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2024-04-13 23:19:43
10747文字
Public movie100
 

012:一番うまい歩き方

映画タイトル100題からおかりしました。十年くらい経ってて付き合ってないけど大人な関係はある拳コユの散文 ケンが基本最悪 気が向いたら続く
(2025.11.17追記) 気が向いたので続きを書きました。

 日中降り注いでいた小糠雨は止んだらしい。らしい、というのはケンが起き出してねぐらを出た頃には、アスファルトと空気が湿り気を帯びるにとどまっていたからだ。降っていたこともラーメン屋で流れていたニュースで知った。
 こちとら無職のフーテン吸血鬼、やるべき事はやりたい事のみ。今宵も同胞たちと退治人を揶揄い遊び、すわ収容、となる直前に逃げ出した。今日は約束がある。捕まるわけにはいかない。それなら捕まるようなことをやらねば良いのにと末の弟は呆れるが、吸血鬼故に目先の享楽にはどうしても逆らえない。揶揄い甲斐のある人間を見つけたらヨヨイと一戦手合わせ願いたくなるのは本能だ。
 その末弟も今は堅実に働いているが、かつては矢部病院で一般市民からの吸血を企んでいたし、次兄に至っては言わずもがな。今日も今日とて世界征服を夢見てせっせと布教に勤しんでいるのだから、なんやかんや似たもの兄弟なのだ、我々は。
 さて、無事逃げ果せたケンは二十四時間営業のスーパーにいた。カラコロ陽気に下駄を鳴らし、青果コーナーを物色する。桜の花びら舞う吊り下げ広告の下には春キャベツ、新じゃがいも、筍、菜の花、アスパラ、ふき、そら豆エトセトラ、春の野菜が並んでいる。
 立派な皮付きの筍を持ち上げしばらく見つめ──戻した。今から仕込むのは時間がかかる。代わりにキャベツ、アスパラ、そら豆、菜花。迷った新じゃがいもも結局カゴに突っ込んで、冷蔵庫の中身を思い返しながらその他魚や肉もカゴに放り込んだ。ビール大缶と新商品の白桃チューハイも忘れない。
 レジに並んで財布を探る。桃色ジャンケン柄のがま口ではなく、ライトベージュの長財布を引っ張り出した。



「邪魔すんぜ」
 誰もいないとわかっていても声をかけるのは癖のようなものだ。青いリボンのついた合鍵をシューズボックスの上に置き、ビニール袋を片手に短い廊下を行く。
 買い物袋をキッチンに置き、使わないものだけ冷蔵庫に収納する。襷で袖を纏めて準備完了だ。引き出しを開けると、もはやケン専用となった包丁が出番を待っていた。


