ソロが帰ってきたときには、もう日が暮れていた。晩餐会が始まる合図である花火の音を聞きながらホテルの階段を上り、自分たちの部屋のドアを数回リズムをつけてノックする。するとしばらくして不機嫌な顔をしたショートカットの女が顔を覗かせた。
「どこ行ってたんだよ、もう始まっちゃったじゃないか」
その怒りを含んだアルトボイスを意にも介さず、ソロは部屋へと足を踏み入れる。その目に映るのはピクチャレスクな金髪の美女――変わり果ててしまったイリヤ・クリヤキンの姿だ。
一週間ほど前、スラッシュの実験によって生み出された新薬によって、イリヤは殺されかけた。かろうじて死は免れたものの、投薬された薬品は本来とは違う用途に効果を発揮した。身長は縮み、声帯は薄く、手脚は細く華奢に。一方、胸と尻は発酵したパン生地のように柔らかくふっくらと膨らみ、元々長かったまつ毛と髪の毛は何故か少し伸びた。つまりイリヤの身体は女性へと変貌した。蝶のように変身したと言いたいところだが、この場合中身は変わらず男のままであるから、変貌が正しい。本部に帰ってから医者が身体中くまなく調べたが、男の頃のまま残っている場所は眼球ぐらいだとのことだった。
「僕が早く行きたいのわかってるだろ」
そんなイリヤは今黒いドレスと白いハイヒールという、なんとも可憐で哀れな姿でもってソロを睨みつけていた。アンクルの女性たちによる徹底的な教育を受け、女性らしく身だしなみを整えた彼――彼女の身体は、ほとんど元の面影を感じさせないほど見事な貴婦人の姿をしていた。つい数日前まで彼女が(当時は「彼」だった)身体中泥だらけになりながら、地面を這ったり塀をよじ登っていたとは誰も信じないだろう。
なぜ身体を変えられたばかりか、こんな格好をさせられているのかと言えば、今二人がいる某国の首脳が催した晩餐会にイリヤをこんな目に遭わせたスラッシュの幹部たちが潜りこんでいるからだ。まだどこの国も使ってないであろう、証拠を残さず人を殺せる新薬。連中はこれを利用しないかと持ちかけ、契約をし、国家すらも自分たちの傘下に引き入れてしまう。足を洗いたいと願っても、暗殺毒を求めたという弱みが彼らをスラッシュの魔手から逃さない。万が一世間に知れたら、国際的な立ち位置どころか経済にも大きな混乱を招くことだろう。スラッシュの要求を飲んだ時点で、その国の行く末は地獄となる。
二人は偽りの身分で招待客になりすまし、晩餐会に出席することになっていた。連中を押さえ、薬のサンプルさえ手に入ればあとは持ち帰ってアンクルのラボに任せるだけだ。もちろんイリヤの身体も元通り戻すだけでなく、計画が露見すれば新たな被害者を増やさずに済む。それまでの辛抱だ、それさえ終わればこんな格好。普段はストイックに任務をこなすイリヤがそんな思いでいるのには、そういう事情があった。
「」
「背中のファスナーを上げるの手伝ってよ。これ一人じゃ着られないんだから」
イリヤはため息をつくと、くるりと後ろを向いた。ソロの眼前に差し出されたその無防備な背中は彼の習性を刺激するのには十分で、V字に開いたドレスから覗くうなじと背中のラインはソロの目を引き付けた。
華奢な首を彩るネックレスや、ボディラインが惜しげも無く発揮されるタイトなドレスはソロが見繕ったものだ。体に残る火傷や切り傷の跡を隠すために、その白い肌をほとんど覆い隠している。すらりと伸びた腕も手袋でほとんど隠されているし、ドレスのサイドに入ったスリットも抑え目だ。彼の全身の傷は、物語に出てくる海賊や蛮族、あるいはフランケンシュタインの怪物のようとまでは言わなくとも、素肌を見られては一目で尋常ではないと悟られてしまう。その数々の傷は今まで彼が生き延びて勝ち得た勲章と言ってもいい。今、彼のその勲章が、ソロにだけ公開された。
