エアコンの効いたキッチンから扉に近づくと、ガラス越しに感じる熱から嫌になるような暑さを感じる。今夜も熱帯夜らしいと帰りがけに今日最後のお客さんが言っていたのを思い出しながら、梓は掛け看板を手に取った。
「クローズにしますね」
「はーい、お願いします!」
ホールにいる人の方へ声をかけると、疲れを感じさせない返事が聞こえた。午後からの勤務だった梓と違い、午前から働いているはずの人は手早く、けれど丁寧にテーブルを拭いている。リズミカルに繰り返されるその動きをガラスの反射越しに見ていると通りを歩く人と視線が交わった。若干の気まずさにそそくさと洗い物の残ったキッチンへ足早に戻る。
最後のお客さんが使用していたマグ、パスタ皿、そしてカトラリー。他にもドリッパーをはじめとしたコーヒー関連、パスタを茹でた鍋にフライパン、まだまだ洗わなくてはならない物たちがシンク横で順番を待っている。小さな鼻歌混じりに、一つずつ手に取ってたっぷり泡だったスポンジで洗う。泡を流している間、指先だけでも暑さを忘れられる洗い物は嫌いではない。夏場に汗をかきながら茹でるパスタも嫌いじゃないけれど、冷たい洗い物の方が気持ちがいい。冬になったら逆転するような適当なバランス。
最後に残った大物、フライパンの泡を流していると手元に影が落ちた。
「懐かしいですね、僕もよく聞きました。指先で送る君へのメッセージって」
「えっ」
最近入ったばかりの人こと安室さんだった。マスターが午後休で最後のお客さんも帰ったのだから当たり前とはいえ、見慣れないシルエットに少し驚いた。声をかけられるまで歌っていた歌詞の続きをさらりと言えるあたりに、こういうところなんだろうなあと無駄に感心してしまう。
というのも、安室さんがポアロにアルバイトとしてやってきてからまだ一週間も経っていないと言うのに、すっかりファンがついているらしい。それがまた日に日に増えているのだと若干怖がるマスターから聞き、梓は喜び半分、驚き半分のなんとも形容し難い感情を持っていた。
一応数年前に成人し、ポアロの日々の中で多少なりとも大人としての対応を身についたおかげで表立って何か言うことはないけれど。
「気持ち良さげに歌っていたので、つい」
「すみません、いつもの癖で。締めの作業は一人のことが多かったから」
一度話しかけられ止まった鼻歌は続きを安室さんに取られ、何を言っても噛み合いそうにない。どう返事をすればいいのかよくわからず、思ってもいない謝罪が口から出た。
「いえいえ、今日もお疲れ様でした」
聞いているのかいないのか、にこにこと笑いながら遠ざかっていくのを勝手に目が追ってしまった。箒を取り出し始めたところで慌てて洗い物に戻る。まさかポアロにやってくる子供たちのように、目があったらバトル、なんて言えるわけもないので。
何とも言えない気まずさに囲まれていっそお手上げ状態。いつまでもマスターとセットでシフトに入ってもらうわけにもいかないから、どうにかしてまともな距離感になる必要はあるのだけど。持ち手に残った泡を流しながら、無難な話題を探す。
「今日もお客さん多かったですねえ」
「そうなんですか?」
近づいてきた安室さんはカウンター席の掃き掃除中らしく、椅子を動かしては手慣れた様子で箒を動かしている。
「普段は夜になるにつれて減って、クローズ時にお客さんがいないことも多いんです。ランチがピークで、夕方までゆっくりと減りつつ夜は常連さんがちらほらと」
「今日の二組も?」
「実は、今日の方たちは常連さんじゃないのでびっくりしました」
見知らぬ女性客が夜に訪れるのは大して珍しくはない。泣き腫らした人や何かのイベント帰りでテンション高めの人、仕事終わりでくたくたに疲れた人。理由は様々あれど、閉店時間の随分と前に帰る人が多く、ギリギリまで滞在するのはこの二、三年でも片手で数えられるほどの人数。
「もしかして珍しいんですか」
安室は手を止めることなく首を傾げた。
ポアロでアルバイトを始めた翌日あたりから、波はあれど夜まで客足が途切れていない。それこそ今日は少ない方だったように感じた。事前調査の報告書では確かに目の前の女性、榎本梓の言う通りではあったものの、実際の体感と大幅にズレがある。
「ご新規さんは大抵遅くなる前に帰られますから。それに、常連さんでも閉店までいらっしゃる方は少ないので」
「そういえば、一昨日は毛利先生が遅くまでいらしてましたけど、それも」
「毛利さんは早朝か夜遅くが多いですね。お家、真上ですし」
