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青果
2024-04-16 23:08:25
7041文字
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奥歯で噛む骨
皆守と葉佩 よすがに手が届くとき(かなりウェット)
1:シルエット
実験結果が想定と合わないのを見て、皆守は目を細めた。不満に思ったところで、数値は変わらない。七月に入ってすでに三週間が経過しているが、この三週間の成果は何もないという状態になる。
しかし、嘆いたところで改善はしない。
皆守はプリントアウトした用紙に三十センチ定規をあてた。定規の直線に合わせて必要な部分だけ切り取り、残りを反故紙の山に重ねた。重ねてから、真四角ではない紙を混ぜてよいものか考えたが、この反故紙の使い道はメモ用紙になるか、折って即席のくずかごにされるかである。もともとのA4サイズから半分以上は残しているから、まあ、この山に混ぜたところで不都合はないだろう。
皆守はさっさと引き上げて、自分に割り当てられた席に座った。切り取ってきた紙に並ぶ数字とにらめっこしたが、おちゃらけた数しやがって、という感想しか沸かない。さて何が悪かったかな、などと切り替えるには、飴玉か何かを口に入れておきたいところだった。
共用にしているテーブルの上に、研究室所属のメンバーがそれぞれ持ち寄る菓子籠がある。何か見繕ってくるか、と思った。ため息をついて顔を上げると、もの言いたげな後輩と目が合った。
「何かあったか?」
そう聞いてから、何かあったのは自分のほうだったなと思い返した。何か用事があって皆守に話しかけたかったものの、皆守が不機嫌そうなので声を掛ける隙を探していたのだろう。皆守は意識して、目元を緩めた。後輩は、うん、だか、ううん、だかよく分からない呻き声で前置きをしてから話した。
「皆守さんのケータイ、さっき光ってましたよ」
「え? ああ、
……
そうか」
ケータイ? と訝しんだのを察してか、後輩は言葉を重ねた。
「光るの長かったし、何回かあったんで、電話だと思うんですけど」
「電話? 珍しいな、ありがとう」
デスクの上に放っていた携帯電話を持ち上げると、確かに着信とメールがあった。どちらも同じ名前からで、夕薙大和、とあった。皆守はその名を見て口元をほころばせた。懐かしいというほど最後の連絡は遠くないが、皆守はその名にかすかな郷愁を感じる。
「ちょっと折り返してくる」
「はい」
研究室を出てから、リダイヤルした。携帯電話を耳に当てて、廊下を歩く。耳元で大きく聞こえる呼び出し音を気楽に聞いて、休憩スペースに腰を下ろす。膝の上に肘をついて、相手が出るのを待った。
『もしもし? 甲太郎か?』
夕薙はどこかの駅か、町中にいるらしい。周囲の話し声がノイズとして聞こえてくる。イントネーションから判断すると、日本語だ。
「ああ、さっきは悪かったな。ちょっと席を離れてて」
『こちらこそ、掛け直してもらってすまん。驚いただろ、いきなり』
「まあな。何かあったんだろ? メールはまだ見てないんだ。何の用事だ?」
『事件があったっていうんじゃない、たいしたことでもないんだ。今夜、泊めてもらえないかと思ってな』
皆守は目を閉じた。細かい数字やコンピュータの画面ばかりを見ていたせいか、瞼が痙攣したような気がする。人差し指で目頭のあたりを撫でつけながら、電話口に応えた。
「泊めるって、うちに?」
『当日で悪いと思っちゃいるんだが
……
。甲太郎に泊めてもらえるなら助かる。だが、都合がつかないってことなら
――
』
「いや、いい。驚いただけだ。来いよ。ひとりか?」
『ああ、面倒かける。そうだな、夕方の六時半くらいには到着できる。かまわないか?』
友人の家に転がり込むにしてはいくらか中途半端な時間だなと考えたが、すぐに夕薙の意図を理解した。東京の七月中旬は夕方七時ごろの日の入りとなる。
皆守は壁にかかった時計をちらと見やった。現在時刻とこれからの予定をざっと頭の中に並べて取捨選択し、おおよその帰宅時刻を推測する。
「分かった。六時には帰る」
『帰る? 外出先か?』
「大学だよ。まだ学生をやってるんでな」
