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2024-04-14 22:09:55
12604文字
Public お話
 

四月に花を埋める

転出(死出)
幼なじみ設定
いつかのどこかの世界線

ふっと意識が浮上して、すると世界は昨日よりもずっとあかるく、たしかな輪郭をともなって見えた。
僕の前には川が流れている。
笑い声が聞こえふり返れば、そこには広々とした公園があった。保護者に付き添われたちいさな子どもたちが駆けまわって遊んでいる。
その光景をしばらく眺め、川のほうへ向きなおる。
絶えず流れる水のなかに、時々しろいものが混じっているのに気づいた。
目を凝らすとそれは花びらのようだった。
光をたたえた川面に浮かびながら、抗うことなく流されていく。
僕はゆっくりと歩きだした。
五分も歩けば見覚えのあるアパートにたどりつく。
二階の角部屋、二〇一号室。
その扉の前に立ち、呼び鈴を鳴らそうとしてふと手が止まる。
呼べば彼はきっと出てきてくれる。
そう思いながらも今さらためらってしまうのは、万が一の可能性を考えてしまうからだ。
もしかしたら彼はすでに引っ越してしまっていてもうここにはいないかもしれない、と。
もしも開かれたドアの向こうに、僕のまったく知らないひとが怪訝そうな顔で立っていたとしたら。
頭をよぎる想像に呼び鈴を押す勇気も持てず、かといってここから立ち去る決心もつかないまま悩んでいると、前ぶれもなくドアが開いた。
……そんなとこで突っ立ってなにやってんだ、出久」
その声に息を飲む。
ドアを開けた相手の顔を穴があくほど見つめた。
まちがいない、彼だ。まだここにいたんだ。
――また会えた。
そう思った瞬間熱いなにかが喉元までせりあがり、上手く言葉を紡げなくなる。
「出久?おい、どうした」
「転弧、くん」
やっとのことで名前を呼ぶと、目の前の彼――転弧くんはかすかに目を見開いた。
こうして顔を合わせただけで、透明な血が巡るように指の先まで温もりがひろがっていくのが分かる。
「転弧くん、ぼく」
それきり言葉に詰まってしまった僕を見て、転弧くんは穏やかに目元を和らげた。
「なかでゆっくり話そう。ほら、入れよ」
転弧くんはまるで昨日も会ったみたいな口ぶりで、ごく自然に僕を招きいれた。

「ちょうど朝メシ食ってたんだ」
本や洋服や、いろんなもので溢れている部屋のまんなかにぽつんとテーブルがあった。
上にはいちごジャムのかかったトーストのお皿と、湯気のたつマグカップが置いてある。
ジャムの赤色があんまり鮮やかなのに食欲をそそられ、とたんにきゅるるとお腹が鳴いた。
「おまえも腹減ってんの」
いたずらっぽい顔をした転弧くんに横腹をつつかれる。
「う、すこし……
素直に白状すると、転弧くんが余っていた食パンを焼いてくれた。
テーブルに向かいあって座り、たっぷりいちごジャムを塗ったトーストにかじりつく。さくっと小気味よい音がひびき、口の中に軽やかで優しい甘さがひろがった。
「おいしい」
思わず満足げなため息が出た。
久しぶりの食事の味をしみじみと噛みしめる僕を、転弧くんは面白そうに眺めている。
たくさんのものに半分埋もれかけたテレビでは朝の情報番組をやっていた。
『エイプリルフール、どんな嘘をつく?』
画面にそんな言葉が躍る。
そうだ、今日は四月一日。
実は世界各国に存在するらしい、エイプリルフールという風習。この国も例外ではなく、人々は毎年四月一日だけは大っぴらに嘘をつくことがゆるされる。
近年では一般の人だけじゃなく企業もエイプリルフールに便乗して「嘘」の宣伝をしたり、ウェブサイトを一日限定仕様にしたりといろいろ工夫しているらしい。