 全ての仕込みを終え、着物で雑に手を拭きながらベランダへ出る。紙巻き煙草に火をつけて、置きっぱなしにしている灰皿を手に取った。
 ケンがこの部屋に来るのは基本的に週に一度。作り置きの惣菜が切れる頃を見計らい、食材を買い込んでは通っている。
 ベランダとはいえ気兼ねなく紙煙草が吸えるのは昨今風当たりの強い喫煙者にとってありがたいし、飯を作るだけで自由に屋根を借りられるのも色々と都合が良かった。
 日の出が近い。家主の娘もそろそろ帰ってくるだろう。あっという間に終わった一本目を灰皿に捩じ込み、二本目に火をつけたところで、人ならざる鋭い聴覚がゆったりとした足音を捉えた。
「さんじゅうご、さんじゅうよん……
 煙を吐きながら数えて待つ。あと三十。ゆっくり数えて、数えて。
「ゼロ」
 カウントダウンを終えたと同時、ドアが開く音がした。迎えには出ず、空を見たまま煙草をを吹かす。
〝来てらしたんですね〟
「んお」
 さも今気づきました、という雰囲気で振り返る。窓から若い娘が顔を覗かせた。疲れの滲んだ顔で微笑むと同時、さらりと黒髪が揺れる。昔ショートボブを保っていた髪は今や肩下まで伸びていた。いつから伸ばし始めたのか定かではないが、今は毛先が肩よりも下のあたりで保たれている。
〝帰りました〟
「おう、おつかれさん。怪我してねえか」
〝はい。今日は平和な方で……ケンさん、スタジアムの方で暴れたでしょう? ロナルドさんが逃げられたって怒ってた〟
「テメェの未熟を棚に上げて何言うかね」
〝少しは悪びれてくださいよ〟
 立ち上がり、頬を膨らます娘の頭をポンポンと撫でると、それだけで格好を崩す。安上がりで結構。ここにいると一言伝えれば、あの若者は赤い外套翻して飛んでくるだろうにそうしない。いつもの事だった。
「すぐ飯食う?」
〝先にシャワーを……
「沸かしてるからちゃんと湯船に入れ」
〝何から何まですみません〟
「いいって、下心だからよ」
〝言っちゃうんだ〟
「言うさねそりゃあ。おじさんは正直が取り柄よ」
 肩口に顔を寄せる。わざと鼻を鳴らして吸い込むと、汗とシャンプーの香りがした。むずがる娘の肩を掴んでもう一度息を吸い、鼻で髪を掻き分けて首筋を喰む。薄い身体が跳ね、丸い耳に赤みが差す。
〝けん、さん〟
「ウン?」
〝先にシャワー、を〟
「わあってる」
 口角を上げ、行ってらっしゃいと耳元で囁くと、娘は小さく頷いてから小走りでバスルームへ向かった。娘はもう、この先を理解しただろう。それだけの回数同じことを繰り返している。窓を閉めてから二本目の最後の一口を吸い込んだ。
 ケンがこの部屋に通うようになってから八年。娘が父親の反対を押し切って一人暮らしを始めてから過ぎた時間とほぼ同等だ。
 娘が──コユキがケンに告白し、ケンがそれを断ってから早十年が過ぎた。
 娘の気持ちがまだこちらに傾いていることを分かっていて、都合の良い関係に持ち込んだのは他ならぬケン自身だ。コユキは何も言わず、この関係を受け入れている。ケンは吸血鬼。招かれざる部屋には入れない。合鍵を持っているとはいえ今もこうして我が物顔で台所を使い、煙草を吹かしていられるのはコユキがそれを良しとしているからだ。
 かつてひたすら想いをぶつけて来た猪突猛進さは年を追うごとに鳴りを顰め、お前はまだガキだからという言い訳が通らぬほど、コユキはすっかり女になった。実際、もう十分大人の女になったでしょ、と迫って来た時に流れ流されたのは事実である。落ち着いた、大人になったといえば聞こえはいいが、実際のところ娘が何を考えているのか、今となってはわからない。あの父親もそこまでのことは知らぬだろう。察してはいるかもしれないが。
 都合が良くて聞き分けの良い女が一人増えた。ケンにとってはその程度の認識だ。
「よくもまあ……モノ好きが続くことで」
 薄く笑って煙草をもみ消す。灰皿を閉じて部屋に戻った。
 髪が伸びてから、バスタイムも少し伸びた。のんびり支度して十分に間に合うだろう。
 本日の献立はキャベツと豚の中華炒め、じゃがいもとワカメの味噌汁、卵焼き、菜の花の煮浸し。酒のアテにそら豆を茹でる予定だ。細々した惣菜はすでにタッパーに入れて冷蔵してある。
 あの様子だと、晩酌の後にキモチイイこともさせていただけそうだし、念のためスキンの在庫を確認しておくべきだろう。
 シャワーの音を遠く聞きながら、のんびりと台所へ戻った。





