは早々にベッドの上に寝転んで、気の抜けた様子で大欠伸を噛み殺す。ヴァッシュはどうしたらいいか分からずシーツの上で正座をし、両手を膝の上で手持ち無沙汰に擦り合わせる。何故だか耳がじんわりと熱くなっていき、口の中が異様に乾く。
「あの、何を試すのかいい加減教えてくれないかな」
「あ――、それな。トンガリ、こっち来」
 寝転がったまま、男は自分の隣をポンポンと叩く。ヴァッシュはウルフウッドに向かい合うように横になると、遠慮がちに人ひとり分空けたくらいの距離まで近づいた。向かい合った黒い瞳が柔く細められ、ヴァッシュは居た堪れなさにシーツの上で脚をもぞもぞと動かす。
「ワイなぁ、中途半端に離れたところに気配があるのがアカンねん……せやからトンガリ、嫌やったら殴れ」
 正直、何を言っているのか分からなかった。そして、口を開こうと脳が命令を下すよりも前に、ヴァッシュはウルフウッドの腕の中に閉じ込められた。眼前には逞しい胸筋。熱くて硬いそれに顔が埋もれ、ボディソープの匂いの中に混じる煙草の匂いが鼻をつく。どこでも購入できるありふれた煙の匂い。けれど、こんなに至近距離でウルフウッド本人の匂いと混じったものを感じたことはなく、脳の底がピリピリと痺れる。本人にバレないように初めての匂いを記憶しようとしていると、頭上から心配そうな声が降ってきた。
――殴らへんのか?」
「は? え、なんで?」
「気持ち悪いとか、嫌とか……あるやろ?」
「きもちわる……くはない。嫌……? もよく分からないかな。ただすっごく――あったかい、ていうか熱い?」
「そんだけ?」
「うん」
 弾む声で笑ったウルフウッドの息が頭上にかかり、ヴァッシュはこそばゆくて身体を揺らす。
 すると、腕の中から逃げると思ったのか、ウルフウッドは抱きしめる力を更に強くした。背に触れる指が白い綿の寝巻きの上から背骨の形をなぞり、もう片方の手の指は首の後ろの髪の生え際を戯れるように触れる。ヴァッシュの足の指がきゅっと丸まり、背筋にそわそわとした感覚が走る。ただ、背中と髪に触れられただけなのに――
「ほんなら、今日はこれで寝てみるから、嫌になったらいつでも殴るなり蹴るなりせぇ」
「えっ、あ、これが試したいこと?」
 ウルフウッドは「せやで」とだけ言い、リモコンで部屋の電気を消し、ヴァッシュの身体を抱き込む。勝手にちょうどいい位置を見つけて完全に眠る体勢に入った男はものの数分で寝息を立て始めた。こんなにも早くウルフウッドが眠りにつくとは思いもよらず、ヴァッシュは驚きながらも安堵の息を吐く。掛け布団とウルフウッドの両方に包まれ、心地よい温もりが眠気を誘う。ヴァッシュもさっさと眠りについてしまおうと目蓋を閉じた。だが、いくら目を瞑っても、脳が眠ってくれない。あれほど聞きたかったウルフウッドの寝息が間近で聞こえることが嬉しいのに、背を無意識に撫でる指の形を意識することで脳は休むどころか覚醒していくし、左胸から聞こえるはずの鼓動が耳元で響いているように騒がしい。頭のてっぺんにかかるあたたかい息遣い。頬に触れるのは穏やかなリズムで上下する胸。体勢を変えようと脚を動かそうとしてもウルフウッドの長い脚に阻まれて思うように身動きも取れない。
 対するウルフウッドは眠りが深いようで、ヴァッシュがもぞもぞと落ち着きのない動きをしても起きる様子はない。ウルフウッドが眠れるのなら、ヴァッシュとしては本望だ。それに、こうして自分を抱え込んで眠ることができるということは、少なくとも嫌われてはいない。そう実感するとひどく安心して、ヴァッシュのここ最近のもやもやが晴れていく。しかし、やっぱり鼓動は落ち着かないし、身体はあたたかいを通り越して熱い。結局ヴァッシュは明け方まで悶々とし続け、眠れぬ長い夜を過ごすことになった。

 翌朝、ヴァッシュはウルフウッドが出勤する時間に起きることはできず、ベッドに一人になってからようやく鎮まった鼓動を子守歌代わりに眠りにつく。