そうなんですかと驚く安室をよそに、梓はポアロの笑顔を浮かべて続ける。
「ご新規さんが夜まで途切れないなんて、安室さんのおかげでポアロの売り上げも右肩上がりです!」
「……梓さん、割と商売っ気ありますよね」
手の水気を布巾に移してから、梓は洗い終えたケトルに水を注いだ。業務用にしては小さめのケトルが五徳の上に鎮座している様子はどことなく可愛い。
洗い終えた食器類から水気を拭き取りながら、ちょうど良い温度になるのをのんびりと待つ。コトコトとケトルが鳴る音を聞きながらコーヒーが淹れられるのを待つ時間が梓は好きだった。目の前に出された時の香り、口の中に広がる味わいと並べられるぐらい。
「そんなことないですよ?」
自分の好きなお店が、ポアロが他の人にも好きになってもらえたら嬉しい、というのが根底にあった。お給料が上がったら嬉しい、というのはその次で。
挽いてしまった豆を取り出しながら、からかう声に全く気にしていないそぶりで答える。午後から夕方にかけて客足が途切れなかったせいか、思っていたよりもキャニスターにコーヒー豆が残っていなかった。
こんな日はミルクたっぷりのカフェオレにしよう。
「ポアロが好きなだけです」
ドリッパーにフィルターと豆をセットし、沸騰しきってしまった湯が冷めるのを少し待つ。大切なのはお湯の温度、注ぐスピード、抽出時間、それから豆の量だとマスターから教わった。今目の前で一日の労働を終えようとしているこの人はどんなコーヒーが好きだろうか。
少し考えて、普段通りに淹れることにした。
「いい店ですよね」
食い気味に安室さんは言った。食い気味に言う人に少し驚きながらも、染みついた動きは止まらない。ポアロに勤め始めてはや……何年? 学生の頃を入れると随分長い期間続けているせいか、別のことに気がとられていても何ら問題なかった。
「安室さんもそう思います?」
「僕も好きですよ」
優しく、けれど少し胡散臭さの見え隠れする笑顔に梓は若干の恐れを抱いた。
この人は一体何者なのか、マスターに紹介されてから数日考えてみたけれど、未だにかけらも掴めない。今日わかったのは、どうやらポアロが好きらしいということ。……嘘か本当かわからないけど。
「ふふ、入ったばっかりの安室さんにもそう言ってもらえると嬉しいなあ。……あ、そういえば、安室さんはどうしてポアロに?」
「え?」
「喫茶店なら近所にもあるから、どうしてポアロなのかなーって」
「秘密です」
一番気になっていたことはさらりと隠されてしまった。何者か知る手掛かりになればという考えはこの自称探偵さんにはお見通しだったのかもしれない。
「教えてくれたっていいじゃないですかあ」
「ええ……大した理由ではないですよ。ポアロで穏やかに、楽しげに過ごすお客さんたちが印象的だったんです」
わざとらしく甘えた声で聞いてみれば、あっさりと白状した。これでは逆に拍子抜けしてしまうけれど、ポアロを褒めてもらえるのは、好きなものを他の人にも好きだと言ってもらえるのは自分のことのように嬉しい。ベタ褒めして通っていた頃のマスターもこんな気持ちだったのかもしれない。
少し口元がニヤけたまま、適温になった湯を注ぐ。簡単なように見えて実は一定の速度を保つのが難しい。
「そういう梓さんはどうなんですか?」
「私ですか?」
「はい。僕のは教えましたし、せっかくなので」
質問がブーメランのように返ってくるとは考えてもいなかった。確固たる理由はあれど、目の前の人と似ていること、それと共に数年過ごしていることを明かすのは少し気恥ずかしい。かといって咄嗟につけるような嘘もなければ、適当な嘘ではマスターに聞かれたときにバレてしまう。くるくると三周ほど湯を注ぎ入れて、素直に言うことにした。
下手な嘘をついて暴かれるのもそれはそれで嫌なので。
「私もそんな大層なわけはないですよ。マスターが淹れる美味しいコーヒーに、お客さんの楽しげな声。そこにいれたら幸せだろうなって」
もっと豆の質がいいお店も、マスターよりも焙煎技術の高い人のいるお店だってある。コーヒーの味だけではない理由が、ここに私がいる理由だった。
「素敵な理由ですね。僕、ここに決めてよかった。ずっとここにいたいぐらい」
「ま、まだ四日目……ですよね?」
マスターから新しいアルバイトの人が入ると聞いたのが先週。なんだかんだで初めて会ったのが四日前、シフトが翌日からだったらから……うん、ポアロ歴四日目だ。お客さんならまだしも、働き始めて四日でそう言うのは少し早すぎないか心配になる。
「ここが良いところだってわかるのに日数なんか関係ありません」