〝お見合いをすることになりまして〟
「は?」
 床に落ちた寝巻きを拾いながら言ったコユキに、事後特有の満足感と解放感が吹き飛んだ。夕飯メニューのリクエストでもするかのような軽い口調で、あ、そう? と流しそうになったが流石に看過できない。ベッドの中で散々肌を吸い合い、身も心もすっきりするまで吐き出したというのに台無しだ。コユキは澄ました顔でオーバーサイズのTシャツを着て、豊満な尻を下着で隠してからベッドへ戻ってくる。大きな乳房で持ち上がった布地は、乳首の辺りがうっすらなだらかな丘を作っている。シャツを捲りあげればピンク色の飾りが二つ、ふっくらと柔らかく迎えてくれるのだろうなァ、と思考を斜め上に飛ばす。認めたくはないが現実逃避だ。
 毛布を持ち上げて中へ招くと、娘は礼を言いながらモゾモゾとケンの横へ寝転んだ。
「見合いたァまた……急な話で」
〝名前だけは形式ばってますけど。先月から出ていた話ですけどね、決まったのが先週末〟
「いつ?」
〝明日〟
「いや急だろ」
〝だからお見合いというよりお食事会かな。二人で〟
「相手は」
〝向こうも退治人です。なかなか予定が合わなくて〟
 あなた達が自由に暴れるからですよ、と言いながら笑うコユキに眉を顰めると、先月一度話はしたとのこと。記憶を掘り返すが全く覚えていないので、酒を飲んでいたのかもしれない。
 よくよく聞くと、一人フラフラしている娘を心配して父親が持ってきた話らしい。今どき見合いなんて古臭いが、出会いの少ない退治人や吸血鬼対策課は紹介から関係が始まるのは珍しくない。
 相手は二歳年上の退治人。木更津のギルドに所属していて、何度か仕事を共にしたとのこと。仕事以外で顔を合わせたことはないが、真面目で仕事に真摯な良い退治人。収入もそこそこ。二人で退治人として働けば暮らしは楽だし、仮にコユキが仕事を辞めても食べていくことはできる。だからとりあえず、一度仕事抜きで会ってみろと言われたらしい。
 成る程、あの鬼神が考えそうな話だと思った。
〝だからね、服を選んで欲しくて〟
「俺がァ?」
〝はい、男性ウケの良い服〟
「えぇ……
〝ケンさん、いつもの服はちょっとアレだけどセンスいいから〟
 笑うコユキに唇を曲げる。いつもの服というのはジャンケン柄の着流しのことだろう。あの着流しはケンの一張羅だ、アレ呼ばわりはいただけない。話が逸れた、問題は見合いの話だ。
 もし話がまとまったら、こうして週に一度屋根を借り、肌を重ねて下らない会話を交わすことはなくなるだろう。相手のいる女の家に入り浸るのは外聞が良くない。ケンは今更気にしないが、コユキがそれを良しとしないだろう。都合の良いホテルが一つなくなってしまう。
「困ンだけど」
〝えっ、何でですか。ケンさん、他にも行くところたくさんあるでしょ〟
「ン、んー」
 コユキの指摘は的を射ている。ケンにとって都合が良い、家で煙草が吸えて居心地も悪くない女は沢山いる。女でなくとも、弟二人は新横浜に居を構えているからそちらに行ったっていい。反論の余地はなく、黙って唇を尖らせる。
 コユキは全てをわかっているといった様子で呆れたように笑って、スマートフォンを充電ケーブルに繋いだ。ベッドサイドの明かりも落とし、眠る体勢に入っている。
「おい、嬢ちゃん」
〝明日の夜、ランドマークタワーの中のレストランで会うんです。ドレスコードがあるので、服選びお願いしますね〟
「おいって」
〝おやすみなさい〟
 むべなく言ったコユキはコロンと寝返りを打ち、ケンに背中を向けた。唖然と細い肩を見つめるが、呼吸がゆったり深いものに変わったのを見て、諦めて横になり布団を引っ張り上げた。
 あれからもう十年が経った。過保護すぎる親だし、ケン自身もお嬢ちゃんなんて言い方をするが、コユキは立派な大人の女性だ。浮いた話の一つもなければ親が心配するのも理解できる。いつまでもこのぬるま湯のような関係が続くなんてことはない。重々理解している。なのにこの、尻が落ち着かない心地はなんだろう。奥歯に物が詰まったような居心地の悪さだ。予想もしていなかった。コユキが「男と二人で会う」事にここまで心乱されるとは。
 視線を横に向ける。長い黒髪がシーツに散らばっていた。ずいぶん伸びたものだと思う。切らないのかと聞いて、しばらくはこのままでと返されたのはいつのことだったか。肌を吸い、舌を絡め、身体の奥まで知り尽くし、ケンの好みに育てた女は今、自分にケンに背中を向けて眠っている。
 シャツに包まれた肩に触れた。細くて薄いが、しっかりと筋肉がついた退治人の体だ。行為の熱は既に引いて、少し冷えている。布団を引き上げ、首元まで体を隠してやる。存外寝相の悪い娘だ、すぐ布団を蹴ってしまうから、この冬は俺の腹巻き貸してやろうかと言って憤慨されたのも記憶に新しい。こんなどうでも良い事は覚えているのに、なぜ見合いの話は覚えていなかったのだろう。ぽつりと文句をこぼす。
「お前、俺が好きなんじゃねえの」
〝好きですよ〟
 返答があると思っていなかったそれに、娘が小さくこたえた。体を起こす。娘は背を向けたままだ。
〝でも、あなたはそうじゃない〟
……お嬢ちゃんよぉ」
〝だから、どうでも良いおはなしでしょ〟
……
〝おやすみなさい〟
 もう話は終わり。そう言っている。とろりとした小さな声は、耳触りが良くて好ましい。このまま小さな体を抱き枕にして眠るのがお決まりだが、そんな気分にはなれない。
 今までに感じたことのない大きな何かが、コユキとケンの間に横たわっている。我が物顔で陣取る見えない壁は、これ以上コユキに触れる事を許さない。深く息を吐いてベッドから抜け出し、アレ呼ばわりされた着流しを羽織った。
「帰るわ」
 適当に帯を締め、脱ぎ捨てた足袋を拾いながら部屋を出る。返事はなかった。
 シューズボックスの青いリボンの鍵を取り、入れ替わりにライトベージュの財布を置いた。部屋を出て施錠すると、ガチャンという金属音がマンションの廊下に大きく響く。こんな時間だ、あたりに人の気配はない。着流し姿の大男が女の一人暮らし部屋の前でぼんやりしていても、咎める者はいなかった。
 手の中にすっぽりおさまる、青いリボンのついた鍵。ポストにでも入れておこうと思ったがこのご時世だ。何かの折に直接返せばいい。自身のがま口に放り込んで踵を返した。
 ぎらりと嫌な光が顔にかかり、舌打ちしながら袖で顔を隠す。空は既に白み、忌々しい太陽が雲の隙間から街を照らし始めていた。