企業の取り組みや街頭アンケートの結果について伝える番組を眺めながら、意識は内側に向いていく。
嘘をつくのは下手なほうだし、単なる風習とはいえ誰かをだますのは気が引ける。
だから僕はこれまで、エイプリルフールだからといって特に嘘をついたことはなかった。
なのにあの日どうして急に思い立ってしまったんだろう。
二年前の四月一日についた嘘を、僕はいまでも後悔している。
――出久。どうしたんだよ、ぼーっとして」
向かいからかけられた声にはっとする。
いつのまにか朝食を終えていた転弧くんが、携帯端末を片手に訝しげな顔をしていた。
僕はトーストの残りをあわてて口に押しこむ。
「な、なんへもなひ」
「ふうん」
転弧くんはちょっと首をかしげ、再び端末に目をやった。
「こっちはつぼみ、こっちもまだ咲き始めたばっか。どこも満開にはほど遠いな……。夕方からは雨の予報出てるし、あんまり遠いとこだと……
唇をつまみながらブツブツ言いだした転弧くんの手元を、身を乗り出してのぞきこむ。
「なに調べてるの?」
「桜の開花情報。去年は雨で花見できなかっただろ」
そう言われて頷く。
たしかに去年の四月一日は滝と見まがうばかりの雨が降っていて、お花見どころか外出さえためらうような天候だった。
残念がる僕に転弧くんは「また来年だな」って言ってくれたっけ。
覚えていてくれたんだと胸が熱くなる。
――あ。これどうだ」
ふいに声を上げた転弧くんがこちらへ端末の画面を見せてきた。
映っているのはとあるSNSに誰かが投稿した写真のようだ。
画面を埋めつくす艶やかな桃色に僕は息を飲んだ。
枝の先までみっしりとついた花が、陽射しを受けいっそう美しくきらめいている。
写真には「桜」「花見」などいくつかハッシュタグが付いていて、「◯◯動物園」とこの写真の撮影場所と思われる記述もあった。
転弧くんが調べてくれたところによると、その動物園はここからバスで三十分足らずの距離にあるそうだ。
「桜か動物か、どっちがついでだか分かんないけど。行ってみるか、出久」
「うん!」
間髪入れず頷けば転弧くんは口元を綻ばせた。

朝食を食べ終わり、身支度をして外へ出る。
光をはらんだ穏やかな風が頬を撫で、心地よくて目を細めた。
四月にふさわしい陽気だ。
しばらく歩いた先に停留所があり、そこで待っているとまもなく緑色のバスがやってきた。
目の前で停止したそれに、転弧くんとふたりで乗りこむ。
通勤時間帯のラッシュが過ぎ去った車内は混雑することもなく、楽に座席へ座ることができた。
周囲になんとなく目を向ければお年寄りやちいさな子ども連れのお父さんお母さんのほかに、中学生や高校生くらいの年齢の子たちが何人か乗っているのに気づく。
春休み中なんだろう。大学生である転弧くんも、まだ長期休暇の最中だ。
「動物園なんていつぶりだろう。転弧くんが小学生の頃くらいまではうちの母と、転弧くんのお母さんやお姉さんもいっしょに何度か行ったよね」
「ああ。観覧車が見える芝生んとこで弁当食ったりしたな」
「食べた食べた!楽しかったなあ」
昔を思いだし、懐かしさに思わず声が弾む。
僕と転弧くんはいわゆる幼なじみの関係だ。
僕が四歳の頃に転弧くんの家のご近所へ引っ越してきて、以来ずっと仲よくしてもらっている。
転弧くんにはお姉さんがひとりいて時々は三人で遊ぶこともあったけど、お姉さんは部活動や習いごとで忙しくしていたせいもあり、僕と転弧くん二人だけで遊ぶことのほうが多かった。
歳が五つ離れた僕相手では退屈に感じることのほうが多かったと思うのだが、転弧くんはそんな素振り微塵も見せずにいつも日が沈むまでいっしょに遊んでくれた。
面倒見がよくて優しくて。そんな転弧くんのことを、ひとりっ子の僕はまるで本当のお兄さんみたいに慕っていた。
昔もいまも僕は転弧くんのことが大好きだ。
