望月 鏡翠
2024-04-14 22:29:35
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17、赤がやけに鮮やかだった

ブツメツフツマ/平均

 全ての音が消えた気がした。
 日光を忘れた街は灰色に沈んでいる。古い写真のように現実が色褪せてる。
 雨の街に灯る街灯の白々しい光が、日月の足元に輪郭の鋭利な影を落とす。
 信じがたい現実をハイライトして、日月に突きつけていた。
 水たまりの表面は、雨粒の波紋が重なりあい絶えず震えている。
 不透明の赤色が、水を押し退けて広がっている。
 無意識に片足を引く。掻き回された水は、少しも薄まることのない、ねばつく赤色のままだ。
 頭に血が昇るのと血の気が引くのが、同時に起こったような気がした。
 耳の中で聞こえたサァという音は雨音と混ざり、集中力を削ぐノイズの一つとなっていく。
 音が戻ってきた。
 日月は、自覚のある動揺を頭の中から追い出そうとした。
 頭を冴えさせるために、余計な思考は頭から追い出し目の前のことに集中する。かもしれないではなく、確実に目の前で起こっていることだけを認識する。
 血だ。
 心を揺るがす物事の悉くを頭から追い出そうとした結果、単純化されすぎた思考は平均の雨具の内と外を汚して流れ落ちる色をただただ見ていた。
「ヘーキン」
 相手が目を覚ましたら、日月が見ている悪夢も醒めるかもしれない。だが、平は瞼を開かなかったし、夢も醒めることはなかった。
 細く長くゆっくりと息を吐き出す。
 全ては現実だ。
 雨具を忘れて飛び出した体が、徐々に冷えてくる。心臓がドクドクとうるさく脈打っている。
 一度目を閉じ、再び開く。
 永遠に近い時間を無駄にしたような後悔に苛まれたが、実際は一瞬だったのだろう。覚悟を決め、動かない平の横に膝をついた。
「ヘーキン、しっかりしろ」
 頬を水たまりにつけたまま、動かない。
 助け起こそうと屈めば血の臭いが鼻先に届く。躊躇いを無視して、抱き起こす。
 頬についた血は雨で流れていくのに、雨具は赤いままだ。まだ血が止まっていない。絶えず流れ出しているのだ。
 手足に力はなく、重力に引っ張られるままにだらりと垂れている。青白い横顔は、呼吸をしているのか不安になるほどだった。
 息があり脈もあることを確認する。体は冷えているが、抱き上げれば体温を感じることができる。
 意識のない相棒を前にして、日月は痛烈に孤独を感じた。
 怪我をしたら、すぐに退避すること。近くの人間に助けを求めること。
 ここがいつもの街ならば、声をあげたら霊能力者かどうかを問わず、誰かには届くだろう。救急車を呼んでもらうことができる。怪我人を任せて、周囲の警戒に集中することもできる。
 だが雨の降る街で声をあげても、誰にも届かない。
 誰かが通りかかる幸運に期待している間に、平は致命的な状況に至るだろう。
 そこまで考えたところで、愕然とした。
 平には今すぐ治療が必要だ。だが、病院に連れて行ったところで、医者はいない。学校に傷の手当てに秀でた教師はいる。七億不思議と相対している都合上、怪我人は多いから並の学校では手に余る怪我人も治療できる。
 だが病院と同じ設備があるわけではない。輸血が必要になっても、学校は用意できない。
 一度押し除けた不安が、水と共にじわじわと沁みてくる。
 手探りで、平の首元からホイッスルを引き出す。血がついていたが表面だけで、拭えば綺麗になった。駄目元で吹いた。
 近くに人がいれば、気づいてくれるだろう。
 他人を期待するなと言い聞かせ、腕に力を込める。
 応急処置について、多少の知識はある。だがそれは、血が出ていたら心臓より上にするだとか、傷を押さえて止血するだとか、頭をぶつけていたら動かしてはいけないというような、もっと軽微な怪我に対処する方法だ。