『そうか、今日は平日だったな
……
授業はいいのか?』
「もう大学は休みだよ。ちょうどいい、明日はよその学部の院試で教授が駆り出されるんで、俺は研究室には行かないなんだ。寝坊してけよ」
『はは。それは、いいときに来た。甲太郎、住所変わってないか?』
「変わってない。部屋番号覚えてるか?」
『メモしてある。助かる。ああ、バスが来たから切るよ、じゃあ、また後で』
「ああ」
通話を切って、携帯電話をポケットに入れる。両手をだらりと垂れさせてだらしなくイスの背もたれに寄りかかった。懐かしい声を聞いて気分がいいので、翻って、研究室に戻りたくなかった。足に根が生えたようだ。
今年は冷夏で東京はよく雨が降ったが、今日はよく晴れていた。外に出ればうんざりするほど暑いだろう。
皆守が学生のときに建て替えられた研究棟はまだまだ小奇麗で、中央が吹き抜けになっていた。休憩スペースはその吹き抜けに面している。休憩スペースだけでなく、階段やエレベーターホールなども同じ吹き抜けエリアにまとめられていた。
階下のドアが開閉するたびに、音が風のように聞こえた。大きな窓からは光が差している。一階は生ぬるく蒸した空気が溜まっているものだが、階を上がっていくと冷房で冷えてくる。皆守は、実験用の白衣ごとシャツを肘までまくり上げている。じっとしているとその格好がちょうどよかった。
うとうとしていた皆守の耳に、誰かが階段を上がってくる音が聞こえた。夏休みだろうが授業がなかろうが、研究室棟に人の出入りは多い。靴音は低く響き、ゆりかごのようだった。
「皆守くん?」
名前を呼ばれて、皆守はばねのように顔を上げた。皆守の研究室のボスが休憩スペースに足を踏み入れながら笑っている。
「昨日も帰るの遅かったもんね」
「ああ
……
すみません、休憩してました」
「怒ってないよ。あ、結果出た? どうだった?」
「出ました。でも、前回と同じですね。数値戻ったので
……
」
「あと残ってるのある?」
「あります。あと二つ。さっき確認しましたが、こちらも減少傾向ではあります。まあだいたい維持なので、希望をもちたいところですが」
ボスが、あぁそう、と言う。話し口だけ見れば冷たいようだが、単純にくたびれているのだ。皆守はそれを知っているので、なんとも思わない。
必要最低限のことしか話さないのは、自分よりも四半世紀も年が離れた相手に何を言えばいいのか分からないかららしい。酒が入ると陽気になって雑談をするようになるので、皆守にとっては嫌なボスではなかった。
「今日、皆守くん何時までいる?」
「あ、そのことなんですが、用事が入ったので十六時ごろに帰宅します」
「そうなの。ちょうどよかった。今日は計画停電で十七時には研究棟閉まるらしいんだよ」
「それ、先月の教授会から帰ったときにおっしゃってましたよ」
「僕が? 全然覚えてない」
彼は眉根を寄せて、やだね、とうそぶく。
その様子を見て、皆守は安心した。嫌なボスでないといっても、個人的な理由で早く帰ると言い出すのは修士一年の身では気が重い。
そのまま研究室に戻る廊下へ歩き出すので、皆守も立ち上がって後を追った。
もう皆守は身近な誰に対しても、勝手にしろと言えなくなっていた。
夕方の六時という時間は、夕食を仕込むには都合がよかった。研究室を離れては、皆守にできることのパターンは数少なくなる。その中でも、食事の準備をするという工程は皆守にとって重要度が高いタスクだった。
せっかく山ほど時間があるのだし、会う機会の限られる友人と会うのだし、冷凍していた海老を取り出した。皆守の借りているアパートの大家が、実家が海に近いんだったかマリンスポーツが趣味なんだったかで、発泡スチロールにでかい海老を入れて差し入れに来たものの残りである。
友人が来るまでに部屋を涼しくしておこうと思って、冷房と扇風機のスイッチを入れる。扇風機は首を上に傾けた。
海老の頭を落として殻を剥き、頭と殻をフライパンで炒る。透明感が濁り、赤くなってきたらオリーブオイルで煮る。焦げ付かないように留意して、海老味噌を押し出すように頭を潰して煮詰めてから水を加えて再び煮る。ここからは鍋から手が離れる。そのあいだに他の具材を切りそろえて火を通した。