隣に座る彼の横顔をこっそりと盗み見る。
昔から整った顔をしていたけど、成長するにつれ転弧くんはますますかっこよくなっていく。いつまでもちんちくりんな僕とは大違いだ。
大学ではどんなふうに過ごしてるんだろう。前会ったときには聞かなかったけど、いまは恋人とかいたりするんだろうか。
そう考えて無性にこころがざわついた。
もやもやした感情が、雨が降る前ぶれの黒雲みたいに胸を覆っていく。
急なカーブへさしかかったとき、バスが揺れたはずみに僕の膝が転弧くんの脚にぶつかった。
「あ……ごめんね」
謝って座りなおすが、転弧くんはなぜかじいっと僕を見つめてきた。
……どうかした?」
「うかない顔だな」
「えっ。そ、そんなことないよ!」
「出久のことだから、またなんかゴチャゴチャ考えてたんだろ」
図星をつかれ一瞬言葉に詰まる。
うつむいた僕の脚に、今度は転弧くんの膝がこつりと当たった。
顔を上げれば静かな紅い瞳と視線が交わる。
……ガキの頃から毎年、桜を見るときはおまえとだ。おんなじさ、なにもかも。俺たちはなにひとつ変わっちゃいない」
転弧くんは柔らかな声で僕に言い聞かせた。
なにひとつ変わらないなんてそんなわけない。転弧くんだって分かっているだろうに。
それでも温かい手にそっと頭を撫でられると、頷くしかできなくなる。
昔から自分自身より転弧くんを信じるほうがずっとたやすくて、我ながら呆れるほどの甘ったれだと思う。
けれどいつだったか、転弧くんのお姉さんが僕にこっそり教えてくれた。同年代の子と比べても落ち着きがありしっかりして見える転弧くんだけど、実は僕が近所へ越してくる以前の彼は、気弱で泣き虫だったんだと。
――それなのに最近はすっかり頼もしくなっちゃってさ、転弧のやつ。家でもね、いつも出久くんの話ばっかりしてるのよ。きっときみのおかげで転弧は変われたんだと思う。
ふたつに結んだ髪を揺らし、微笑んだお姉さんの顔を思いだす。
ふいに数人の笑い声がひびいた。
見れば車内の前方で、友だち同士固まって座っている学生たちが楽しそうにふざけあっている。
若葉のようにきらきらして見える彼らから窓の外へと目を移した。
過ぎる景色のどこを見ても甘く胸が軋み、思わず固く目を閉じる。
バス停へ近づくたび流れる機械的なアナウンスが、やけにもの悲しく聞こえた。

到着した動物園は、春休み中ということもあり家族連れや学生グループ、カップルなどさまざまな人たちでにぎわっていた。
チケットを買って正面入口から入場する。
入ってすぐのところに、園内の桜の開花状況を知らせる看板が立っていた。それによると、開花状況は三〇パーセント。満開までにはまだ日がかかりそうだということだった。
……あれ?」
「あの写真ではほぼ満開ってかんじだったけどな……。ガセか?」
「うーん……あ、もしかしたらあの写真に映ってた木だけが、他よりいっぱい花が咲いてるとか!」
期待もこめてそう口にする。
マップを見ると、園内には桜の木が植えてある場所が複数あるようだ。
今日の主目的はお花見だけど時間はたっぷりあるしせっかくなので、満開の桜を探すかたわら、順路にしたがい動物たちもくまなく見てまわることにした。
歩きだしてまずすがたを現すのは、トラやライオン、ヒョウなど大型の肉食獣たちだ。
近くで見るとものすごい迫力、といいたいところだったが
「お昼寝中みたいだね」
「この天気だからな」
転弧くんが空を見上げる。目に痛いくらいの晴天だ。
空気はぽかぽかと暖かく、眠気を誘われたらしい猛獣たちはそろってぐっすり眠っていた。
いまいち迫力には欠けるけど、これはこれでほのぼのして可愛らしい。
すこし行くと今度はカピバラやペンギンなどがいて、こちらは女性や子どもに人気のようだ。