 昼過ぎに事務所のマネージャーであるメリルに呼び出されていたので、その時間に間に合うように携帯端末のアラームを数分置きに設定した。事務所に到着し顔を合わせるなり、メリルはこの世の終わりかのような溜息を吐いて威圧感たっぷりにヴァッシュを睨む。
「ヴァッシュさん………! まずは本題の方からお話しますわ。こちら、今度のドラマの台本ですわ。台詞は多くありませんけど、誰かの目に留まるチャンスなんですからしっかりお願いします。演技について不安があるようでしたら、演技指導の先生にお声がけしてみますので、早めにご連絡ください」
「うん、頑張るよ」
「さて、本題はここまで。で、そのお顔はなんですの⁉」
 三十センチ以上も下にあるメリルの小さな顔が凄みを増す。更に怒らせてしまうと分かっていてもヴァッシュは惚けてみることにした。
「顔? なんのこと?」
「ひどいお顔ですわ。寝不足……って感じですけど、同居人の方と何かありましたの?」
「そんなに顔に出てる? 確かに今日の睡眠時間はいつもより短いけど……
「先ほども申し上げましたけど、どんなに小さな役だとしても次に繋がるチャンスに変わりありませんわ。ですからヴァッシュさんには万全の状態でお仕事に臨んでほしいんですの。そのためのお手伝いならなんだってやりますわ」
「ありがとう、メリル」
 ウルフウッドがよく眠れるのは嬉しい。けれどあの寝方だとヴァッシュは安眠できないし、メリルに心配をかける上に仕事に支障が出てしまう。さっさとこの生活を捨ててしまうのが楽だけど、ヴァッシュは自分がどうして眠れないのか分からない。だから、ウルフウッドにどう説明したらよいのかも思いつかなかった。
 その日は事務所へ寄った足でバイト先へ行き、二十三時過ぎに帰宅した。既にウルフウッドが眠るベッドにそっと乗り上げ、健やかな寝息を立てる男を眺めながら考える。ウルフウッドは中途半端に離れた位置に気配があるのが嫌だと言った。どれくらいの距離が中途半端なのかはヴァッシュには分からない。どの位置で眠ろうか迷った挙句、結局ベッドの端っこの、ウルフウッドから離れたところに横たわる。さすがに寝ている男の腕の中に勝手に潜り込むなんて恥ずかしい真似はできるわけがない。思わず深い溜息を吐き出すと、たちまちウルフウッドの眉間に皺が寄り、男はもぞもぞと身じろぎする。
……トンガリ?」
「起こしちゃった? ゴメン、ただいま」
「おかえり」
 ウルフウッドは当然のように腕を広げ、ヴァッシュが懐に入るスペースをつくる。そこに収まってしまうと、ヴァッシュはまた眠れぬ夜を過ごすことになる。断らなければいけないのに、嫌ではないという理由以外でどうやって拒めばいいのか分からない。ヴァッシュは脳内で白旗を上げ、ウルフウッドの腕の中に収まるように身体を丸めた。背中に触れる指は昨日よりも熱を持っているように感じてどうにも落ち着かない。居た堪れない気持ちを誤魔化したくて、ヴァッシュはウルフウッドへ話しかけることにした。
「ちょっと……意外だった。君が誰かを抱きしめて寝るタイプだったとは」
……この前言うたやろ、中途半端に離れたところに誰かおる方が気になるんや。腕の中に入れてしまえば近すぎて気にならんっちうか」
「よく分かんねぇな、その基準」
「ワイもよう分からん」
 心底どうでもよさそうな返事だった。
「なぁ、一つ聞いてもいいか?」
……なんや」
「ほんとに、おれこの家にいていいの? その、人も呼びにくいだろ?」
「はぁ? たまに施設で面倒見とった弟が来るくらいで、他には別に……
「ほんとかなぁ」
……何を疑っとんねん」
「客用のスリッパがあるし、一人で寝るにしてはデカイベッド……。誰か付き合ってる人でもいるのかなぁと」
「おったらさすがにおどれと一緒に住まへんやろ」
「まぁね、そうだよな……そうなんだけど、なんでいないのかな……って」
……失礼なやっちゃな。もう寝るで。明日早いんや…………