これらの作業を、皆守は黙って続けた。
研究室には、作業中ずっとイヤホンをしている学生が珍しくない。休憩中もイヤホンをしたまま寝るやつだっている。皆守は、耳元で音が鳴り続いていると考えていたことをすぐに忘れるたちだと、浪人中に理解した。五すら数えられなくなるので、皆守の部屋にはラジオもテレビもない。
そうこうしているうちに、インターホンが鳴った。皆守は野菜を炒めていた火を止めて、玄関を開く。
「甲太郎。突然、悪かったな」
夕薙がにこやかに笑って、皆守に向けて片手を挙げる。彼はこめかみに汗を垂らしていて、冷房をつけておいてよかったと思った。彼は着ているシャツを二の腕までまくりあげている。もうそろそろ日暮れという時間ではあるものの、駅からここまで歩いてくると暑いだろう。
久しぶりに会う顔だが、健康そうだ。皆守も片手を挙げて返した。
「いや、気にするな。久しぶり」
「ああ、もう一年近くになるか? 元気そうでよかったよ」
「入れよ、鍋を火に掛けたままなんだ」
開いたドアの内側に夕薙を入れると、皆守はキッチンに戻った。鍋はごくごく弱火で煮詰めている最中で、こんな短時間では焦げ付きなどしないが、念のために火加減を確かめた。
学生向けのワンルームはキッチンが狭い。
玄関からそのまま一直線に伸びた廊下からスコップで少し掘り進んだというような窪みに、二口のコンロとシンクが填め込まれている。
玄関ドアを夕薙が閉めて、靴を脱ぐのが視界の一部に映る。
「荷物は好きにしてくれ。広げてもいい」
「ありがとう。今回は都心にいたからな、前みたいに砂をひっくり返すことはないはずだ」
夕薙の言う「前」というのは、彼が砂漠帰りだったときの話だ。洗濯機使えよ、と言ったらシャツにくるまれた砂がざざっと廊下に山を作ったことがある。
そのときを思い出して、皆守は笑った。
「都心? どこの?」
「グリーンランド。白夜なんだ」
「グリーンランド? 北か。そんなところから来たんじゃ、日本は暑いだろ」
「まあな。でも、懐かしいよ」
夕薙が皆守の後ろを通り、ワンルームの中に足を踏み入れる。皆守は視界の端でそれを見つめた。
彼は廊下の端に立ち、中をぐるりと見渡した。
皆守は、夕薙がなにを見ているのかを察するが、そんなにまじまじと観察されると気恥ずかしい。炒めていた玉ねぎに薬味とトマト缶をあけてかき混ぜながら、夕薙の後ろ姿を蹴りつけた。
「おいこら、邪魔だ。早く入れ」
「はは、いやいや。まず感心させてくれよ」
「やめろ」
夕薙は変わらず笑ったままで皆守の蹴りを甘んじて受け入れる。何度も蹴られながら、目を細めて部屋の中を見た。
皆守は五回ほど蹴りつけたところで諦めて、唇を曲げてへらを握った。
「増えたか?」
「大和。お前、分かって言ってるだろ」
「さすがに覚えちゃいないさ。でも
……
そうだな。これは前に来たときはなかったよな」
「どれ」
「これだよ。
……
金印?」
部屋に入ってすぐ横にある本棚の上に乗せているものを思い出して、皆守は「ああ」と言った。
「福岡に行ったやつからもらったんだ。博物館にレプリカで売ってるらしい。本物から型をとってると言ってた」
「じゃあ、その人はこの部屋のことを知ってるんだな」
皆守は苦いものを奥歯で噛んだような顔をした。夕薙はその横顔を見て笑う。
「いいじゃないか。
……
九龍のこと、話したのか?」
「
……
そんな、話せることなんてないだろ」
「まあ、それもそうだな」
夕薙は微笑んで部屋の中に進んでいく。
皆守は、すすんで部屋に人を呼ばない。もともとの彼の気風もあるけれども、それ以上に、よほどの必要がなければ人を入れないようにしている。それは、単純に私室に誰かを招くということにプライベートを踏み荒らされるような気がするから、という理由に留まらない。
なにしろ、夕薙を自室に入れることにはためらいが少ない。
夕薙は、彼を知っているからだ。
「
……
大和のところには、連絡が来るのか」
夕薙が、皆守を振り返った。「残念ながら、ないよ」
皆守はそれに対して、そうか、と応じる。夕薙が背負っていたバックパックを下ろす音が聞こえた。しばらく、換気扇の回る音が響く。