サイにシマウマ、カバにカンガルー。動物たちはみんな春の陽気にくつろいでいるように見え、自由気ままに思い思いの場所で寝そべるすがたがどことなく人間らしくて可笑しかった。
鳥を集めたゾーンではダチョウやペリカン、フラミンゴなど見覚えのある種類から見たこともないような不思議な色かたちの種類までさまざまで、見ていてちっとも飽きない。
ひろい園内を歩きまわるうち、いつしか夢中になってはしゃいでいた。
「あっ、次はレッサーパンダだって!うわーっかわいい……!」
目の前にはたくさんの丸太を組んでつくられた飼育場がある。
そこには数頭のレッサーパンダがいて、それぞれが日当たりのいい場所でまどろんだり、果物を食べたりしていた。
愛くるしいすがたに釘づけになっていると、縞模様のふわふわ尻尾を高く掲げた一頭がこちらに歩いてくるのに気づく。
その一頭は僕の前で立ち止まり、とつぜん二本足ですっくと立ち上がった。
両手(足?)をひろげてバンザイのポーズを決めるその光景を目撃した周囲のお客さんたちから、わっと歓声が上がる。
「す、すごい!ねぇ転弧くん見て見て、ほら!」
大興奮しながらふり返れば、鼻先でカシャリとひびくシャッター音。
端末越しに顔をのぞかせた転弧くんは楽しそうに笑っていた。
「ちゃんと見てるよ。写真もばっちりだ」
……転弧くん、カメラあっち。僕じゃなくてレッサーパンダのほう撮ってよ」
はしゃぐすがたを撮られたのが気恥ずかしく、ついむすっとしてしまう。
だけど転弧くんはどこ吹く風で、笑いながら僕の頭をくしゃくしゃ撫でた。
気づけば時刻はとっくに正午を回っている。
ずいぶん歩いてすこしくたびれ、のども乾いていたので近くにあったカフェへ立ち寄ることにした。
案内された窓ぎわの席からは、動物園の中央に位置するおおきな池の周囲を囲むように植えられた桜の木が見える。だけどどの木もさほどたくさんの花をつけてはいないみたいだ。
「やっぱり、まだあんまり桜咲いてないみたいだね」
「そうだな。園内ももう半分以上まわったか」
「どこにあるんだろう、あの桜の木」
ふたりでうーんと唸っていると、注文したものを運んできてくれた店員さんに「あの」と声をかけられた。
「ごめんなさい、お話が聞こえてしまって。もしかして今日はお花見に来られたんですか?」
「あ、はい、たぶんこの動物園で撮られた写真だと思うんですけど、その桜がすごく綺麗だったので、見られたらいいなって……
SNSにアップされていた例の写真を見せると、店員さんはそれをしばらく見つめてからぱっと表情をあかるくした。
「これ、爬虫類館のすぐ近くの桜だと思います。私も昨日、別のスタッフに教えてもらって見に行ったんですよ。園内で一本だけ満開の桜の木があるって」
店員さんは何枚かアップされていた写真のうち一枚を指さした。背景にちらっと写りこんでいる建物がどうやら爬虫類館らしい。
爬虫類館まではカフェを出て、池に添って進んでいけばすぐだという。
「ヘビやワニが苦手な方って子どもでも大人でもわりといらっしゃるので、爬虫類館のあたりが混み合うことはすくないんです。なので、ゆっくりお花見するのにはちょうどいいかもしれないですね」
「そうなんですか、いろいろ教えてくださってありがとうございます!」
親切な店員さんに感激し喜び勇んで頭を下げる。
カフェで疲れを癒やしたあと、僕たちは教えてもらった爬虫類館へと向かった。
これまでのフレンドリーな園の雰囲気から一変して爬虫類館の灰色の建物はそこはかとなく威圧感が漂い、ちょっと尻込みしてしまうかんじがある。
建物の入口付近には桜の木を見つけられなかったので裏手にまわってみようと話していたのだが、転弧くんが「ついでに爬虫類館入っていこう」と言いだした。
「えっ」
その言葉に思わずぎくっとする。
僕の反応を見た転弧くんはにやりと口角を上げた。
