たかさき
2024-04-14 22:13:39
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嘘つきの見る夢は

FF7/ヴィンクラ/R-18
1:ヴィとクラが付き合うまで

 エッジ。端っこ、という名の街の更に端っこに、ストライフ・デリバリーサービスは小さな店を構えている。
 ティファの経営するセブンスヘブン――ジェノバ戦役の後、崩壊したミッドガル七番街からこの街に移って再興した――に、最初は電話や部屋の一角を間借りしていたが、諸事情あって場所を移すことにしたのだ。
 店といっても、古い煉瓦造りのバラックの一階をぶちぬいて作られたガレージにカウンターと椅子を並べただけという、至って簡素な造りである。配達の受付をするだけだからと内装のことなど特に何も考えていなかったのだが、こんな粗末な場所でも夜遅くまで明かりを灯していると、どこからともなく人が寄り集まりだした。それが次第に常連客として居着くようになり、それならとティファの提案で、近ごろは酒とピーナッツくらいは出すようにしている。ただし、市場には流通しないような怪しい安酒だし、メニューなんて気の利いたものもない。隅に置かれたラジオから流れるのは流行りの音楽なわけもなく、雑音混じりの古いジャズだ。
 デンゼルは週に何度か、手伝いと称してここの店番をしている。店の入口の小さな椅子を陣取って、入ろうとする客がいたら呼び止めて先に注文を聞く。酒か、それとも配達か。酒なら先に金をもらって酒瓶を渡し、配達ならカウンターの奥にいるクラウドに声をかけに行く。クラウドはこんな店の手伝いなんてしなくていいと言うけど、デンゼルはティファの店から離れてしまったクラウドと一緒に過ごす時間を少しでも増やしたかった。

 ある夜のことだ。白い月の冴えわたる、影と光がくっきりと浮かび上がるような夜だった。
 一人の男が足音もなく影から現れ、薄明かりに照らされた青白い顔がデンゼルの前をすうっと横切った。
 デンゼルは思わず叫び出しそうになりながらも、咄嗟にその腕を掴む。幽霊かと思ったその影――男には、ちゃんと腕も足もあって、そのままクラウドの店に入ろうとしていたからだ。こんな怪しい男、店に入れる訳にはいかない。使命感のようなものに駆られ、そして何よりこみ上げる恐怖を隠すため、掴んだ腕を離すまいとして相手をきっと睨みつける。
 しかし、相手はそんなデンゼルの視線など、気付いてもいないようだった。
 腕を掴まれたことなど意にも介さず、そのまますり抜けようとする。が、何を思ったのかふと立ち止まり、デンゼルの方を振り向いた。
 夜と同じ色の長い黒髪がさらりと肩から流れ落ちる。高い背丈から見下ろしてくる、紅い瞳。
 きれい。でも、怖い。
 その姿を目にして、最初に感じたことはそれだった。逃げ出したいと思ったけど、何かが引っ掛かって目を逸らせずにいる。
 この人、どこかで見たことがある。でも、誰だっけ。
 デンゼルは必死に思い出そうとした。すらりとしたスーツ姿。ジャケットもベストもシャツも何もかもが真っ黒なのに、ネクタイだけが瞳と同じ、深い紅だ。ルードとかいう、ティファの店に時折やってくる男と恰好が似ているけど、あいつじゃない。でもこの顔は絶対に前に見たことが――
……クラウドが世話をしている、子どもか」
 低い声がぼそりと落ちてきた。それが存外人間らしい声だったので、デンゼルはほっとすると同時にむっとして、掴んでいた腕を些か乱暴に離す。
 むっとしたのは多分、子どもと呼ばれたからだ。実際子どもなのだから腹を立てたって仕方ないとは分かっちゃいるんだけど。デンゼルはむっとしたまま、不愛想に言い放った。
「酒なら10ギル、先払い。そこのピーナッツは勝手に取っていい。それとも配達? ならモノと場所」
「酒はいらない。配達は必要ない」
「ならこんなところに何しに――
――ヴィンセント、こっちだ」
 背後から突然クラウドの声が聞こえて、驚いて声のしたほうを振り向く。
 クラウドはどんな客が来ようが、自ら出迎えるようなことなんかしない。いつもカウンターの奥に座って、デンゼルが声をかけるまで顔をあげようともしないのが常なのに。
 それが、何で。こいつ一体誰なの。
 デンゼルがそう聞くより前に、長身黒髪の男は無言でクラウドの指し示した方へと歩いて行った。流れるような、足音のしない歩き方。その後ろ姿を見て、思い出す。ティファの部屋に飾ってある写真に写っている男――赤いマントを着た、影のような男。確か、ティファが『仲間』だと言っていた人だ。
 呆然としていると、クラウドが近寄ってきて言った。
「デンゼル、今日はもう店じまいだ。後のことは俺がやるから、お前はもう帰っていい」
「え? でも伝票の整理がまだだし、片付けだって」
「必要ない。それより早く帰って、ティファを安心させてやれ」
 そう言ってデンゼルの肩を柔らかく叩くと、さっさと背中を向けてしまった。
 その背中に向かってまだ帰りたくないと言おうとしたが、口を噤む。クラウドの態度を冷たいと思ったわけじゃない。他人から見たら冷たいと思うかもしれないが、デンゼルは彼の不器用な優しさを良く知っていた。ただ、ティファには最近心配をかけていると自覚していたから、そのことを察しているらしいクラウドに何も言えなかったのだ。子どもっぽい真似をしたくないという気持ちもどこかにあった。
 クラウドの言葉で、数人いた客もぶつぶつ文句を言いながらも大人しく席を立ち始める。
 その流れに逆らえなくて、デンゼルも諦めたように立ち上がった。ティファの店と違ってここは店と外を隔てるドアなどないから、歩き出してしまえばそのまま帰り道になってしまう。
 とぼとぼと歩き始めたものの、やっぱり未練が勝ってしまって足を店へと戻した。クラウドにまた明日も来ていいか聞きたかった。本当は、もう少し話をしたかった。デンゼルにとってクラウドはかけがえのない家族で、そして自分を救い上げてくれた英雄だった。
 暗い夜道から店の薄明かりに向かってクラウドの名前を呼びかけようとした、とき。
――ヴィンセント」
 店の奥へ去ろうとするクラウドが、デンゼルには背を向けたまま、あの黒髪の男の名前をもう一度呼んだ。
 その声を聞いて、デンゼルは慌てて足を止める。そのままくるりと店に背を向け、一目散に駆け出していった。
 何故かは分からないけど、クラウドの姿をこれ以上見てはいけないと思ったのだ。
 クラウドの声がいつもとほんの僅かに違うのを聞き取ったから。クラウドの、いつも冷静で落ち着いた、冬の朝のような声。そこに、ティファに隠れてこっそり飲んだ果実酒のような、鼻腔をくすぐるような甘ったるさが含まれていた、ような気がして。
(あんな声、聞いたことない)
 誰に対しても、ティファにだって、クラウドがあんな声で話しかけるのなんて聞いたことがない。
 あの男、ヴィンセントと呼ばれていた。一体、何者なんだろう。クラウドにとって、どういう存在なんだろう。
 クラウドに聞いたら教えてくれるだろうか。多分、教えてくれないんじゃないか。というか、多分、聞いてはいけない。そんな気がする。ティファには、絶対に聞いてはいけないと思う。それくらい分かる、俺にだって。もう、小さな子どもじゃないんだから。
 何故か腹立たしい気持ちになりながら、デンゼルはティファの待つ家へと走り続けた。