「安室さんってこう……なんか、すごいですよね」
こうしてきっぱり言い切れるところだとか、ポアロの店員としての働きぶりだとか。特にホールの埋め方にオーダーの取り方、どちらも新しく入ったアルバイトとは思えない動きよう。それこそ熟練のウェイターと言われても丸っと信じてしまいそうなほど。最初にマスターに紹介された時の印象から随分と異なる様子に、もうすっかり何が本当かわからなくなっていた。
このカフェオレで少しはわかるといいけど、と思いながら牛乳の入ったマグをレンジで温める。いくら扉の外が暑そうだったとはいえ、こうもエアコンの効いた空間に居続けては体が芯まで冷え切ってしまう。少しぐらい温めておかないと、寒暖差で風邪をひいてしまいそう。
美味しいものは人との距離を近づける力がある、というのが私の持論だ。まだまだマスターの淹れるコーヒーには敵わないけれど、常連さんたちに美味しいと言ってもらえる程度にはなったのだからきっと大丈夫。
「そんなことないですよ」
「ポアロのこともそうですけど、こう、お客さんが悩まれてる時とか。ピンポイントでアドバイスしていて、すごいなって」
コーヒーが一滴ずつゆっくり抽出されていくのを眺めながら言った。
他人が困っているときに適切なアドバイスを、しかも瞬時にできる人は少ない。友人ですら難しいというのに、まして話したことがほとんどないお客さんなんて言うまでもない。きっとよく人を見ている。
「一応、探偵の見習いですから」
「はっ、もしかして推理を」
「秘密ですよ」
箒を片手にしーっと人差し指を唇に当てるそぶりに、子供の頃の掃除の時間を思い出した。こうやって内緒話ばかりしていて、掃除が終わらないと先生に怒られていたっけ。大人になった今、ちゃんと洗い物は片づいて……カフェオレを入れた分以外は片付いているので成長したな、と意味もなく感慨深い。
「はーい」
フィルターからコーヒーの香りがたつ。抽出したらあとは温まった牛乳の入っているマグに注いで渡すだけ。誰かに初めてコーヒーを振る舞う時はいつだって少し緊張する。人によって味覚は異なる上に好みも違う。常連さんの好みならばある程度知っているけれど、ほとんど話したこともない安室さんの好みなど知るわけがなかった。
気に入ってくれるといいけど。
「安室さん安室さん」
「はい?」
名前を呼ぶと、キッチンに立つ梓の視界の外から声がした。どうやら掃除が終わったようで、ガタガタと箒をしまう音がする。
「はい、安室さんの分です」
「ありがとうございます?」
シンク越しにマグをカウンターへ置く。時折いれすぎてヒヤヒヤしているのもあって、マグは高さがあるおかげで溢れる心配がないのがいい。おしゃれなカフェのようにマグで出してもいいけれど、このポアロオリジナルのカップアンドソーサーが気に入っているので仕方がない。諦めて慣れようと思って早数年になってしまった。
ガタンと扉を閉じる音のあとに、日に焼けた手がマグにのびた。フィルターを生ごみの袋に入れてから、同じように手に取る。陶器越しに伝わる温度が心地いい。
「一日の分の豆が残るとこうやってコーヒーを飲んで終わりにしてるんです。ほら、一日の終わりに美味しいコーヒーって素敵じゃないですか」
土日もあったせいかここ数日閉店後に豆が残っておらず、数日ぶりにこうして片付け後にコーヒーを飲む。口の中に広がる牛乳の甘さと柔らかな苦味。昼の眠い時ならさておき、朝の寝起きや夜疲れた時に飲むならブラックコーヒーよりもこのカフェオレの方がいいと一人言い訳をする。
どうやら安室さんは気に入ってくれたようで、営業中とはまた少し雰囲気の違う笑みを浮かべていた。
「でもここ数日、あんまり残らなくて」
温かなマグを置いてキャニスターを見せる。ちょうど一日分が入るキャニスターはすっかり空っぽだ。最後にコーヒーを飲んでも余るような日が多かったのに。振り返ると三日前は夜にコーヒーを飲めていた。午前中にマスターと安室さん、そして午後は早仕舞いなのもあって私一人だったように思う。
よく考えれば、三日前は安室さんが初めてシフトに入った日だ。マスターの言う通り段々とお客さんが増えて、普段よりもコーヒーの注文が入っていたのかもしれない。
「完売御礼ですね」
「そうなんです! 実は昨日と、マスター曰く一昨日も。安室さんが来てからずっとこの状態で」
適度にフードの注文が入らないのが救いだと一昨日の昼にマスターが言っていた。来たお客さん全員がパスタを頼んでいたら、もう帰る頃にはくたくたで、それこそコーヒーでも飲まないと家にすら辿り着かなかったかもしれない。コーヒーが美味しい喫茶ポアロでよかった。