背中を走る白い傷は、以前おかしな女から鞭で打たれてできたやつだろうなとソロは思った。彼はそういう性質の男女に好かれる特性があるようで、そのような仕打ちを受けたのは一度や二度ではない。今の状態ならもっと酷い目に遭うだろうなと想像し、傷に伸ばした手を引いた。
身体を覆う漆黒は、白い肌と金色の髪をより際立たせるだけでなく隠されたものを暴きたくなる男の本能を掻き立てる効果があるとソロは考えていた。イリヤがパーティの間中男たちの気を引いていてくれたらその間動きやすくなると考えたのだが、計画の張本人が今まさにその効果を抜群に受けている。
「何やってるの」
痺れを切らした青い瞳が振り返り、ソロを捉える。美しいが陰のあるその瞳に覗かれ、ソロはようやく自分が彼女――彼に釘付けになっていたのだと気づき愕然とした。
「また女の子を口説くことでも考えてたんだろう」
「やっぱり分かりますか」
ソロが返すとイリヤは唇の右端を上げ、例の皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「今回ばっかりは諦めるんだね、夫婦で来てるってことになってるんだからさ」
「そう、今回はそれが残念でね」
眉を下げたソロを見て、イリヤの目が可笑しそうに輝く。
普段のソロならば、ただ揶揄ったはずだ。しかし今となっては誤魔化すので精一杯だ。冗談として綺麗だね、とは言えなかった。本心を偽ることになるから。
水際立っているがまだ洗練されていない、一種の無垢さを孕んだ娘に変わり果てた彼を、公衆の面前に引き立てていって見せびらかすことを考えたくなかった。スラッシュの計画を止める為ならば、何も知らない他人を計画にまきこむことすら厭わない自分がそんなことを考えたなどと、ソロ自身も認めたくないところであった。
もし彼に今思っていることを話せば、プライドを傷つけられたと激怒するだろう。もし今ここでソロが彼を求めたならば、侮られたと失望し傷つくだろう。元に戻ると担保されているときならばいい。だが作戦が上手くいっても、そのあとは? 優秀なアンクルの研究室でもこの現象を解明できなければ?
理性と情が激しく鍔迫り合いを繰り広げ、ソロのこめかみがズキズキと痛んだ。
「しっかりしてよ、今回ばっかりは」
幸いにもその内戦は悟られることなく、イリヤは再び背中を向けながら文句を言う。しかしその不貞腐れた赤い唇に目が吸い寄せらることを止められない。手を伸ばし、求めたくなる。くだらないことを考えるなとスパイとしての自分、男である自分が警鐘を鳴らす。感情に流されるな、ましてや彼に対してこんな感情などあってはならない。
動揺を表に出さないよう努めて、確かな手つきでファスナーをゆっくりと引き上げる。彼が今こんな無防備な姿を晒しているのも、ソロがイリヤの同僚であり親友だからだ。
「君も気をつけて。今の腕力じゃ勝てないんですからね」
「わかってるよ、それぐらい」
すっかり小さくなってしまった手が、肩に置いた手と重なる。形は変わらずともその手は、その爪は、ヤスリで整えられ薄桃色のネイルカラーが塗られてる女性のものだ。
思えば、今に始まったことではなかった。スラッシュの基地から逃げおおせたあの日、体が変だと自分に縋って震える彼を腕の中でしっかと抱いたあの日よりもずっと前から、そうだったのだ。
変わり果てた体がソロを惑わせたのではなく、既に初めからそうだった。
「早く元に戻りたいよ。こんな、眉毛も体の毛も剃っちゃってさ……ヒールは足が痛いし」
イリヤがぼやいているのを聞きながら、ソロは考えていた。身体が元に戻っても、ただの友人にはもう二度と戻れないだろうと。一度抱いた不義の肉欲は、焼印のようにその身を苦しめ、焦がすのだ。しかも今度のものは、一度きりで終わらせることが出来ないのだからタチが悪い。
「大丈夫、すぐ元に戻りますよ」
自分の吐いた言葉に、ソロは自嘲した。
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