 死んでしまうかもしれない怪我人をどう扱うべきなのか、高校生の知識には存在しない。血を止めなければいけない。だがこのズタズタの肩の傷を、手のひらで押さえたところで、効果があるとは思えなかった。このままだと傷口に泥水も入ってしまう。
 運ばなくてはいけないが、どこまで運べばいいだろう。背負うのが一番、安定する。このまま抱き上げて連れて行った方が、傷に触らないかもしれない。
 逡巡していると、水たまりを踏む音が聞こえてきた。
 助けが来たのかもしれないと期待したのは、一瞬だった。
 リズムよく断続的に響く足音は、人ならば隊列の行進でもなければあり得ない。
 電信柱の影から、七億不思議が顔を出す。
 電柱の影に収まるはずのない体躯が飛び出している。
 雨でも水分を取り戻すことはない乾いた肌。何対も並んだ手。その先端についた、丸い頭。
 日月の方を見た。
 横に裂けた口は、赤い。血がベッタリとついていた。
 牙の生えた割れ目でしかないそれが、嘲笑う表情を作っているように見えた。
 全身を巡る血液が、数度温度を上げた気がした。
 急速に開く毛細血管が、肌をざわつかせる。
 どうするのが正しいのかなんていう判断は、必要なかった。ただ、目の前のものを見据え、するべきことをする。
 自然に体が動いた。
 平の体を、地面に横たえる。
 立ち上がり、振りかぶる。空の手の中に、イメージする。
 あの悍ましい生き物の顔を打ち据える白球。
 祓いの力が凝結し、放たれる。
 七億不思議が体を波うたせるようにしながら、身を捩る。
 投げた球に集中した。祓いの力を込めた一投。
 球そのものが日月の力でできている。
 追い縋るように軌道を曲げ、急所を避けようとした七億不思議の丸い頭を捕らえた。減り込み、穴が開く。
 大きな体から息が抜けるような音がした。
 巨体が地面に落ちる。
 だが、その体が消えることはなかった。傷ができた頭を押さえるようにしてのたうち回る。まだ倒れていない。だが確実にダメージは入った。
 今までなら一撃必殺だった決め球をぶつけても、倒しきれない敵なのだ。
 その意味を考えるのは、あとでいい。日月は、平の体を抱え直す。走りやすさを考えれば、背負うより他なかった。
「ごめん、少しの間我慢してくれ」
 病院に人がいないのだから、戻るべき先は学校しかない。助けてくれる人がいると信じるしかない。
 背負うと、肩に血が染みてきた。雨と違って温かい。 白いパーカーが鮮やかな赤になっていた。
 意識がない人間の体は重たかった。日月よりも背の高い平の体は手に余る。それでも行くしかない。
 雨の街を走る。
 来たときより遠く感じられた。
 街には誰もない。
 回収されることのないままインクが溶けた投げ込みチラシや、閉め忘れた窓からはみ出したカーテンに、人のいた名残が残っている。
 だが今は目に入らない。
 走る日月の背後で、足音がした。人のものではない。あの七億不思議だとすぐにわかる。
 振り返ると、歪な顔が見えた。球が当たった場所はえぐれている。だが肉が盛り上がり再生しようとしていることわかった。襲ってこないのは回復しきっていないからだろうか。足止めも、長くは持ちそうになかった。
 今は目も見えていない。目で見ているという部分は、間違いないらしい。
 追いかけてきているのは血の臭いか、生気か、それとも音だろうか。
 その足の速さは知っている。きっと平を抱えたまま走って逃げても、振り切ることは難しいだろう。今は目が見えないなら、隠れてやり過ごした方がいいのか。
 だが、あの化け物は細い隙間から出現する。なんの確信も保障もなく遮蔽物が多い家の中に逃げ込むのは危険すぎた。
 それに、平の容態がある。時間はかけられない。決め球は、全力ならあと一発。調整すれば二発。
 だが目眩がするほど疲労してしまったら、平を連れて帰る人がいない。倒しきれなければ、本当に二人ともここでおしまいだ。
 走りながら考える。