 * * *

――随分遅いんだな。タークスにも残業ってあるのか」
「残業とは、随分懐かしい言葉だな。使ったことはないが。……セブンスヘブンに行ったんだが、お前はもういないと聞いた」
「言ってなかったか? 引っ越したって」
 取り繕うこともなく白を切るクラウドに、ヴィンセントはふっと口の端だけで笑う。そうやって責めようともしないヴィンセントにクラウドは謝る素振りも見せず、カウンターの奥から酒瓶を取り出して掲げて見せた。
「飲むか? ああ、先に言っておくけど味はかなりまずいぞ」
「そう言われると却って飲んでみたくなる」
「向こうでも何か飲んできたんだろ? 文字通り天国と地獄くらい味が違うから、覚悟しとけ」
「ふ、ならここは地獄というわけか」
 クラウドは酒瓶を開けるのに栓抜きを使うことなく、そこに置いてあるナイフで瓶の口を危なげもなく切り落とした。常人では見られない手捌きに、冷やかし目的の客なら驚いて退散するだろうが、ヴィンセントは静かに見つめるのみだ。
 無骨なロックグラスに注ぎ入れ、ヴィンセントに渡す。クラウドは瓶のまま、グラスにかちりと音を立てて合わせると、そのまま口へと運ぶ。ヴィンセントもグラスを小さく掲げてから口へ運び、苦笑いを浮かべた。
「これは……ひどい」
「実験室に長い間放置された薬品みたいな味がするだろ」
「ウィスキーにも似たような味があるが、そういうレベルではないな」
「でも、何だかクセになるんだ」
 ヴィンセントは小さく頷いて、再びグラスを傾けた。クラウドはその横に座って同じようにまずい酒を舐めながら、ヴィンセントのネクタイへするりと指を滑らせる。アルコールを含んだからか、潤んだ瞳が上目遣いのようにヴィンセントを見上げた。
「それにしても、アンタのスーツ姿なんて初めて見るんだけど」
「あの恰好で社内を歩くのは目立つからやめてくれと上司に止められてな。後、あの靴ではせっかくの新しい床が傷むんだそうだ」
「ツォンだろ、上司って。アンタからしたら後輩じゃないか。大体、何で再就職先がよりによってタークスなんだ。リーブにだってWROに誘われてたんだろ」
「あいつは結構しつこいからな、断るのも一苦労だった。……WROは」
 ヴィンセントはそこで口を一度閉じる。何か考えているのか、言葉を選んでいるのか、ロックグラスをただ眺めている表情からは何も読み取れない。
「WROは、リーブがうまくやるだろう。活動も特に不穏なところはない。今のところは、だが……
「何か、気になることがあるのか?」
「いや。ただ、WROの幹部はリーブと同じ、神羅の元構成員だ。あいつが引き抜いた人間だから信頼はできるのだろうが……神羅は今でも一強独裁のコングロマリットであることに変わりない。ウータイとの緊張関係も続いている。ミッドガル市も表では神羅を批判しているが、本音のところは解体する気などないだろう。ディープグラウンドの一件があってさえも、な」
 ディープグラウンド。神羅の闇。
 一言でいえば、どえらい目にあった。とばっちりと言ってもいい。ヴィンセントにとってもクラウドにとっても、この星にとっても。
 メディアは最初のほうこそ神羅を痛烈に批判したが、現プレジデントであるルーファウスが公に謝罪し、事実の追求と被害者への補償を確約するや否や、批判の声はぱったりと止んだ。全ては前プレジデントの罪であり、現在の神羅カンパニーを断罪するにはあたらない――と、世論も呆気なく移っていったのである。
 クラウドが皮肉気に嘆息する。
「補償金を出すのも兵隊を出すのもエネルギーの技術を持っているのもメディアを統制するのも全ては神羅、だからな」
「建前上はWROとなっているが、実態は神羅が裏で動いていると市民も気付いている。神羅が解体されて困るのは寧ろ市民のほうだろう。ミッドガルに至っては、殆どの市民が神羅と関連企業の社員だからな。何よりWRO自体が神羅の資金なしには立ち行かないとなれば――軍閥化するのも、時間の問題だ」
「新しい皮を被った神羅ってわけか。でも、どっちがマシかって話じゃないのか?」
 ふ、とヴィンセントは小さく笑う。最も、クラウド以外の人間が見ても、彼が笑ったとは分からなかっただろうが。
「世界再生機構、か。私の手は壊すばかりだ。生み出すものなど何もない」
 そう言う彼の顔は穏やかで、静かな諦念を湛えていた。
 クラウドはその横顔からふっと視線を落とす。 
 それは違うと言い返したい気持ちもあったし、自分も同じだという気持ちもあった。どちらにしても、どういう言葉にすればいいのかがよく分からなかった。
 ふと、ラジオから曲がふつりと途切れて、静寂が訪れる。古いものだし、とうとう壊れたか。そう思って目をやると、暫くして何事もなかったようにまた曲が流れ始めた。耳に心地いいコントラバスのリズムが再び二人の周りに広がっていく。
 妙にほっとして、くい、と瓶を呷る。一気に飲み干すと、まずさとアルコールの刺激でのどがかっと熱くなった。
「そうだとしても、アンタがルーファウスに雇われる理由があるとも思えないけどな――それより、ヴィンセント」
 軽い酩酊感に、酒は便利だなと思う。らしくない言葉や態度だって、今なら許されるような気がしたからだ。
 ネクタイをくい、と引っ張ると、白い顔がようやくこちらを向いた。それに満足して、クラウドは薄く笑う。
「この面白くも何ともない話、まだ続けるか? それならもう一本開けるけど、どうする?」
 空になった瓶を目の前で振って見せると、ヴィンセントは今度ははっきりと笑みを浮かべて、首を僅かに振った。
「酒はもう十分だ」
 黒い革の手袋に包まれた手が、クラウドの手を捕らえる。ヴィンセントはその手の甲に恭しく唇を寄せた。彼がうっとりと目を閉じたように見えたのは、酔った頭が見せた幻覚だろう。それでも唇が触れる前に感じた吐息だとか、冷たく濡れた唇が押し当てられる感覚は妙に生々しくて、びくりと手が震えるのを止められなかった。
……部屋に案内してくれるか、クラウド」
 黒髪の奥にある赤い瞳が薄暗い照明に揺らめいて、クラウドを見つめている。低く囁かれた言葉は耳に直接吹き込まれたみたいに心地よく響く。酔うってこういう感覚なのかと、閉じそうになる瞼をゆっくり瞬いた。
「先に、行ってて。……俺は、ここの片付けをしなきゃいけないから」
 部屋は外の階段を上がって二階にある。そう伝えてポケットの中の鍵を黒い手に押し付けると、ヴィンセントは酔った風もなく鍵を受け取って静かに立ち上がった。店に入ってきたときと同じように静かな足取りで、さっさと店を出て行く。
 クラウドは暫く座ったまま、動かなかった。階段を上がる足音が微かに聞こえて、我知らず溜息が漏れる。さっきは平静を装ったつもりだけど、声は震えてなかっただろうか。彼の唇が触れた手の甲を顎に押し当て、目を瞑る。
……ヴィンセント)
 厄介だ、と思う。
 彼へと向かう感情が他の誰にも抱いたことのないものだということは、もう随分前から分かっていた。
 でも、それを言葉にするのは、怖い。
 言葉にしたらきっと、彼の中にあるものと自分の中にあるものが同じではないということが分かってしまう。
 もやもやと苛立ちが募る。それが分かったところで、もうどうしようもないということも知っていたからだ。
 また一つ溜息を吐いて、クラウドは立ち上がった。とりあえず二階へ上がる前に、使ったグラスくらいは洗わないといけない。
 空瓶をゴミ箱へ放ると、ガシャンと耳障りな音を立ててガラスが砕けた。

 * * *

 ――この夜の、数日前。

 クラウドは苛立っていた。ずっと。一体いつから苛立っていたのか自分でも分からないくらい、ずっと前から。
 先日、ディープグラウンドとかいう不気味な一行にエッジも襲われ、散々な苦戦を強いられながらも応戦していたところ、どうやらヴィンセントが巻き込まれているらしいと人づてに知った。
 この、人づてにというのが、クラウドにとって嫌なことの一つだった。いつもそうだ。ヴィンセントは連絡手段を持とうとしない。彼の電話はすぐに壊れるし、壊れた電話はそのまま放っておかれる。だから、ヴィンセントのことを知るのはいつも人づてだ。連絡無精な自分のことは棚に上げて、クラウドはそのことに苛立ちを感じていた。
 そしてオメガを片付けたはずのヴィンセントはようとして行方が知れず、方々を探し回っても見つからなかった。わざわざクラウドが自身で探しに行ったというのに、だ。
 方々を探し回ったといっても、故意に行かなかった場所が一つだけある。湖のほとりにある、暗くひっそりとした祠。ルクレツィアが静かに眠る場所。
 ヴィンセントはどうせ、そこに行ったんだろう。分かり切っていたことだった。だからこそ探しに行きたくなかったし、ましてやそこにいてほしくなかったのに、ティファからの電話であっさり知らされたのは思った通りの場所でヴィンセントが見つかったということだった。因みに見つけたのはシェルクとかいう、先の事件でヴィンセントと関わりのあった女性(少女?)らしい。それもまた腹立たしさに輪をかけて、でもそれをティファにぶつけるわけにもいかず、ささくれだった気分で通話を切ったのを覚えている。
 苛立ちが頂点に達したのは、レノとルードが何やらごちゃごちゃと話しているのを偶然耳にしたときだった。 
 あのタークス二人は何故かティファの店にちょくちょくやってきては酒と料理を摘まんで帰っていくのだが(どういうつもりなのか本当によく分からない)、たまたまクラウドが店に立ち寄ったときに気になる会話が聞こえてきたのだ。なあ相棒、あの新人どう思う。新人じゃない、先輩だ。いや先輩つったってアイツの現役時代知ってるわけじゃねえし。新人のくせに先輩って扱いづらいったらねえんだよなあ。しかも銃の腕はバケモノ級ときてやがるし、いつか俺ら後ろから撃たれんじゃねえの。大体アイツがなんで今更タークスなんだよ、なあおい――クラウド、何か知らねえのか。アイツ、WROに行ったんじゃなかったのかよ、と。
 アイツって、誰のことだ。俺は何も聞いていない。
 突然振られた会話にそう返しながらも、頭の中では嫌な予感が点滅し始めていた。思った通り、二人が話していたのはヴィンセントのことだと分かったときにはリミッターもぶちんと振り切れて、それでアイツは今どこにいるんだと詰め寄ったときの声は今まで出したこともないような低い声だったから、タークス二人組は少しびっくりしたような焦ったような、妙な顔でお互い見合わせていた。

