旋律は、口づけをするとき目を閉じる。その紫色の目を、まぶたでかくす。睫毛が長い。眼鏡をとると、よく分かる。右手に持った眼鏡のつるをつまむ。それを視界の端にとらえながら、旋律のくちびるにそっと自らのものを当てた。あたたかいと思う。全市の体温は冷えている。母親の胎の中にぬくみを置いてきてしまったかのように、男の体は子どもの頃からずっとずっと冷たかった。
全市は兄の代わりで、姉の代わりだった。そんな人間そっくりの男を、旋律はその目で見ていた。この時ばかりは全市もこころにぬくもりを灯す人間になったような気がした。
部屋の中には水槽がひとつ置かれている。金魚二匹が棲んでいる。名前のしらない水草と藻、そして紫色の鉱石。それらがまるで展示物のように、しっかりとそこに存在していた。
「なにを見ているんだ」
旋律が不思議そうにつぶやいた。
「よそ見をするなんていけない生徒だな」
全市のうなじに手のひらがあたる。ほんのすこし力を加えられれば全市のからだは容易く引き寄せられた。
「俺が生徒ならお前は先生か」
目の前の男がふと笑う。
「ずっと前から先生だ」
そして、自慢げに口の端をあげた。
「そうか」
ひたいがあたたかい。旋律のひたいに自分のひたいを押しあてると、呼吸の音が聞こえてくる。どちらの音かは分からない。ということは、今は旋律と同じいきものというわけなのだろう。
全市の顔がわずかに動く。
旋律の視線を受けながら、目尻に薄いくちびるを押しあてた。甘いような、気がする。おいしい、とも思う。
「こら」
叱るような声が聞こえた。本気ではない声色だった。くすぐったそうに身をよじった旋律のからだのラインを手のひらで確かめる。
「旋律」
骨が軋むような音が旋律という名のとおり、美しい音楽のようにも聞こえた。
「苦しい、全市」
――お前がいるから俺はまだ人間でいられる。
そう呟こうとしたくちびるは当たり前のように乾いて、冷えていた。
体温がほしいという全市の欲求は、旋律のくちびるに再度押しあてることで満たされた。
甘い香りがする。
花に似た香りだった。旋律の匂いだろうか。わからない。
水槽から水音が聞こえた。
金魚がこちらを見ている。黒々しい瞳がよっつ。向けられていた。
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