 別に期待をしていたわけではない。
 最初に告白したのは十年以上前だった。何度も告白し、同じ回数だけ振られた。自分を袖にしておいて他の女性に鼻の下を伸ばしている男にもちろん思うところはある。自惚れだとわかっていても、何故この世界でただ一人、わたしだけがこんな思いをしなくてはならないのかと泣いたことも数知れない。それでもコユキが好きになったのは街ゆく人間に野球拳を仕掛け、服を剥ぎ、おかしな柄のTシャツをばら撒いてゲラゲラ笑うあの男。コユキの料理を食べて青い顔をしながらアドバイスをし、野球拳で負けて全裸で床に崩れ落ちては次こそと拳を握るあの男だ。
 割り切れないから追い縋って、気持ちの伴わない関係にまで持ち込んだ。
 あのケンさんとセックスフレンドなんですよ、わたし。あなたが絶対になりたくなかった「その他大勢の女」の一人になったんです。
 かつての自分が見たら白目を剥いて倒れそうだが、ケンと寝て初めて、ケンに溺れる女の気持ちが理解できた。
 ケンは全てを解っていた。女が求めるもの、求めることば、求める態度。優しく蕩かすように糸を絡め、緩くも解けない程度に縛る。縛られた当人はどうしたら抜け出せるかわからないのに、ケンは己の心一つで結び目を解くことができるのだからたまらない。どんなに愛を伝えても絶対に愛の言葉で返さない。麻薬のような男だ。
 これは女の人が尽きないわけだと納得をしてからは、どこかさっぱりと割り切った気持ちにもなった。
 一人ところに収まることをしない根無草、時折屋根を借りにくる猫。このくらいの距離がちょうど良いのだ。
 コユキと同じ気持ちの女が何人もいる事に目を瞑ればなんて事はない。女たちも皆、コユキと同じ判断をしたのだろう。見る目がないと言われて仕舞えばそれに尽きる。
〝男運、ないのかも〟
 呟きが、口元に触れる甘いカクテルの水面を揺らした。ランドマークタワーの上層レストラン。夜景の美しいガラス窓に向かって設置されたペア専用ソファ席で、コユキは三十分以上待ちぼうけを食っていた。
 約束した男はまだ来ない。ウェイターが焦れてメニューを差し出さなければ、コユキは未だに夜景をぼんやり眺めているままだっただろう。慰め程度のつまみと弱いカクテルを口にしながら、ぼうと街の灯りを見る。何度か入れた連絡には返事がない。急な仕事か事故かもしれないと木更津のギルドに連絡したが、相手はきちんと休みを取っていた。
 となると突発的な吸血鬼騒ぎに巻き込まれているか、電車の遅延だろうか。一つ連絡をしてくれたら良いものを。少しずつ消費したカクテルはグラスの底が見えてきた。この一杯を飲み終えても来なければ、一度ギルドに戻ろう。そう決めてグラスを置き、ポーチを手に手洗いへと立つ。慣れない高いヒールとタイトスカートが煩わしい。
 ため息をつきながら化粧室を探していると、レストランの入り口が何やら騒がしいことに気がついた。どうやら客がウェイターと揉めているらしい。
「お願いします待ち合わせなんです」
「お客様しかしですね、その格好では……
「着替えはなんとかしますからとにかくコユキさんに取り次いでください!」
「しかし……
 待ち人の声だ。慌ててレストランの入り口へ向かう。思った通り、止められているのは本日食事する予定の男だった。ああよかった、事故ではなかったのだ。胸を撫で下ろし、店員を止めようと駆け寄りかけ──は? と無作法な声が出た。向こうもコユキに気がついたようで大きく手を振ってアピールしてくるが、それどころではない。
「あぁ! コユキさんすみません! 本当にすみません」
〝あ……の、えっと、そ、そのかっこ〟
「いやあそれが……