 夜のミッドガルをフェンリルで走っていると、巨大な蛇の腹の中に吞み込まれていくような感覚にとらわれる。
 崩れかけのビル群がうねうねと続いて、ひび割れた鉄骨は朽ちたあばら骨のようだ。
 不気味さと哀愁が漂う中、微かにではあるが、確かに人工の光がぽつぽつと灯っていた。
 メテオやらディープ何とかやらオメガやら、ミッドガルはまるで天罰かのような数度の大規模破壊を受けて今やほぼ廃墟と化しているが、それでも完全に無人になったわけじゃない。かつては眠らない街として栄華を誇ったこの鋼鉄都市を、人々は忘れることができなかった。周縁にエッジという都市が形成されて今もなお人々が住み着いているのは、復興というよりもミッドガルへの断ち切れない愛憎と未練を思わせる。
 かくいうクラウドも、ミッドガルから離れがたいと思っている一人だった。
 正直なところ、この場所にあるのは何も良い思い出ばかりじゃない。監獄のような支配と服従。枯れた土地。落とされるプレート。悲鳴。涙。
 それでも、ここで暮らした僅かな時間の中には、憧憬ともいうべき記憶があった。
 空に浮かぶ巨大なプレートの隙間から差し込む光が、錆色の地面を眩く照らす。
 夜には天まで届く塔のような高層ビルが、世界を青白く染め上げた。
 それはこの目で実際に見た景色かもしれないし、まだ少年であった頃にニブルヘイムで繰り返し思い描いた景色かもしれない。幼いクラウドにとって、ミッドガルは英雄と同じ意味を持つ希望だった。
 崩落したミッドガルは、復興の道標となるのか、それとも滅びの象徴となるのか。
 ここにしがみついて生きる人々は誰も、まだその答えを知らない。
(しがみつく、か……全く、諦めの悪い)
 吐き出した溜息は、疾走する夜に紛れて跡形もなく消えていく。
 ミッドガル、伍番街。辛うじて残るプレートの上に、元は神羅関連企業の集合住宅が並ぶ居住区が残っている。そこにヴィンセントはいるらしい。
 何故、あの男はこうも自分を苛立たせるのか。
 連絡を寄こさないことも、そもそも連絡手段を持とうとしないことも、星を揺るがすほどの大事件に勝手に巻き込まれていることも、そしてそれが終わればさっさとどこかへ消えようとすることも。クラウドが生きる――生きざるを得ないこの世界に、自分は何も関係ない、未練など何一つないみたいな顔をして。
 クラウドはその答えを理解していたけれど、それが自分の望むものではないことも理解していた。
……諦めが悪いのは俺のほうだって、分かってるさ)
 だから、こんなに苛立つんだ。
 その苛立ちを少しくらいぶつけても許されるはずだ。何たって相手はちょっとやそっとじゃ死ぬことのない、丈夫な体の持ち主なのだから。
 最も、彼がそれを望んで手に入れたわけではないことくらい、百も承知だけれど。

 目的地は、いかにも寂しい場所だった。
 エッジにはある人通りや活気というものがまるでなく、そびえたつ建物もやがて朽ちるのを待っているかに見える。
 クラウドはタークス二人から聞き出した場所に着くなり、鍵のかかったドアの取っ手を掴んで、腕にありったけの力を込めた。かわいそうなドアは鈍い音を立てて、呆気なく開いた。勿論、部屋の主に許可など取っているわけもない。
 あの男がそこにいようがいまいが構わなかったが、部屋はがらんとして無人だった。
 躊躇うことなくそのまま入ると、目に映ったのは囚人部屋かと呆れるほどの、何もない部屋。
……予想通りというか、予想以上に何もないな)
 見事なまでに殺風景な部屋を見渡して、思う。ここには生活の気配というものが一片も感じられなかった。 
 あるのは快適さなど微塵もなさそうなパイプのベッド。マットは薄いし、白いシーツはいかにも寒々しい。壁際には無機質な机と椅子が一つずつ。家具と呼べそうなものは、それだけ。
 配管が剥き出しの天井は気分が沈みそうな灰色で、埃と黴の匂いがうっすらと漂っている。
 照明も音もない部屋に、薄いカーテンの間から差し込む淡い月明かりだけが床(絨毯など敷かれていない)を青白く照らして、それは美しさより冷たさを際立たせていた。
……食事はどこで食べるんだ、これ」
 思わず呟いたクラウドは後ろを振り返って――呆れたように目を細め、見上げる。
「ここでは寝るだけだ。食事など必要ない」
 いつの間にいたのか、さっきまでいなかったはずの部屋の主――ヴィンセント・ヴァレンタインがすぐ後ろに、月明かりと同じような青白い顔をして立っていた。
「何だ、いたのか。急に後ろに立つなよ、びっくりするだろ」
「お互い様だ。大体、ドアを壊していきなり入ってきたやつが何を言っている」
 びっくりしたとかお互い様とか言う割りには、二人ともいつもと変わらない声と表情である。しいて言うなら、声が多少むすっとしているかなというくらい。
 ヴィンセントは右手を愛銃に添えていたが、相手がクラウドと分かるとホルスターごと外して机の上に置いた。
 クラウドはいつもの大剣を背中に差してはいなかった。ホルダーごとフェンリルの中に収めたままだ。
「よくここが分かったな。誰かに聞いたか」
 重そうなガントレットを外してベッドへと放りながら、ヴィンセントが尋ねる。ガントレットを外しても彼の左腕は肌を見せない。赤いマントと鉤だらけの黒い服は首元から両手の指の先までびっちりと覆い隠している。窮屈そうな革の手袋に覆われていても、彼の長く細い指はしなやかに動いた。クラウドはつい、その美しい指をいつも目で追ってしまう。あの繊細な手が獰猛な銃器に触れて、躊躇いなく引き金を引くのを見るのが好きだった。
 アンタの後輩が口を滑らしたんだ、と言おうとして、やめた。
 アンタが連絡してこないのが悪いんだ、と言いたかったが、言えなかったからだ。
 誤魔化すようにして代わりに口をついて出てきたのは、至極どうでもいい言葉だった。
「神羅の最下級兵でも、もっとましな兵舎に住んでるぞ。他に良いところはなかったのか」
「さっきも言ったが、ここでは寝るだけだからな。不自由はない」
「暗いし、埃臭いし、黴臭い」
「慣れている。棺桶より遥かにましだ」
「買い物とかどうするんだ。この辺はもう店なんてないだろ」
「どうとでもなる。問題はない」
 ヴィンセントは机に浅く背を預け、緩く腕を組んでクラウドと向かい合った。長い黒髪の奥に潜む紅い瞳は、静けさと共にある種の冷たさを感じさせる。
 罪って、許されるのか。
 あのとき、そう呟いたクラウドに、試したことはないと告げた瞳と、今も何も変わらない。

 ふと、クラウドはさっきまで感じていたはずの苛立ち――ずっと長い間、目の前の相手に対して抱えていたはずの苛立ちが、すっかり消え失せていることに気付いた。
 探しても見つけられなかった相手を目の前にして、胸の中にあった虚勢のようなものがぽろぽろと剥がれ落ちていくのを感じる。
 苛立ちではなかった。そこにあったのは不安だった。
 人の顔が変わり、風景が移ろい、夏が冬になり冬がまた夏になっても自分は一人ぽつんと取り残される、拠り所のなさ。
 逃げたくて、掴もうと必死に手を伸ばして、伸ばした指の先にいる相手は背中を向けて、振り返らない。
 そして夜が――オメガとカオスを呑み込んだ、真っ暗な夜がひたりと忍び寄ってくる。 

 真っ直ぐに見つめてくるヴィンセントの視線から目を逸らし、クラウドは俯いた。
 喉がひりつくように痛みだす。背中にいつもの重みがなくて、ひどく無防備だと感じる。粗末なベッドの上に転がっているガントレットが目の端に映って、まるでヴィンセントの抜け殻のようだなどと、うつろなものが喉元まで込み上げてきた。
……こんなところに住むくらいなら、俺のところに来ればいい。大したところじゃないけど、ここよりはましだ。ベッドだって、これよりは寝心地がいい――でも」
 顔を上げることなく、クラウドは言った。
「アンタはどうせ、すぐまたどこかに行くんだろ、あのときみたいに。ここでは寝るだけって――じゃあ、アンタはどこで生きてるんだ。アンタの生きる場所は、ここじゃないのか。だから――ルクレツィアのところに帰るのか。俺は、」
 俺は、どうしようもなく一人でも、ここで生き続けなきゃいけないのに。
 最後まで言ってしまいそうになって、唇を噛んで、口を噤む。 
 彼女の名前を口にするのは屈辱だったし、それ以上に言いたくもなかった本心に気付いてしまって、自己嫌悪に追い詰められる。
 噛み締める唇に、ふと優しく触れる指があった。革に包まれた指は人肌と異なる奇妙な滑らかさで唇を撫ぜ、頬を包んで俯く顔を上げさせる。
 見上げたヴィンセントの瞳はひどく優しくて、降ってきた声は穏やかだった。  
「眠るのは、もうやめた。私はここで生きてみようと思う」
 何で、と思わず呟きが漏れた。アンタがそんなこと、言うわけない。
 それを感じ取ったのかどうか、ヴィンセントは自嘲的に笑う。
「私の時を動かした者がいる。眠りは罪の償いにはならないと教えてもらった。だから私は――その人のために、生きようと思う」
 呆然として、息を呑む。自分の耳がどうかしてしまったんだろうかとさえ、思う。
 けれど、一瞬、ヴィンセントは逡巡するように遠くを見つめるような目をして、
……ルクレツィア」
 彼女の名前を呼んだ。
 そんな声で、今でも彼女の名前を呼ぶんだな。
 その掠れた声は、狂おしく何度も呼びかけている姿を思わせて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 しかし、ヴィンセントの沈黙は長く続かなかった。
 再びクラウドの視線を捕えて、一つずつ確かめるように言葉を続けた。
「ルクレツィアは眠りについた。もう目覚めることのない眠りに……それが彼女の望みであり、受けるべき罰だろう」
「私は彼女を愛した。過去も、今も、それは変わることはない。そのために犯した罪も、決して消えはしない」
「だが、この感情は……もう、先に続くことはない」
「彼女は私を生かして、眠りについた。私は眠りにつくことなく、生きることを選んだ。……その意味が分かるか、クラウド」
 クラウドに向けて語られる言葉は、どこまでも静かだった。感情は彼の奥深い底に沈められて、浮かび上がらせることを自ら許さないようだった。
「分か……らない、そんなの、」
 熱を帯びない言葉は、頷くにはあまりに信じがたくて、頭を振る。
 ヴィンセントがあの女性をどれだけ深く愛していたか、彼女に語りかけるときの彼の声がどんなに甘く悲しげだったか、クラウドは知っていたからだ。
 だからはっきりとした言葉が聞きたかったのに、ヴィンセントは目を薄く伏せてそれを拒んだ。
「これは私の勝手な思いだ。誰にも押し付けるつもりはない。……だが、お前は自分で、ここに来たな。何故だ?」
 心の奥底を見透かすような目をして、反対にヴィンセントが問いかけてくる。
 頬を撫ぜる優しい指は、逃がしはしないという脅迫めいた意思さえ感じさせる。
「お前の望みは何だ、クラウド。『ここには何もない』ことをお前は知っていたはずだ。なのにわざわざドアを壊してまでやって来たのは一体、何のためだ」