「まぁ、出久が嫌だってんなら無理にとは言わないけど。昔行った動物園では、ヘビがこわいってわんわん泣いちまってたもんなぁ」
「い、いつの話をしてるんだよ!いいよはやく入ろう、せっかく来たんだもんね」
あからさまな挑発に乗ってしまい、あとに引けなくなってやけくそで建物内へ足を踏みいれた。
なかの空気はひんやり冷たく、外より格段に暗い。そして不安になるほど静かだった。
なかなか目が慣れずほとんど周りが見えないので、壁伝いにそろそろと進む。
このガラスの奥には、なにがひそんでいるのだろう。ヘビかワニか――物音ひとつ立てず、息をひそめてこちらをうかがっているいきもの。
錯覚かもしれないが「見られている」気配を感じたとたん、背中がぞわっとした。
暗闇に爛々とひかる目玉を見た気がして、無理やりそこから目を逸らす。
いてもたってもいられず、さっさと通り抜けてしまおうと足を早め――ふと立ち止まる。
いつのまにかひかる目玉もガラスも灰色の建物も、跡形もなく消え去っている。あとに残ったのは完全な闇と静寂。
僕はそこにひとりぼっちでたたずんでいた。
不安が急速に押し寄せ、あわてて背後をふりむく。
「転弧くん」
暗闇に呼びかけてみるが返事はない。
氷の塊を飲み込んだみたいに、冷えた恐怖が全身を覆う。
「転弧くん、どこ?転弧くん!」
必死で声を張りあげる。
澱んだ水底に閉じ込められているようだ。
息苦しさに視界が狭まり呼吸が乱れる。
はやくここから逃げだしたいのに、足がすくんで動けない。
パニックを起こしかけたそのとき。
「出久!」
強い力で右手をつかまれた。
呆然としたまま手を引かれ、すると行く手にかすかな光が灯る。その光がどんどんあかるさを増し――気づけば建物の外に出ていた。
降りそそぐ陽射しがまぶしくて、反射的に目をつぶる。
すこししておそるおそる目を開ければ、転弧くんがこわばった顔で立っていた。
ごめん、とひくくかすれた声がつぶやく。
「俺がなかに入ろうなんて言ったから。出久のすぐあとから俺も建物に入ったんだけど、なんでかおまえを見つけられなくて」
奇妙な体験をしたあとですぐにほどく気になれず、僕の右手はまだ転弧くんと繋いだままだった。
「僕のほうこそ、勝手に先に行っちゃってごめんね。……見つけてくれてありがとう」
手を握りかえすと転弧くんはようやく安堵した表情を見せた。
風が吹いて髪を揺らす。
視界の片隅にしろくちいさなものがよぎった気がして、そちらを見た僕はあっと声を上げた。
「転弧くん、あれ!」
僕の指先を追った転弧くんも目を見開く。
見つめる先には一本のおおきな桜の木があった。
その木が満開に花を咲かせている。
SNSで見た写真と遜色ない、むしろそれよりはるかに見事な美しさに一瞬で目を奪われた。
四方にのびる枝にすきまなく花が連なり、まるで薄桃色の雲がたなびいているようだ。風が吹くたびざわめいて細かな光の破片を撒き、あたりの景色を霞ませる。
木の真下まで歩いて見上げれば、音のない雨のように無数の花びらが降ってきた。
「綺麗だね」
「うん」
そっと隣をうかがうと転弧くんはひどくあどけない顔で桜を見ている。
言葉も忘れてしまうほど、それは夢みたいに幻想的な風景だった。
花の雨は僕らを遠い場所へ導くように、いつまでも止むことなく降りつづく。
「出久。なぁ、また次の春も桜を見よう。どこでだっていい。またこんなふうに、ふたりで」
転弧くんの穏やかな声が子守歌のように優しくひびく。
繋いだ手から伝わる体温が、苦しいほどに愛おしい。

昼間はあんなに晴れていたのに予報どおり夕方から天気は下り坂になり、転弧くんの家に帰りついてまもなく雨が降ってきた。
「ぎりぎり濡れずにすんだな」
「うん。でもあの桜、雨で散っちゃうかな。せっかく満開になったのに」