 そこから先の男の説明は耳に入らなかった。聞いたところで耳にタコの内容なのは明らかなので、脳がシャットアウトしたと言った方が正しい。
 男が身につけているのは桃色のTシャツにパンツ一枚。Tシャツに書かれた文字は白抜きの筆文字。あまりにも見慣れた、見慣れて良いものかわからない文句。堪えきれずに小さく吹き出した。
「ランドマークタワーの真下で吸血鬼に絡まれまして。なんとか逃げ切ったんですがあれは恐ろしい吸血鬼ですよ」
〝ん、んふ、そう、そうですね〟
「あんな酷くて強力な催眠を使う吸血鬼は見たことない! 新横浜の方のやつですか」
〝そうです、うん、ふふふ、きっとそう〟
 成る程、彼の悪名は木更津のギルドには届いていないらしい。いや、彼が知らないだけかもしれない。データを共有すべきだった。人の衣服を根こそぎ剥ぎ取って手製のTシャツを着せて放り出すなんて馬鹿げた真似をする吸血鬼、一度見たら忘れないに決まってる。
「お待たせしてすみません、ここは僕が払うので場所を」
「おーおー、女待たせるなんてオトコの風上にもおけんやつだ」
 男の肩に大きな手ががしりと乗る。伸び上がった大きな影が男をすっぽり覆ってしまう。
 見慣れた手拭い頭に顔をほとんど隠す布。桜色の着流しに踊るグーチョキパーの柄。
「なあ、お嬢ちゃん」
 つい先ほど男を丸裸にしたのであろう『害悪吸血鬼』が、男の背中から顔を出してニヤリと笑った。
「あ、あー! キサマどのツラ下げてここまで!」
「うるせーな、ホラドレスコード違反だろ、オメーは帰れ」
「な、何を」
「そーだろ店員さんよ」
「え、えーっと……
 パンツにTシャツ姿の男、ふざけた着流しの吸血鬼。トラブルの多重事故発生にオドオドしている店員が哀れだ。ちょっと、と助け舟を出そうとしたところで、目を泳がせていた店員の動きがぴたりと止まった。
……そうですね、パンイチTシャツのあなたはご入店出来かねます」
「はあ!?」
「そちらの素敵な着物のお客様は待ち合わせで」
「おう、そこの美人とな」
「承知しました、お先にご案内します」
「ちょっと!」
 何をしたのかなんとなく察しがつく。しかしここでその事実を暴露すれば、悪い方向に話が転がることは必至だ。どちらにしろ、事態を収束するのであれば。
……すみません、この吸血鬼はわたしが引き受けます〟
「なっ、コユキさん、でも」
〝大丈夫です、慣れてますからこの手の吸血鬼。食事はまた、日を改めましょう〟
 男の手を取って少し首を傾ける。いやらしい仕草だとわかっているが、これが男性にウケることも今のコユキは知っていた。ね? とだめ押しすると、男はコユキと吸血鬼を交互に見て、渋々頷いた。
「増援は必要ですか、近くに僕のギルドの連中も」
〝不要です、対処可能な範囲ですので〟
……わかりました。どうかお気をつけて。報告はしておきます」
〝お手数をおかけします〟
「いえ、本当に気をつけて」
 男は何度も念押しすると、ギッと吸血鬼を睨んでから万札を数枚店員に押し付けて出ていった。律儀な男だ。席代を置いていったらしい。店員は黙って紙幣を受け取るとレジに納め、恭しくコユキと吸血鬼を元の席へ案内した。
 美しい街あかりと星空が広がる席に腰を落ち着けると、吸血鬼も横並びに設置された席にどかりと腰を下ろした。まるで最初からこの席は俺のものだったと言わんばかりの態度で、ウェイターに酒を頼んでいる。
 ウェイターがはけると、この騒動の元凶たる吸血鬼のケンは口布を下げ、テーブルのチーズを口に放った。
「ンマーチャラついた店ですこと。こんな感じなんだなァ、来たことなかったわ」
〝でしょうね〟