 アンタって、本当にずるいよな。
 クラウドの心中で再び苛立ちがむくむくと湧き上がってくる。
 不安だけじゃない、アンタを目の前にするとやっぱり苛立って仕方ないんだ。
 だって、アンタは何一つ、ちゃんと言葉にしようとしないから。
 きっとルクレツィアに対してだって、そういう態度だったんだろう。
 彼女のことは別に好きじゃないけど、これだけは彼女に心底同情するよ。

――俺と、一緒にいて」
 クラウドはヴィンセントの目を見返して、言った。
「ずっと――俺が眠る日まで、ずっと、そばにいて……ヴィンセント」
 怒っていた。不安と苛立ちがないまぜになって、声は低く、小さかった。
 でも、声を震わせるような失態は犯さなかった。縋りつくような惨めさだけは見せたくなかった。
 それらを全部合わせれば、泣き出しそうになるのを必死で耐えている子どものような顔をしていたのかもしれない。
 そしてそれは、クラウドが決して人前で見せようとしない――子どもの頃さえ見せることのできなかった、誰も知ることのない表情だった。
 
……約束しよう」
 ヴィンセントの顔に、深い笑みが浮かぶ。
「お前が望む限り、ずっと――そばにいよう」
 それはこの男が今までに見せたどの顔よりも壮絶に美しくて、だからそういうところがずるいんだって、と余計に腹が立って仕方なかった。
 悔しいながらもその美しさに見惚れていると、ふとその顔が近づいてくる。
 間近で見る紅い目は何てきれいなんだろうとか思っていると温い息が頬にかかって、柔らかな感触が唇に触れる。
 優しく啄まれ、ちゅ、と小さく音を立てて離れていって、暫く呆然として、今もしかしてキスされたのかとようやく気付いた。
 目をぱちぱちと忙しなく瞬かせた後、かっと顔が熱くなる。
「こ……んな、」
……ん?」
「こんな、……子どもにするみたいな、」
……いいのか?」
「アンタも俺も一体何歳だと思って――っ、ん、っ、」
 まるっきり子ども扱いで馬鹿にしてんのかと文句の一つでも言いたくなって、けれども舌も頭もうまく回らなくて何を言えば良いのか分からなくなったところ、頬を撫ぜていた指が急に後頭部へと回って、ぐ、と力を入れて掴まれる。
 そして引き寄せられた先には、深い口づけが待っていた。
 さっきとは全く違う、喉の奥まで浸食されるようなキス。舌を割り込ませて口を開けさせられ、口腔内をねっとりと掻き回される。
 その生温かい感触に腰の辺りがぞくぞくと粟立って、ちゃんと立っていられなくなって思わず相手の胸にしがみつくと、もう片方の手でぎゅう、と腰を強く抱かれた。
 ちゅ、くちゅ、と生々しい水音が静かな部屋に響く。味わうように動き回る舌におずおずと自分のを触れさせると、絡めとられ、角度を変えて何度も吸われて。
「んぅ、ふ、ンン……ッ」
 そうされるのがあまりに気持ち良くて、頭の芯が甘くじんと痺れたみたいにふわふわとして。鼻にかかった妙な声が乱れた息と共に漏れるのも構わずに夢中で続けて、それでも息苦しさに喉を反らすと、ふっと唇が離れていった。
 キスが唐突に終わった意味が分からなくて、服を掴んだままぼんやりとただ目の前の相手を見つめていた。息が治まってきた頃、ヴィンセントが常にない笑顔でこちらを覗き込んでいることに気付き、途端に我に返って、ばっと体を離す。
「な……何、」
「これで良かったか?」
 くすりと揶揄うような余裕を見せる微笑みに、何やらどっと疲れが押し寄せて、クラウドは溜息を吐き出した。
 何たって相手は自分の倍ほども生きている大人なのだ(多少、疑わしくはあるけれども)。こういうことは背伸びしたって勝てる訳もないし、自分一人で苛立ちを後生大事に抱えていることが急に馬鹿らしくなったのだ。
 まだ腰に腕が回されていることに気付き、半ば自棄のような気持ちで、それに逆らうことなく体を預けてみる。すると、自然に二人の間の距離がゼロになって、柔らかく抱きしめられるような恰好になった。その心地よさに、ふっと全身の力が抜ける。胸に凭れかかったまま見上げれば、ヴィンセントの表情は穏やかで、さっき見せた揶揄いの色はなくなっていた。
「アンタ、キスうまいんだな……意外だった」
「誉め言葉として受け取っておこうか。お前は少し拙いようだが、初めてだったのか」
「っ! うるさ」
 い、と嚙みつこうとした、とき。
 微かな靴音がこの部屋に近づいて来るのが聞こえて、二人の体に緊張がさっと走り抜ける。
 瞬時に身構えようとしたクラウドを、ヴィンセントの左手が素早く捕える。
―――っ!?」
 動きを抑えつけられ、反射的に声が出そうになった口を塞がれる。
 何するんだと思うのと同時、頭からマントがばさりと覆い被さってきて、視界が黒と赤に染まって何も見えなくなった。
 勿論、抑えつけて口を塞いでマントを被せてきたのはヴィンセントだ。彼の左手がクラウドの身動きが取れないように自分の胸に抱え込むようにして力強く頭を抑えつけてついでに口をがっつり塞いでくる。
 訳が分からず何も見えなくても、ヴィンセントの右手がさっと後ろに回り、銃を即座に抜き取って構えたことが分かる。
 が、次の瞬間、密着した彼の体から明らかに緊張が解けたので、余計に困惑した。一体何が起きたのか。というより何で俺はマントの中に閉じ込められているのか。この状況の意図が読めないまま、抑えつけてくる手を力づくで払いのけようかどうか、迷ったところ。
「お前か、リーブ。こんな時間に何の用だ」
 びく、と体を戦慄かせ、そのままじっと息を潜ませる。耳を澄ませると、果たして聞こえてきたのはクラウドもよく知る声だった。
「はいすみませんこんな時間に。ええっと、もしや大変なお邪魔でしたかね?」
 すみませんと言いながら全く謝意を感じさせない、人を食ったような声。あのふざけた猫のぬいぐるみを操る男が脳内にぱっと浮かんで、マントの中で身を縮こまらせる。
「いや違いますよ? 鍵がね? 開いてたものですからね? ああこれは自由に入っていいんだなと思いましてノックもなしに入らせていただいたんですが私今すぐ帰った方がいいくらいお邪魔だったんじゃないですかね?」
 そうだ早く帰れ、と心中で毒づいたのに、
「構わない。いいから早く要件を言え」
 ヴィンセントの声は常と変わらず冷静だった。
 構わないってアンタ。何でこんな冷静なんだこいつ。やっぱりむかつく。冷や汗一つかいてなさそうな声。そういえばヴィンセントって汗かかないんだろうか。こんな服装だし、全身革だし。夏とかとんでもないことになりそうだけど、どうなってんだろうそこらへん。
 などと、どうでもいいことを考えてどうにか冷静を保とうとする。保とうとしただけで、実際に保つことができたわけじゃないが。
「よろしいんですか? よろしいんですね? いえね、本日あなたが神羅カンパニーに行かれたと聞きましてね。私としてはWROにお誘いしていましたのに全く残念なことだなあと思いまして、しかしせめて何かツテを持っておきたいとね、こちらをお持ちしたわけです」
……何だ、それは」
「至って普通の携帯端末です。先日、電話が壊れて困っていると仰っていたじゃないですか。なのでこちらをプレゼントしようと思いまして、一通りのアプリはセットアップしていますので使って頂いて結構ですよ。ご心配なく全て無料ですし何も仕込んでませんから。あとWRO専用回線もついでに入れておきましたので、何かの折にはご遠慮なくご利用ください」
……それは私じゃなくてお前が勝手にかけてくるんじゃないのか」
「そういう使い方もないこともないかもしれません。まあご遠慮なさらずお受け取りください――あ、そちらに行くのは遠慮したほうがいいかと思いますのでここに置いておきますね、はい。では要件も終わりましたのでこれで本当に失礼しますね」
 こと、と床に置く音がして、ごゆっくり、という言葉の後、来たときと同じような靴音が遠ざかっていった。
 靴音は完全に聞こえなくなったが、そうは言ってもあの男のことだから油断はできないと身じろぎもせずいたのだが。
「もういいぞ、クラウド」
 頭を抑えつける手の力がふと軽くなり、頭に被せられていたマントがはらりと落ちる。
 一気に視界がクリアになって、ぷは、と詰めていた息を吐き出した。
 ヴィンセントはというと、相変わらず何でもないような涼しい顔をして銃を後ろの机の上に丁寧に置いた。
 その顔が再びこちらを見下ろしてくるのを、クラウドは何も言わずにぼんやりと見つめていた。
 言いたいことは勿論、沢山あったはずなんだけど。
 何であいつがこんな時間にいきなり来るんだとか、アンタの電話をあいつが持ってくるってどういうことだとか、そもそもあいつまでこの場所を知ってるのは何なんだ、とか。
 頭の中にぽこぽこぽこと浮かんでくるそれらのことは、今はもう、心底、どうでもいいような気がして。
 マントを被せるためにヴィンセントの左手はクラウドの体を抱き込んだままだったし、クラウドはヴィンセントの胸にしがみつくような恰好のままだった。そしてリーブが去った今も、肩から足元までまだマントの中に包まれたままでいる。それがどうしようもなく温かくて、心地よかった。
 ヴィンセントは何かを言おうとしたが、何を思ったのか、何も言わずに開きかけた口をそのまま閉じた。 
 クラウドは――目の前に、ヴィンセントの長い黒髪があったので。さらさらとして、毛先は少しだけ癖があって。夜のようにきれいな長い黒髪が、クラウドはとても、好きだったので。
 手に一房掴んで、指で撫でてみる。それはさらさらとして、思った通り気持ち良かった。そのまま軽く、くい、と引っ張ってみる。
 引っ張られるままに、ヴィンセントは文句を言うこともなく、顔を近づけた。
 顔を傾けて、今度はクラウドから唇を重ねる。
 薄い唇が、さっきの余韻なのか、少し濡れていた。僅かだけ触れさせてすぐに離すと、ヴィンセントの口から不満げな溜息が漏れたので、それを心地よく思う。
……子どものようなキスは、嫌じゃなかったのか」
「俺は下手なんだろ。だったら、アンタからしてよ……
 さっきのお返しくらいの感じで軽く言ったつもりだった。本当は恥ずかしいのを隠したかっただけだ。
 どうせ軽くあしらわれるんだろうと思ったのに、ヴィンセントは一つ瞬きをすると、切れ長の目をすっと細めた。
 革の手袋に包まれた右手が頬に触れて、顔を上げさせられる。
――目を瞑れ、クラウド」
 いつもと違う、掠れた声。
 アンタの目を見るのが好きなのに。そう思いながら目を閉じた。
「そんな目を、他の誰にも見せるな」
 そして降ってきたのは、今までのどれとも違うキスだった。寝る前の子どもにするようなのでもなく、恋人同士が熱を煽って求め合うようなのでもなく。
 一つの約束をするようなキスだった。ゆっくりと唇が重なって、長く、穏やかに深くなっていく。頬を撫ぜる手はどこまでも優しい。互いの温もりで、境目が溶けてなくなっていくみたいだった。
 ずっと長い間そうしていたように思うが、時間にしてみればきっとわずかな間だったに違いない。永遠の中で、瞬きをたった二、三度ほどするだけの間。
 唇が離れた後も、クラウドは目を開けなかった。目を開けなければ、きっとヴィンセントは同じようにまたしてくれるんじゃないかと思った。
……今も、ティファと一緒に住んでいるのか」
 間近に気配がある中で聞こえた声に、目を閉じたまま、頷く。本当は違ったけど、今は説明する気分にはなれなかった。それよりも欲しいものがあった。
 そうか、と聞こえて、また唇が重なる。
 後で覚えていたら説明しようと思いながら、両腕でヴィンセントの首にしがみつく。ヴィンセントの左手にも力が込められて、ようやくクラウドは満足した。
 二人の息遣いの音以外に、何の音も聞こえなかった。いつか訪れるだろう最後の時間もこうであればいいなと、溶けていく時間の中でふと思った。