昼より気温がぐっと下がり、肌寒さをかんじる。
転弧くんは温かいお茶を淹れてくれた。
「どうだろうな。まぁ、あの木のいちばん綺麗な瞬間を見ることができた人間が、俺たちも含めすくなくとも数人はいるわけだし」
「そっか。そうだね」
そもそも桜に対して儚いとか寂しいとか感じるのはこちら側の身勝手で、たとえいつかすべての人間が地上からすがたを消したとしても、桜の木はそんなことお構いなしに美しく咲きつづけるのだろう。
とりとめもないことを考えながら僕は黙ってお茶をすする。
夕飯には卵を乗っけたラーメンを食べた。
そのあとは転弧くんが撮っていた写真をふたりで見たり、ゲームをしたりして過ごした。
転弧くんの横に座ってるとあったかくて、一日たくさん歩いたせいもあってかだんだん瞼がおもくなってくる。
睡魔と格闘していると転弧くんに苦笑された。
「出久、もう寝る?」
「ううん、まだ起きてる……
まだ眠るわけにはいかない。だって。
「だってまだ、今日……
言い終わる前に僕は強烈な眠気に抗えず、夢の世界に引きこまれてしまった。

誰かの声にはっと目をさました。
身を起こしてあたりを見回す。
どれくらい眠ってしまっていたんだろう。転弧くんは近くにいなかった。
室内は暗く、つけっぱなしのテレビだけがまばゆい光を放っている。
チャンネルはとあるニュース番組のようで、一人の女性が街なかでインタビューを受けていた。
『あなたは今日、どんな嘘をつきましたか?』
そう質問され、女性は楽しげに話しだす。
朝の情報番組でも取り上げられていた、エイプリルフールの話題だろう。
起きぬけの頭でぼうっとテレビを眺めていると、再び声が聞こえた。ひくく抑えたようなその声はテレビからじゃなく、この部屋の外から聞こえてくる。
僕は部屋のドアをそっと開けた。
玄関へつづく短い廊下に、こちらへ背を向けて立つ転弧くんのすがたがあった。
片手に携帯端末を持ち、転弧くんは誰かと電話しているようだ。
盗み聞きはよくないとドアを閉めようとしたそのとき、転弧くんが声を荒らげた。
「だから、帰らねぇよ。これ以上なに話したって無駄だ。どうせ信じる気もないくせに」
その口調の激しさに思わず身がすくむ。
転弧くんは端末を握りしめ、電話のむこうの相手へ怒鳴った。
「出久はここにいる。ここに、俺の部屋にいるんだ!誰にも否定なんかさせない、もう二度と連絡してくるな!」
乱暴に通話を切った転弧くんは、手にした端末を力まかせに足下へ投げつけた。
にぶい音が廊下にひびきわたる。
髪を掻きむしってしゃがみこんだ転弧くんは、うなだれたままその場から動かない。
そんな彼のもとへ僕は静かに歩み寄った。
「転弧くん」
膝をついて座り、高熱を出したときみたいに震えている肩に触れて名前を呼ぶ。
のろのろと顔を上げた彼の紅い目は不安定に揺れていた。
「出久……
「ごめんね」
力なく床に落ちた手を取り、そっと包みこむ。
昔からいつだって僕がはぐれないよう、手を繋いでいてくれたのは転弧くんだった。
僕は優しい転弧くんが大好きで――だから大学生になった転弧くんがひとり暮らしを始めることになったとき、すごく寂しく思った。
だけど、いつでも遊びに来いよって言ってくれたから。
二年前の四月一日、春休みを利用して僕は転弧くんのアパートへ遊びに行くことにした。いつまでも甘えてばかりじゃいけないと思ったから、駅まで迎えに来ようかという転弧くんの申し出を断って。
そして当日、無事にアパートの最寄り駅へ降り立った僕はすこし余裕が出てきていた。
周りを見わたしたとき、テレビの取材班らしき人たちが道行く人にインタビューをしているのが目に入った。
「エイプリルフールに嘘をついた経験はありますか?」
それを聞いて、そうか今日は嘘をついてもいい日だったと思いいたり、そしたらにわかにいたずら心が起こった。