「にしてもさすがは新横浜退治人ギルドマスターの娘、あの男とは違って随分落ち着いていらっしゃる。あのレベルで退治人なんて名乗ってんなら他のギルドで野球拳大会するのは簡単だァな。良い下見になったよ」
〝何をしにきたんですか〟
 夜景を眺めてのらりくらり、言葉で煙に巻くのはケンの悪い癖だ。こういう時、言葉の応酬では歯が立たないのは知っている。キッチリと己の意見をぶつけ、流れを断つのが重要だ。ケンも、コユキが己の手の内を知っていることはわかっているはずだ。
「オトコ見にきた」
〝何で〟
「気になるから?」
〝気にすることないでしょう、ケンさんには関係ないんですもの〟
「んーほらだってよ、俺ってばお前に惚れてるみたいだから」
…………はい?〟
 至極自然に吐かれた言葉に固まる。ばっと横を見ると、酒を手にしたケンがじっとコユキを見つめていた。真っ赤な瞳は剥いたばかりの柘榴の実のようにギラついて、熱を待った視線がコユキに突き刺さる。
 十年待ち望み、喉から手が出るほど欲した感情と欲望、執着心の混ざった視線。急にそんなものを向けられては──困る。
〝え? なんで?〟
 十年だ。人間の女の十年は長く貴重である。その美しくも儚い全てをかけて、幾度となく想いを伝えたというのに突っぱねたのは目の前で熱っぽい目をしたこの男だ。だからこそ割り切って、ケンの好む「都合が良い女」に甘んじていた。だというのに今更、一体何のつもりで。
……鍵、返したくねえんだよ」
〝それはわたしがあなたにとって都合の良い女で、タダで眠れるベッドとタバコが吸えるベランダを持っていて、時々セックスに応じることができるからですよね?〟
「う、うーん、いやまあ、それもあるんだけどもそれだけじゃねえっていうか」
〝信じられませんけど……
「なんて言えば信じる?」
 食い下がってきた。何とも予想外の展開だ。落ち着きたくてカクテルのおかわりを頼む。数分で届いたそれを一気に半分ほど飲み干して、やけくそ混じりにいった。
〝俺が悪かった、わたしを愛してるって言えば、信じるかもですね〟
 言いながら思わず笑いが漏れた。あいしてる。愛してるなんて、この男が言うわけがない。散々乞い願っても、好きの一言すら言わなかった。勘違いだろとまで言ってのけたのが十年前、何でまだ諦めないんだと言われたのが八年前、モノ好きにも程がある、趣味が悪いと言われたのは五年前だったか。そろそろ他の男に目を向けたら? と言ったのは三年前のベッドの中。言うはずない。
「あいしてる」
〝はい?〟
「俺が悪かった」
……
「お前がいいって気づいた」
……
「俺のこと好きだろ、コユキ。昨日も言ってた。今更だけどよ、ちゃんと受け取る」
〝ば……
 ばかじゃないのあなた。
 そう叫ばなかったのは今この場所がそれなりにお高いレストランで、周りで食事を楽しむ者の輪を乱したくないというコユキの理性ただ一つだ。
 しかも最後の一言が余計だ。俺のことが好きだろう、と言ったか。冗談にも程がある。
 コユキの腹の中、諦念という名の泥に沈み込んだ怒りが沸々と湧き上がってくる。しかし同時に、ようやく求めてくれたという喜びも確かにあるのだから救えない。やはり自分は男を見る目がなくて、男運も最悪だ。
「こゆき」
 酒とタバコに焼けた掠れ声が低く響く。指一本触れられていないのに疼く体が嘆かわしい。コユキが断るわけがない、だって俺のことが好きだから。わかって言っているのだ、この男は。
 じわりと近づいてくる大きな手。膝の上で固まったコユキの手を掴もうとしているのがわかる。
……わたし〟
 このまま手を重ね、ようやくですかと笑って終わりにすることは簡単だ。それだけでコユキが夢にまで見た甘い幻想が叶う。