* * *


 部屋に入ると、ソファの背に緩く凭れているヴィンセントの後ろ姿が見えた。
 長い足をゆったりと組んで、壁際の書棚を眺めている。
 どうでもいいことだけど、彼の足の長さを目の当たりにすると、僻みだと分かっていても少しだけ辟易とした気分になる。もし自分がソファの背に凭れてみたとして、足をあんなにまでゆったり組めるもんじゃない。どうなってんだ、こいつの足の長さ。いつもそう思う。
 それにしても、おかしな気分だった。自分で誘っておきながら、この部屋にヴィンセントがいるというのはどこか奇妙な感じがした。でも同時に、ずっと前からここでこうして一緒にいたような感じもする。それくらい、彼がそこに佇んでいるのは不自然で、自然だった。
……いい部屋だ。お前の趣味か」
 気配に気付いたヴィンセントが書棚に目をやったまま言う。クラウドは靴を脱ぎ、大剣を壁に立てかけながら(この二つは部屋に帰ったときに一番に行う作業だ)、小さく首を振った。
「そうだって言いたいんだけど、そうじゃない。前の住人が残していったのをそのまま全部使ってるだけだ。俺はどんな家具をどこに置いたらいいかなんて、正直よく分からないから」
 現代的な建築の多いエッジでは珍しい、昔の絵本に出てきそうなアンティーク調の内装だった。炭のストーブと、ゆったりとくつろげる大きめのソファ。床には古く厚みのある絨毯が敷かれて、ソファの後ろにある書棚は天井までみっしりと本で埋められている。
「あの部屋よりはマシだろ」
「マシなどと言葉を使うのが失礼なくらいだ」
「前に住んでいたのは、元々ミッドガルにいた研究者だか教師らしい。やたらと難しい本が多いのはそのせいだ。俺には読めないけど、捨てるのもどうかと思ってさ」
 エッジは、ミッドガルの「上」と「下」を足して融合させたような雰囲気を持つ街である。それもそのはず、先の災厄でミッドガルの上からも下からも逃げ出した住人が、ミッドガルの廃材を使って造った街だからだ。この部屋の元住人は恐らく、上側の人間だったのだろう。それが部屋の内装にも表れているようだった。
「そうか……そういえば、父の書斎もこんな風だったな。どこか懐かしい気がしていたが、そのせいか」
 独り言のような言葉に、思わず耳がぴくりと反応する。父なんて言葉を彼の口から聞いたのは初めてだった。
 ヴィンセントと家族の話なんて、したことがない。するわけもない。彼が過去を語るとき、そこにはいつもルクレツィアの影があった。彼女の姿しかなかったというほうが正しいかもしれない。元々口数の少ない彼は、自分自身のことを一切口にしようとはしなかった。
 目の前にいるこの男のことを、自分は何も知らない。そのシンプルな事実に今更ながら気付いて、足が竦みそうになる。
 今、ヴィンセントは同じ部屋にいて、歩けばたった数歩のところにいるのに、何だかやけに遠いところにいるように感じられた。ふ、と詰めた息を吐く。ナーバスになってるなと思い、それを振り払うように軽く頭を振った。
 その様子に気付いたのか、ヴィンセントはようやく書棚から目を離した。クラウドを見つめて、穏やかに笑う。
「私のような化け物でも父親くらいはいる。おかしいか?」
「えっ、いや……ごめん、そんなつもりじゃ、」
「冗談だ。気にするな。私の冗談は下手過ぎて笑えないとシドによく言われたが、どうやら本当にそうらしい」
「ああ、うん……悪いけどシドに同意するよ。アンタの冗談、笑えないし心臓に悪い」
 つい咎めるような口調で返してしまう。本当に笑えなかったからだけど。それでも嫌な感じで心臓が脈を刻んでいた。
 顔を上げると、いつの間にか目の前にヴィンセントが立っていた。思わず後ずさりそうになったところ、ぬっと伸びた手が首に触れる。どくどくと刻む脈を確かめるように、血管の通る筋をするりと撫ぜた。
 言葉なく、間近で、目を覗き込むようにして見つめられる。指の触れる場所が、わざと脈を抑えるようにしているからか、じくりと熱を持って痛みすら感じてきた。何か言わなければと思ったけど、声の出し方を忘れたみたいに、喉からは妙に掠れた音しか出なかった。
 もう一つの手が頭に回されて、唇がこめかみに押し付けられる。髪が頬に触れて、くすぐったかった。
……嫌か?」
 耳元で聞こえる声に、ただ首を振る。嫌じゃない。嫌なわけがない。目の前の肩を掴むと、固い布地のジャケットがくしゃりと崩れて、何でいつもの服じゃなくてスーツなんか着てるんだとかそんなことを考えていたら、目が合った。赤い目が間近で見下ろしていた。
「なら、目を瞑れ。……こういうときは目を閉じろと言ったのを、忘れたか」
 溜息交じりに囁かれて、間近にある頬に指を伸ばして、そこに確かに柔らかな感触があったので、ようやく目を閉じる。
 唇が重なる。あの夜の続きのようなキスだった。ふと思い出される、あのときの匂い。ヴィンセントの匂い。埃の匂いが入り混じった、冷やりとして柔らかい夜の空気。
 くちゅ、と音を引いて唇が離れたのを、我慢できずに後を追ってもう一度、二度、三度と重ね続ける。最初は唇を触れ合わせるだけだったのが、隙間から舌がちらりと覗いて歯の間から差し込まれるのを、どこか安心感をもって迎え入れる。ゆっくりと歯列をなぞられ、舌の裏を撫でられて、段々と息が上がり始める。首を反らすようにして湿った息を吐き、息を継ぐのももどかしく唇を合わせ続けた。
 頬から項を弄っていた手がす、と下に降りて、腰に回される。気が付けば二人の間に距離はなくなっていて、両手で肩口にしがみつくような格好になっていた。ふと右手を取られ、さっきまでキスしていた唇が手の平に触れ、指に触れ、手の甲に触れた。その湿った感触に妙な声が漏れそうになって、唾と一緒に息を飲み込む。
……寝室は?」
 ヴィンセントはクラウドの右手に口づけながら、そっと囁く。上目遣いで見つめられて、堪らず息を震わせた。
 右手に触れる手を掴み直して、こっち、と小さく呟く。掴んだ手を引っ張って歩き出すと、ヴィンセントは何も言わず、影のように後ろに従った。