「もう少し増やしてもらいましょうか」
新人の熟練ウェイターこと安室さんの言う通り、もう少し増やしてもいいかもしれない。安室さんがいる時のお客さんの数は多い。ただ、安室さんがいる時がおかしいだけであって、いない時は普段と変わらないか、逆に少し少ないぐらいに収まっている。そう考えると、一概にどちらがいいとも言い切れない。
「うーん……しばらくしたら落ち着くかなあって思うと、悩みどころです」
安室さんの有無だけでなく、天気やカレンダーの暦、学校のイベントなど考えなくてはいけないことはたくさんある。まだまだ売上の予測は難しい。
「そうですねえ、マスターにも一度聞いた方が良いかと」
「明日はマスターとなので、相談してみますね」
アルバイト二人で決めるわけにもいかず、安室さんの提案通りマスターに相談することにした。しばらくしたらこの安室さん人気も落ち着くかもしれないし。
「はい」
夜まで賑わっていた喫茶ポアロも、閉店してしまえば片付けに追われる店員二人しかいない。つまり二人の会話が終われば静穏が訪れる。エアコンの音、それから時折通りを抜けるトラックの音の中で口火を切ったのは梓だった。
「疲労回復効果もあるので本当はコーヒーにしたかったんです」
カフェオレの入ったマグを見つめながら、本当はね、と言葉を切る。優しいカフェオレがどんな夜にぴったりなのはわかっていても、からりと晴れた日の夏でできたようなこの年上の人にはカフェオレよりもアイスのブラックコーヒーが似合うような気がした。
比べてまだまだ大人になれない部分のある私には、カフェオレだろうけれど。
「梓さんの言う通り、カフェインを摂取することでドーパミンが分泌されて疲労緩和効果があるとは言われますね」
ことんとカウンターにマグを置いて、安室さんは続けた。
「もちろん飲みすぎは良くないですし、胃への負担を考えると夜にはカフェオレのように牛乳と一緒に飲むのがおすすめです」
いつかマスターから聞いたような内容に驚いた。マスターったらもう話したのかな、でも閉店後に飲むのは初めてだと言っていたし。もしかしたら安室さんは元から知っていたのかもしれない。
「安室さんって物知りなんですね」
「そうでもないですよ。知らないこともたくさんあります」
たとえ謙遜であったとしても、今さっき雑学を披露してくれたばかりの口が何を言うのか。きっとこの人は多くのことを見聞きしている気がした。一度そう思ってしまうともう疑うような視線しか送れない。
「えーっと……ほら、ポアロのこととか。色々教えてください、先輩」
およそ穏やかな物腰に柔和な笑み、時折披露される雑学から推測される知識量。幅広い人から好かれそうなこの人は、いったい何の理由があってここにいるのか未だによくわからない。ポアロが好きだという割に、シフトの間に来ているところを見たことがない。挙げ句の果てには他の常連さんも知らないという。知っているのは名前と年齢、通勤方法ぐらい。あとは自己紹介時に言っていた探偵が本業らしいということだけ。
色々とは、なんて首を傾げそうになる。何も知らないこの人、しかも知見の深い人に何が教えられるかなどわからない。教えられるのは知っていることだけ。ポアロのことなら自信をもって答えられるけれど。
「ポアロのことならなんでも聞いてくださいね!」
「今でもいいですか?」
「もちろん」
あまりにも楽しそうに言うから思わず胸を張って返事をしてしまった。どんな質問かわくわくしていると、
「梓さんって」
などと続いて思わず首をかしげた。そんな梓に様子を気にもせず、安室は続ける。
「お客さんによって豆の量変えていますよね。良ければ皆さんの好みを教えてもらえないかなと」
「……よく」
今度は聞き逃した安室が首をかしげる番だった。
「よくぞ聞いてくれました、安室さん」
ただの勤め先というにはあまりにも入れ込んでいるポアロのことで、さらに好きで仕方のないコーヒーの淹れ方など口を開いたら最後止められるまで話し続けられる。もちろんパスタをはじめとしたフードのことも話せるけれど、なんと言ってもやはりコーヒーだった。喫茶店といえば、ポアロといえばコーヒーだもの。
「コナンくんは規定量より少し多め、毛利さんは少し少な目。それから――刑事さんは少し多めで抽出時間を長めに、蘭ちゃんと園子ちゃんは」
安室の様子など素知らぬ顔、と言うよりは一切気がつかない様子でにこにこと常連客たちの淹れ方を諳んじ始めた。