 倒れた平を見て立ちすくんでいたときよりは、今の方が頭が動いている。
 足を止めて、立ち向かうか。七億不思議が再生する前に、逃げ切ることができる可能性に賭けるか。それとも一縷の望みをかけて、もう一度ホイッスルを鳴らすべきだろうか。
 あの七億不思議は、平を誘き寄せた。
 ある程度の知能はある。
 振り返っていると、走るのが遅くなる。
 日月は前に集中した。まだ学校にはつかない。
 やがて一度は遠ざかった足音が、ものすごい勢いで追いかけてきた。
 自動車と追いかけっこをしているようなものだ。とても逃げきれない。
(知恵があるなら)
 日月は振り返る。足音はすぐそこに迫っていた。
 空の手を振りかぶる。後ろに迫っていた七億不思議は、その動きを見て飛び退き、電信柱の影に吸い込まれていった。
 手の中には無論何もない。流石に人を背負ったままで、ものなど投げられない。
 一か八かだったが、うまく行った。知恵があるからフェイントに引っかかる。本当に球を投げていたとしても、あの反応速度なら避けられていた可能性が高い。最初はきっと、威力がわかっていなかったから当たったのだろう。
 急に足を止めて振り返ったせいでずり落ちた、平の体を背負い直す。
 こんなに激しく動いても、反応はない。
 もう一度呼吸と脈拍を確かめる勇気はなく、日月は学校まで走るしかなかった。
 七億不思議がまた追いかけてきていないか、周囲の気配に耳を澄ませる。
 だが音が聞こえたのは、周囲ではなく上からだった。
『置いていかれたくないでしょう? 誰だって、君だって』
 聞き覚えがあるような気がした。学校の中で聞いたことのある声と同じだった。
 無意識に、平を支える手に力がこもっていた。
『僕はもうわからない。君たちはわかるの? どうすればいいか』
 その正体を気にしている余裕はなかった。
「学校に行って助けを求める。ヘーキンを、助ける!」
 それは問いかけへの返答というより、自分へ言い聞かせる言葉だった。今、すべきことを見失ってはいけない。
 七億不思議も、声の正体も、あとでいい。
 置いていかれないようにするには、走るしかない。
 学校の灯りが見える頃、近くをうろついていた七億不思議の気配も消えていた。学校に辿り着けば教師の姿がある。血まみれの生徒を見て駆け寄ってくると、平を保健室に運んで行った。
 口々に交わされる言葉の中に、耳を澄ませる。息が止まっているだとか、脈がないだとか、手遅れを告げる言葉がないのか、気にせずにはいられなかった。
 今はやれるだけやってみるという非常勤講師の言葉を、信じるしかない。霊能力を治癒に役立てることができる人がいる。無論万能ではないが、その力を信じるしかなかった。
 目の前で保健室のドアが閉じる。
「君は、どうする?」
 それはここまで平を運ぶのに手を貸してくれた教師だ。常勤か非常勤かは、見ている余裕がなかった。今改めて確認する力も残っておらず、日月はじっとしまったドアの前に佇む、自分のつま先を見ていた。
 上履きに履き替える時間すら惜しく駆け込んだ靴は、血で汚れている。
 その場にじっと経っていると、足元に血混じりの水たまりができていた。右側が特に酷く汚れている。平の体から溢れ出した血の量を想像した。
 人間がどのくらいまで出血していいのか思い出そうとしたが、そもそもそんな医療知識を知っているわけがなかった。
「俺は……
 あの七億不思議は、まだ街にいる。祓いに行かなくてはならない。
 逃げている最中に聞こえた、声の正体を確かめなければいけない。
 どこかで聞いた声の気がした。それをはっきりさせなくては。
 そのまま、外に足を向けようとした。
 自分たちが走り込んできた廊下には、血と雨水が混ざった足跡が、点々と残っていた。
 右手を見下ろす。
 真っ赤だ。
 手のひらの血は落ちているが、パーカーの半身は色が変わっている。
「いや……。少し、休みます」
 日月は、寮の自室の方に踵を返した。