 欠伸を噛み殺す声と共に言葉が尻すぼみになっていき、あっという間に頭上からウルフウッドの寝息が聞こえてくる。密着した身体はやっぱり熱くて、鼓動は下手なステップを踏むように不規則に跳ねる。ヴァッシュは首を捻り、ウルフウッドの胸に耳を当てる。しかし、期待していたような――自分の鼓動みたいな鈍い音は聞こえてこず、穏やかな心音だけがヴァッシュの鼓膜を揺らす。それはとても嬉しいことのはずなのに、この状況で自分ばかり気を揉んでいるのが明らかになってほんの少し落胆する。
 今のウルフウッドに恋人はいない。つまりこのベッドで一緒に寝る人はいないということ。じゃあ今ここでウルフウッドに抱きしめられながら眠る自分は一体どういうポジションだというのか。
 ただのともだち――、四年という空白の期間があっても会った途端に青かったあの頃に戻れるようなそんなただのともだち。ドッ、ドッ、ドッと、鈍さに加えて重苦しさまで増した鼓動が騒がしくて仕方ない。その音から必死で意識をそらそうとしたが、ヴァッシュはやはり上手く眠ることはできずに朝を迎えた。

 翌朝、ウルフウッドが出勤するのを見送るために一度起きてリビングへ。ウルフウッドはジャケットの袖に腕を通し、ネクタイを締めようとしているところだった。黒いスーツに気分が沈みそうな重々しいグレーのネクタイ。せっかくスーツは似合っているのに――。喉元まで迫り上がってきた言葉をヴァッシュはゴクリと呑み込む。
 寝室から出てきたヴァッシュの顔を見て、ウルフウッドは露骨にしかめっ面を見せた。その瞬間、ヴァッシュはまだ寝ておけばよかったと寝不足で判断力の鈍った自分を心の底から呪った。白い肌の上にくっきりと刻まれた無様な隈を隠す時間はない。
――仮にも人前に出る仕事しとんのにアカンやろ、その顔」
「君の体温が高くて寝苦しいんだもん」
 揶揄されるかと思いきや、ウルフウッドは物分かりのいい大人の顔をして呆れた笑みを漏らす。対してヴァッシュは甘ったれの聞かん坊のような喋りになってしまったが、寝不足の頭は思うように働かない。
「結局やっぱりワイが違う部屋で寝るんがいちばんええ解決策……
「ダメだ! ここは君の家なんだから、違う部屋で寝るなら僕が――
「触られとんのは嫌やなかったんか?」
「それは全然――
 激しく首を振ったヴァッシュを見て、ウルフウッドは右手で自分の口元を覆い視線をあちこちへ彷徨わせる。ついさっきまで落ち着いた大人の男だったくせに、一気に落ち着きのない子どものような素振りを見せる。
――せやったら、もう一つ試してみたいことあんねんけど」
「もうなんでもいいよ、試せることがあるなら」
「今日はバイト休みやったよな?」
 声を弾ませるウルフウッドにヴァッシュは深く頷く。
「ほんなら家で待っといて。ちぃっと帰り遅なるわ」
 無邪気な喜色溢れる満面の笑顔でウルフウッドはひらりと手を振り玄関の扉から出勤していく。
 
 今から約半日ヴァッシュはまた悶々とした時間を過ごさなければならない。けれど、一つだけ嬉しいのは、多分ふたりともどうにかこの生活を続けようとしていて、そのために同じベッドでお互いが気持ちよく眠れる方法を模索している。合わない部分があれば即さよならではなくて、まだここにいていいのだと思えることが何よりも嬉しかった。
 今日は何も予定はないし、食後に楽しめるデザートでも作ろうか。何か手を動かしている方が気が紛れる。ヴァッシュは携帯端末の画面上で指を滑らせ、手軽なレシピを探し始める。近頃はやけに身体に熱がこもるから、冷たいアイスでも――

 ✧

 少し遅くなると言ったウルフウッドはヴァッシュの予想よりは幾分早く帰宅した。ただし、小脇に得体の知れない大きなビニール袋を抱えて。ヴァッシュが引き攣った笑顔でその中身を問う前に、ウルフウッドは袋を寝室へ放り込み、洗面所で手を洗い何食わぬ顔でリビングへ戻ってくる。夕食を一緒に終えたあと、昼間につくって冷やしておいたバニラアイスをふたりで食べた。
 ウルフウッドが風呂を済ませている間、ヴァッシュは寝室を覗きに行きたい衝動に駆られる。だが、どうせあと十分もしないうちにウルフウッドは風呂から上がるし、もはやなるようにしかならない気がして、全く興味のないテレビ番組を流しながらソファで食後の茶を啜りウルフウッドを待った。