「梓さん、メモ、メモを取らせてください」
何の目的で聞いたのか知る由もなく楽しげな梓と、メモを取り損ねて慌てる安室はまさにベテランと新人の様相。
飲もうと手に取ったマグを急いで置いてペンとメモを出す間も、最初の二人、よりによって毛利探偵事務所の面々のメモが取れていなかった。この程度メモは要らないとはいえ、一度聞いて全て覚えていたら逆に怪しまれるのは確実だ。記憶力が云々と言われるのは想像に難くない。
「えー、どうしようかな」
「一度に言われたら覚えられないですよ」
困ったように笑ってみせる安室に梓は違和感を覚えた。
何がおかしい、というわけではないけれど、少し変。本当はそんなに困っていないんじゃないか、といった風に。
「じゃあ、それぞれお客様がいらした時に一人ずつ」
今後のことを考え遮った安室のことなど梅雨知らず、梓は楽しげにマグを揺らしている。
どちらかというと先輩というよりも後輩、妹のようだ。比較的年齢層の高い常連客に可愛がられていた様子から察するに、先輩として振る舞うことに憧れていたか、一切慣れないかのどちらかだろう。どちらなのかは追々確かめれば良いこととして後回しにする。
「お願いします、先輩」
改まって言う様子に、変な感じ、と二人揃って笑う。
年上の後輩と年下の先輩、本来の職場でも同じ関係性の人間がいることで気にもしていなかったが、世間一般的に見たら違和感を持つのだと、梓の困惑の入り混じった笑みで安室はようやく気がついた。
残り少なくなったカフェオレを一口ゆっくり味わってから、ぎこちなさを無くそうと口を開く。
「そうだ。梓さんの好みはどうなんですか?」
「聞いちゃいます?」
いたずらっ子のような顔をする梓に至って真面目な表情の安室の二人は、秘密話をするかのように小さな声で話し続ける。エアコンの冷気で少しずつ、けれど着実に冷めゆくカフェオレを片手に。
「ええ」
もちろん、と続きそうな調子に梓はわざと悩んでみせる。
コーヒーの味を決めるのは豆の種類や品質、量だけでなく、挽き方を始めとしたお湯の温度、注ぐスピード、抽出時間までさまざまな要因がある。全て同じ方法をとったところで必ず同じ味になるわけでもないとはいえ、今全てを明かすのはなんだか少し気恥ずかしい。
「豆の量は規定通りで、温度と抽出時間は……秘密です」
「僕への挑戦状、と受け取っても?」
先ほど安室が秘密だと言った時と同じように、人差し指を立てて返せば挑発的な顔が梓を見ていた。
探偵を名乗るこの人への秘密は、解き明かすものになってしまうらしい。気持ちだけでも負けないよう、最後の一口となったカフェオレを飲み干す。すっかり冷めた牛乳が口の中にまとわりついた。
「ふふ、当ててみてください。探偵さん」
「いいでしょう。その謎、解き明かしてみせましょう」
二人ともマグを持っていてなんとも決まらない。ここは喫茶ポアロ、探偵の名を冠するただの喫茶店であり、事件の舞い込む一つ上の探偵事務所ではない。この決まらなさが、穏やかさがあるべき姿。
「なーんて言っていたら、飲み切っちゃいました」
梓の言葉につられて安室がマグを煽るも、喉仏は動かない。マグの中を梓に見せるようにして、
「僕もです。ごちそうさまでした」
と言った。くどすぎない牛乳の甘さに、柔らかな苦味のカフェオレは今までに飲んだカフェオレの中では一二を争うほど安室の舌に馴染んだ。争うに至るのはもう少し薄い飲み口のマグの方が好みだとか、そういった些細な理由。敬意を含んだ言葉に、穏やかな声でお粗末さまでした、と穏やかな声で返されるのはこの喫茶店の良さが詰まっているように感じられた。
「洗いますよ、淹れてもらいましたし」
「いいんですか?」
もちろん、と当たり前のように返事をされたことで梓も遠慮せず頼むことができた。
こういったところが大人の余裕ってものかもしれない、なんてあっさりとマグを取られた手を見つめながら思う。手際よく洗い物が進む脇ではすることがない。レジは掛け看板を裏返す前にしめてしまったし、あとは外の看板の電気ぐらい。
思い切って開いた扉から流れ込む夏の暑い空気を全身に浴びて、思わず閉じた。
「うわあ、まだ暑い」
「熱帯夜ですかね」
振り返るとマグを泡だらけにしながら安室さんが苦笑していた。よく空調の効いた空間で手元を冷やしている人は随分と涼しげで羨ましい。洗い物を引き受けたのは外看板の片づけをしなくて済むから、なんて嫌な思考をしかけてやめた。小学生じゃあるまいし。