 部屋を抜けて、狭い階段を上がる。
 階段を上がってすぐにあるドアを開けると、屋根の形に斜めになった天井と、小さな窓際にベッドが一つ。
 後ろでドアの閉まる音がする。ヴィンセントが閉めたんだろう。こんなときでも律義な奴だな、などと思う。
 手を掴んだまま、言葉なく、ベッドの端に座る。見上げると、ヴィンセントも当然のようにベッドへと上がって来た。クラウドの隣に座るのではなく、正面から覆い被さるようにして、片膝をついて乗り上げてくる。
 誘い込むように、掴んだ手を引いて上体を後ろに倒す。肘で支えて首を起こしていたが、肩を優しく押され、そのままくたりとベッドに寝そべる形になった。
 月の光だけが照らす部屋の中、ヴィンセントの赤い目がクラウドを見下ろしている。艶やかな笑みを浮かべて、ぞくりとするほどの色香が匂い立っていた。
 早く、その手で触れてほしい。焦れるように思う。アンタにとっても俺が特別だという証を、早く見せてほしい。
 しかしヴィンセントは性急に動くことはせず、クラウドを見つめたままゆっくりとジャケットを脱いだ。襟を掴んで肩から脱ぐ所作にさえ、ぼうっとして見惚れてしまう。店で飲んだ酒が今頃まわってきたのか、頭がくらくらとした。
 ジャケットを脱いだ手は次にベストのボタンを外しにかかる。片手でやりながら、もう片方の手をクラウドの頭の横に置いた。ぎし、とベッドが重みを受けて沈んでも一向に触れてくれないことにじりじりとしながらネクタイに手を伸ばす。しゅっと音を立てて乱暴に引き抜いても、目の前の相手は相変わらずの笑みを浮かべていた。ようやく近づいてきた顔に腕を回して、唇をねだる。長い黒髪がさらりと流れ落ちて、二人の顔が影に隠れた。
 唇を合わせたまま、ベストを脱ぎ終わるのを待つことなどできず、そのままシャツのボタンに触れようとして、ぐ、とその手を掴まれる。
「ん、……な、に」
「やめておけ」
 何で、と抗議しようとしたのに再び唇を塞がれる。掴まれた手は解放されることなく、シーツへと押し付けられた。誤魔化されたと頭では分かっているのに、口内に侵入してくる舌に甘やかされて、手の力が抜けてしまう。
 ヴィンセントの指がハイネックのジッパーにかかる。つ……とゆっくり下ろされて、白い肌が晒されていく。はあ、と熱い息を吐いて間近にある顔を窺うと、いつも感情を表そうとしない目にほんの僅か、情欲のようなものが見えた。それだけで体の芯が熱くなって、うっすらと汗ばんでいく。そして開いた服の隙間にヴィンセントの指が滑り込もうとして――
「ちょ、っと、ヴィンセント、」
 今度はクラウドがヴィンセントの手を強く掴んだ。指先まで革手袋に覆われた手。手首さえ肌を晒さないその手を掴んで、クラウドは溶けそうだった頭を何とか奮い起こした。
「こんなときでも、手袋を外さない気か?」
……嫌か?」
「嫌だ。ちゃんと……アンタの指で、触って」
 最後のほうは消え入りそうなほどの小声だったが、引くつもりはなかった。
 彼が今までその体を絶対に人に見せようとしなかったことくらい、勿論承知している。事情を知っている仲間にさえもだ。それでも、自分にだけは見せてほしいと思う。他人には許さないものを、自分にだけは許してほしい。
 ヴィンセントの顔に浮かんでいた笑みが、すっと消える。自身の革に包まれた左手を見つめる目の奥には、隠しきれない嫌悪感のようなものが潜んでいた。
 引こうとする左手を掴む。かわそうとする手を強く引き寄せて、ヴィンセントが何度もクラウドの右手にしたように、唇で触れる。滑らかな革の質感が、今はとても邪魔だった。そのまま手袋の留金を外そうとして、窘めるような声で名前を呼ばれた。
「クラウド、やめておけと言っただろう」
「俺も、嫌だって言った」
 反射的に、むきになって言い返す。まるで子どものような言い方だ。ヴィンセントは掴まれたままの左手を取り返そうとするが、放してなどやらない。大体、握力だけで勝負するならこっちが勝つのだ。半ば意地になっていると、静かな嘆息が降ってきた。何かを言われる前に、クラウドは口を開いた。
「アンタの言いたいことは分かってる。これは俺の我儘だってことも、分かってるよ。でも、俺はアンタの全部、見たいんだ」
……クラウド」
 ヴィンセントの表情が陰る。静かに、首を横に振った。
「これは人間の手ではない。おぞましく、醜い……見ないほうがいい」
「ヴィンセント、」
……それでも、見たいのか?」
 すぅっと、ヴィンセントの表情が色合いを変える。
 ゆらりと昏いものが紅い目に灯り、口には犬歯がちらと覗いた。声はあくまでも柔らかいが、その奥には何かを押し殺したような響きがある。ヴィンセントとは深い優しさを持つ一方で、底の知れない冷たさも併せ持つ人間であることを、クラウドはとっくに知っている。
 だから手を離すつもりなどなかったし、目を揺るがせることなく言った。
「アンタが人間じゃないって言うなら、俺だって人間じゃない。――でも、俺は人間だ。アンタだって、同じだろ」
 掴む手を包み込んで、頬を寄せる。このきれいな長い指に、いつも触れてみたかった。押し付けた頬に感じる、革に包まれた中身の――人間の指ではありえない、異質さ。ぞくりと背筋が冷たくなるようなモノがそこにあると、皮膚越しに伝わってくる。
――それにさ、」
 クラウドは手を離さないまま、見上げてヴィンセントの表情を確かめた。
「アンタは、見ただろ? 俺の中にいる――アレ、を」
 ヴィンセントの目が餌を見つけた獣のように細められたのを、クラウドは確かに見た。
 だから、クラウドも笑った。笑って、今度こそ留金に手を触れ、
「俺もアンタと同じだから……アンタのも、見せてよ」
 かち、と微かな金属音を立てて、手袋をずるりと引き抜く。
 ヴィンセントはもう、止めることはしなかった。
 手袋の下から現れた手を両手で包んで、自分の頬に触れさせる。意外と、と言えば失礼かもしれないが――柔らかい皮膚が頬の上を滑る。
 目に映るその手は、確かに人間のものではなかった。
 紫に変色した皮膚は指先のほうにいくほど黒ずんで、青い血管が網目のように走っている。唇でその表面をなぞると、手の平にも浮き出た血管がどくどくと波打つのが分かった。細く長い指は節くれ立って、巻いた爪がクラウドの頬を甘く掻いたので、柔く噛んで止めさせる。
 見上げると、ヴィンセントはいつもの表情に戻っていて、クラウドがその手を抱き込んで愛でているのを興味深そうに眺めていた。
「お前は、この手がおぞましくはないか?」
「アンタの手だからな。ただ……
「ただ?」
「この爪は、こういうことには向かない……かな」
 指先を真剣に見つめながら困ったように眉根を寄せるクラウドに対して、ヴィンセントはくつくつと笑みを零す。己の細く尖った巻き爪を見て、確かに、と頷いた。
「爪切りで切れるのかこれ――あ、ちょっと、ヴィン、」
 ペンチみたいな工具がいるんじゃないかな。などと妙に真面目に考え込んでいたら、ヴィンセントはおもむろに人差し指を自分の口へ運んだ。ぶち、と嫌な音を立ててその爪を食い千切ったかと思うと、事も無げに床へと吐き出す。指先が黒く滲むのを見て、思わず顔をしかめた。
「いきなりそういうのはやめてくれ……こっちまで痛くなる……
「この程度で今更痛みなど感じるわけもないだろう」
「だからって痛くないわけじゃないだろ、もう……
「お前は何も気にする必要はない。……クラウド」
「ん……
 爪のなくなった両手で頬を包まれる。今までとは異なる触感に、クラウドはようやくしかめっ面を和らげ、目を細めた。紫の細長い指が頬を撫ぜ、項をくすぐり、そして首筋へと辿るのを、まるで日向で寝転がる猫のように気持ちよさげに受け入れている。耳の下の柔らかいところに口づけられると、喉を反らすようにして甘い息を吐いた。上向いた顎を、ちゅ、ちゅ、と音を立てながら吸われ、浮き出た喉仏をかぷりと柔く食われる。ぬるま湯に溶けていくような気持ち良さに浸っていたが、ヴィンセントの指が胸の突起に触れた途端、ぴくりと体が小刻みに跳ねた。驚いて、閉じかけていた目を見開く。顔を上げたヴィンセントが、こちらを推し量るように見つめてきた。
……感じたのか?」
「え、――ぁ、っ」