 風呂から上がったウルフウッドは、ソファに座るヴァッシュの横に腰かける。退屈そうにテレビ画面を眺めるウルフウッドが脚を左右に揺らすたび、互いの膝の頭がコツコツと当たる。ヴァッシュはそれが気になってしょうがない。早く寝室のアレの正体を知りたい。これからもこの家に居続けられるかどうかの瀬戸際でヴァッシュは気持ちが急いていた。まだ夜も始まったばかりの時間だというのに耐えきれなくなり、断りも入れずにテレビの電源を消した。
「なぁ、まだ寝ないの?」
「もう眠いんか?」
「え、いや、君は明日も早いしさ」
「ん――、まぁ、別にまだ起きとってもええけど」
「そう……
……はよ寝たい?」
 緩く口角を上げ顔を覗き込んでくる男に、ヴァッシュは唇を引き結ぶ。この男、面白がっている――。アレの正体が気になってしょうがないことなどお見通しのくせに焦らしている。そう分かった瞬間、ヴァッシュはひとりであれこれ考えるのが馬鹿馬鹿しくなった。
「寝たい! 寝よ!」
 これまで腹の底に溜め込んでいたすべてを吐き出したくらいの大きな声が出て、ヴァッシュ自身驚いた。だが、なりふり構っていられない。
 ウルフウッドの寝間着の袖を伸びるほど強く引っ張り、ソファから立ち上がらせる。男は目を丸くし何か言いたげではあったが、ヴァッシュは気にせず袖ごと腕を引き寝室へ誘導した。
「はやくして」
 ビニール袋を指さすと、ウルフウッドは若干萎縮したように後頭部を掻き、大きな袋に手を伸ばす。
「気になるんやったら聞いたらよかったやんけ」
「どうせ教えてくれなかっただろ」
「おどれがオモロイ顔してんのが可笑しくてなぁ。ほれ、今日からコイツも一緒に寝るで」
 袋から取り出したのは、うつ伏せに眠るゴールデンレトリバーの抱き枕。
「ちょっとトンガリに似とらん?」
「どこが?」
 ウルフウッドは抱き枕の両手を取り、ヴァッシュの前に差し出す。ふにゅりと沈み込むような柔らかな手触りとさらりとした冷感のある素材が気持ちいい。
「これをワイとおどれの間に挟んで寝る。そしたらべったりくっついて眠らんでもええし、どうかと思ったんやけど……なぁに笑っとんねん」
……ふっ、あははッ! なぁ、これオマエどんな顔して買ってきたんだよ!」
「なんやそこかいな、ウケとんのは」
 仕事帰りのスーツ姿の大男が、この愛らしいぬいぐるみを抱えてレジへ――。そんなの面白くないわけがない。
「いっぱい種類あったの?」
「ブルドック、芝犬、マルチーズ、サメ、ワニ、ヘビ、ネコ、ペンギン、しろくま……ぎょうさんあったで」
「それで、ゴールデンレトリバーね」
「なんやねん気に入らんかったか」
「ううん、すごくいいと思う。そもそもオマエの身体が熱すぎなんだ。べったりくっつかなければ眠れると思う……あ、嫌とかじゃないよ」
「なんも言うてへんやろ」
「顔がたまにうるさいんだよなぁ、オマエ。いや、目がうるさい?」
「トンガリほど顔に出るタイプではないはずやねんけどな」
「どーだか?」
「腹立つやっちゃな……まぁええわ、もう寝ようや」
 ウルフウッドはゴールデンレトリバーの抱き枕をふたりの間に置き、ヴァッシュへと手を広げる。眉間に皺を寄せたウルフウッドと可愛らしい抱き枕のツーショット。ヴァッシュは笑いを堪え、脳内カメラのシャッターを何度も切った。
 今夜のヴァッシュの頬に触れるのは、硬い胸筋の代わりにくたりとした触り心地の淡い茶色の塊。程よくひんやりとしたその抱き枕を挟んで、ウルフウッドの手のひらが背に触れる。頭のてっぺんに息もかからないし、ウルフウッドの鼓動を聞くこともない絶妙な距離間。けれど、太く長い指はヴァッシュを離さぬよう寝巻きの背の部分の生地をぎゅっと掴んでいる。
 ウルフウッドの寝息を聞く前に、ヴァッシュは夢の世界へと旅立った。

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 ヴァッシュが目を覚ますと、あと十分でウルフウッドが出勤する時刻だった。眠りが深かったおかげかものすごくスッキリしている。愛嬌のある顔をした抱き枕にそっと礼を言い、慌てて寝室の扉を開ける。