夕薙が初めて皆守の部屋に入ったとき、彼は「甲太郎」とつぶやき、しばらく言葉を探すような間を空けた。その気遣いが気遣いだと分かることが、当時の皆守にとって気恥ずかしいのと構われたくないのとで半々だった。
「何か手伝うか?」
今の夕薙は、皆守に対して気遣うような間を空けない。
その申し出に対して、皆守は首を振った。
「シャワー使えよ、暑かっただろ。こっちはあと三十分くらいかかる」
「そうか。じゃあありがたく借りる」
夕薙はバックパックを開けて、衣服の整理を始める。それから数分ほどしてシャワールームに入っていったので、皆守はタオルだけ用意してやった。
再び自分ひとりになって、海老のだし汁を念入りに漉す。目の粗いざるでも、下にクッキングペーパーなどを敷いておけば殻が入らずに済む。
塩で味をととのえるころ、鍋の中がまたくつくつと音をたてはじめる。
ここまでくると、鍋にずっと張り付いている必要もない。皆守は鍋に蓋をして、廊下の壁に寄りかかった。そのままの姿勢で、自分の部屋を見る。ドアを開け放しているので、キッチンから部屋はよく見えた。
生命科学を専攻している学生のインテリアではない、というのは、この部屋に入ったことのある数少ない友人の言である。まあ確かにそうだろうな、と皆守も思う。
あいつだって、専攻は生命科学じゃなかった。
皆守の部屋に入って目立つのは、壁にかかった年表だろう。友人には、史学科だっけ、とからかわれる。本来は大学受験用のものであるらしいが、ちょうどいいので皆守はそのまま壁に張っている。もう五年以上経つので、赤い部分は日に焼けていた。
世界各地の地図は、壁に貼っていては壁が足りなくなる。地図帳の全集が買いそろえてあった。
そして、学部生のときに遊びで買ってみたらシリーズすべて集めずにはいられなくなってしまったものが、本棚の一段を占拠している。
水晶の髑髏、恐竜土偶、ピリ・レイスの地図、ハトホル神殿の壁画、水晶レンズ、黄金ブルドーザーの模型だ。
これらもまた、そこに置いてから長く時間が経っているので気がついたときに埃を払わないとていのいい埃の集積所になってしまう。
本棚の奥には、浪人時代に古本屋でぼんやりと買い集めた真偽も定かでないオカルト本や雑誌が積まれているのを皆守は覚えていた。こんなもの、集めたところで何になるわけでもない。皆守の専攻は史学でも超心理学でもない。これらを集めることで得る慰めは一瞬のものだ。
慰め、と思った自分を皆守は笑った。何の慰めだというんだ。まるで自分が被害者かのような言い方だ。
おこがましい。
これらはただの、記憶のよすがだ。
印象深い写真を集めたアルバムと同じなのだ。あいつは、卒業アルバムには映っていなかった。
その名の呼び方も、どこにアクセントをつけて、どんな温度で呼んでいたかもう忘れた。
横に並んで歩くとき、その肩がどう上下するか、歩くときの癖、その目がどこを見て何を目指していたか。後ろから見ていた皆守との視野の差、反応速度、周囲を警戒するときの姿勢も、日々遠くなる。皆守の中に、残響の影だけが残っている。
皆守は壁から背を離し、鍋の蓋を開けた。海老の出汁がスパイスにからまって、いい香りがする。あと少し煮込めば充分旨いだろう。
シャワーの水が流れる音と、換気扇の音と、鍋の煮える音が重なる。皆守は聴覚に疎いほうだという自覚があるが、この音の重なりはいつも懐かしかった。
皆守は鍋の底から持ち上げるように中身をかき混ぜ、また蓋をした。
自室から水晶の髑髏のレプリカが、じっと皆守のことを見ている。もう何年も浴びている視線だ。皆守はもう、あの男と別れてから、天香學園を卒業してから何年も過ごしてきた。あいつと過ごしたよりも長く、天香學園での時間よりも長い時間は、皆守にとってはもう当たり前のことでありながらいつも新鮮に思う。
いまこの瞬間は、新宿の地下に潜っていたときの延長にあった。
影だけが残っているなんて嘘だ。もう何年も昔の短期間のことなんて、冬に夏を、夏に冬を求めるように思い出すだけなのだと、皆守は何度も自らに言い聞かせた。
けれども、繰り返してきた暗示はふと皆守の中から生まれ出るものによっていつも霞に消える。
残響はいまも、皆守の中に響いている。
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