 視線を合わせたまま、今度は意識的に乳首を親指で潰されて、ぴりっと肌を走った刺激に息が詰まる。着たままのハイネックをたくし上げられ、そこにヴィンセントが唇を寄せた。ちゅう、と吸われて、びく、と体がまた跳ねる。思わず縋るようにヴィンセントの腕を掴んだが、動きは止まらなかった。温かい口の中、先端を舌先でつつかれて、脇腹のあたりがぞくぞくと波打つ。喉元にむずがゆいものが込み上げて息がうまくできない。浅い呼吸を繰り返していると、ぷくりと膨れた乳首をかり、と柔く噛まれて、あ、と変な声が出そうになった。咄嗟に手の甲を口に当てて押し殺そうとするが、
「クラウド、」
 その手を取られて、声が思ったより近くで聞こえたので、びっくりして目を開ける。間近で見つめる赤い目を見て、いつの間にか目を瞑っていたことに気が付いた。
「声を我慢するな。……聞かせてくれ」
……ぁ、――あ、ぁ……っ」
 耳元で囁かれて、温かい吐息が耳の中に入り込んで、それだけで背筋がぞくりと震える。声を抑えるのなんて、無理だった。小刻みに震える皮膚の上を少し冷たい手の平が這って、その後に唇が追い、生温かい舌先が肌の表面を辿っていく。濡れたところに空気が触れて冷やりとして、それなのに下腹はじりじりと熱を持って、じわりと汗が浮かぶのが分かる。
 ヴィンセントの手が、唇が、下へ下へと這って行く。浮き出た筋を舐められ、臍を舐められ、腹がひくひくと痙攣する。下へと這った手はズボンをするりと器用に脱がし、下着まで呆気なく取り払われてしまう。足を左右に大きく開かされて、左足を肩に担がれた。内股に音を立てて口づけられる。何度も。ちゅう、と音を残して、その度につま先が無防備に空気を蹴った。何度も口づけられた場所は、うっ血した痕がくっきりと残っていた。
 それを眺めて、ヴィンセントはうっそりとした笑みを浮かべる。
「お前の肌は白いな。痕が目立つ」
「そう思うなら、そんなに付けるなって……ひ、ぁ、
 揶揄うように言われたから思わず言い返した言葉も、途中で力をなくして消えていった。ヴィンセントが長い舌を突き出して、いくつもの痕を辿るように這わせていったからだ。それは徐々に足の付け根に移動していって、さっきからとっくに芯を持って勃ち上がっていた場所にゆっくりと触れていく。
「ん、あ、ぁ、やぁあ、……っ、は、ぁ、」
 舌で先端をつ、と突かれて、ぬるりと舐められて、滲みだした粘液をちゅ、と吸われて。そこから、じゅる、と音を立てて深く飲み込まれて。何の躊躇いもなく、それが当たり前のようにされて、気持ち悪いと思われたらどうしようなんて、そんな不安はたちどころに消えていったので。
 何か気を張っていたものがぐずぐずと解けたのか、クラウドの全身から力が抜けて、やがてぐったりと弛緩していった。上がっていく息の中、漏れ出る声をもう抑えようともせずに、ヴィンセントが足の間で愛撫する様を蕩けて潤んだ目が見つめている。
 でも、そんなふうに眺めていられたのも僅かな時間だった。吸いつくような口で上下に扱かれ、ぬるぬると濡れた先端を長い舌で何度も舐められて、絶頂はすぐにやってきた。追い上げるような射精感に腰を震わせ、息苦しさに胸を反らせる。その様子をヴィンセントだって分かっているはずなのに、口を放そうとしない。寧ろ追い立てるように先端をぐちゅぐちゅと浅く吸おうとするので、クラウドは焦って長い髪の毛を掴み、引っ張った。
「だめ、ヴィンス、も……ぉ、でる、から、ぁ……っ」
「出る、などと色気のない言葉を使うな。いいから、このままイったらいい」
「や、ぁ、アンタの、服、汚れる……ぁ、――……
 れろり、と下から上まで舐め上げられて、じゅ、と吸われて。我慢も限界に達し、堪らず温かい口の中に吐き出した。波が断続的に押し寄せて、全部を吐き出すのにいつもより長い時間が必要だった。吐き出した後も足はひきつるように痙攣していて、快感がまだ去り切らずにもやもやと渦巻いていた。
 吐き出した全てを口で受け止めたヴィンセントは、柔らかくなったそれにこびりついている白いものも舐めとってからようやく、上体を起こした。口から溢れたものを指で拭っているが、滴りおちたものが黒いシャツに点々と飛び散っていた。
……多いな。いつも、こうなのか?」
 熱で溶けたような頭で、うるさいなと思いながら、クラウドも上体を起こした。体がぐったりとして重い。深海から陸に上がった魚みたいだ。ぼやけた目でヴィンセントと向かい合う。ジッパーを下ろされたハイネック以外、何も身に着けていない自分と違って、ヴィンセントは口元が汚れているだけで、さっきまでと何一つ様子が違わない。シャツだってボタンの一つも外れていなくて、首元まできっちりと留められたままだ。妙な悔しさを感じつつ、それ以上にどうしようもなく惹かれるものを感じて、クラウドはその汚れた口元に舌を伸ばした。それは笑いがこみあげるほど苦くて、まずかった。
「こんなもの、飲むなよ、馬鹿……
「お前のだからな」
 さも当然のように言われるのを聞き流して(まともに聞いたら頭がどうにかなりそうだった)、ヴィンセントの足の間にかがもうとしたところ、ぐ、と肩を押されて阻まれる。
「なに……?」
「何をしようとしている」
「なにって……俺だって、アンタにしたい」
 本当のことだったし、ヴィンセントだって望むだろうと思っていたから、クラウドはもう一度顔を寄せようとしたのに。ヴィンセントはそうさせなかった。またも強く肩を止められ、逆に腰をぐっと引き寄せられる。
「私には構わなくていい。それに、まだ終わっていない」
「え、だって……えっ? や、なに、」
 白いものでぬるついたヴィンセントの指が、さっきまで口で愛撫していたところの更に奥に触れてきたので、思わずひっくり返ったような声を上げてしまう。
 ヴィンセントは面白そうに、半ば呆れたように言った。
「今更何を……男の場合はどこを使うのかなど、まさか、兵士上がりの身で知らないわけもないだろう?」
「っ!」
 かっと頬が熱くなって、言われなくても顔が赤くなったことくらい分かる。羞恥もあるが、それ以上に怒りがあった。一般兵士時代、クラウドは周りから何故か、そういう対象として狙われることが多かった。勿論、実際に手を出してきた奴には相応の報いをくれてやったが、思い出したくもない記憶であることは間違いない。
 穴の周りを探るようにしていた指が、く、と押し込むように動き、クラウドは息を呑んだ。思わず、目の前の腕に縋るようにしがみつく。もう一方の手が柔らかく、頭を撫ぜた。
「心当たりでもあったか、無理もないが」
「るさい、言うなっ……!」
「ああ、そうだな。私が余計なことを言った。まさかこんなことで自制を失うとは……
……っ、ぁ、ヴィ、セ、待っ、」
 浅く挿抜を繰り返していた指が、ぐっ、と深く入り込んでくる。
 は、と息を吐くと、体から力がくたりと抜けて、それをヴィンセントの体が覆うようにのしかかってきたので、そのまま再びベッドに寝転ぶ羽目になった。
 ヴィンセントが少し首を傾げるようにして、まるで独り言のように呟いている。
「もし今それを目にしたとしたら、そいつらを生かして帰すことはできないだろうな……?」
「は……? 何、言って……だめ、ヴィンス、そこ、――ぁ、」
 中に深く入り込んだ指が探るように動いて、ある一点をぐ、と押した。
……ここか」
 もう一方の手が、臍と下生えの中間あたりを、ぐ、と押す。中で動く指と同じ圧をかけられて、ぞくぞくと体中に痺れが走りぬけて、下腹がどろりと溶けるように汗をかいて。
「ヴィンセント、――あ、ああ、だめ、だって、ぁあっ……!」
 力の抜けた手で、それでも弄って来る腕を掴んだ。こっちを向いてほしかった。快感ばかりが先走って、一人になってしまったみたいだった。目から涙が零れ落ちる。さっき絶頂に達したばかりなのに、性器はまた緩く達していて、勃ち上がった先端から糸の引いた液体をたらたらと零していた。
 ベッドがぎし、とひずむ。体重をかけて、ヴィンセントの体がのしかかってくる。熱い吐息が耳にかかった。クラウド、と名前を呼ばれ、眩暈を起こしたみたいに頭がぼうっとして、また涙が零れ落ちた。
 まだ中にあった指が、ぐるりと掻き回すように動く。溶けかかりそうだった体がびくりと跳ねて、目を見開く。掴んだままだった腕にぐっと力を込めて、ヴィンセントを見上げた。
 ヴィンセントはやはり、穏やかに笑っている。
「大丈夫、今日は最後まではしない」
「何で、俺、は……
「ちゃんと気持ちよくしてやる。だから、クラウド――私に全て委ねろ。……力を抜け」
 は、と息を吐いて。
 クラウドの手が、ヴィンセントの腕からずるりと滑り落ちた。