……本当に良いの、わたし)

 胸の内で自問する。こんな簡単に、あっけなくゴールしても良いのだろうか。そんな事でこの胸の中の泥は綺麗さっぱり消えるのかと言われたら、間違いなく答えは否だ。

 少しくらい、ほんの少しくらいは十年の重みというものを、この男に思い知らせてやりたい。

……いや〟
……あ!?」
〝嫌です、やだって言いました〟
「んな、は!? お前俺のこと好きだろ」
〝好きです〟
「ならいいだろ別に」
〝女を待たせるなんて、男の風上にも置けないんでしたよね〟
「あぁ?」
 額に青筋を浮かせるケンの顔がおかしい。思わず声に出して笑い転げた。何年かぶりに心の底から笑った気がする。勝利を確信していた男が焦っている。無様で哀れで、とっても愉快だ。
〝ふふ、ねえケンさん、わたしは十年待ちました〟
 そうだ、思い知らせてやろう。コユキの大切な十年を奪ったばかな男には、これでも足りないくらいだ。ケンの手をすり抜け、腕を上げてウェイターを呼ぶ。
〝すみません、このお店で一番高くて、甘くて、とっても美味しいカクテルをいただけますか?〟
 もちろんお代は全てこちらの素敵なひとで。
 そう満面の笑みで言うと、ケンがひくりと顔を引き攣らせる。
 この先どうやってこの男を振り回してやろう。十年経ったのだ。コユキとてただの純朴な乙女ではない。そう育てたのはケン自身だ。今から考えるのが楽しみでたまらない。

〝まずは全部をお父さんに言って、本日のお食事会のリスケジュールをしなくちゃ〟

 誰にともなく言うと、隣から奇妙な呻き声が聞こえてまた笑った。