「おはよ、いってらっしゃい」
……早起きできるやんけ」
 揶揄するウルフウッドの顔色も明るい。よく眠れたことは明白だ。
「まーね、クソダサい誰かさんのネクタイチェックしなきゃいけないし?」
 睡眠問題が解決した今、何かを我慢することがアホらしくなって、ヴァッシュはずっと気になっていたネクタイのことを話題に出してみた。
「普通に無難なもんつけとるつもりやねんけどなぁ」
「まぁ、無難と言えば無難だけど、せっかく君さぁ…………まぁそれはいいとして。今日はグレーのスーツか。うーん、だったら、クローゼットの奥の方に入ってた青いネクタイは? アレ合うと思うよ!」
「おんどれワイのネクタイの種類ぜんぶ把握しとるんか?」
「え? まぁ……たまに君のクローゼットから服借りるし。というか毎日着けるならネクタイくらいもっといろんな種類を持っておいてもいいと思う。今度買いに行く?」
……選んでくれるんか?」
「もちろん」
 せっかく上背がありスーツが似合う要素しかないのだから、どうせなら楽しんでほしい。ヴァッシュはクローゼットの奥から引っ張り出してきた青色のネクタイをウルフウッドへ押しつける。
「青空みたいな綺麗な色だ。君、青色好きだっけ? 自分で買ったの?」
 ウルフウッドは歯切れの悪い調子で頷く。
「ハイ、じゃあ今日はこのネクタイでいってらっしゃい!」
「もうそこまでするんやったら結ぶとこまでやってくれや」
「えっ?」
「どうせ結び方が汚いとか文句言うんやろ」
 そこまで言う気はなかったが、そもそも自分から切り出したので引くに引けず、ヴァッシュは恐る恐るウルフウッドの首元に手を伸ばす。
 自分のをやるのとは勝手が違いもたついていると、暇を持て余したウルフウッドの右手が白い頬を包み、親指が目の下をゆるりと撫でた。ヴァッシュは一瞬身体を強張らせる。しかしネクタイを結ぶ手を動かすのはやめない。
「隈なくなったな」
「ん、そう?」
「好奇の目に晒されて抱き枕買ってきた甲斐があるっちうもんやで。レジの兄ちゃんにも二度見されたしなぁ」
 ウルフウッドはヴァッシュの頬の肉をむにゅむにゅと撫で続ける。妙な違和感をおぼえたヴァッシュは眉根を寄せた。
……なぁ、爪切った?」
「は? そら伸びたら切るやろ」
「伸ばしっぱなしだったじゃん。なんで切ったの?」
 再会して初めてウルフウッドの爪を見た時、手入れの行き届いていない――触れるものを傷つけそうな爪だと心中で苦笑していた。だがそれと同時に、今はそういう対象がいないのだとも分かって、ヴァッシュは自分がここにいることを許されている気がしていた。それが綺麗に切り揃えられた今、この先ウルフウッドに大事な人ができた時にきっとヴァッシュはすぐに気づくことができない。そう思うと、薄い目の下の皮膚を何度も撫でる指の腹の感触が嬉しいのに少しわずらわしい。
「まぁ、柔らかいもんに触る時は爪くらい整えるやろ」
「なんだそれ……? あぁ、料理するから?」
 ウルフウッドは肯定も否定もせず、曖昧に微笑んだ。そして今度は撫でるというよりも、子どもが砂場で泥団子をつくるようにぺたぺたと頬を触り始める。
「なぁ、楽しい?」
「おん、オモロイ」
 最後に結目を整えて、ヴァッシュはウルフウッドの背後にある時計へ目を遣るついでに自分の顔を触る男の様子を盗み見る。お気に入りのおもちゃで遊んで満足しているような顔は、同い年の男にしては幼く見え、学生時代を彷彿とさせる。あと一分経ったら手を振り払って、ウルフウッドを家から送り出そうとヴァッシュは心に決める。
 時計の秒針よりも急いて響く心音は聞こえないフリ。きっとこの心臓はソウイウモノなんだ。ウルフウッドが近くにいると、触れられるだけで、変な音を刻み出すそういう心臓。だから別におかしなことなんて何もない。

 結局、五分間ヴァッシュはその場から動けず、ウルフウッドは全速力で走って駅へ向かった。