携帯端末を取りだし、転弧くんにメッセージを送る。
『ごめん、今日やっぱり行けなくなっちゃった』
エイプリルフールにかこつけた、かるい冗談のつもりだった。
駅からアパートまでは歩いて十分もかからないからすぐにネタばらしできるし、なにより転弧くんの驚く顔が見られるかもしれない。そんなことを考え、のんきにわくわくしながらアパートを目指した。
「いまでもずっと後悔してる。あんな嘘つかなきゃよかったって」
駅から離れて歩いていくと川が流れていた。
川面にはしろい花びらが浮いていて、近くの公園では子どもたちがはしゃぎまわって遊んでいた。
そのうちの一人が投げたボールが予想以上に遠くへ飛び、もう一人の子がそれを追って道に走り出た。――迫るトラックの目の前へ。
迷いも恐怖もなかった。
気づけば体が動いていた。
とっさに飛びだし、固まるその子を突き飛ばした次の瞬間、激しい衝撃が襲ってきてなにも分からなくなった。
「僕は、ほんとはここにいるべきじゃない。転弧くんにだってほんとは、会うべきじゃなかった。分かってるんだ、だって僕は」
僕は今日が――四月一日が終われば消える、「嘘」の存在なんだから。
本当の僕は、二年前のあの日に死んでしまったはずだから。
しかし死んだはずの僕は事故に遭ってから一年のあいだ、ふよふよと宙を漂いつづけていた。いわゆる魂というやつになっていたんだと思う。
体を失った僕の目に映る世界は抽象画みたいに曖昧で、自分の意思ではどこへ行くこともできなかった。
それが昨年の四月一日、僕は突如として元いた世界に「もどって」きた。
かりそめの肉体を得て、生前の緑谷出久のすがたになって。
いったいどういうわけでそんなことになったのか、いくら考えてもさっぱり分からない。
心細さに震えていたとき、ふと思いだしたのだ。
自分がまだ転弧くんに「嘘」をついたままだということを。
だから僕は会いに行った。
転弧くんのアパートまで今度はちゃんとたどりつけた。
勇気をふりしぼり呼び鈴を押す。
玄関に出てきた転弧くんはひどくやつれていた。
肌はぼろぼろだし目も虚ろで、まるでこころをどこかへ置いてきてしまったみたいに見えた。
変わり果てたそのようすに言葉を失う僕同様、転弧くんも信じられないものを見るような目で僕を見ていた。
いずく。ひきつった声でそう呼んで、転弧くんは僕をつよく抱きしめた。
その日僕たちは一日中ふたりで過ごし、そして四月一日が終わると同時に、僕は再びちっぽけな魂にもどった。
「今日が、四月一日が終わればきっと僕はまたここからいなくなる。なのにこんな、転弧くんを惑わせるようなことして、苦しめて……
さっきの電話の相手は「帰らない」という転弧くんの言葉から推測するに、彼の家族なんだろう。
とっくに死んだはずの僕が「部屋にいる」なんて転弧くんの口から聞いたら仰天するだろうし、転弧くんのことが心配になってしまうにちがいない。
僕が転弧くんの前に現れることをやめないかぎり、彼はきっと二年前のあの日に囚われ、苦しみつづけることになるのだ。
分かっているはずなのに。
頬につめたい水の感触がして、自分が泣いていることに気づいた。
気づいたとたんあとからあとから涙があふれ、目の前の転弧くんの顔がぼやけていく。
「ぼくは、もう」
僕の言葉をさえぎるように、すこしかさついた手が頬に触れた。
流れる涙を指先でぬぐい転弧くんはささやく。
「出久のいない世界なんて嘘だ」
そう言い切って静かに微笑む。
紅い瞳に僕のぐしゃぐしゃの泣き顔を映して。
「一年前の四月一日、おまえが会いに来てくれて心底ほっとしたんだ。誰に理解されなくてもいい。出久といるこの時間だけが俺の真実なんだから」
転弧くんの両手が頬を包む。