二回ゆっくり深呼吸をする。快適な空間から出るにはだいぶ勇気のいる暑さだった。意を決して再度扉を開け、電源を落とす。ただそれだけなのに汗ばむほど暑い。こうも暑いと家に帰るのすら億劫になる。汗に撥ねた油でベトベトする体は一刻も早くシャワーで流してしまいたいけれど、それとこれはまた別で。
「やだなあ、暑い中帰るの」
ぼやきながら室内に戻ると、お疲れ様です、という声が冷気と共に届いた。エアコンの効いた空間にいた人は声すら涼しげ。この人の力で外の熱気も吹き飛ばせたら元気に歩いて帰れるのに。
「梓さんは徒歩でしたっけ」
「はい、すぐそこ……すぐそこなんで」
梓は片手でエプロンのひもを解きながら、適当に家のありそうな方を指さした。
「家まで送りましょうか?」
泡だらけのドリッパーを片手に、なんてことのない声と表情から飛び出た内容に梓は言葉を失った。
この夜中に、家まで送っていくと言ったように聞こえた。え? と聞き直せば一言一句どころか声も表情も変わらず同じ言葉が返ってくる。家まで送る、なんだかこう高校生か大学生の時に言われた記憶があるような、無いような。そのあたりという事は、つまり、その年代の人たちからは根も葉もない噂が立ちかねないということで。
すでに昨日一昨日の午前中を始め、今日の午後も漏れ聞こえる女子高生の会話に妬む声が混じっていたのは事実だ。
いわゆるこれはポアロのスキャンダル。平和でのんびりとしたポアロに突然誰もが羨むイケメンがやってきて、私……なんて話を楽しめるのは漫画だったり他人事だったりするからであって。いざ自分の身に降りかかるとなれば話は別だ。
「安室さん、そういうの気を付けたほうが良いですよ」
バックルームの扉を開けながら言う。この部屋に入ってしまえば、ポアロの店員からただの榎本梓に戻れる。だから、バックルームに入ってから
「送りましょうか、とか気軽に言ったら勘違いされちゃいます」
と続けた。夏のような人だから、もしかしたらそうやって勘違いさせてきたのかもしれない。過去はとやかくいうつもりはないけれど、ポアロに関わるところはきちんとして欲しい。マスターのためにも、私の好きなポアロのためにも。
「梓さんは?」
勘違いするほどこの人を知っているわけでも、知らないわけでもない。少なくとも中途半端な関係の今は勘違いしていないし、高校生の彼女たちのようなに過剰な自意識もない。ただの新しく入ってきた後輩か、同僚にすぎない。
「してませーん」
真剣な顔はどこへやら、からかうような声音につい兄に対するような言葉が口から飛び出た。なんだかこれは不味いような気がする。私もいつか変なことを言いそう。気をつけないと。
「残念。振られちゃいました」
発言とは真逆に呑気な声がキッチンから聞こえた。気を付けてほしいと言った言葉は鼓膜を通り抜けてどこかへ行ってしまったらしい。
綺麗な金髪に少し日に焼けた肌、明るく、けれど何かを隠した笑顔。まるで夏のような人だ。一歩距離を置いたような話し方で掴みどころがないように振舞う様子が夏の蜃気楼のよう。手を伸ばしてどれだけ追いかけても届かない。
安室さんがどんな人かはさておき、お客さま相手はもちろん、私相手もできれば発言に気をつけてほしい。熟練の新人ウェイターでお客さんとの距離感もバッチリなのに、同僚との距離感を取り間違えるのはいただけない。
「安室さん?」
「……はーい」
思いの外低くなった声に、観念したような安室さんの返事。これじゃあどちらが年上かわからない。でも、私が先輩だからきっぱり言ってもいいのかも。
「安室さんが来て早四日、聞きつけてやってきた皆さんの視線がもう……! 本当に気を付けてください」
はいはい、と聞いていなさそうな調子。安室さんが原因で何かあった時は毛利さんに泣きついてやるんだから。ソファーに沈みながら、ネームプレートのほかに何もついていない安室さんのロッカーを眺める。使われているところを見たことがなかったロッカーは、随分と前に辞めた人の痕跡がまだ少し残っている。剥がしきれなかったシールの残骸だとか、名前が少し写ってしまったネームプレートカバーだとか。
「一日お疲れ様でした」
変わらず疲れのない声がソファーの横を通り過ぎる。暑さのせいか、新人店員目当ての客が増えたせいか、もうくたくたで今すぐにでも眠れそうな梓とは大違いだった。
「安室さんは明日お休みでしたっけ」
「えーっと……そうですね」
確認するように安室はカバンからスマホを取り出すと、ホーム画面には風見からの定時連絡だけが表示されていた。さっと目を通して、カレンダーアプリを開く。