 * * *

 ――夢を見た。
 昔の自分が、倦んだような目で星空を見上げていた。
 いつも、何者かになりたかった。
 強くて、誰からも必要とされ、誰からも愛されるような、そんな何者かに。
 だから、全てを圧倒する神のような英雄に憧れた。
 太陽のように人を愛し、人を救う英雄になりたかった。

 ――でも、自分はそうではなかったと知ったとき。
 自分は小さく、弱く、何者にもなれないと知ったとき。
 『罪』という言葉を使った男のことをふと、思い出した。
 思い出すと、涙が止まらなかった。泣いて、泣き続けて、叫び出しそうになった。 
 償い切れない罪を犯して、それを受け止められる強さを、自分は持っていなくて。どうすれば罪を抱えて生きることができるのか、『本当に』分からなくて。
 その静かでひたむきな強さが悲しくて、羨ましくて――腹が立った。
 何故、あの男は生きようとしないんだろう。
 過去しか見ようとしないんだろう。
 俺は、俺とアンタは、これからも生き続けなきゃいけないのに。
 それなのに、アンタは旅が終わったらさっさと姿を消して、連絡も寄こさなくて、そのくせ俺が迷っているとふらりと現れて。何もかも見透かしたような顔をして。
 俺の欲しい言葉は何なのか知っているくせに。俺が何を考えて、何を迷っていて、――どうすれば罪から逃れられるのかとか、それでも本当は生きたいと思っている、とか。
 全部知っているくせに、用事が済んだらまたさっさとどこかへ消えていった。 

 ――一緒に生きられれば、と思った。
 そばにいたいと思った。
 『アンタが眠りにつくまで』。それまで、ずっと。
 でも、アンタは多分そんなもの、いらないって言う。
 アンタの中にはもう、別の人が住んでいるから。
 だから、望みじゃなくて、我儘だったら聞いてくれるだろうと思った。
 俺だって多少はアンタのことを知っている。
 俺は罪滅ぼしの相手だから、アンタは俺に少しだけ、甘いんだよ。

 * * *

 階段を下りる足音で、目が覚めた。
 本当はもう少し前から起きていたのだけど、布団の中の日溜まりのような温かさが惜しくて、目を開ける気になれなかったのだ。
 目を開けると隣で寝ていたはずの存在がいなくなっていて、仕方なく体を起こす。体に今まで感じたことのないだるさが残っていた。それが何故かなんて、考えなくても自然と思い出してしまうから、頭を振ってのそりとベッドから這いずり出る。足の内側の筋が妙に痛いなんて、考えたら駄目だ。考えないようにしようと思いながら、立ってみると体は何だか軽かった。色々たくさん吐き出したからか。結局あれから何回されたんだっけ。あいつは一回も出さなかったくせに。とかもう諦めた心地で思ったりもする。
 ガウンを羽織って寝室を出て、下の階へと降りていく。
 キッチンの小さな窓から薄ぼんやりと早朝の光が漏れている。
 いい香りが漂ってきた。淹れたてのコーヒーの匂い。自分でコーヒーを淹れることなどまずないから、暫く嗅いだことのない匂いだ。
 ヴィンセントが台所の棚に背中を預けて立っている。腕を組んで、俯きがちに瞼を半分閉じていた。長い睫毛が白い頬に影を落としている。赤と黒の入り混じった長裾のガウンがよく似合っていた。昨日の夜中に渡したものだ。さすがにこんなシャツとズボンじゃ寝れないだろ、と力の入らない体でクローゼットまで這って行ったことを覚えている。ヴィンセントはどんな格好でも寝られると言っていたが、ガウンに袖を通したら着心地がよかったのか何なのかちょっと機嫌良さそうにしていた、ような気がした。
 足音に気づいたのか、ヴィンセントが顔を上げた。視線が交じり合うと、表情を柔らかくさせて、組んでいた腕を解く。歩み寄ると右手で柔らかく腰を抱かれて、腕の中におさまる形になった。
 おはよう、と言うと、おはよう、と返事があった。
 こめかみに軽く口づけられて、少々ぎこちない仕草で頬に口づけ返す。
 軽く笑われたような気がしたが、こういうのはもう気にしないことにした。大体、アンタ背が高いからこっちは背伸びしなきゃ届かないんだよ。ぎこちなくなるのも当たり前だろ。それくらい気付け、馬鹿。

……コーヒー?」
「ああ、昨日ティファから豆をもらってな。朝起きたら、無性に飲みたくなった」
「そういえば前も、朝はコーヒーしか飲まなかったよな。何か食べないで平気なのか」
「食欲を感じる体じゃない。お前は必ず肉と卵を食っていたな」
「当たり前だろ、そうじゃないと体がもたない」
「ビーストをくれてやろうか。そんなことで悩まなくてすむ」
「いらない。もう別のが入ってる」
 冗談にもならない冗談を言い合いながら、淹れたてのコーヒーを不揃いのマグカップに注ぐ。ヴィンセントがカップ一杯に注ごうとするので、半分くらいのところで止めさせた。
「ブラックだと飲めないから。牛乳入れないと駄目なんだ」
「そうか。……そういえば、牛乳も必ず飲んでいたな」
……
……身長のためか? 今でも?」
「うるさいなそりゃあアンタにはいらないだろうよ俺だってもうあと10cmあったらこんな毎日毎日牛乳ばっかり」
 ふふ、とヴィンセントが笑ってそれ以上は取り合わなかったので、こちらもこれ以上は何も言わずにカップに口をつける。牛乳を入れたことで少しばかり冷えたカフェオレはそれでも美味しかった。毎日飲めたらいいだろうな、と思うくらいには。
 ふと、カップを持つヴィンセントの手が目に入る。昨日の夜のことはまるでなかったようにきっちりと手袋をつけていたが、留金が外れていた。手首のところが緩く開いて、紫の肌が少しだけ見えていた。
 視線を察したのか、ヴィンセントが留金をとめようとしたので、クラウドはそれを止める。別にいいじゃないか、という気持ちで。手首をそっと握って、少しだけ見える肌を撫ぜる。窓の向こうで、朝の鳥が鳴いた。
……さっき、コーヒーを入れようとしたんだが」
 クラウドを柔らかく抱きしめたまま、ぽつりとヴィンセントが話し始める。
「マグカップが一つしかなかった。もう一つはシンクに置きっぱなしだったから、洗わないといけなかった。……手袋をしたままだと、洗うのに不便だった」
「うん。それは、そうだろうな」
「この体になってから……私は食器を洗うということさえ、したことがなかったんだろう。今まで、一度も……
 ヴィンセントはコーヒーに口をつけないまま、どこか遠い人に話しかけるような口調で言った。
 クラウドは振り返って、言った。
「俺も、コーヒーをちゃんと毎朝淹れるような生活なんて、したことないけど」
 ヴィンセントはちゃんとクラウドを見て、話しを聞いていた。赤と黒のガウンは、百年も前から彼のものだったみたいに、よく馴染んで見えた。たったそれだけで、クラウドにとっては安心するべきことの一つだった。
――俺とアンタは、これからそういう生活をするんだよ。朝起きたらおはようって言って、仕事して、帰ったら一緒にラジオでも聞きながらさ、今日あったこととかを話すんだ。そして眠くなったらおやすみって言って寝るんだよ。そういう毎日を、ただ繰り返すんだ」
 二人で、と小さく付け加える。
……そうだな」
 きっと、それが生きるということだよ。
 今までの二人にはなかったものだから、あまり良くは知らないけれども。
「お前は、そういう生活で退屈することはないのか?」
「どうだろうな。五百年くらいやってみたら、さすがに退屈するんじゃないか」
「ふ、そうか。……朝はコーヒーでいいのか?」
「俺は、牛乳入りで」
「分かった」
 柔らかく抱きしめられたまま、カフェオレを飲みながら、そろそろ今日一日のことを考え始める。スケジュールやデリバリーの走行路のこと。ティファの店のこと。マリンやデンゼルのこと。
 こういう一日を二人で繰り返すことができれば。そうしたら、望みなんて叶わなくても、それに似たものは手に入るんじゃないか。それでもう、いいんじゃないか。そんなことをふと、考える。
 ヴィンセントが後ろからもう一度、おはよう、と言った。
 俺はおはようと返す。これからも、ずっと。