奇跡は何度も起こらないから奇跡と呼ぶのだと、それを知ってもなお浅ましく願ってしまう。
愚かで欲の深い僕は。
「残りの三六四日すべてが嘘だとしても、おまえといられる一日があれば俺は、それだけでいい」
紅い瞳の奥、夜にしろく煙る花を見た。
うすい唇が僕の唇に重なり、吐息が淡く熱を煽る。
新たにあふれる涙を止めないまま瞼を閉じた。
唇をほどいた転弧くんは僕を胸に抱きしめる。
片時も離れたくなくて僕もぎゅっと抱きついた。
……まだ四月一日、だから」
言い訳がましくそうつぶやく。
いまから言うことはエイプリルフールの「嘘」だから。決して本心ではないから。自身にそう言い聞かせて。
「今日が終わっちゃうなんていやだ。明日なんて来なくていい。ずっとずっと、四月一日のままならいいのに」
終わらせなければならない。
転弧くんには明日があるから。過去に囚われることなく、未来を生きていかなければいけないから。
今日が終われば僕は今度こそ永遠に目覚めないかもしれないし、そうなればもう二度と転弧くんには会えない。
だからいま、この温もりを刻みつける。
体に、こころに、たったひとつきり残る魂に。
「僕を忘れないで」
僕のことなんてもう忘れていい。
大切に想いあえる相手と出会って、この先の時間を共に歩んでほしい。だけど時々ほんのちょっと思いだしてもらえたら、これ以上ないほど幸せだって思う。
そう、いつまでも幸せに。
「幸せになって」
「嘘」を口にするつもりがこぼれ落ちてしまった本心。
情けなく震える声だったけど、転弧くんには聞こえたようだ。
「俺はもう幸せだよ」
春風みたいに優しい声が降ってくる。
投げ捨てられた携帯端末の画面が突然ぱっとひかり、視線が吸い寄せられた。
画面に表示された時刻は四月二日の〇時一分。
ああ、もう嘘をついていい日は終わったんだ。
思ったとたんすうっと意識が遠のいていく。
温かな転弧くんの腕に包まれ、幼い子どもみたいに胸に頬をすり寄せた。
かすかに聞こえる鼓動に重ね、ただこころの真ん中にある言葉を声にする。
「転弧くん、だいすき」
泡のように光が弾ける。
指先から体がとけていく。
「うん」
霞む視界にさいごに映ったのは、僕が世界でいちばん好きなひとの柔らかな笑顔だった。



しろい天井へななめに走った光の線をぼんやりと目で追う。
光は窓辺につるしたカーテンの、上のほうに空いたすきまから差し込んできていた。
明け方まで降りつづいていた雨はすっかり止んだようだ。
ろくに眠った気もしないまま朝を迎え、体中にだるさが残っている。もしかしたらこのだるさは、ふだんほとんど出歩かないにもかかわらず、昨日動物園を一日歩きまわったことに起因してるかもしれない。
ふとそんなことを思い、枕元に置いた携帯端末へ手をのばした。
アプリを起動し昨日撮った数枚の写真を見る。
朝の食卓の風景、両手をひろげ威嚇するレッサーパンダ、満開の桜に、舞い散る花吹雪。
そこに映っていたはずの出久のすがたは、どの写真からも消えていた。まるで初めから存在しなかったように。
けれど出久はたしかにここにいた。
柔らかな輪郭の線も、光に滲む睫毛のいろも、頬に散ったそばかすまでそっくりそのまま、俺の記憶にあるままのすがたで。
だから俺は疑わない。
一年後の四月一日、また出久とふたりで桜を見るのだ。
その日を思えばまだ今日も、怠惰に呼吸を繋いでいられる。
だらだらと起きだし窓を開けた。
窓の外には透き通るような水色の空がひろがっている。
室内に吹きこんできた風に、ちいさななにかがひらりと翻る。
床に落ちたそれは一片の花びらだ。
いったいどこから来たのだろう、見れば空から雪のように次々と降ってくる。
無慈悲なほどに美しいその光景を見上げながら俺は、だいすきだと泣きながら笑った出久の顔を思いだしていた。