必須の会議も黒の組織の人間からの呼び出しも今のところなく、どうやら正真正銘予定がないようだった。庁舎に行って積まれているであろう書類を片付けることになるのだろうが、こうもカレンダーが真っ白だと意味もなく気分がいい。
「ゆっくり休んでください」
「そうします。梓さんも」
言いかけて、ロッカーに貼られたカレンダーには明日も梓はシフトだと書かれていることに気がついた。今の時間から明日の開店前仕込みまで考えると、ゆっくり休めるほどの時間ではない。
ネームプレートのかかったロッカー三つにおやつが載ったローテーブル、それから平凡なカフェ店員が沈む小さなソファー。どこにでもあるいたって普通のカフェのスタッフルーム。そこに放り込まれた潜入捜査中の警察官。この空間で不協和音を鳴らすごとく降谷は異質だった。
それでもこの場に溶け込もうと安室透の仮面を深くかぶる。
「早めに休んでください。夏の夜は短いので」
「ふふ、ありがとうございます。明日も来てくれてもいいんですよ?」
からかうように言いながら体を少し右に傾けると、ぎしぎしとソファーから音が鳴った。いつからあるものなのか、梓も知らない。
マスターと共にポアロで時を重ねてきたソファー。そこに埋もれながら、つい最近ポアロにやってきたばかりの人と明日のことを話す。こうしてまたポアロの歴史の一ページが刻まれた、と疲れた頭が壮大な物語を始めそうになった。
「どうしようかな」
「冗談です。休んでください」
「梓さんが手伝いが必要だというなら、僕はいつでも来ますよ」
本当に来そうな声に、慌てて妄想を放り投げる。あまりにも人が良すぎて、出来すぎていて少し居心地が悪い。こちらをわざわざ振り向いていうものだから、いつでも? なんて返答次第では今日来た女子高生たちが喜びそうなことを聞いてみる。
「ええ、どこへでも」
少し顔を傾けて、こんなドラマの中でしか聞かないようなセリフをさらりと言ってのけられてはさすがに困ってしまう。誘導したとはいえ発言には気を付けてほしいと言ったばかりなのに。文句の一つでも言いたいのに、少しキメ顔なのが面白くてすっかり吹き飛んでしまった。
「ポアロに女性のお客さんがたくさん来て、てんてこ舞いの時でも?」
「もちろん」
このドラマの主人公みたいなことを言う人は、どこまでこんなことを言えるのか。気になる感情よりもネタ切れが先だった。もうなにも思いつかない。絞り出すように最後に思いついたことがリアリティ満載の時点で、残念ながら発想の豊かなヒロインにはなれなさそう。
「安室さんの旅行中にマスターがぎっくり腰になってシフトが回らなくなっても?」
「なんでそんなにピンポイントなんですか」
呆れたように笑う安室の声がスタッフルームに響いた。
「さすがに旅行中は来れないかなって」
「そうですね……戻ってこれるところだったら来ますよ。それこそ、僕が危険な状況になければ」
そう言って、似たような会話をいつかしたことを思い出した。この国の未来のためであればどのような死地にでも馳せ参じ、命を懸けて尽くそうと誓ったことを。
「……安室さん、本当にポアロが好きなんですね」
「え? ええ、そうなんです」
「じゃあポアロのためにも、明日はゆっくり休んでください」
「お言葉に甘えて」
返事を聞くなり、梓は勢いよく立ち上がった。溶けていた身体が突然重力を思い出して少し足元がおぼつかない。突然の距離感に驚く安室をよそに、梓は決意表明のような真剣さで口を開く。
「帰りましょうか」
お互いに荷物を持ったことを確認してからバックヤードから出る。まだポアロの店内だからかバックヤード同様に涼しい。それはもうとても外に出たくないけれど、帰ると宣言した手前後に引けない。バックヤードとホールの電気と空調を切ると、ポアロはすっかり真っ暗になった。いくら夏は日が長いといえど夜はの室内は暗い。
「電気とエアコンよし、レジ締めよし」
「あとは鍵だけですね」
安室さんの手の中で鍵とプラスチックのぶつかる音が早く帰れと急かすように鳴る。ここからはもう暑くなる一方だ。御託を並べていないで潔く外に出て帰ったほうが良いとわかっていても、気分は憂鬱。
「はい! 外暑いんだろうなあ」
「だから送りましょうかって」
元気のいい返事が出来たのは最初の一言だけで、続く言葉は次第に小さくなる。誰だって耐え難い暑さの前には無力とはいえ、ここで送ってもらってはこの後のポアロでの立場に関わる、たぶん。今後も甘えてしまいそうだし、誰かに見られたときに気まずい。
「いえ、大丈夫です。榎本、この暑さでも一人で帰れます」
「わかりました。帰路でも水分は適宜取ってくださいね」
「もちろん、安室さんもですよ!」
「ええ。と言っても僕は車なんですが」
「そうでした」
せーの、と掛け声をかけて扉を開けると、夏特有の湿度を含んだ空気に包まれた。
「う、うわあ」
体中に纏わりつくような夏の気配、やっぱり安室さんは夏の人っぽくないかも。この数日話した感じだとこんなにべとべとしていなくて、いっそ冬のようにさらさらと乾燥していそうな気がした。見た目は夏っぽいのだけど。
「本当に暑いですねえ」
「まさに夏、って感じ。あ、鍵貰いますね」
明日は休みの安室さんから鍵を貰う。最近はマスターと二人だったから一人一つだった鍵も、安室さんが来たことにより一つ足りなくなった。マスターキーはもちろんマスターが持つということで、必然的にアルバイトの二人が鍵を共有。基本的には翌日シフトに入らない方が持ち、もし二人とも入る場合は朝からの方が持つと初回に決めた。そうしたら絶対に話すからね、とマスターのお節介付きで。
一言目にも二言目にも暑い。まだ外に出て鍵を閉めただけなのにもうじんわりと汗をかいている。このままでは暑いとしか言葉にできなさそうで、暑い、夏、と脳内で連想ゲームをすることにした。暑い夏といえば。
「夏といえば屋台ですよ、お好み焼き、焼きそば、イカ焼き、かき氷……」
指折り数え上げる梓の横を安室が歩く。傍から見れば夜中に出歩くカップルのようだった。実際のところは随分とかけ離れているが。
ポアロの店員こと安室透の今日の活動もそろそろ終わり。降谷零としての、バーボンとしての時間の始まりだ。つい今日中に終えないといけない作業を脳内でリストアップしてしまう。組み上がったスケジュールは到底夜とはいえない、呑気に夏祭りの話をする人がすっかり眠っている時間まで必要そうだ。
「どれも美味しいですよね、屋台飯」
「そうなんですよねえ、つい選べなくて買い込んじゃって」
額に汗で前髪を張り付かせながら楽しげに笑う。欲しいものを買えるほど大人というべきか、これほど夏祭りではしゃげるほど子供らしいというべきか。六歳も年下なのだから、多少幼く見えたとしても仕方がない。
そういえば、夏祭り、最近どこかで聞いたような。まさか庁舎で聞くわけもない単語ということで、ポアロでの記憶を探す。昨日あたりに来ていた客が夏祭り云々と話していたような気がする。夏祭りだから浴衣をクリーニングに出す、時間がかかるから早めに出しに行かないといけない。そうだ。
「そういえば来週は夏祭りだとか」
「やっぱり安室さんも気になります?」
仲間を見つけたような嬉しげな表情に返すのは本音でも嫌味と皮肉に満ちた言葉でもない。人好きのする当たり障りない返答。
「ええ。残念ながら、夏祭りの日はシフトですが」
「安室さんもですか? 私もです。もしかして、マスター一人で夏祭り……あ、私はここ右なんで」
何の変哲もない十字路で隣を歩いていた人間が立ち止まった。十字路ですらカーブミラーの上にちらつく街灯がのっている程度で、進行方向だという右側の道は月明かりに照らされているとはいえ薄暗い。そんな道を女一人で歩くのは防犯上よくない、という言葉はすんでのところで飲みこんだ。
出会って一週間、共に働き始めて数日の人間が言うには少し踏み込みすぎている。
「じゃあまた……えーっと、安室さんは明日休みだから明後日?」
「明後日は梓さん休みじゃないですか?」
バックヤードで確認したシフト表では、明後日が梓の休みだった。他人のは覚えているのに自分の休みは覚えていないのか疑問が残る。大方今までマスターと二人で休みが明確だったとか、そんなところだろうが。
「そうだった! いつだろ、また次のシフトで」
「たしか三日後ですね」
「また三日後。お疲れ様でーす」
「お疲れ様でした。おやすみなさい」
ついさっきまで疲れでソファーに沈み、暑さに騒いでいたと思えないほど元気な声と共に、くるりと背中を向けて歩き出した。月に照らされた背中が次第に遠ざかっていく。
見失って初めて暗さで見えなくなるまで眺めていたことに気がついた。慌てて駐車場の方を向くと、彼女が進んだ道とは比べ物にならないほど暗い道が続いている。なんだかんだと理由を付けていたのは、この道を一人で歩くのが嫌だったからか。
送ればよかったな、と小声で呟いた。
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